第二十七話



血の海に沈めた雹の事は激に任せ、一行が次に向かったのは大仏殿だった。

木造建築物の中では世界最大であり、国宝にも指定されている。
薄暗い広間に足を踏み入れると、年季の入った黴の匂いが爆の鼻腔を刺激した。

「おー……でかい像だなー」

感嘆の声を漏らしながら、最奥に鎮座している古びた大仏を見上げる。
それだけでも人の身長程はある顔にアルカイックスマイルを貼り付け、いかにも何かを悟っているかの様な目でこちらを見下ろしていた。

「日本の神様なんやで」

何時の間にか隣に並んでいた木乃香が短く説明する。

「ふむ……」

それに対し、爆は怪訝顔になって再度仏像を見詰めた。
常日頃から「俺が神だ」と広言して憚らない彼だったが、目の前の巨人に神聖さを感じ取る事は不可能だった。

その時、仏像が突如動き出して怪獣か何かと格闘するのではないかという空想を弄んでいる爆の耳朶を叩いたのは、冴え渡る少女の声だ。


「―――大仏が大好きでっ……」


最前の会話が全く予想出来ない不可解な告白に青年が首を向ける。
そこには、困惑の極みにあるネギと、トマトにも充分負けないくらい赤面するのどかの姿があった。

「ん?」

ふと、別の方向から気配を感じる。
その主を探って瞳を旋回させて捉えたのは、太い柱の一つだった。
よくよく注視すれば、その陰から夕映とハルナが僅かに顔を出し―――ネギとのどかを見守っている様子が分かる。

「(……何しとるんだあいつらは?)」

彼等が一体どの様な状況下に置かれているのか、さしもの爆にも察する事は出来なかった。
首を傾げている彼の腕を、木乃香が訝しげに引っ張る。

「どうしたん?」

「ん……いや、何でもない」

まあ彼等の思惑がどうあろうと、自分には何ら関係の無い事だ。

そう自己完結させた。


大仏殿から広大な石畳みの上に出ると、そこにはわらわらと集まった鳩とそれに包囲されたザジが屈み込んでいた。
彼女の足元には、退屈に耐えかねて逃亡していたジバクくんの丸い影もある。

どうも生物では無い大仏には如何せん興味が持てなかったらしく、それならばと外で好きな動物と戯れていたのだった。

「待たせたな、ザジ」

爆がそう呼び掛けると、立ち上がった少女は感情を感じさせない顔を青年に向けたが―――

「……」

「どうした? 不機嫌な顔をして」

それは、三千大千世界の何処を探そうとも爆以外には読み取れない、極僅かな表情の変化だった。

「?」

木乃香はその発言に何の事か分からずきょとんとしているが、それも当然の事である。
少女の瞳に映るのは、彼女の知る限り常時揺るぐ事の無かった精巧な人形を思わせる無表情なのだから。

しかし、仮にザジが感情を表に出すのが得意だったら、その顔は熾烈な憤怒に彩られている事だろう。

そして、その瞳で爆の腕に縋り付く木乃香を射殺しているに違い無い。

「……ッ」

野生の本能が殺気を感じ取ったのだろうか。
それまでのどかに地を這っていた鳩達が、地震の前触れか何かの様に一斉に飛び去ったのだ。

無数の羽音と羽が残されたその場に立つのは、ザジと逃げ遅れたジバクくんのみである。

彼女は今まで木乃香に対し、それが正であれ負であれ特別な感情を抱いた事は無かった。

その理由は単純に親交が無かったからだが―――たった今、ザジの胸の内で彼女の位置が劇的に変化したのは想像に難く無い。

彼女は真っ直ぐに戸惑いを隠せない爆に歩み寄ると、木乃香と反対側……青年の左腕に自らの腕を絡ませた。
そこには、確実に対抗の意思が込められている。

「……♪」

何処かしら満足気な様子で、ザジは腕に力を入れた。

「むっ」

木乃香もその意図を理解したらしい。
頬を膨らませると、自らもまた絡めた腕に爆を引き寄せるかの様にして力を入れた。

「……一体、何なんだお前らは?」

それはすっかり置いてけぼりを喰らった青年の呻き声だったが、答えは誰からも与えられる事は無かった。


爆が見失った刹那達を発見したのは、東大寺から多少離れた茶屋だった。

「おまえら、ここにいたのか」

歩み寄る爆にいち早く気付いたのは、串団子を頬張るアスナである。

「あ、爆さ……ってどうしたのソレ?」

「お、お嬢様……」

青年の姿を目にして、アスナと刹那も呆然と言葉を失っているが、それも当然だ、
爆の両腕が、睨み合うザジと木乃香に占領されているのだから。

歩き難い上に通行人の注目を無駄に集めるしで、彼としては散々だ。
振り払うなどという真似は爆の良心が拒み、コアラの真似でもしているかの様な二人の少女は、延々と縄張り争いを続けていたのだった。
蝉と形容しても間違いではないだろう。

「お前らも、いい加減離れろ」

軽く肩を揺らすと、二人はようやく離れてくれた。
しかし、熾烈な睨み合いは依然続行されている。

「……」

「……」

お互い終始無言。
だがしかし、交差する視線はむしろ言葉よりも明確にその意思を伝え合っている。

もはやテレパシーと言うべき領域だ。

「……そこら辺をぶらついてくる」

その空間に存在する事に耐え切れなくなり、爆は公園の方に向かった。

回り込むのは面倒なので茂みを突き抜けると、そこには昼寝をするにはちょうど良さそうな樹木が生えていた。

「一眠りするか……」

昨晩の木乃香誘拐未遂事件は、彼から睡眠時間を著しく奪っていた。
何時敵の襲撃があるか分からないが、この様な状況であるからこそ体調を万全にしておく必要がある。

爆は大きく欠伸すると、その木に歩み寄って行った―――その時、突如横合いから猛スピードで駆け込んできた影が、青年と激突する。

「きゃっ!」

悲鳴を上げて跳ね返ってきた衝撃に倒れようとする体を、素早く背中に回された爆の腕が受け止めた。
そこで、彼は影の正体を見た。

「ん? お前はたしか……宮崎のどかだったな」

「あ……はい」

おどおどと怯えているかの様な様子で、影――のどかが頷く。
先程ネギと行動を共にしている所を確認したが、そんな彼女が何故一人でこんな場所にいるのだろうか?

それを聞き出そうとした爆だったが、実際に口から出たのは全く別の疑問である。

「お前、何で泣いてるんだ?」

のどかの瞳に湛えられている光が涙だと、青年は気付いていた。

「え……」

問われた少女は一瞬、戸惑うかの様に瞳を揺らして―――訥々と語り出した。

自分がネギに思慕を寄せているという事。

それを、今日の自由時間中に告白しようと決心していた事。

しかしどうしても勇気が出ず空回りし、挙句の果て痴態を見せて逃げ出して来た事。

それは非常に小さく、風にさえ吹き飛ばされてしまいそうな声だったが、爆は一字一句聞き逃す事はしなかった。

「……私はトロいから、どうしても上手くいかなくて……」

「むう……」

さめざめと涙を流すのどかに、腕を組んだ青年はカウボーイハットの下、苦悩するかの様に呻いた。

「(雹の性格の百分の一でも、コイツにやれたら……)」

あの変態的なまでの大胆さを一ミリでも持っていたら、のどかはここまで哀しむ事は無かっただろう。

それに―――

「(愛だの恋だのは、いまいちよくわからん)」

他の同年代の男子はいざ知らず、爆自身はあまり女性に興味を持った事が無かった
一番長く行動を共にしていたであろうピンクも、彼女がどうだったかは別として、異性として見た事は皆無である。

そんな青年に、はたして恋という物が理解出来るだろうか。
考えるまでも無く答えは否だ。

それらの問題は後の人生に任せるとしても、現在、爆にはのどかが望む答えを口に出せる自信は無かった。
無責任な事はとても言えない。

「……むう」

再度呻き声を上げたが、それで何か思いつくわけでも無い。

自分への軽い失望感を覚え始めた爆の耳朶を、のどかの切ない嗚咽が振るわせた。

「……やっぱり……私なんかが人を好きになるなんて、ダメなんでしょうか……」

目尻からこぼれた涙が芝生に弾ける。

「……」

決して彼女の苦しみが解せる訳では無い。
それはあくまで、のどかだけの悩みであり、苦しみなのだ。

しかし―――

「おい、もう泣くな」

差し伸べた爆の指が、優しく少女の目を拭った。

「俺は、お前みたいに恋なんてした事ないから、そこら辺はよくわからんが……」

自分ならどうするか。
自分で決めた事を、どうするか。

「その、何だ……告白するって、自分で決めたんだろう?」

「……はい」

のどかは瞳を下方に向けながらも、小さく頷いた。
それを確認して、爆は更に言葉を紡ぐ。

「だったらやってみろ。たしかに、ネギがお前の期待していた言葉を返すかはわからん」

「……」

「だが、何も言わないまま、ただただ時間が過ぎれば……お前はきっと後悔する」

何もしなければ何かが変わる筈も無い。
ほんの少し考えれば、それは当然の道理だった。

だが彼の言葉は、確実にのどかの胸に響く。


―――そうだ。言わなければ、この思いが伝わるわけがない。


彼女は立ち上がると、スカートの裾を払った。
そして胡坐を掻く爆に向き直る。

「……ありがとうございます、えっと……爆さん。その、勝手に相談してしまって……」

対して青年は木の幹に背中を預けると、カウボーイハットを目深に被り直した。

「気にすることでも無い。それより、ほれ。さっさとネギの所に行け」

返答はまるで素っの気無い、乱暴な物言いだ。
しかしのどかは、むしろそれが微笑ましく思えた。

「はい……あの、怖い人だと思ってたけど、そんな事なかったんですね」

遠巻きに見ていた時はそのあまり良いとは言えない目付きと、大宮駅での古菲との戦いを見て、心の何処かで怖い人と認識してしまっていた。

しかし話してみれば―――頼りになる、兄の様な人だった。

「またいつか……相談にのってくれますか?」

「……もう恋愛だのはごめんだ」

そう答を返すと、爆はそれきり沈黙してしまった。

「宮崎さーん!」

その時、のどかは視界の端に自分を捜して駆け回っているネギの姿を捉えた。
途端、心臓が早鐘の如く鳴り始める。
緊張して、全身が石になったかのように感じた。

「……」

それでも彼女は、一歩足を前に踏み出した。

とにかくやってみろと、今そこで眠る青年は言ったのだ。
何を思うにも、全てはその後で良い。

ぎゅっと拳を握って、自らを奮い立たせる。

「……ネギ先生ーーーッ!!」

茂みから飛び出したのどかは、愛する人に向かって一直線に走り出した。


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