第二十八話〜流転〜

第二十八話〜流転〜

重く、暗く、輝かしく。しかし、哀しいまでに、現実(リアル)。


 不可解とも思え、しかし、妙に胸に落ちるものを与えた授業の終了から早一時間。
昼休み。エヴァンジェリンは、椅子に深く背を凭れかけ、無機質な天井を仰いでいた。
木目の天井。長年過ごしてきた、しかし変わらない様相。それはまるで機能得の様だとも、エヴァンジェリンは思った。

 エヴァンジェリンと言う少女――存在に関して言えば、機能得限止は極めて面白い存在と言えた。
エヴァンジェリンからすれば、だが。
永々と続く時の頚木から外され、一人となる道を選んだエヴァンジェリンが興味を懐くのは最早その程度の事でしかない。
長生きはするものではないなとも、エヴァンジェリンは考える。
長生きとは記憶の蓄積。精神の永続的な成長と停滞を意味する。
しかも、エヴァンジェリンの長生きはただの長生きではない。
永生き。永続的な生命だ。
何時かは終わるかもしれないが、寿命と言うものが定められている生命体から見ればその寿命はまさに永遠的なものと言えるだろう。

 その永生きの中で積み重なる、記憶と経験と、成長する精神。
しかし、人格と肉体の成長は無い。
それは人間なのだろうか。この事実を機能得に突きつければ、機能得は一体どんな答えを返すだろうかと言うのには興味があったが、やめる。
元々威風堂々語るようなことではないし、それに語ったところで機能得限止は興味を懐かない事を知っているからだ。
 永生きすればするほどに新しいものを知り、多くのものを失った事をエヴァンジェリンは思考する。
蓄積されていく知能と経験は、衝撃や刺激と言う名の感覚を忘却させていき、仕舞には何もかもに何も感じられなくなってしまうかもしれない。
刺激があるうちが華であり、限りがあるからこそ、何時かは来る限界と言う名の死が迎え入れてくれるからこそ、生物は生きていけるのかもしれないと思考する。
何故吸血鬼と言う道、それを選んだのか。エヴァンジェリン本人はそれを良く覚えている。
自ら選んだ道ではなかったが、吸血鬼へと至った遥かの以前。自分が何故に吸血鬼などになったのかを調査をすれば、少しは楽しいだろうかともエヴァンジェリンは何度か考えた。
だが考えるだけで、決して行動に移したことは無い。

 元々人間でありながら、それを放棄してまで吸血鬼と言う名の人外へ転生した意味。
理由があるとすれば、恐らくはろくな事ではないと彼女は思考する。
自分の感情などお構いなしに転生させられた吸血鬼などと言う道。
時折、今でも彼女はもしと考え、その考えを即座に止める。
その"もし"がそうであれば、それほどつまらない事は無い。
自分の不幸だった頃や、自分が不快だった時を面白おかしく調べ上げられる生物が何処に居るだろうか。

エヴァンジェリンはそう考えて、くぐもった声で笑った。
周辺のクラスメイトらは思い思いの行動をしている。昼食を済ませて談笑に花咲かせている者。始まりから終わりまで談笑で終わらせるであろうもの。自らの趣味で手一杯になっているもの。
だが何れの誰も、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのくぐもった笑みを捉えた者は居なかった。
 人間などやめてしまえ。
機能得限止はそう言った。エヴァンジェリンは笑う。
彼女は人間を嫌ってはいない。ただ、姑息で。矮小で。脆弱で。下賤で。野蛮で。救いようの無い生物であるから見下しているというのは正しい。
永生きしてきた者としての経験蓄積。それが人間と言う生物を低俗と見せたのだ。
しかし、彼女は何処までも見下してはいたが―――決して、嫌ってはいなかった。

 人間が魔法使いの魔法を生み出し、多くのものを生み出したのだ。
その点では人間は尊敬に値する。その生み出されたものが、どれ程の血と涙と犠牲の山の上に成り立っているのかを考えなければ、だ。
それさえ考えなければ、人間と言う生物をエヴァンジェリンは尊敬する。
 かつて彼女は人間だった。
普通の人間だっただろう。家族が居て、豪奢な造りの中世の城に住んでいた。
親の顔も覚えており、しっかりと、幸せな頃の思い出も残っていた。
十歳までの記憶。元は人間として生まれたのだから。

だが、その日々は突如として崩れ去った。
エヴァンジェリンは人間を放棄させられ吸血鬼と言う道を選ばされた。それも、年端も行かぬ少女の姿でありながら。
それほどの茨の道。少女は数多くの塁塊を懐き、今日と言う日まで。サウザンドマスターという男と出会うまで歩み続けていた。
 それは今の彼女にとって思い出して呆ける程度のものでしかなかった。
思い出すのも億劫になってしまうほど遥か遠い時の話なのだろう。
あるいは、覚えていてもあまり意味の無いものだと自ら切り捨てたのか。
それはエヴァンジェリン本人にも最早判断が出来ないものになってしまった。
だが何が原因であれ、エヴァンジェリンと言う名の少女は一人、人外の道を往くことを選んだのだ。彼女の意思ではなかったかもしれないが、他の道はなかった。

 それを考え、エヴァンジェリンは低く。ある目で見れば泣いている様にも見える。そんな態度で、くぐもった笑いだけを俯いたまま浮かべていた。
 人間などやめたものだと思っていた。
当の昔。吸血鬼と言うものになった時点で、エヴァンジェリンは、自らが人間である事など忘れて、やめたようなものであった。
初めの数十年間はまだしも、それ以後は間違えなくそう思考して生きてきたつもりであった。
そう考えていた。ずっと。それこそ、気が遠くなるほど長く
 だが、どうやら彼女は人間をやめきれていなかったらしい。それを今日知ったのだ。
人間の定義が機能得限止の言ったとおりだというのであれば――――
"エヴァンジェリン"という名の存在が蓄積してきた"記憶""精神""人格""感情"を持っている自身は、紛れもなくエヴァンジェリンであり、しかし、吸血鬼エヴァンジェリンではなく、人間的エヴァンジェリンと言えよう。
そう、エヴァンジェリンは超越的な存在、吸血鬼などと言う人外になったのではなく。超越的な力を宿しただけの、さほど、彼女自身が見下している人間と言う生物との変化はなかったと言う事だった。
それを、エヴァンジェリンは今日知ったのだ。
皮肉にも。永生きし続けてきた間ですっかり屈折し、斜に構えた眼差しで見下して居た筈の、人間の手によって。
 なるほどと唸る。
それでは人間など放棄出来る筈もない。
見下して居た筈の人間と言う生物に諭されてしまったのだから。
そんな事にも気づけず、ずっと吸血鬼と言う人間とは違う特別な存在だと思っていた事が間違えだったのかもしれない。
吸血鬼などにならされてしまった事。それを憎んだ事も合ったが、すでにその領域は過ぎ、吸血鬼をやって生きていた。
だが、そう気付かされた。気づかされてしまった。それだけで、自分は充分に人間なのかもしれないなと、エヴァンジェリンは思う。
何故吸血鬼などになってまでヒトの形を取り、ヒトの記憶にすがっているのか。
それは何を隠そう。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと言う存在が、人間を完全に捨て切れなかったからに他ならないのではないか。

エヴァンジェリンは自分の手を天井へ向け透かす様に仰ぎ見る。
白い肌。何時か誰かが、自慢だと言ってくれたかもしれない。
そんな白い肌。それを失いたくなかったから、人間である事をやめきれなかった。
そう、エヴァンジェリンは気付く。
誰より何より人間と言うものに依存していたのは、誰より何より自分自身であったと。
永生きの間で気付けた、他愛もない答え。そんなものがあっさりと知れてしまった事に、エヴァンジェリンは複雑な表情をして顔を挙げた。
苦笑、とでも言うのか。だが、苦言をしてしまった時に浮かべるような苦笑ではない。
片目には涙。左の手でその艶やかな金の髪を掻き毟る様に掻き上げた苦笑。
柵を振り切ったものや、真の覚醒をした者のみが見せる壮絶な笑顔じみた苦笑。
その得体も知れない表情に困惑しつつも、エヴァンジェリンはため息一つに全てを乗せて吐き出し、己の従者を捜し始め、視線の端に捉えたその姿に、やや首を捻った。

「あ、茶々丸さん、上手だねー。そそ、そこそこ」
「こうでしょうか? このような事をするのは初めてなのですが…」

 エヴァンジェリンの視線は窓際に向いている。
そこに屯しているのは、このクラスでも特に仲の良い四人。俗に運動部組と呼ばれている四名。
佐々木まき絵。大河内アキラ。和泉亜子。明石裕奈の四名。
その四名の一人。佐々木まき絵の真横で、エヴァンジェリンの従者、絡繰茶々丸不器用ながらの動きで彼女の手から一本繋がりの糸を取り、両手で規則的なカタチへと革新させていっている。

 綾取りだろうか。周囲、他の三名もしきりに声援を送りながら、佐々木まき絵と絡繰茶々丸の綾取りを見守っている。
エヴァンジェリンから見ると、どうにも不思議な光景であった。
自らの従者、絡繰茶々丸は礼儀が正しく、しかし、Aクラス内でも格段仲の良い友人関係など居なかった筈だったからだ。
それと言うのも、エヴァンジェリンが常に自らを守らせる為に故意にもそうさせていたのだが、今の絡繰茶々丸はどうにもそうとは違う気がする。
朝感じた違和感。それに近い気配を、エヴァンジェリンは感じていた。
 だが、考えすぎか、とも思考した。
彼女の生みの親でもあるAクラスの葉加瀬聡美曰く、絡繰茶々丸は日々成長をしていると彼女は聞いた。
人形が成長など、とも彼女は思っているが、絡繰茶々丸は彼女が持つ他の人形とは違う。
精神と言う名の魔力によって駆動する、科学と魔法の融合体なのだ。
自らの一部でも在る魔力を用いて駆動させていると言うのであれば、成長と言うのもあながちありえなくもない。
エヴァンジェリンはそう考え、再び天井を見上げ始めた。
違和感はあれど、呼べばしかと答えるのだし。しっかりと己が裡の契約としての繋がりが感じられる。
それを感じられたからこそ、エヴァンジェリンは安心して絡繰茶々丸から目を離したのだ。
それは、無意識ながらの彼女の優しさでもある。
絡繰茶々丸とて女学生として生活している。ならば、友人の一人や二人、居ても構うまいと言う、不器用で素直ではない、優しさだった。

「じゃあ次は私だねっ。さーって…どうやって頂きますかね…」

 絡繰茶々丸の指に絡まった糸をあらゆる方向から明石裕奈が見定めていく。
綾取りと言うのは以外にも頭を捻る。
感性の問題ではなく、方向性、角度性の問題。数学的な要素含む、科学的な物理的問題でもあるのだ。

 勿論、その事実を知って綾取りをして居る人間は極僅かだ。
綾取りをする人間は、その殆どが自らの感性を信じて糸を絡ませていく。
だが、そんな綾取りをする人間は無意識では考えているのだ。
ソレを取れる角度を。それを上手く指に絡ませ、更に相手が取りにくい、未知の形状にしようと無意識に取る方向を見定めていく。
無意識の数式解読。そんな高度な事を、まだ脳も至らない少女でも出来るのだ。
人間とはそういうものなのかもしれない。
気付かないだけであり、本当は気が遠くなるほど複雑な事を思考する。
それは人間のみに当て嵌まる事だろう。他の生物ではこうはいかない。
だがこうはいかないからこそ、人間以外の生物は人間以上の能力を保有して生きていってもいるのだ。

だが、無意識でこれらの高度な事を出来る人間の能力も、やはり獣と同じ形質から来ている。
無意識。自分でも気付かない領域。意識する事の出来ない領域故に無意識。
だからこそその無意識中では、本人の限界を超えた思考が出来ている。
綾取りで喩えるのであれば、綾取りをしている人間は、取る方向。角度。力の込め具合。緩め具合などはほぼ無意識で行う。
知っている人間ではソレを思考するだろう。
如何なる角度から指を絡め、どの指の力を緩めていけば良いのか。
その状態で、如何なる方向へ指を曲げれば、思考しているカタチへと変える事が出来るか。
綾取りを熟知している人間はソレを考える。考え実行する。
だが知らないのであればどうなのか。無智故、形には捉われないのだ。
知らないが故、自由なカタチで思うがままの手段を講じる事が出来るのだ。
だからこそ、知っている人間よりも早く、上手く糸を括る事が出来る。
それはまさに、機能得限止が言うように。無意識と言う名の無智の領域。
知らないからこそ越える事が出来る、全ての人間が持ちながら、自身の一部として存在しながら感知する事の出来ない部位。
人間であって、"人間ではない部分"の事柄であるのだ。

「……んん!! これでどぉだぁ!!」
「ゆーな。糸、ばらばら」

 それでも力の入れ加減などを違えれば明石裕奈の様な目にも合う。
その絶妙さを理解できないのであれば、これもそう言うことの一つなのだ。
力をどのように入れれば良いのかを知り、しかし、方向性の計算。角度の入り具合。指に絡ませたときの曲げる時間と僅かな大気の乱れから来る意図の形質の変化。
ソレを知らないからこそ行える。力の入れ具合は、あくまで少女らのソレ。
だからこそ、和泉亜子も。佐々木まき絵も。次、明石裕奈から糸を受け渡されるであったろう大河内アキラでさえも。今の今までそれを続けてこれたのだ。

「うぅ〜〜ん……どうして崩れちゃったかなぁ…? 茶々丸さんみたいに静かに取ったつもりだったんだけど…」
「あの。恐らくは裕奈さんは力の入れ具合が亜子さんやアキラさんと違うのだと思います。
裕奈さんはバスケットボールをしておいでですから、僅かながらも筋力が少し上、であると考えました。ですから…」

 絡繰茶々丸が明石裕奈の手に絡まっていた糸を結びなおし、彼女の背後に回って、その手を取る。
操り人形のような状態の明石裕奈は少々どぎまぎしつつも、その手に身を任せた。
 指が滑るが如く動く。
上品な反物を撫でるかのように繊細な指つきが明石裕奈の手を通し、絡繰茶々丸が紡いでいく。
糸は次第にカタチを成し、見入っていた少女らの前には、綾取りの中でもレベルの高い作品が、明石裕奈の手の中に納まっていた。

「お、おお??」

 思わず明石裕奈は唸った。
彼女は自身をそれほど繊細な人間だとも、器用な人間だとも考えていない。
到って普通の女子中生の中でも、非凡な才能程度しか持たないのが明石裕奈だ。
バスケットボールに情熱を注ぎ。よく言えば気前がよく、悪く言うならやや大雑把とも言える性格。
デリカシーと言うものは余り考えず、それなりに女子中学生を楽しんでいた。それが明石裕奈と言う少女が、自身に持っていた自覚の感慨であった。

 だが絡繰茶々丸の手に導かれるままに自身の手で生み出せたものに、彼女は少なからず感動を覚えていた。
大雑把な事しか出来ないような手であり、バスケットボール以外には役に立つとも思ってもいなかった指が紡いだ、繊細な巧みの技。
彼女が自ら生み出したものではなかったかもしれないが、彼女の手が紡いだ事は変わりない。
 自身の指で紡いだとは思えないような糸の括り。
両の掌で包み込むようになっているその小さな世界を、明石裕奈は何時までも見続けていたい気持ちになった。
それは、どうやら他の三人も同じであったらしく、出来上がったソレに対し、声も上げずにただただ見入っていた。

「はわぁ〜〜、びっくりやわぁ。茶々丸さん、こんなん特技もっとってたんやな〜」
「いえ。そう言うことではないのですが…その裕奈さんであればそのような繊細な指使いも出来るのではないか、と思ったから手にとってみたのです。
艶やかでしたし、何より力強くもありますから。
ですから亜子さん。その賛辞を送られるのであれば、私ではなく裕奈さんへ送ってあげてください」
「ん〜、そやな。良かったやん、ゆーなっ。茶々丸さんからのお墨付きやよっ」

 教室の一角で小さな拍手が巻き起こる。
そこは流石は乗りの良いAクラス。こと詳細も知らぬ数人も便乗したかのように拍手が大きくなっていく。
それに頬を赤らめ、頭を掻く明石裕奈。それを微笑みながら見ている絡繰茶々丸。
だが、その情景を、一人、ないしは二人。不可解の眼差しで見つめていた者がいる。
独りは、エヴァンジェリン。もう一人は、しかし良い意味での不可解さを懐いていた、神楽坂明日菜。

「茶々丸さん。なんか変わったみたいじゃないの。エヴァちゃん」
「ん…? ああ……そうだな。そうか。変わってくのかもしれんな」

 だが、とエヴァンジェリンは思考した。
あの絡繰茶々丸は、紛れもなくエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと契約している絡繰茶々丸である。それは、エヴァンジェリン本人が感じている魔力的な繋がりによって解る。
如何に変わろうが、絡繰茶々丸とエヴァンジェリンの間が途切れる事はない。
絡繰茶々丸は、エヴァンジェリンの魔力により、大半は駆動しているのだから。

 それでもエヴァンジェリンは不安を隠せなかった。妙な不安だった。
不安に思うような事ではない。暗雲が立ち込めているような不安でもなければ、暗い気分を落とすような不安でもない。
絡繰茶々丸は成長しているが、エヴァンジェリンとの間は朝も今日過ごしていた間では相変わらずであった。
ならば、不安に思うような事ではない。ないのだが、エヴァンジェリンは嫌な不安を感じていた。
感じている不安は自覚できない不安。
エヴァンジェリンは感じる事の出来なかった不安だった。
そうそれは。あの、彼女が慕った唯一の男。サウザンドマスター、ナギ・スプリングフィールドが―――
約束したにも関わらず、帰ってくると信じていたにも関わらず、死んだと言う噂を聞き、約束が果たされない事を知ったあの時と同じ感情で思う不安。

 否、彼女は、エヴァンジェリンは今も感じているだろう。
想いの男は、本当に帰ってくるのだろうか。
想いの男は、本当に生きているのだろうか。
生きている事は知っている。彼の仲間が言ったのだから。
慕う心もあの日のままに。それは変わる事はないだろう。
だが感じている一抹の不安。ひょっとしたらと言う不安ではなく。不安というにはあまりに早い、性急な思い。

「茶々丸。お前は――――」

 その先は声に出なかった。
恐ろしかったから言えなかったのだった。怖かったから、エヴァンジェリンは口に出せなかった。
言霊が在る。嫌な予感は、事実となる事を知っている。力を持つものならば尚更の事。
だから口にはせず、エヴァンジェリンは心のうちでだけ呟いた。
それが、自身の世界に訴えかける結果になってしまったとしても、エヴァンジェリンはそれを独白せずには要られなかった。
それは、エヴァンジェリンと言う小さな少女の、小さな少女のままの思い。
吸血鬼ではない、独りで歩んできた少女の、小さな願いで。


 ―――お前は、私を残して何処かへ往ったりはしないよな?―――


 声は届かず。吸血鬼の少女が持つ、孤独の縁へと吸い込まれていった―――

 


 それは帰り道であった。

「茶々丸」
「何でしょう? マスター」

 変わらないやり取り。エヴァンジェリンと言う主が、絡繰茶々丸と言う従者に声をかける。
エヴァンジェリンの態度は相変わらずであり、厚顔尊大と言ったものそのもの。
そして、ソレに対する絡繰茶々丸も同じく、何時もと変わらない、淡白な声だった。
 だが何処かが違うとエヴァンジェリンは感じていた。
何が違うのだろうと考えても、彼女は答えが出せない。
自分はこんなにも学のない存在だったのかと心のうちで唸るも、それを認めざられない。
要領が掴めないのだ。

なまじ、他者への思いやりの感情など抱いた事のない彼女にとって、他者の心境の移り変わりと言うものの読み取りなどは精通していない彼女にとって苦悩そのものに他ならない。
それは、自分の従者であってもそれは同じことだった。
 だが、それがそも違うのではないかと考える。エヴァンジェリンの従者は何か。
絡繰茶々丸。科学と魔法の力が混同して誕生した、生物ですらない存在。
ガイノイドと呼ばれるモノが、絡繰茶々丸であり。ソレが、エヴァンジェリンの従者。
それは間違えない。だがエヴァンジェリンは考える。
彼女は今何を考えていたのか。
絡繰茶々丸は確かに成長しているだろう。
では、その成長は何なのだろうか。精神の成長と言うのか。心の成長と言うのか。
それとも経験蓄積による、単なる人工知能の進化か。
それがどれであるのかは、エヴァンジェリンには解らない。
科学と言うものに精通していない彼女では、それを理解する事は出来ない。
だが感じていた。妙な違和感。エヴァンジェリンと言う少女の感じた、絡繰茶々丸へのおかしな、一抹の違和感。

「茶々丸。何かあったのか?」
「いいえ。特には。そうですね。何かあったといえば、教会に住んでいる猫達が最近私によく懐いてくれるようになりました。前からもそうでしたが、最近は、特に」

 エヴァンジェリンは己が従者を見上げる。
笑っていた。小さな微笑。人工物とは思えない、しかし、ガイノイドで、だがどこまでも人間的なその笑顔。
無機質だった絡繰茶々丸では出せなかった表情。
否、前々から小さく。仄かには浮かべていた笑顔ではあったが、エヴァンジェリンが見るのは始めての表情でもあった。

 それを見て、エヴァンジェリンは漸く悟った。
絡繰茶々丸と言う従者に自らが懐いていた一抹の違和感。
 エヴァンジェリンはさっきなんと思ったのか。
他者の気持ちを考えた事がない。
それは当然だろう。彼女は自らの為に吸血鬼となったのだ。他の誰のためでもない。己の為に吸血鬼と言う道を選び、己の為に更なる知識を目指した。だから吸血鬼などをやっているのではないかと考える。
そんなエヴァンジェリンが、誰かの苦悩や苦痛を見破って射当てることなど、慣れていない程度の問題ではない。解らないに近い。
だが、彼女もまた人間だと今日気付かされた。気付いたからこそ考える。
人間にとって、自分以外の他者にとって、何が苦痛で何が苦悩なのかを。
そうして悟ったのだ。他者の気持ちが理解出来ない。
だが、自らの従者である絡繰茶々丸は、そも人ですらない。機械の塊。人工の心しか持たない、予定調和上でしかの活動を予定されていない存在だ。
何故、それの気持ちを考えるなどしなければ成らないのか。
エヴァンジェリンの感じた違和感はまさにコレだった。
今までは従者が何を考えていようと、それをエヴァンジェリンは手に取るように理解してきた。繋がっている魔力の流れが教えてくれるのだから。
だが、今はソレがない。
繋がりはあるが、その繋がりから伝わってくる、従者の考えが読めない。


それは、まるで、人間を―――"生き物"を相手しているかのようで―――


「――――茶々丸?」
「如何しましたか? マスター。具合でも?」

 エヴァンジェリンは背筋に冷たいものが奔ったのを感じた。
自身が見上げている従者は相変わらず。あの無愛想とも取れがちな無表情になっているし、かけてくる声も自分の心配をしてくれる従者のモノ。
それは、それらは統べて絡繰茶々丸そのモノで変わらないと言うのに。
エヴァンジェリンは、目の前の存在が、あまりにも理解出来ない得体の知れないものを見た気になってしまった。

 知れず、彼女は一歩だけ後ずさった。
僅か数センチ、絡繰茶々丸とエヴァンジェリンの距離が開く。
純粋な恐怖を感じたのだ。ナギから感じた強大な魔力の畏怖ではない。
屈辱を味合わされると言う前の、屈辱的な恐怖でもない。
純粋に畏れをなしたのだ。

存在としての絶対的な差異。
言い分の通用しない相手。目の前の従者がそう見える。従者であると言うのに、主が退いたのだ。
だが、エヴァンジェリンは内心で心臓が破裂そうな痛みと、胃がねじ切れる直前の吐き気を催していた。
 脂汗が額から顎までに伝わる感触は心地悪く、だがそれ以上に、眼前に変わらず佇む自らの従者に地獄的な畏怖を感じている。
一秒でも此処に居たくないと言うのに。
振り返れば、背後の従者が一瞬で得体の知れないバケモノに変わって、不死すら関係なく八つ裂きにされるかのような地獄的な畏怖。
 夕暮れ時。一歩下がったエヴァンジェリンは見た。
夕日が自らの従者の背中に入る。逆光が、絡繰茶々丸のシルエットだけをエヴァンジェリンの目に焦がしつけるかのように焼き付ける。

黒い影だけの、絡繰茶々丸の姿は、バケモノじみて―――黒ずんでいた。

 背中に冷水が注ぎ込まれたかのように、エヴァンジェリンは背筋を凍えさせる。
自分を抱いて暖めたいと思うほどの寒気。
それを感じるのは、紛れもなく、眼前の従者。絡繰茶々丸から感じていた。

「――――マスター? どうかしたのですか? 顔色が…優れませんが…」

 一歩詰め寄れば、一歩退いた。
彼女の頭の中の思考は一つで満たされている。
何だコレは、と。
それだけが頭の中で繰り返されている。
気が狂うほどの繰り返し。数万。数億。数兆にいたっても可笑しくない繰り返し。
 その折に、エヴァンジェリンは見た。
見てはいないものを見た。彼女の目が捉えたものではない光景を、脳内はそう判断した。

目の前の従者が逆光の中で笑っている姿だった。
だが、その笑みが普通ではない、狂気を真似た正気の底から競りあがってくるかのような。井戸の底から、ムカデが群をなしてこっちへ向かってくるのを、ただただ井戸の縁にしがみ付き見続けているかのような。

いやな、えがお。

逆光で陰になった絡繰茶々丸が笑っている。表情が判断できないほどの逆光だと言うのに、笑っていると判断できるのは簡単だ。
絡繰茶々丸の両目は爛々と輝き、その口は耳まで裂けている。
シルエットだけの絡繰茶々丸の笑み。
勿論、現実の絡繰茶々丸がそのような表情をする筈もない。
だがエヴァンジェリンが、エヴァンジェリンだけはその笑みを脳で捉えてしまっていた。
何故か。それは解らない。解らないがエヴァンジェリンにはそう見えていたのだ。
狂ったような不気味な笑み。
まるで人間。まるでバケモノ。まるで、悪意を露呈しているかのような人間が見せる笑み。
だが、エヴァンジェリンが感じているのはそれ以上の畏怖だった。

他者とは何を示すのだろうか。
機能得限止の言うとおり、人間性というのがその人間の記憶。人格。感情。精神そのものであるというのであれば、他者と言う概念は人間にしか該当しない。
認識能力を持っている生命体であれば通用するだろうが、その生命体が"他者"と言う概念を持つのかどうかは解らない。そして、その生命体を人間が知覚出来るかも解らない。
従って、他者、と言う概念は人間と言う単一性生命体にのみ該当するだろう。
だが、エヴァンジェリンはその感情を傍らの従者に感じたのだ。それが恐怖だった。
傍らの従者は人間ではない。エヴァンジェリンと言う名の一存在にのみ付き従う存在。
自我を持たず、命ずられるままに行動する人形である。
エヴァンジェリンもそれを知って、人間などと言う信頼できず。しかも、自らよりも耐久力のない相手を従者になどしない。
それだからこそ、絡繰茶々丸と言う存在を従者としたのだ。それは早い話が体の良い道具を選出するに似ていた。 

エヴァンジェリンが絡繰茶々丸と言う存在に一道具以上の思いを懐いたのは何時かなどは解らない。
ただ、何時からかエヴァンジェリンは共に居続けてくれる従者を信じ、時に頼るようにもなった。それが自然であるかのように。
だから違和感と疎外感を感じたのだ。
成長と言う、自らの言う事だけを聞いていた道具から進化し、一つの考えを持って行動する事が出来る、まるで、人間のようになっていく絡繰茶々丸に違和感を感じ、疎外感を感じた。
そして、今感じているのは恐怖。
今まで味わった事もない畏怖。
味わう前に、多くを失ってしまった事に気付かされる恐怖を感じ、そして、今感じる恐怖はまったくベクトルの異なるものである事を感じた。
 目の前のコレは何だと言う恐怖。
理解出来ないものが目の前にいる。
その目が映すのは幻視。エヴァンジェリンの目が捉える物理界における真実ではない。
だが見ているのだ。その裡にあるもの。絡繰茶々丸の内側にある何か。それを感じ。それが、あの、今まで感じ続けていたきな臭さだと感じた―――
 とさりと、枯れ木が崩れ落ちるかのようなか細い音を感じた。
 エヴァンジェリンの足元にエメラルドグリーンの髪が扇のように広がる。足元に、彼女の従者が眠るように横たわっている。

「ちゃ、茶々丸っ!! どうした!!」

 恐怖を忘れ、その身を抱き起こし、揺り動かす。
その身に触れて、エヴァンジェリンは驚愕した。
冷たい。機械だから当たり前のように冷たいのではない。ヒトが凍え、細胞の一つ一つが震えているかのような冷たさをその肌から感じていた。
 生物のような冷たさだった。
無機質の冷たさではない。エヴァンジェリンは機械の事など知らない。だが、無機質なものと有機的な存在の差など理解できている。
だが、今抱き起こした存在から感じている冷たさ。
それは生物が死に間際に感じさせるかのような冷たさであり。
機械的な。そう、極めて機械的な冷たさなどでは断じてなかった。
 抱いたまま、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは呼び続ける。
親の名を呼ぶ少女のように。我儘な主が従者に使いを頼むかのように。
そして、何より。孤独を恐れる、エヴァンジェリンと言う名の少女として―――エヴァンジェリンは、目を開かない絡繰茶々丸に呼びかけ続けていた。

 

 

「解りませんです」

 葉加瀬聡美の言葉に、エヴァンジェリンは片目を細め、睨みつけるかのように見た。
 絡繰茶々丸が倒れ、エヴァンジェリンがやっとの事で葉加瀬聡美の研究所に連れてきたのが半刻前。
そうして、衣服をすべて剥ぎ。絡繰茶々丸専用の整備台に載せられ3Dの内部の状況が映し出されたのが24秒前。
画面に映し出された映像は、ただの一文字『unknown』
『解らない』と言う反応だった。葉加瀬聡美は正直にソレを返しただけなのだ。

「何だソレは。茶々丸はハカセの作ったものだろう。どうして製作者が製作物を理解出来ない」
「そうは言われましても……
うーんなんて言うんでしょうか?
 今現在の茶々丸は、確かに私や大学工学部の人達の共同で造りだされたことは間違えないです。
成長するAIも搭載しましたし、事実、以前調査した時の茶々丸の心理プログラム内に発生した『恋』と言う感情さえも芽生えさせる程の成長を見せているです。ですが、この状況は解らないんですよ」

 ほらと、葉加瀬聡美はその身を横に傾け、ディスプレイ上の画面を背後に脚を組んで座っていたエヴァンジェリンの眼前へと晒す。
ただの一文字『unknown』
絡繰茶々丸以上の無感情さで表示され続ける文字に苛立ちを覚えつつ画面に近づいたエヴァンジェリンはその後ろを見て目を見開いた。
ディスプレイの奥ではない。ディスプレイ内部の奥。表示されている『unknown』と言う文字の後ろに、360度のあらゆる角度から算出したであろう絡繰茶々丸の3D映像が回転している。
その中心。人間で言えば、心臓の付近。そこに、暗い虚があるかのような。そんな黒い跡が、しっかりと見受けられた。

「ハカセ…何だコレは」
「言ったでしょう? 解らないって。
今の茶々丸の中身は殆どブラックボックスみたいになっているんですよ。
勿論コレは仕様じゃないですよ? 製作者の予期しない、まったくのイレギュラーな事態です。
科学者って言うのはこう言うイレギュラーな自体には強い筈なんですけどね。でも、残念ながら今回ばかりはお手上げです。
開胸してもっと深く調査しようとしたら、内部の自爆モードが自然にオンしちゃうんです。電源を落としても、ですよ? 
そもそも自爆装置はつけようかなーとは思っていたんですけど、流石に私の美学に反しちゃうから取り付けはしなかったんです。
でも、どーしてか今はソレが存在している。あ、ちなみに自爆モードがあるのは胸元のその黒い跡じゃあないですからね?
 兎も角、茶々丸が私やエヴァンジェリンさんの予測を超えた成長をしているのは正しいですねぇ…それが過負荷になったから、きっと茶々丸は倒れたと思いますよ?」

 だが、それでもエヴァンジェリンは納得と言うものを出来なかった。
これは最早機械として成長しているという領域を超えている。
これは既に、生物としての進化のソレに近い。
葉加瀬聡美はきっとそれを認めはしないだろう。認めないからこそ、科学的な視野で絡繰茶々丸の状況を冷静に読み取ったのだ。
だが、そんなものなど関係ないエヴァンジェリンにとっては違う。
エヴァンジェリンはさっきまでの絡繰茶々丸を知っていた。
機械とは違う。生物としての息吹を感じていた。
生物としての恐怖を味合わされた。本来生物ですらないものだというのにだ。
エヴァンジェリンは、それにだけ恐怖していたのだから。

 もそ、葉加瀬聡美の言うように、絡繰茶々丸がこのまま彼女らの予測を超えた成長を続けると言うのであれば、それはどうなるのだろうか。
きっと予測など出来ない。エヴァンジェリンはそう考えた。
そも、初めの時点でこうなる事など誰にも予見など出来なかった筈だ。
また、エヴァンジェリンは朝からの絡繰茶々丸を見て考える。
朝からの絡繰茶々丸の状態。それは機械的な知能の成長と言うより、もっと深いものを感じていた。
そう。喩えるならば、生物。人間的な感情の進化。生物でしか持ち得ない筈の、精神と言うものの進化そのものではなかったのか。エヴァンジェリンはそう考えた。

 もしそうであれば、絡繰茶々丸は何であると言うのか。
命を与えられて生まれた生命体ではない。
材料と言う名の部品から組み立て上げられ、電気と魔力と言う原動力を与えられて動き、人工の情報の詰め合わせである知能を与えられて生まれ、否、造り出された存在。それが絡繰茶々丸であった筈だ。
 だが。その絡繰茶々丸の変化はここに来て想像を絶するものとなっている。
最早知能の成長と言う範囲に当て嵌まらない。
精神の進化と言う名の人間的な、生物的な成長そのものでしかない。
命ないものでありながら、命あるものにしか与えられない進化と言う成長。
絡繰茶々丸の内部に発生しているものがそうであるとすればと考えたところで、エヴァンジェリンは思考をきった。馬鹿な話だと。ありえないと反復する。

 だが一つエヴァンジェリンは間違えている。
絡繰茶々丸を造り出す工程と、生命体が誕生する工程は然程異なってはいないのだ。
いや、寧ろ、そのあり方はより近いと言えるかもしれない。

 材料を使って部品を組み立て、フレームを作っていく絡繰茶々丸。
細胞の集まりを使って内臓器官を生み出し、それの繋ぎ合わせで肉体を形作っていく生命体。

 電気と魔力と言う力を原動力として変換し駆動している絡繰茶々丸。
喰らったものや、炭水化物を行動エネルギーに変換し行動している生命体。

 情報と言う記録を機械的に留めておく絡繰茶々丸。
思い出と言う記憶を潜在的に残しておく人間。

 違いなど些細なものであった。
生命体であるかどうかの違いなのだ。
絡繰茶々丸と生命体は根本的に違うが、その生産過程はあまり変わりのない、しかし、表裏逆である存在で在るのだ。
エヴァンジェリンはそれに気付けず、だがしかし、正しく絡繰茶々丸は機械であるというしっかりとした現実を見つめていた。だからこそありえないと。命がないから、ありえないと。

「……ハカセ。茶々丸に命は宿ると思うか」
「命ですってぇ!? あのですねぇエヴァンジェリンさん。その問い掛けはあらゆる科学者に対する挑戦状を叩きつけるようなものですよぉ!?
 いいですか! そもそも命と言うものは万物全てに宿っているモノとされています。
ですが、茶々丸に命が宿ると言うのは大きな間違えなんですよ!?
 そも命と言うモノは根源的かつ広範囲に深い根源を指し示す概念です。それを突き詰めなければ命と言う概念を説明するのは難しくですね」
「解った解った。茶々丸に命が宿ったとか、そんな事はどうでもいいとするよ、ハカセ。
重要なのは茶々丸がこれからどうなるのか、だよ。ハカセの見解を示してくれ」
「……コホン。
どうなるのか、ですか。それを判断するのは難しいですね。
既に茶々丸は私達の手を離れて一個の存在として確立しつつあるのかもしれません。
親離れ、とでも言うのかもしれませんねぇ。それを理論を並べて説明するのは、なんだか科学者らしくないのでやめますけどね。
ともあれ、私たちが彼女に何かをしてあげられる時は終わったのかもしれません」

 ディスプレイを見続けていたエヴァンジェリンは、初めて強化ガラスの向こう側を見た。
整備台の上に横たわる絡繰茶々丸。裸体のその身体には球体関節、節目節目の生物ではないものを示す証が多く現れている。
彼女の裸体を見て、恐らく絡繰茶々丸が人間である、と言う人間は恐らくは居ないだろう。常識的に見れば、だが。
 しかし、エヴァンジェリンの目はそんな体の変化などに着目してはいない。
彼女が見つめているのはただ一点。
安らかに眠るような、穏やかなその寝顔であった。
今まで見たこともないような安らいだ表情。
絡繰茶々丸が眠るときと言うのは、明確には電源を落とした時。あるいは、充電中の時のみだ。
エヴァンジェリンは自宅で何度かソレ中の絡繰茶々丸を見たことがある。
無表情で、眠っていると言うよりは目を開いて意識を失っている、と言うものに近かったと思い出す。
とても生物とは思えないような睡眠であると、それを見るたびに思っていた。

 今の絡繰茶々丸は電源を落とされてその身体を調査されていた。
ならば、何時ものように無表情に。落とされた瞬間のままその表情凍りついていなければいけない筈だ。
だが、今の絡繰茶々丸にはそれがない。
人間が眠るかのように穏やか。両の目を閉じ、今にも動悸を始めて睡眠呼吸をとりそうなその姿。それは、とてもロボットとは思えない。
 親離れと葉加瀬聡美は言った。だが違うとエヴァンジェリンは考える。
置いて往かれるというのかとエヴァンジェリンは身を僅かに奮わせた。
あの約束した男のように、お前も何でもない事で私の前から消えてしまうと言うのか。そう考えていた。
絡繰茶々丸は、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのモノでなければいけないのに。何故。

 エヴァンジェリンにとって、絡繰茶々丸の成長は親離れなどと言う生半可なものではなかった。
もっと深い。生命的な根源の違いを味合わされるかのようなものだ。
葉加瀬聡美にはわからない。彼女は科学者であり、常に客観的な視線を持つ。その彼女には、エヴァンジェリンの様な苦悶はない。寧ろ、自らが生み出した存在の成長をある種では喜んでもいるだろう。
 だからエヴァンジェリンの一抹の不安には気付けなかった。
エヴァンジェリンとて絡繰茶々丸が成長することを悪いとは思わない。
だが、今の絡繰茶々丸は成長と言えるのだろうかとも考えていた。
今の絡繰茶々丸のこの変化を成長と呼ぶのはもはや生ぬるい。
エヴァンジェリンは結論する。遅かれ早かれ絡繰茶々丸は違うものになる。
確信に近い、しかし、確信にしたくない思い。だが見つめあわなければいけない。

 エヴァンジェリンは強化ガラスの向こうの絡繰茶々丸に悲しげな視線を投げかけた。
それは、堕ち往く鳥を見つめるように儚く、措いて行かれた赤子のように弱弱しかった―――
 

第二十七話 / 第二十九話


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