第九話〜存在〜

 

淡い星空。

雲ひとつ無い、冷たい風だけが頬を撫で続ける世界で、私とレッケルのお腹が共にきゅーっと鳴く。

なんって言うか、無様だ。

幾ら会いたくもないモノにあってしまったからとは言えど、まさか晩ご飯を作る気力まで削がれているなんて、私としては一生の不覚。

魔法使いは日々冷静かつ、落ち着いたものであれ、と言う約束を思いっきり外れてしまったようなもの。自分に嫌悪感を抱かざるえないのですよ。

胸元からきゅーっと音がする。

勿論私のお腹の鳴った音じゃない。

そりゃ、私だってお腹が空きまくって全然動けない状況だけれど、そう何度も何度も断続的にお腹が鳴くほどの餓えは感じちゃいないのです。

今の音は私の使い魔の可愛らしいお腹の声。もいっちょ、きゅーっと白蛇のお腹がなった。

お互いに交えあうような会話さえも無い。

正確には、お腹が空きまくって、お互いに言葉を交える為にエネルギーを割きたくないって言うのが本音。

だからお互いに余計な体力は使わない様にって、ちゃんと解りあってのこの状況。

きっと明日の朝になって、気分が晴れるまではずっとこうしたまんまでしょうね。

アレの相手なんかするんじゃなかったと、今更になって猛省の嵐。さっさとおさらばしてれば良かった。

でもね、仕方なかったのよ。最初の時点では動揺していてアレの魔力が封じられているなんて全然気付けなかったんだから、あ、でもどっちにしたって気付けなかったのは冷静さを欠いていた私だわね。ゴメン、レッケル。

溜息をつくと、同じ様にレッケルも溜息。

こんな時は結構気が合って、お互いにお互いの不安とか、悩みとかをよく打ち明けあったりしたもんだわね。

友達多かった私だけど、レッケルとは友達以上家族以上の存在かもしれない出会ったまだ数ヶ月の、一年にも満たない間だって言うのに、ホント、お互い様だわ。

 

「お腹空いたわねー……」

 

レッケルは何も言わない。思わず漏れてしまった本音にさえも反応できないから、やばいかなとか思って胸元を覗き込んでみると、ちろちろっと舌を出したレッケルがそこに居た。

不機嫌と言いますか、うん、レッケル様様は非常に空腹であられるようだ。

これは一刻も早く食料にありつかなくっちゃいけないとおもうんだけど、正直作って食べさせるぐらいの気力は残っていない。

同様に、何かを食べに行くなんて事も出来ない。お金は夕頃双子に使っちゃったもんだから、暫くの間は切り詰めて何とかしていかなくっちゃいけないのよね。世知辛い世の中よ、まったく。

夜の八時過ぎ。

夕餉も終わって、きっと幼、初等部の子供達はもうすぐ眠りにつく頃だろう。

神楽坂さんも朝は早いみたいだから、きっとそろそろ眠ることだと思う。

私は後もうちょっとは起きているつもりだけれど、朝方まで変なものの監視を続けていたもんだから、眠くてしょうがない。と言うか、目蓋を閉じたら、今すぐにでも寝れそうだ。

兎も角、色んな事がありすぎるのだ、この学園は。

指名手配犯は居るわ、幼稚園児みたいな双子は居るわ、幼馴染みの修行風景は逐一観察しなくっちゃいけないわで、もぉてんてこ舞い。

あ、てんてこ舞いって言葉久々に使った。と、このようにとっても私はてんぱってる。

人間はてんぱると何を口走るのかも定かじゃなくなるし、言った本人でさえも言ったという事実さえも忘却の彼方だものね。吃驚だわ。

もいっちょきゅーっとお腹が鳴る。

お腹が減ったと最早言う事もしない。作る気力はすっかり削がれて、それでも食べなくちゃとは、お腹も心も訴えかけ続けている。

でもでも、食欲はないわけだし、何より動いて活動的になるほどに、心のケアが整っていないって言いますか。

もっかい星空を見上げる。

今日は昨日のような変な物体もなければ、ほんとに何の変哲もないキレーな満月の夜。

慌ただしい一日を締めくくるにはもってこいなんだけど、何しろお腹の中身が限りなく空っぽ。もぉ、脳へ回す栄養もありませんですよ。自嘲気味に溜息ついて、もぉ、仕方ないから寝ようかななんて思っていて。

 

「どーしたのよ、黄昏ちゃって」

 

朝に知った人の声と共に。どすっ、と頭の上へ生暖かい重量感を感じた。

 

 

夜風が全身に行き渡って、とても気持ちが良い。腹八分目まで膨れたお腹を潤すには、丁度良い風向き。

この時期の風は春風で、夜になれば夜桜の香りを舞い上げてココまで運んでくれる。

一緒に運ばれてくる桜の花弁も、またいい感じ。空っぽだったお腹が満ち満ちたお蔭で、結構余裕が出てきた証拠かもね。

隣にはそんな私をネカネおねえちゃんみたいに見守ってくれている人一人。

いや、夜で髪の毛が舞い上がって正面が隠れると本当にネカネおねえちゃんに見守られているみたいだわね。

そんな親近感もある所為か、にまーっと笑ってその見守る神楽坂さんに応じる。

何しろ私とレッケルの救世主様々だもん。笑顔でお礼が出来るって言うんならもぉ幾らだってみせちゃうわよ。

けど、まだテントの中でもぐもぐやっているレッケルは、とりあえず保留。お昼はお肉を食べられなかったんだし、邪魔することも無いので、今は神楽坂さんと二人っきりでいるのも悪くないかな。

お腹が満ち満ちている理由。そんなのは言わずものがなで解ってもらえるとは思っているんだけれど、一応説明をば。

簡潔に言っちゃうと、神楽坂さんが差し入れのような形で今日の残り物を届けてくださったのですよ、これが。

まさに地獄に仏。朝、私とレッケルを階段下へと跳ね飛ばしたおねーさんとは結びつかないぐらいの配慮の素晴らしさ。

そのお蔭で、私もレッケルもお腹を膨らませて、今こうやって穏やかな気持ちでいられるのです。あ、訂正。レッケルはまだ食べてました。感謝もありゃしないで、がっつきがっつき。

そんなレッケルを見ても驚きもせず、苦笑したままだった神楽坂さんを見て、この人が如何に深く魔法と言うものに対して関与しているのかと言う事を重々に察した。

蛇が喋っても驚かない人、言われてみればアルベール・カモミールは、確かに神楽坂さんの肩口に陣取っていた。

つまりは、カモミールとも関与がある。さらにそこから考えを接続して、結論として、神楽坂さんはネギが魔法使いであると言う事を知っていると、今度こそ心底に確信した。

ここで記憶を消しておくのが正しいとは承知している。

ネギが居ようが関係なく、魔法使いの頂点、マギステルの役割として、一般人が魔法界へ関与しない事を最大制約の一つにおいている。

だから、大抵大きな事件で人前で魔法を使えば必ずマギステルの中でも記憶除去法の匠が一挙にその場の人達の魔法に関する部分だけを削り取ってしまうようにしてる。

この学園でも、ネギが去った後はきっと。ネギが居たと言う記憶だけは残しても、ネギの魔法に関係する記憶だけは、留めさせておく訳にはいかない。

連絡はする。

ネギ・スプリングフィールドが、私の幼馴染みである少年が犯したことは中々に重大なんだもの。

不可侵条約違反にも引っ掛かりかねない程の重大罪。運が良くてオコジョ化。運が悪くて魔法権剥奪の上で記憶除去による一般人降格。

それぐらい、魔法使いと言うものは魔法を世界から隠蔽しなくっちゃいけない。

そりゃそうだ。人間は自分で自分の種族を壊滅できるだけの技術を得てしまった。

どんな生物も、自分で自分の種を根絶するような能力は持ち合わせ無い筈なのに、人間だけがその能力を、その知識を得てしまっている。

今はまだ、破壊は会っても大規模ではないかもしれない。だけど、これにもし魔法の事が全世界に知られるようになれば、確実にそれは戦いの道具となる。

それは、どうしようもなく眼に見えた事実だもん。戦闘魔法は戦場に駆り出される、治癒魔法でさえ、負傷した兵士を癒す為のものとして扱われる。

それは、絶対に許すわけにはいかない。いや、それで済めばまだ良い。

良くは無いけど、もし世界に魔法と言うものが知られれば、確実にもっと大量の命を奪うものが誕生する。

兵器と魔法の混同。それは、確実にこの世界を灰にする事が出来るだけの力となるなんて、眼に見えてる。

歴史が繰り返してきた。どんなに素晴らしい発明も、使い方一つで、恐ろしいまでの破壊を遍くだけのモノに成り下がってしまうんだもんね。

物事は些細なところから漏洩する。

一般人と言う名の水を湛えた巨大なダムと、私達みたいな魔法使いが生きる魔法界の境界線は僅かな隙間が開いただけで決壊し、あっさりとその均衡が破られる。

そうなれば、どれだけの事が起こるだろ。そうなったのならば、どれだけの災厄がこの星に降り注ぐんだろう。

私達魔法使いは、戦いの為に魔法と言うのを生み出したわけじゃないと師に教わっている。

魔法使いが魔法で戦うことはあっても、それは決して自分の為に使ってはいけないのだと、それは長い間、多くの魔法使いたちが残してきた魔法そのものに対して失礼極まりない愚考であると結論付けている。

私も思った。いや、確信していた。魔法使いの魔法は、決して命を傷つける道具などではなくて、多くの命を救う事が出来る、ありもしない奇蹟なんだと確信した。

本当は、神様なんていないし、奇蹟なんて起きないし、魔法なんていらないのかもしれない。

ありのままに在ると言うのなら、そんなモノに頼らずに生きていくのが一番正しい生き方なんでしょうと確信してる。

今だってそう考えてる。この考えは、きっと私のものだから一生涯変わる事が無い、私だけの考え方だとも、ちゃんと知ってる。

だから、魔法使いは魔法をひた隠す。

知られれば、知っても悪意の無い人は居ても、知られればきっと、人の世と言うものそのものがほおってはおかない。

魔法と言う超常の力は、確実に人の道具として世界中に広まり、もっと多くの悲劇を振りまくだけのものとなる。

かつて、それを使って多くに命を助けたいと思っていた願いも何時かは忘れ去られて、誰もが、ソレを当たり前のように扱って、当たり前のように好きなことの為に使ってしまう日が来る。そう確信してる。

これは推測なんかじゃない、悲しいけれど、魔法と言う名の幻想は、何時だって現実の壁に磨り潰されるんだから。

横を見た。神楽坂さんが夜風を受けて、舞い上がった髪の毛を掻き揚げている。

心は揺らぐし、辛くて痛い。出来る事なら、忘れさせないままの方が良いなんて事は解ってる。

誰も誰かの記憶や命に関わっちゃいけないんだから、誰かは誰かの力で生きていっているんだから。

そんな純粋なモノに手を加えるのは悪い事で、魔法を知ったからって悪い事を考える人ばかりじゃないし、そのお蔭で、もっと世界が広がったって人も居るってちゃんと知ってる。

ソレを考えると、記憶を消し去る事が、何もかも知らなかった方が良い事にするなんて事が、決して良いことではないって言うのは知っている。

だけど、それは個人の意思だ。中には、なんの躊躇いも無く消す魔法使いの人も居る。私の師も、そんな人の一人だった。

その度に反感を持って、その度に気付かされた。

魔法使いは、人間じゃない。

人間的な思考、人間的な判断、人間的な想像力と、人間的な思考回路だったら、魔法使いなんて言うのは決してやっていられないんだ、と。

厭と言うほどに思い知らされてきた。

私達は、何時だって何かの為に生きている。何かを生かし、何かを救うのが魔法使いの本分だもの。

そこに個人の判断や、人間としての考え方を持っていちゃ、被害が広がるだけだもの。

消すことは決定稿。最早、私の一判断で判断を決めて良い問題なんかじゃない。

群に寄っては、群に従え。私達は極めて複雑なネットワークを長い時間をかけて構築してきた、最早魔法使いと言う名の一生物。

いわば、海月とかと同じ群体って言う巨大な生物コミューンだ。

そこに属する私も同様に、その群体に従うしかない。

これは、私の意志では独断できない。私は細胞の一つに過ぎない。魔法界と言う巨大な生物の構築している、一個の細胞で、けど自分の意思で動き、きちんとした判断が出来る生き物。それが、魔法使いと言うもの。

勿論私は、しっかりと自分の意思は貫く。

私は魔法使いで、多くの人に夢を与えていきたい。ソレは変わらない。変わらないけれど、その前に魔法使いとしての役割を、魔法使いと言う名を持つ者としての役割を決して、違えてはいけない。

魔法使いは魔法を使う。ソレは、何の為なのか。ソレは、どう言う事なのかを違える事だけは決してしちゃいけない。

 

「ねぇ、アーニャちゃん。ホントに、一回だけでも、ネギに会いに来れないの?」

 

唐突に引き戻された。目の前の臙脂の髪を靡かせている人の声で、漸く意識がこっち側に傾いたんだ。

考えていた事は魔法使いとして、魔法使いなら、誰もが一度は考えなくっちゃいけない、この世界を良くする為に必要な、魔法使いとしての思考回路。

朝も聞いたその一言。

ネギに会う。それは今は、無理。

今の私とネギはほぼ対極に位置するもの同士だから、お互いに顔を合わせる事なんて以ての外。

ネギとしても、きっと同じ。幼馴染みかもしれない、仲は悪くないかもしれない。けど、お互いの立場が、お互いを幼馴染みでも、仲の良い友達同士でも、会うことを許してはくれない。

私はマギステルとしてネギの修行を、ネギは修行の立場としてマギステルを目指している。今現在のお互いは、お互いにその立場を危うくする必要なんてないだけのお話だから。

 

「今は会う気はないわ。私は見習いでもマギステルやってんだし、中々に会う機会とかが難しいのよね。まっ、帰りがあればその時にでも会いに行くわ」

 

そうは告げても、やっぱり神楽坂さんの表情はさっぱりとしていない様子。

その理由は大体知っている。ネギは、ウェールズと言う遠方からわざわざ一人きりでこっち側に来た。

言ってみれば、周囲に知り合いなんてほぼ皆無の状況も同じようなモンだった筈。

なら、知り合いに会える事が、どれだけの心の励みになることかなんて、言わなくったって知っている。

今ネギに会って、励ましてあげればそれはきっとネギのやる気を奮い立たせるには十分すぎる効果を及ぼすかもしれない。

でも、それは同時に、魔法使いとしてやってはいけない事、私は魔法使いとしてであり、アーニャ・トランシルヴァニア本人ではない。

マギステル・マギとして、修行中の身であるネギ・スプリングフィールドは、見守る程度の関係性しか持っちゃいけない。マギステルとして厳しく、彼を、査定しなくっちゃいけないんだから。

だから会う事は叶わない。

けど、帰りに顔を見せる程度ぐらいは良いと思う。そうだ、授業中のネギのクラスを見上げていて、それにネギが気付いたらあの頃みたいに笑ってあげるんだ。

ソレで十分だと思う。別れの言葉も、お互いにお互いを労うような言葉だって必要は無い。

長年付き合ってきた幼馴染みだもん。考えていることぐらいは、幾らでも把握は出来るってもんだものね。

 

「そうなんだ…じゃ、約束ね」

 

神楽坂さんは残念そうだけど、こればっかりはどうしようもないこと。

長年の間積み重ね挙げられ続けてきた、一つの戒律。それを違える事は許されないし、それを誤る事なんて出来ない。

私達は好き勝手やって良いほど偉い生き物じゃない。人には人の法があって、魔法使いにも魔法使いの法がある。

それは違えてはいけない境界線で、ソレを違えると言う事は、即ち、自分を捨てるようなものなんだから。

風が一陣舞う。満天の星空に抱かれる様に、私と神楽坂さんは無言の内に隣り合って、その空を見上げたまま。

幸い、気まずいなんて感情は無い。ただ、ほんの僅かな引っ掛かりみたいなものが在るだけで、それも何なのかは理解できてない。

 

「アーニャちゃん、ネギのお父さんの事。知っている?」

 

唐突な一言だった。同時に、その一言で今まで一度も持っていなかった神楽坂さんへの反感と言うものが湧き上がった。

ネギの父親の事を、何故神楽坂さんが知ってるのか。

それはつまり、ネギが、神楽坂さんに六年前を何らかの形で話したと言う事には違いない。

だから聞いたんだ。私に、六年前のあの大火の日の事。あの日にネギが出会ったって言う、ネギの父親、サウザントマスターの事。

六年前、ネギの住んでいた山内の小さな村が大火に包まれた事を知ったのは、ソレがあってから三日経ってから。

住人の九割以上が石化、もしくは行方不明と言う形で集結し、生き残ったのは僅かに二人。ネギ・スプリングフィールドと、ネカネ・スプリングフィールドの両名のみ。

何があったのかは、両親に連れられて現場に同伴した時に大体理解したっけ。

石化の方は上級魔族による法で、とてもじゃないけど普通程度の治療魔法使い(ヒーラー)じゃ到底治す事なんて出来ない上級特殊の一環。

行方不明になった人が居ると聞いた時点でも、幼心では、大体の事は解りきっていた。

村を襲ったのは悪魔族の連中だって。石化は邪魔したから、行方不明と言うのは単純に食われたからでしょうね。

完全な行方不明と言うものを作り出す方法は幾つかはあるけど、その中でも一番単純なのが、そのものを消し去る。姿形も残らなくしてしまうと言う、捕食による処理。村の人の数人がそうなったのは大体予測出来ていた。

そんな凄惨な場で生き残れたネギとネカネおねえちゃんは僥倖だと思い、それは違うと悟っていた。

魔法も使えないようなネギと、治療魔法使いでありシスターとしての才能を持って入るけど上級悪魔祓いなんて出来ないネカネおねえちゃんの二人だけでは生き残ることなんて出来ないって理解していた。

二人では生き残れなかったと言うのに、二人だけが生き残った。それは、誰かが二人を助けたと言う事で。

これは後にネギから聞いて漸く判明した。

助けた人が誰なのか。それがサウザントマスター。長い間魔法界に語り継がれていると言う、最強の魔法使い。

曰くは千の魔法を扱うと言う千術の覇者で、並み居る魔法使いの頂点に位置する魔法使いだと両親からは聞かされていた、あの人がネギ達を助けたと。

それから暫くしてだったかな、ネギが本格的に魔法と言うものに手を染め始めたのは。

始めは、村の人たちを目の前で失った無力感からネギが魔法を学び始めたんだと思ってた。

必死こいて魔法学んで、それで、何時かは立派な魔法使いになって、大勢の自分と同じ様な人たちを作りたく無いと言う理由で、魔法に打ち込んでいると信じていた。

けど、何度か魔法学校の図書館に一緒に連れ込まれて、攻撃魔法とかを学んでいくネギを見ていて、そこで漸く理解していた。

ネギは、あの夜の出来事の事を払拭しようとしてなんてない。

ネギは、単純に、あの夜の日に助けてもらった自分の父の残影を追いかけ続けているだけなんだと、憎悪にも近い感情で、攻撃魔法を学んでいるネギを見届けていた。

それには何の意味も無い。

ネギが父親を追いかけていくのは構わない。

ネギの父は魔法界でも一躍の名を轟かせている大魔法使いとして皆に知られている。

その父親のように。その大魔法使いと呼ばれた父親のような魔法使いとなって、大勢の命を救いたいと言う意思があったのなら私も一緒になって付き合ってあげたりもしていた。

けど、ネギの心には微塵もそんな感情はなかった。ネギは、徒単に父親の影を追い続けるだけだった。

父親と同じような道を歩もうとする、舗装された道を進むようなあり方を求めているだけだった。

長い間ずっと疑問に思っていた事がある。ネギが、どうしてそこまで父親に固執するのか。

大魔法使いだったって言うのなら解るし、実の父親だって言うのだったら解っていたんだけど、ネギはどうもそういう理由で父親の後を追いかけているんじゃないかなって、歳を追う毎に気付いていった。

そして、最終的にそれに気付いたのは卒業する数日前。昔みたいに二人で話してたら、あの雪の日の事を始めてネギ本人から聞いた日の夜だった。

ネギは、父親の背中を追いかけているだけだって。

ネギは、父親と同じようになれば、いつかきっと父親に会えると思って魔法を学んでた。

それを知って、私はサウザントマスターが一気に嫌いになった。ネギの父親なんて、一生見つからなければ良いと本気でそう思っていた。

生きているかいないかって噂が魔法界で経っていて、私はネギがお父さんは生きていると言うたびに死んだら二度と会うことなんて出来ないのよって何度も何度も、本当に子供の喧嘩のように繰り返していたっけ。でも、それは―――

 

「…ネギのお父さん、見つかると良いよね」

「いいえ、見つからなくていい。私は、ネギの父親なんて見つからないままの方がいいって思ってる」

 

一切の思考余地もなく言ってのけ、隣り合う神楽坂さんの眼が丸くなる。

私が言った事に心底驚いている顔。だけど、私は私の思いを口にしただけ。

私はネギの父親なんて見つからないままの方が良いって、本気で今も、そう思っている。

ネギは父親と同じになろうとしているだけ。幼心に焼きついた、ピンチの時に救ってくれるヒーローなんて言う幻想をあの雪の日に垣間見ただけで、それに憧れただけ。

その憧れが、何時の日か、現実の壁に磨り潰される日が来ると確信もしないで。

 

「あ、アーニャちゃん…?」

「今日は帰って。晩ご飯美味しかったわ。ありがと。だから帰って。もう、話すことは無いから」

 

テントの中へ戻って、とうに空っぽになってしまったタッパを押し付ける。

顔はあわせる気なんて、ない。神楽坂さんが思っている事と、私が考えている事は逆位置に属するもの。決して交わる事は無い、交えることは出来ない、幻想と現実。

ひょっとしたら、私、泣いていたのかもしれない。

神楽坂さんがどんな表情で私を見ていたのかは解らない。きっと困惑した様子だったかもしれないし、ひょっとすると憎悪を抱いたような表情をしていたかもしれない。

でも、どっちにしても神楽坂さんは何も言わずに、タッパだけを受け取って帰っていく。振り返りもせず、ただ一度、困惑したような横顔だけ見せて。

 

―――――

 

膝を抱えて泣き腫らした子供みたいになっている私が、何だか私じゃないような気持ちの中に居る。

考えたくもない事を考えてしまったからかもしれないし、会いたくもないモノに会ってしまったからかもしれない。でも、どっちにしても、あんまり元気にはなれそうも、ない。

 

「…アーニャさぁん」

 

ちろちろっと私の頬を、レッケルが優しく舐める。変な水気を感じていたんだけど、レッケルに舐めてもらって、漸く気付いた。

どうやら私、泣いていたみたいで、だから変に気分が盛り上がらなかったんだ。膝を抱えて、レッケルと二人ぼっちで、巨木に背中を預けたままで。

 

「…嫌いよ。サウザンドマスターなんて、嫌い。このまま見つかんなくていい。一生見つからなければいいのよ、あんなの。

あれの所為で、ネギはアレしか眼に入らなくなった。ネギは、自分を持てなくなった。ネギは、自分の夢なんか持てなくなった。返してよ…ネギを返してぇ…ネギを返しなさいよ!!ばかぁ!!」

「あ、アーニャさぁん」

 

厭な事しか考えられない。

ネギが、お父さんを大好きだって言うのは、知っている。

息子がお父さんを慕うのは、絶対悪いことじゃない。それは寧ろ良い事だと思う。

でも、ネギの件は別。あの雪の日のだけは、別だ。

なにもあんな状況で出てこなくたっていいじゃないの。鮮烈過ぎる登場で、ネギの心にはサウザンドマスターしか映らなくなってしまった。

それが、あんまりにも憎らしい。どうしてもう少し早く来て、ネギに自分の道を選んで進めるように言ってはくれなかったんだろう。

何故、あの時、あの日、あのタイミングで姿を現して、何故ネギに自分の杖を託したりしたんだろう。

託してそれで満足して飛び去っていくなんて、行き当たりばったりの無責任にも程がある。ソレさえなければ、ネギは今頃きっと。

嗚咽も漏らさず、ただただ涙を流しながら体育座りのまま正面を睨む。

居もしない影を睨みつけるように、ありもしない残像を、嫉むように。

そうだ、私はサウザンドマスターが大嫌い。ネギの、幼馴染みの自分で選ばなくっちゃいけない道を閉ざした、憎い相手。

ネギがこのままサウザンドマスターを追い続けたって、そこに本当にネギの意思はあるのかな。

このままネギがサウザンドマスターのようになっていくその先に、まともなマギステルとしての道が用意されているのかな。

考えるたびに、何も思い浮かばない。それは、私達があんまりにもサウザンドマスターって言うものを知らないからかもしれないけど、ネギには、そうはなって欲しくない。

ネギには、世界中を奔放しながら生きていくなんて生き方は許したくない。

あの子には類稀な魔法使いとしての才能がある。その才能を、魔法使いとして生かせる才能を、サウザンドマスターのように、戦う為だけに使わせたくは、無い。

魔法使いは戦っちゃいけない筈。

多くの先人魔法使いたちが残してきた魔法は、命を傷つけたり、何かを奪う為に使う為のものなんかじゃない。

ソレは、多くの命を救う為にと生み出されてきたものばかり。

魔法の射手だって、始めは戒めの射手程度しかなくって、それだって、本来は護身用、もしくは保護用の魔法として生み出された。

それが後の魔法使いの手によって手を加えられ、どんどん攻撃的な魔法になっていって、今じゃ殆どの魔法使いが持つ、戦闘用の魔法になってしまっている。

それが厭だった。厭だったから、師には凄く共感出来たんだと思う。

師も同じように、魔法とかを戦いの為に使うを是とはしない人だったっけ。師が教えてくれた魔法なんてなくて、渡された魔道書に書かれていた魔法だって、殆どが保護用、治癒用、間接系の魔法ばっかり。

それは、師が魔法と言うものを、何より魔法と言うものを持たないものの為に用いる、持てるものは持たざるものへ精神がとてもよく表れていた気がする。

魔道書には、沢山の攻撃系の魔法も載っていたけど、学んだのは僅かに一つ。この間使った、あの『火砲の射手』程度。

他の攻撃系の魔法になんて、眼もくれなかった。

だって、戦う力なんていらない。そも、私は力自体を欲しなかった。

私は私で、私のやりかたって言う形で、命を助けていきたかったから。

だから、戦う力なんて、蚊ほども欲しくはなかった。新しい争いの火種を呼ぶ強さとか、周囲を巻き込むだけの、戦いの道具だとかが大嫌い。

生き物は、いつだってそうやって生きていく筈なのに。望んでも手に入らないものが多い命の方が多いのに、どうして。

 

「ふみゅ……アーニャさん、疲れてるですです。お散歩して気を紛らわせるですですぅ」

 

くいくいっとレッケルが私の袖を引っ張っている。

そうかもしれないわね。何だか、いろんな事がいっぱいあって心の中が不安定になっているのかもしんない。

冷静を重んじる筈のマギステルが冷静さを欠くなんて、まったく、まだまだ私も見習いだわね。こりゃ。

漸く立ち上がる。勿論泪は拭いて、しっかりと。

情けない泣き顔を晒す趣味なんて無いですからね、私は。勿論、まだ心の中の整理とかは色々についていない。

この学園でどんな事が起きても冷静さを重んじようって思っていたのにこんな僅かな時間で崩されちゃうなんて、この学園は見た目以上におもっ苦しい世界みたい。

テントの外の風は冷たい。

春風とは違う、凍りきった冬の朝に吹く風のような冷たさ。それが、余計に私の心を深く凍てつかせていく。

マギステルとしての道。父親を追い続けるというのを選んだのはネギかもしれない。

でも、選んだだけで、その後には何一つも選択肢が用意されていない。

だって親の道を追いかけ続けるだけだ。親がたどった道を、ただ単純に繰り返していくような生き方。

それに、どれほどの意味があるんだろう。その生き方の果てに、何が用意されていると言うんだろう。

何もない。きっと何一つも用意されてはいない。

いつか真っ向からそれをネギに告げる気で、私はいる。

ネギのやつはきっと、一生気づけない。

だって、あいつは今だって父親の、私が憎んでしょうがない、あのサウザンドマスターなんて言うのの背中を追っかけるので、何も見えていないんだから。

だから、いつの日か、きっと最速で、この修行が終わり次第、即刻告げるつもり。

あんたは何をしたいのか。マギステルになるのか、サウザンドマスターになりたいのか、それとも、ここで教師として自分の生徒を守っていくだけでいいのか。

選択は一つしか選べない。一度に多くを選択できるほど、私たちは万能じゃないんだから。

私はそれをしっかりと明言するつもり。

全てのマギステルのように、命を救い、世界を良くあるように活動する魔法使いになるのか。

あの、最強の魔法使いといわれ続けた、戦う力に特化しただけの魔法使いになるのか。

それとも、ここの地で、ここの人たちだけを守っていく教師になるのか。

それを告げて、悩ませる。ネギには試悩が必要だと判断している。

ネギの、将来を決めることだもの、一生を決めることには、一生分の試悩で応じなくっちゃならない。

私は悩み悩んで、一般人としての生活を放棄して魔法使いという道を選んだ。

身を隠し、本当の自分なんて、同じ魔法使いにも明かせないぐらい隠蔽を是とする種族へと生まれ変わったに等しい。

ネギは、それを学ばなくっちゃいけない。

今まで以上の艱難辛苦を味あわせる可能性だってある。

でも、それを乗り越えなくっちゃ、本当の意味でネギは大人になんてなれない。

現実の壁にむざむざ磨り潰されるか、現実の壁に寄り添うか、現実の壁を冷徹を持って乗り越えるのか。

三つに一つ。選べるのは、いつだって一つだけ。

私たちは万能じゃないから、生き物って言うのは、万能なんかじゃないから、血を凍てつかせてでも、現実に挑んでいかなくっちゃいけないんだもの。

静かな風を受ける。

巨木のさざめきも、都市のざわめきだって気にもならないぐらい静謐とした夜。

決意は新たに、泣き腫らした眼差しから、魔法使いとしての眼差しに立ち戻る。

今日あった事は、いつだって考えてきたことの反復。改めて、今ここに居る私を再確認する。

マギステル、アーニャ。魔法使いとして生きて、現実の壁を冷徹を以って乗り越えることを誓った、魔法使い。

 

「アーニャさん…」

「ん、大丈夫。明日からまた忙しいから、今日はもう休みましょ?」

 

ちろちろっと頬を舐めてくれたレッケルに感謝。

いかに血を凍てつかせても、こうして自分のことを慕ってくれる命が在るって言うのは、本当に、素直に嬉しい。

これで一人ぼっちだったら、一人でいろいろ考え込んじゃって解決策も見つからなくなっちゃう。誰だって、一人でも優しくしてくれる人が居ると、それだけでもこんなに心が穏やかになる。

さて、と勢いづいて、踵を返す。

また、そのタイミングの悪いこと。踵を返して、思いっきり振り返ったところで足に何かがひっかっかって、やったら硬いモノが顔面を襲う。

この時出たへぷぅって叫び声は、正直私の生涯汚点見せたくない、聞かせたくない事ナンバーテンに入ってもおかしくないぐらいの悲鳴だったと思うわ。

で、どして足を引っ掛けて転んで顔面ぶっつけたのかと言いますと、また出たのよ、あれが。

昨日の夜に目撃したやつ。なんの唐突もなく出現した、正体不明の四角錘。

ただ佇むだけで、周辺には一切も干渉する気配というものを見せない究極的に無機質なソレ。

昨日の夜と同じように現れて昨日の用と同じように、焼きまわしたフィルムを見ているような既視感を感じながら、四角錘は相変わらず月の光を、今日こそは残さず喰らい尽くそうと言わんばかりで、満月の下で静かに佇んでる。

でも、なんだか昨日とは様相が違うようにも見えなくもなかった。

そうだ、地上から出ている分、いやいや、正確には昨日よりもずっと大きくなっている。

言ってみれば、筍が地面からずずっと突き出していく工程を見た後のような、兎も角、目の前の四角錘は昨日よりも間違えなく、その様相を代えずして変え、よりピラミッドのように佇む巨体となって、私の鼻をぷちゅっと潰してくれたのよ。

きっと赤くなっている鼻を押さえて、涙目になりつつも四角錘を見上げる。

一切の光を弾かない、全ての光と言うものを吸い込んでいく、闇そのものを具現化したかのような巨大な物体。

昨日が二メートルなら、今日は六メートルぐらいは出ているかな。

平屋の一軒家程度の大きさにも勝るとも劣らない大きさとなった四角錘。

相も変わらず意味不明。一体全体どーゆう意味合いで出現するのかも理解できないようなソレが、私とテントの間、私と巨木のほぼ間の地面から突き出るように、落下してそこに落ちたかのように、なにより、初めからソコに存在していたかのように。相変わらずの無機質ぶりを発揮しながら、そこに佇み続けている。

月が翳ったような気がした。

だって唐突に手元を照らしていた月の銀光が絶たれて目の前が真っ暗になったんだもん。そりゃ月が何かの要因で隠れたのかなって考えるのが一番普通だと思うでしょ。

目の前には真っ黒い四角錘で、周囲一体は夜の帳の落ちた闇の中。そんな状況で月が隠れられると手元はおろか足元だって真っ暗闇に陥って何にも解んなくなる。

内心、いやーな予感はしていた。

いや、いやな予感を持っていたというのなら、昨日、この四角錘の物体の目の前に立った時点でいやな予感は尽きなかった。

まぁ事実として、今日は吸血鬼の指名手配犯には会うわ、いやな考えばかり抱いちゃうわで散々だったんだけど、今もこうしていやな予感は尽きていない。それ、つまり、コレの前に立っていると、嫌な事しか起こらないようで――――

視線をゆっくりと上げていく。本当に、ゆっくりと。

上から何かが落ちてくる事を知った人が、その落ちてくるものが何であるかを確認しようとして視線を上に向けるのと似ている。

けど、これは本来正しくない。もし上から何かが落ちてくるというんなら、即座に身をよじってその場から離れるって言うのが一番の得策の筈。

上を見上げる行為は、甘んじてソレの直撃を許すような、そんな後手後手の行動なのに、どうして。

―――見上げた先に、理解出来ない物を見た。

本当に理解できないものを見たとき、人間って言うのはこんなにも無力になるのかなって思えるぐらい、身体が動かない。

月が隠れているのは別にかまわない。月は雲だって隠せるし、人の手でだって自分に当たる分ぐらいの月の光はさえぎれる。

見上げた先にあったものは後者に該当する。つまり、雲のように広域にわたって月の光を遮る様なモノじゃなくって、人が自分で自分の視覚範囲内にある月の光を遮断する様なもの。

ソレがゆっくりと大きくなってくる。空から落下してくる、モノ。

言ってみれば六本足の何か、巨大な生き物に見えた。

しかし生き物じゃない。生き物である筈がない。だって、現行の地球上にはこれほど巨大な生き物は存在出来ないから。

存在していても、必ず人の目に見つかって、当に世界中に知られている筈だから。

そう、その、空中からゆっくりと、けど、そのゆっくりと、は見ている私の目がそう見ているだけで、空から落ちてくるそのソレは、巨木の半分にも至るほどに巨大な、あまりに巨大な鉄塊でもあった。

全体像は把握できない。ソレぐらい、大きい。

解るのは脚っぽいものが中心部分から多方向に伸びていることと、それが、月の光を全て周辺へ弾き返してしまうほど鮮烈な銀色で多いつくされているということだけが、かろうじて理解できる。

そして、その全身を包み込んでいる銀色の正体は、恐らくは理解するには至れない、生まれて始めて目視する、未知の存在である事を嫌というほどに、僅か一見で認識する。

コレは、今スローモーションのように落下してきているこの存在は、人間では理解できないもの。

人間の知識や感性程度では理由付けすることなんて出来ない、人間の勝手な創造が鋳造した神様とか、万能とかとも区別がつかない、人間の思考回路では決定稿を当て嵌める事が出来る存在なんかじゃないって、一目見ただけで、理解させられた。

 

「アーニャさぁん!!」

 

レッケルの声に意識が覚醒する。ソレと同時に、スローモーションだった世界に動きが戻る。

早い。落下の速度は、その巨体から生み出される破壊力そのものに変換される。

私とレッケルの位置は、落下してくる巨大な何かの足一本の真下。身体を捻っても捩っても、もぉ間に合わない。落下速度が速すぎる。

いかに反応速度の速い人でも、この距離でこの巨体につぶされればただじゃ、って言うか、確実に死ぬ。

レッケルを手に取る。引っつかんで、そのまま射程外へぶん投げ。

反応が遅れたのが致命傷、魔法使いって言うのはいつだって冷静沈着、何を目の当たりにしても、冷静に判断して実行しなくっちゃいけない筈なのに、今の今まで如何なる場所でも見たこともない様な“異種”を目の当たりにして、一気に思考が凍り付いちゃった。

それが、致命傷。冷静な判断力さえ残ってば、こんな事にはならなかったのに。なんて、バカ。

レッケルを投げてことでバランスを崩しひっ倒れた。

体勢的には這い蹲るみたいな体勢で、一気に体を捻って上向きになりつつ更に身体を捻る。けど身体を捩っても、もぉ間に合わない。

腕一本は、確実に踏み潰される。見た感じ、何かの脚部はかなり鋭利に、磨きに磨き上げられた刃みたいに尖っているから、確実に貫通する。

それに加えて筆舌に語れないほどの巨体。そんなのが、落下速度と体重をプラスした脚の一脚が私の腕を貫くって言うんなら、ショック死も考慮しなくっちゃ。

目を閉じて、次の瞬間に襲い掛かってくる衝撃と激痛に耐えるように歯をかみ締める。

レッケルの声も聞こえない。全神経が、襲い掛かるであろう衝撃と痛みの緩和を行うべく、次の一瞬のために待機状態を整えておく。拙い、絶対拙い。これじゃあ、私、もぉ――――

 

痛みがなかった。

何秒経っても、それこそ、一分は目を閉じていたかな。それぐらい待ったって、痛みもなければ衝撃もありゃしない。

何の違和感も感じない肌。目を開ける勇気は、正直あんまし、無い。

そりゃそうじゃん、ひょっとしたら腕が粉々になっているかもしれないって言うのに、ぐっちゃぐちゃになった腕なんか見たくない。

体勢上きっと左腕。潰されれば心臓に近いから、きっと血がぶしゅぶしゅ出るに決まってる。それこそ湯水のように。でも、喪失感はないし、やっぱり痛みなんていうのも無い。

何秒待ったかな。二分は待ったかも。

レッケルの声は聞こえない。案外、直撃の瞬間、変なのの足が動いて私の頭をぐちゃって潰したのかもしれない。

あ、そっか、そう考えればこの静謐感もなんとなく解る。

だって、あれだけの巨体が落ちてきたら、こんなに静かなわけがない。でも、即死だって言うのならこの木の葉のざわめきだって聞こえないのも理解できる。

でも、後悔ばっかりで、まだまだやりたい事もあった人生だったけど、最後の最後は結構こんなものかなーとも思える、って、そんなの、受け入れられるわけ無い。私はまだやらなくっちゃいけない事があるし、まだ、ネギにだって。

恐る恐る目を開く。いやね、そりゃ死んでるなんて考えたくなかったし、かといって、目を開いた瞬間に目の前がつぶれた腕で真っ赤になっていたらって考えたら嫌だから、恐る恐る、目を開いて、あ、腕あった、と言うか、生きてるけど。そう、生きてはいるんだけど―――――

腕の上に、あまりにも巨大で鋭利な脚が何の違和感も無く、“乗っかっていた”。

声も出ない。いやいや、正確には、出すような余裕なんかが無い。

傍らの巨木の枝一本揺らさず、ソレで居て、傍らの巨木と相同じと言っても過言ではないぐらいの巨体を誇っていながら、まるで違和感も何も無い。

ただ乗っている。羽のように、いや、羽のような軽ささえもない。

本当に、乗っかっているのか、いないのかの判断がつけられないほど違和感無く、けれど、その鋭利な、刃物の様に、槍の様に鋭利な脚は、確かに私の腕の真上に乗っていて、現にどんだけがんばって動かそうとしても、一ミリだって動きゃしない。

何とか無事だった片腕、あ、踏み潰されかけたのは右腕だから左腕で、何とかしてその脚をどかそうと頑張ってみるんだけど、これまた動く気配もなしよ。

まるで岩の間にジャストフィットしたみたいで、私の腕はかんっぺきにそこにはまり込んだかのように動かない。

でも、挟まれているって感じはしない、本当に、見えないし、実態のない岩にはさまれているかのような、そんな違和感。

けど実感はある。

脚は、確かな実体を以って私の右腕のど真ん中に乗っている。

だからこそ違和感がすさまじい。見上げれば、月光を余すことなく反射して、周囲を淡い、蛍灯のように晃らかせるほどの銀甲に包まれた巨大な何かが相変わらずの無頓着さ、あまりにも無機質な、そう、あまりにも生物らしくない存在感を持って、確かにそこへ座た。

まるで巨岩。無機質に、何も語らないようなのに、今にも動き出しそうなぐらいの生命力に満ち満ちている余りにも矛盾したもの。それの六脚の内の一脚が、確実に私の手の上にある。

よく見ればかなり高度から落下してきたって言うのに周辺に地響きも無ければ、亀裂なんかも奔っていない。

まるで水面に落ちた木の葉のよう。波紋は広げるけど、時間とともに波紋も消えて、何事も無いかのように水面に在るように。

けれど、この巨物は水面に落ちたときの波紋さえ生み出していない。

本当に形も何も、重さも何も無いものが、それこそ、風でさえも無い何かが、水面に至ったかの様な、すさまじいまでの、虚無感。

でも居る。確かな存在感、圧倒するほどの巨大感を以って、ソレは、私の腕の上に一脚を置き、何事も無いかのように動き出す気配も見せていない。

風が舞う。確かに風はこの巨体を避けて、確かな実態のある者のみに発生する風の流動を起こしてる。

それが結論。コレは、紛れも無い現実で、私は助かって、目の前のコレは、魔法使いであっても、いや、きっと知性を持ったモノでは理解できない、圧倒的なモノなのだと感じちゃった。

脚の一本が動く。それこそ、ホントに音も無い。

これほどの巨体、コレだけの鋼、いや、銀かもしれないけど、兎も角鋼鉄状の物体で包まれているって言うのに、鉄擦れの音も、駆動するような音も立てずに、ソレの一番前の一脚が静かに数メートル動く。

それが地面についても、コンクリートの地面には亀裂一つ、地割れの一つだって入らない。

石畳の上に巨大で鋭利な足がついたと言う認識すら許さないほどに、静か。もう一本。こっちも、周囲で風が草を靡かせる音が聞こえるほどに静かに踏み出し、同じように静かに下ろされる。

動きは蜘蛛に似て、しかし、蜘蛛とも違う、見た事もないような生き物の動きをしている。って、ちょっと待った。今脚動かされたら、私の腕、今度こそ潰れちゃうんじゃ。

けれど、私の腕の真上にあった鋭利な一脚が動いても、違和感一つ無い。

本来生き物って言うのは動き出すとき両足に力を込めなくっちゃ、前へは踏み出せない。

踏み出す足に力を込めて、前へ。六脚なら力は各分化出来るかもしれないけど、ここまで力が篭らないって言うのは逆に異常すぎる。

それが踏み出した一歩って言うのは、そーゆー一歩。

まったく力なんて篭らない、極々の超自然体で踏み出された、世界に影響さえも与えない、存在感がありすぎるものの、存在感が無さ過ぎる“歩行”。

身体を起こしてとりあえず手の確認。

うん、ちゃんと手は動く。ぎゅっぎゅって手のひらの握り締めだって出来るし、一応念のために鋭利な脚が降り立った箇所も袖をまくって確認するけど、傷も無ければ跡だってありゃしない。

ホントにこのちっこい、自己嫌悪しちゃうけど、ちっこい私の身体が、あんなに巨大すぎる物体の一脚に踏み潰されてただなんて、想像することも出来ない。

きっと、言っても誰も信じちゃくれないでしょうね。外状だけ見れば、トラック数十台分の重量はあろうって言うデカブツに腕を踏み潰されたって。

ソレの歩みは、本当に静か。

木々のざわめきが煩わしく感じるほどに、草花の擦れ合う音が、うるさく感じるほどの静謐感だけを漂わせて、ソレはゆっくりとした無駄の無い動きで、私のことなんて知ったこっちゃないって言わないばかりで、巨木の近くから麻帆良の町並みへ向かっていく。

きっと誰も気づかない。夜もくれているし、この近所は意外と真夜中、誰も近づいたりはしなかったっけ。それに加えてのあの静けさ、歩く音も立てずに行くって言うんだから、気づける人間なんて居るはずが無い。

そう、気づけないのは人間だけ。直視した人間以外の人間は、あれに気づく事だって出来はしないでしょうね。

認識阻害とか、そういったレベルの問題じゃなくって、純粋にあれに気づける人間は居ない。

耳を澄ます。静かな分、よく聞こえる。

そう、人間だけがあれに気づかないぐらい愚鈍なんだ。周辺にあった生き物の気配が一つだって無い。

耳を済ませても、野良犬の声も、夜鳥の鳴き声も、潜み隠れている猫の鳴き声さえも聞こえる事は無い。

だから、世界があんまりにも静かに聞こえたんだ。だから、全てが五月蝿く聞こえるんだわね。

街中に居たんなら、焦がれてやまない筈の自然のざわめきが、五月蝿いほどに耳に響く。

アレの出現。あの、おかしな物の出現で、周辺の生き物全ての気配が、消失した。

 

「アーニャさぁん!!」

 

いっきなり飛びついてくるもんだから、思わず叩き伏せてしまいそうになる欲求の何とか抑えてレッケルが胸元に飛び込んでくるのを許受する。

と言うか、レッケル居たんだ。あんな意味のわかんないモノの近くに居たんだから、とっくの昔に隠れちゃったのかとも思ってたけど、いいぞレッケル、流石は主想いのいい子いい子。

と、和んでいられる状況でもない。

目の前の変なのを何とかして究明するのも、また魔法使いとしての役割だもの。

異国おいて異種を発見しだい調査、探求、報告が魔法使いの原則。目の前に現れているコレの探求も、また魔法使いのお仕事の一環なのだ。

もちろん、こんなケースは初めてだから私だってちょっとは慌てている。

でも、ここで慌てても何も得られるものは無い。得られるものが無いなんていうのは許されない以上、私は、私の方法でアレの正体を突き止めなくっちゃ。

 

「レッケルっ、あれは?」

 

レッケルの反応を見る。

レッケルは蛇の、高位の水に属する自然精霊。夕方にあの吸血鬼と出会った時にレッケルの調子が悪くなったのは、自然界の摂理に反したアレの存在が、純粋に自然界側に深く根付いているレッケルの存在そのものに影響を及ぼしたからこそ、レッケルはアレの前では酷く怯えて、体調も良くなくなる。

目の前のソレも、ソレと同規格の存在であると私は睨む。

さっきあんまりにも腕には違和感が無かったし、今なお歩き続ける姿にだって、一切の無駄っていうものが無い。

聞いた事は無いけど、もし、あれが機械で、私たち魔法使いでも難しいとされる技術を実現させたロボットだって言うんなら、説明がつく。

人の技術力の進化はすさまじいから、いまさらあれほどの大きさの、重力制御とかも可能な機械が生み出されたって驚く事は無い。

逆に、あれがロボットだって言うのなら、あまりにも自然界の摂理に反した存在だもの、レッケルの体調に影響を及ぼさない筈が無い。それなら、レッケルが反応すれば。

でも、レッケルの反応なんて無い。

私と同じく、あのばかでっかいモノをみーみー言いながら見上げてるだけ。

体調不良も何のそのなのか、それとも、本当に体調なんて悪くはないのか、その判断は、主である私だからあっさりとつく。

 

「レッケル…あれって、やっぱり」

「ハイですですぅ。アレは、信じたくないけど、立派な生き物ですですぅ……」

 

愕然とするしか、ないわよね、やっぱり。

どこの世界を探せば、全身を鋼鉄で包み込んだ、あんなに巨大な生き物が居るのか、って目の前にいるんだけどね。

どう見たって信じられない。魔法とか言う技術に頼って、大抵の事では驚かなくなっているけど、これには驚くしかない。

違う、驚いているんじゃない、愕然としてるんだ、私。

だって生き物。アレは、人間や、蟲や、木々や、自然界に存在していて、“まともな”、一生命体だって言うのよ。普通の、一個体。

信じたくない気持ちは消えない。けど、信じなくっちゃいけないとも思ってる。

だって、レッケルが判断した。レッケルの判断は完璧無比。特に、生き物か否かと言う判別能力にかけては、精霊と言う、自然界に直接関与できる存在なの。

だからこそ、そのレッケルが一切の拒否反応を起こさないと言うことは、間違えなく、目の前のアレは、生命体として、断定するしかないわけよ。

判断は出たけれど、格段ソレでどうにかできるわけでもない。

アレが生き物だと解ったからって、私が何か手を出せるわけじゃない。

考えてもみてよね。あんな得体の知れないのに魔法なんて使ったら今度こそ生かしておいちゃくれないかもしれない。

触らぬ神にタタリーなしって言うのは、こんなところでも生きてくる。

アレは神様とかそういった類のものではないかもしれないけど、得体が知れないと言う面においては、神様なんかよりももっと形容しがたい、筆舌語るに至らない存在だもの。うかつに手を出せば、きっと、どんなに思考を凝らしたって導き出す事が出来ない結果を齎すに決まってる

突如として現れたソレは、巨木が立つ場所の正面に位置する広場のほうへ、ゆっくりとした動きを以ってそっちへ向かっていく。

なんって言うか、なんとも言いがたい動き。何かを探すでもない、何かを壊すでもない、かといって、何もしないと言うわけでもない、しっかりとした目的のあるように思える。けど、その目的が何であるのかの判断をつける事が出来ない。

まあ、意味が解んなくても、魔法使いとしてはほおってはおけないし、何より、興味も深かったから追っかけようと一歩踏み出したところで、鈍い音が真横から聞こえてきた。

鈍いって言うよりははっきりとした粉砕音。アレだ。目の前を悠々と歩いている、バカでっかいアレが、ちゃんと音を立てて着地したなら、そんな音が鳴るよねーって感じの、コンクリートをさらに硬度の物体で砕き散らした、そんな破砕音が一歩踏み出した私の真横で、鳴った。

なお、過去形なのにはちゃんと意味があって、なぜなら、その粉砕音を立てたものが何であるのか、もぉ判断してしまっているからなんだけど。

視線だけが動いて、真横に。

ほっぺとソレの間はギリギリもギリギリ。あと半歩ずれていたら、脳天から突っ込まれてぐっちゃぐちゃになっているだろう事間違えなしの変なもの。

そう、だってまぁそれには本当に変なものと言う呼称しか付けらんないってぐらい、変。

言っちゃうと、螺旋削岩機、いわゆるドリルに近い、円錐状に近い形状の物体。

でも円錐じゃない。何だか鋭角が目立つ、ひし形にも似た結晶体系の形状をしたのが八つぐらい合わさって、ドリルのような不規則角錘を形成してる多角錘。

簡単に言いますと、縦にギザギザの奔っている、粉砕と言うよりは貫通に特化したかのようなドリル。

正面から見ればきっと盾のようにも見えて、八角星形状に見えると思う。

現状の私から見ると、つまり、ほぼ真横から見ると、全長五メートル大はあろうかって程おっきな、ドリルのようなもの。それが、私の半歩進んだ真横に落ちてきたんだ。

アレね。一気にいろんなことや、肝の冷やされるような事が立て続けに続くと、ホントに声って言うか、何にもでない。

悲鳴も無ければ、嬌声も無し。たらりと、静かな冷や汗が背中を伝って身体を冷やしていくだけって言うのが、一番しっくり来る。

本当は吃驚して腰も抜かしちゃいそうよ。これはホントに。正真正銘で吃驚してる。

でも腰を抜かさなかったのには、ちゃんとした意味がある。目線を横にずらしたときに、気付いた。

降下して、真横に突き刺さった鋭利な槍の様な盾の様なソレの上。絶妙なバランス感覚を養っているのかどうかは解らないけど、兎も角、落ちてきたソレの上に人影があった。

だから腰なんて抜かせない。この状況で腰なんて抜かしちゃったら、こんな得体の知れないモノの上に立っている人に得体の知れないことされちゃうかもしれないじゃないの。

けれど、その不安もすぐに消えた。

降りてきたソレの上に立つ影の人が、そんな物の上に乗っかっていることのほうがおかしく感じるぐらいに綺麗な人で、私の裡の不安も虚偽感も何もかも払拭してしまうぐらい眩く輝いていたから、だから不安なんて感じなかった。

違う、不安なんて感じる余裕なんて言うのさえも無い。だた全脳内細胞がソレの記憶を命じている。命じているって思うぐらい、感覚神経のほとんどが、ソレの上に立つ人に注目してる。

腰には大きめのリボン。

鋭利さの目立つ、けれど所々にはフリルが可愛らしくあしらわれたスカート。

通常生活と言いますか、普通の人生歩んでいる女の子じゃきっと、滅多な事があっても着るもんじゃないような、そんな、少女趣味丸出しの魔法少女ルック。

ただし、私の目の前に立っているその子が着込んでいるソレは、そんな優しげなものには見えない。

だって、袖から何から何まで、全てが深紅と黒。

血染めのような淦と、闇沁みの様な黒。

リボンも、大きな肩のふくらみも、前が短く、後ろが長いフリルの沢山ついたスカートでさえも、汚れたように、穢れたように淦と黒の一色で統一されてた。

銀光を髪が弾く。

違った。髪の毛が銀色の月の光を弾いたって訳じゃない。冷たすぎるほどの銀の輝きを放っている満月だけど、ソレの上に佇んで、静かに魔法少女のような格好を風になびかせているその人の髪が、もっともっと銀色に輝いている。

ソレは、もぉ銀色とは呼べない。言っちゃうと、磨き上げた鏨。極限の極限まで磨き上げて、光と言う光をありったけ弾き返すほどに磨き上げられた鏨じみた長髪。

ソレを風に靡かせ、月の光を集めて、私や周辺を照らしあげてる。

堅苦しいまでの輝きなのに、なんて、伸びやかなんだろう。

髪の毛に硬さは無い。普通の、普通どころの騒ぎじゃない、十分すぎるほどに行き届いた手入れを窺わせる靡やかさを以って風に広がる。

見とれるほど綺麗なのに、見ているのが疲れるほど装飾過多。

眩いばかりに輝かしいのに、目を逸らしたくなるほど厳つい。

素直な感想は、ソレ。到底、人間的なというか、生き物的な要素が見つからない雰囲気。だと言うのに、その人の外上は、私よりも背が大きいぐらいで、見た目にも細い感じが出まくっている、深窓の令嬢と言う雰囲気が似合う、そんな、けどありふれた、普通の女の子、女の人だった―――

 

「―――こんばんは」

 

声が届く。鈴みたいに、透き渡った声。

夜だって言うのを忘れさせてくれるほどに、透き通った、朝焼けみたいなもやもやを貫く、日光のような一声。

聞惚れるような声なのに、どうしても聞惚れてしまえないのは、その姿と、その背後で月を睨む様に動きを止めている、あの巨体があったから。

見上げている先に居たその子が、いつの間にかこっちを見下ろしていた。

酷く儚げな、今にも消え去りそうなそんな笑顔。人間的な要素が一切省かれた、ただ単なる、生まれてきた我が子に向けられるような、母親の純粋な微笑みにも見える。

本当に、その一言すらも出てこない。

ほかに何も言うべき言葉が一切も見つかんない。

どうしても目を逸らすことが出来ないその眼差し。

赤い、紅い眼。着込んでいる魔法少女の容姿に見られる淦い塗りを上回るほどに紅い、一切の虹彩が赤く染まっている、瞳。

 

「こんばんわですですぅ…」

 

っと、ここでレッケル大ポカ。いっくらとんでもない事ばかりの今日でも、このミスは半端じゃない。

冷静さは欠いていたかもしれないけど、こういうときこそ冷静に、目の前のものにも怯えずきちんとした使い魔をやってもらわなくっちゃいけないっていうのに、何しゃべってるのよ。

咄嗟にレッケルの口を塞ぐ。塞ぐって言っても、ちっちゃい口なもんだから、指で押さえつけるって言うほうが似合うかもしんないわね。

まぁ、そんな事はどうでもいいんだけど、幾らなんでも開けっぴろげすぎ。フツーに喋っちゃったモンだから、見てみなさい。変なのの上のひと、小首を傾げてるじゃないの。あ、でも普通に可愛いかも。

と、女の人が笑った。いや、ずっと微笑んでいたんだけど、今度の笑顔はさっきまでのお母さんみたいな笑顔じゃないかな。

どちらかと言えばもっと深くて、もっと浅い。

もっと、私達に近いような、そんな笑顔。

目を細めて、僅かに口を開いく、小さな笑み。ソレは、夜の挨拶を返してあげた、そんな簡単な事に喜んでいるかのような、そんな小さな笑顔。

 

小さく笑った少女が、魔法少女の姿見で空を跳ぶ。魔力も何も感じないのに、とんでもない跳躍力。変なのを、女の子が一人きりで持ち上げられる筈もないようなソレを携えたまま空を跳ぶ少女の向こう側に、あの、少女の髪同様に銀光を尚弾き続ける、あの巨大な陰影があった。

 

 

それは悪夢のように、あまりにも突拍子も無く現れた巨大すぎる残影。

それは夕日のように、あまりにも華奢でそれでいて鮮烈すぎる虚影。

突然すぎた二つの怪影。その光景は、いつか本の中の、いつか教科書の中で読んだ神話の一場面の如く、現実離れした神々しさで、私の目線を完全に覆いつくしてしまっていた。

だから、その光景が夢か現か幻かさえも理解に至れないぐらい混乱していて――――いえ、混乱する間もなく、私はその光景に魅入っていた。

夜だと言うのにその影の二つは、黒くはなかった。いえ、黒と言う色が滲み込む事が出来ないまでに眩い輝きを放って、巨大すぎる影と、それに拮抗出来るほどに歪で如何わしいまでの巨影を構えた、小柄な影は月光に照らされて輝いている。

巨大な影は銀光を弾き、その姿を目視させてはくれないけれど、その巨大な影に相対していた小さな、巨大すぎる影を構えた小さな影だけは、月の光と、巨大すぎる影の弾く銀の輝きに照らされて、

まるで、下と上の両方からスポットライトを一身に浴びた、世界に一人の踊り子の様に――――

 

刹那、銀の髪を靡かせた、黒と赤に染まった女の子。

場違いなまでに短いスカートと、フリルを大きく巻き上げているその姿は、だけど、いつか夢見た、そんな格好で戦う“魔法少女”のソレとは、あまりにもかけ離れていた光景――――

 

CHAPTER01〜飛来〜……END

第八話〜魔女〜 / 第十話〜探索〜


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