第四十七話


その湖は、現在爆達と鬼の軍団が激戦を繰り広げている森の外れに広がっていた。

その中央には、橋で岸と繋げられた浮き島。

暗い水面から顔を出す石造りの土台に、その上に灯篭に囲まれた木造の祭壇が重ねられている。
数年程前に、関西呪術協会が築造した物だ。

千草は、そこに木乃香の身体を横たえた。

最前まで纏わせていた着物は剥がされており、少女の裸体を覆っているのは頼り無い薄布一枚のみだった。

その傍らで、千草は黙然と正面を見据えている。

彼女の視線の先には、灰色をした、異形の卵が在った。

それは、歪んだ楕円形の巨石。

その表面を縛り付ける無数の注連縄に施された結界は、並の妖魔なら触れただけで消滅してしまうだろう。

つまり、封じられているのはそれほどまでに強大な存在。
先の大戦の英雄であるナギ・スプリングフィールドと、その仲間だった近衛詠春が封印したという大妖である。

それを、千草は復讐の立役者に仕立てようと目論んでいるのだ。

何たる無謀、何たる愚考と人は嘲弄するだろう。

事実、千草の力では封印を解く事はできても制御する事は不可能。
操るどころか、蝿のように叩き潰されてしまう。

だが、木乃香が―――かのサウザンドマスターをも超える魔力の保持者が手中に在るのならば、戯言は現実となる。

千草は木乃香に顔を近付けると、優しく囁いてやった。

「ご無礼をお許しください、お嬢様。何も危険はないし、痛いこともありまへんから」

その台詞に嘘は無い。
魔力の解放は、むしろ快感すらもたらす筈だ。

例えば、狭く暗い卵の殻を突き破り、外界の空気に触れた小鳥のように。

例えば、蛹からかえり、優雅に空を舞う権利を得た蝶のように。

実際、鬼達を召喚した際に木乃香が漏らした呻き声は苦悶による物では無い。
あれは、快楽から来る嬌声だ。

「……ほな、始めますえ」

千草は右手で剣指を作ると、その先を口元に当てた。

「《イジャヤ》」

呪を唱える。
木乃香の身体が、電流を流されたかのようにびくりと跳ねた。

「んっ……」

再びくぐもった声を漏らした少女の全身を、淡い白光が包み込む。
魔力によって生み出されたそれは見る間に輝きを増し、遂には巨大な光の柱となって夜空を貫いた。



      ◇◆◇◆◇◆



「うひゃっ!」

軽く悲鳴を上げて、アスナは半ば転ぶように鬼の脇をすり抜けた。
振り下ろされた鬼の拳が地を穿つと同時に、少女のハリセンが広い背を打つ。

獣然とした咆哮を残して、鬼は針に刺された風船のように破裂してしまった。

「わあああっ!!」

アスナは足を止めない。
雄叫びを上げて、勇猛果敢に鬼の群へ突進して行った。

振り回された『ハマノツルギ』が月下に無数の円弧を描き、その範囲内の敵を洩れなく駆逐する。

『このガキィッ!!』

仲間の無念を晴らさんとばかりに、甲冑に身を包んだ子鬼がアスナに向けて禍々しい棘の生えた金棒を振り翳した。
風を唸らせて切迫する凶器は、しかし少女を砕きはしなかった。

逆に、兜に包まれた頭を縦に断ち斬られたからだ。
アスナとの間に割り込んできた、刹那の野太刀に。

「神鳴流奥義……」

静かな呟きは、無限の剣閃となって夜闇を切り刻んだ。

「百烈桜花斬!!」

刹那を中心にして、死の桜吹雪が舞い踊る。
横薙ぎにされた身体に花弁を纏わせて、周囲の鬼達は軒並み掃討されていった。

「ありがと刹那さん……それにしても―――」

アスナの台詞の語尾は、凄まじい爆発音に掻き消された。
二人の少女は、首だけで音源を辿る。

そして戦慄した。


そこには、爆という名の修羅がいたのだ。


「はッ!!」

気合一閃。

青年の大剣が縦横に振るわれ、巨大な十字形の閃光が走った。

右と左に、あるいは上と下に。
見事切り分けられた鬼達が、地面に崩れ落ちてゆく。

『このぉッ!!』

彼の後頭部を貫かんとしたのは、鬼の短刀のような五爪だった。
爆が首を捻ると、その一撃は肩口に浅い切り傷を作るに留まる。

「ふんッ!!」

その仕返しとして、爆は鬼の引き腕を掴み、握力のみで握り潰した。

枯れ枝が折れたかのような渇いた音がして、人間の物よりも幾分か太い腕が青年の肩の上からだらりと垂れる。

『ガッ……』

苦鳴を上げる口腔ごと、鬼の顔面は肘鉄によって粉砕された。

「大バクシンハ!!」

爆の投擲と同時にシンハの無数の念力球と同化したジバクくんは、敵勢に着弾するや凄まじい爆炎の洗礼を浴びせ掛けた。
爆発の範囲内にいた不幸極まる鬼達に代わって、擂鉢状の大穴がぽっかりと口を開けている。

それ程の大破壊を行ってなお、爆の猛攻は留まる事を知らない。
爆が天よ見よとばかりに振り上げた大剣の刀身が、白雷を帯びる。

「雷迅ッ!!」

大気を大胆に焼き斬り、大剣が地に向けて垂直に叩き込まれた。
斬撃の軌跡はそのまま三日月形の雷刃となって大地を滑走し、爆破から逃れた鬼達を無慈悲に狩り立てて行く。

瞬く間に死を量産してゆくその様は、もはやどちらが鬼なのか分かったものでは無い。
地獄の悪鬼が亡者を喰らっているようにさえ見えた。

「……敵じゃなくて、ホンット良かったわね……」

固唾を呑んで、アスナの喉がぐびりと動く。

これまで、彼女は爆の戦闘を見る機会にあまり恵まれていなかった。

ほんの少し前まで魔法の存在など鼻で笑い飛ばしていたし、以前駅で木乃香を奪取した時は何が起こったかすら理解の外だった。

だから、周囲の人間が彼を強いと言ってもそれ程実感できなかったが―――アスナは、その両目にしかと焼き付けてしまったのだ。


人間とは、こうまで『戦い』を極められるものなのか。


アスナの心を満たした感情は、あるいは憧憬だったのかも知れない。

不意に、背後で絶叫が上がる。
慌てて振り返ると、大鬼が獰悪な牙を並べた顎を開いて直立していた。

その喉奥からは、長大な棍棒が生えていた。

「よお。ぼさっとしてると危ないぜ?」

棍棒が鬼の口の中に消え、支えを失った巨躯がどさりとその場に崩れ落ちた。
声は、その向こうに立っていた男が発した物だった。

「激さん!」

簡素な黒装束に、額に巻かれた赤い鉢巻。
重力に抵抗するかのように逆立った黒髪の下で、青年は顔に豪気な笑みを形作った。

「便所しに起きたら、お前らが走ってくの見つけてよ。なかなか面白いことになってんじゃねーか」

『ぐぁああッ!!』

断末魔の叫びと共に、右肩から左の脇腹を袈裟懸けにされた異形が激の足元に落下して来る。
人間の身体に、鴉の頭部を備えた烏天狗だ。

遅れて、漆黒をしたスーツの背中に純白の翼を背負った銀髪の青年が、静かに地に降り立った。
両手には、二振りの長刀。

「ふん。空で、この僕に勝てると思うなよ」

消え行く異形に冷たく言い捨てると、雹はぐるりと首を旋回させた。

喜色に染まったその表情は完全に緩みきっていて、数秒前までの彼とはまるで別人。
熱い視線の先では、爆が大剣を振り回していた。

「見てたかい爆くぅ―――ん!! この調子で君のハートもイチコロさぁッ!!」

瞬間、爆の瞳が殺気に煌いたのは気の所為ではないだろう。
その証拠に、次に飛来した電撃の刃の直撃を受けたのは雹一人のみだった。

轟く超高熱の白光が、容赦無く天敵(爆視点)を抱擁する。

「あぎゃああああッ! ………ふふ、僕は、常に君にイチコロ、さ」

一体何処から湧いてきたのか、背後に大量の薔薇を撒き散らしつつ、雹だった人型の消炭が大の字となってその場に倒れ伏す。

余りに黒過ぎて、表も裏も分かったものではない。
風が吹き、全身から立ち上る白煙と共に鼻を摘みたくなるような異臭が森中に運ばれてゆく。

「……焦げた焼肉みたいな匂いがする……」

「ほっとけ。その内復活するから。それよりほら、鬼退治鬼退治」



      ◇◆◇◆◇◆



森の上空で、ネギは行く手に広がる湖から光の柱が立ち上るのを目撃した。

天を貫く剣の如きそれは美しい黄金に輝いていたが、少年の胸を満たしたのは不吉な気配のみだった。

心臓が痛みすら感じる程に激動している。

『儀式召喚魔法だ!! 何かでけえもんを呼び出す気だぜ!!』

跨った杖の先で、カモが叫ぶ。

彼に言われるまでも無く、ネギはこの周辺に濃霧が如く満ちる息苦しいまでの魔力に気付いていた。
そして、その源泉の正体にも。

「(木乃香さん……!)」

手遅れとなる前に、急がねば。
杖に魔力を注ぎ、速度を速めようとした時だった。


後方で、野獣の咆哮が上がった。


振り返ると、夜風を裂いてこちらに向かって来る漆黒の犬が数頭。
それは、近い過去に一度目にしたものだった。

「(狗神!?)」

脳裏にその使い手を浮かべつつ、ネギは掌を突き出し障壁を張ろうとする。
だが、黒犬の爪牙の方がより疾い。

回避する事も叶わず、流星のように突っ込んで来たそれらに、ネギは撃墜された。

「!!」

杖が跳ね飛ばされ、少年の身体は地球の引力を思い出したかのように背中から森へと落下して行く。
この高度で地面に叩き付けられれば、待っているのは無残な死だ。

急いで杖を手元に呼び寄せる。

「杖よ……」

そして、背中に受ける空気抵抗が森の木々の感触に取って代わった瞬間、ネギは魔法を発動させた。

「風よ!」

ネギと地面との間に、魔法によって生み出された陣風が滑り込んでくる。
それにより、一瞬だけ、彼は空中で身を動かす権利を得た。

体制を立て直し、両足で雑草の生い茂る地面に着地する。
続いて落下してきたカモも、風による制動で無事に着地。


「よお、ネギ」


草を踏み締める乾いた音。
それと同時に前方から響いてきた声に、ネギは顔を上げた。


「こんなに早く再戦の機会が巡ってくるたぁな」


明確な喜悦の混じった声だった。
ネギは、その声の主を知っていた。


「ここは通行止めや!! ネギ!!」


立ち塞がるのは、ざんばらな黒髪に犬―――あるいは狼の耳を生やした、学生服の少年だった。


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