第三十五話〜傷名〜

  
 その、傷痕の名は

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「神楽坂明日菜」
「なぁに。エヴァちゃん」

 山積みにされたのはこの学園に関する資料ばかり。
 資料とは言っても他愛もないものだ。クラスメイトの綾瀬夕映を初め、数人の魔法関係者の手伝いもあって回収した資料。
 それらは至って普遍的なものであり、彼女たちが知りたがっていることそのものに繋がる要素は限りなく薄くしか含まれていないものと考えられる。

 では何故それを調べているのか。
 なお、現時刻は昼過ぎである。今日は休日。神楽坂明日菜は朝からエヴァンジェリンと行動し、今のこの状況に付き合っている。
 ネギ・スプリングフィールドと言えば、ここ最近学園内で起きている事件に関する学園全教員会議へ出席中であった。
 数日。僅か数日での被害者はうなぎのぼりとも言えた。
 特に世界樹周辺での被害の量は半端なものではない。
 幸いまだ死者が一人も出ていないのが不幸中のソレであった。
 ただし、被害者全員の共通点は二箇所。
 重症である。だが殺されない。しかし、肉体の一部は完全に破壊されている。あるいは、二度と同じようには活動できないギリギリさで。

 だが、最大の共通点はソレではない。怪我の程度ではないのだ。その怪我の種類だろう。
 ある者は重打撲。ある者は裂傷。ある者は鋭いまでの切り傷。ある者は切り抜かれたかのような不可解な傷。
 その四つ。これらは共通の相手が負わせた怪我ではない。二種。姿形のまったく違うに主が犯した事件であった。

 それの原因を二人は知っていた。
 知っていたにも拘らず何もしなかったわけではない。調べ上げていただけだ。
 この学園についての事柄。二人は何も何一つ知らずに嶺峰湖華らへの接触を試みたわけではない。
 以前エヴァンジェリンと健在であった絡繰茶々丸が学園内で感じた妙な気配。
 
 それを調べる時にコンピュータ内で見つけた情報の一つにあった、魔法少女に関する意見。
 それとの共通項を見出したが故に嶺峰湖華に当たったのだ。
 魔法少女は夜長に銀色の何かと戦っている。魔法少女は学園七不思議のひとつでもある生物準備室を出入りしている。
 ゴシップとも取られかねないその意見の数々をエヴァンジェリンと神楽坂明日菜は徹底して洗った。
 その結果たどり着いたのが、一番生物準備室に出入りしていた嶺峰湖華と言う人物の特定だったのだ。

 だがそんな彼女からは情報は得られなかった。
 エヴァンジェリンならば、その傍らに居た魔法使いの少女を突き放して情報だけ得られるように仕向ける事は可能だったが、何故かエヴァンジェリンはソレをしなかった。
 何故か。言ったではないか。意味がないと。
 無理矢理聞き出しても、それは意味がない。
 鋼性種と言うものがどれほどかを知らない二人。否、知っていたか。転醒した絡繰茶々丸だったものと、機能得限止だったもの。その二つを見て知っていた。
 鋼性種と言うものの得体の知れなさ。否、それ以上と成るであろう異常さを。

 エヴァンジェリンが知りたかったのは単純な鋼性種の情報などではない。
 血の通った感想に近いもの。それをエヴァンジェリンは欲した。
 何故か。鋼性種と言うものがどんなものか知っていたからだ。
 吸血鬼の真祖などが赤子に、否、小石に見える程の存在。
 それの単純な情報など仕入れても、それは役に立たない。寧ろ欲したのは意見であった。他者が感じる、しかし。鋼性種と言うものを長年相対し続けてきたものの、純粋な意思による意見。
 如何に圧倒的なものか。それがエヴァンジェリンの欲したものだった。

 結果的に得られたものなど何も無かった。
 感想は聞けなかった。だがそれでもいいとエヴァンジェリンは考えた。
 それだけのものなのだろうと。それほどのものなのだろうと考える。
 吸血鬼と言う存在が霞んだ。悪の魔法使いなどと言う定義はそれを探知しかけた時点で崩れ始め、終ぞ姿を見せた鋼性種なる生命体の前に砕けた。
 人間以外とは即ちそう言うことなのだろう。
 人間の定義からそも外れて人外と言うのだとエヴァンジェリンは笑った。
 自嘲気味に。正面に座っている神楽坂明日菜は顔を顰めてソレを見送っていた。不気味な笑みだと。

 エヴァンジェリンは三年前の麻帆良の事が載っている冊子をめくりつつ、自己のめくりめく記憶を掘り返した。
何時かの記憶。何時の記憶か。それほど遠くはないものと、かなりに遠い記憶が混ざり合っていた。
エヴァンジェリンはそれを思い出しつつ、冊子をめくるたびにその記憶を鮮明にさせていった。

 まず思い返したのは、それほど遠くない時の記憶。
 本当に極間近。あのまほら武道会での、桜咲刹那と戦った時の事を思い返す。
 言った言葉の一音一句。全てを反復し、やはり笑う。
 随分と増徴した発言だったと心底に憎むように笑った。
 乾いた笑み。それを神楽坂明日菜は見届けつつ、彼女もまた冊子をめくっていた。

 そうして次に思い返したのは遠い記憶。封じられる前の記憶だった。
 百年以上生きている彼女は様々な記憶に内通している。
 魔法を筆頭とし、合気術を百年で拵えあげ、人形遣い足りうる技術を身につけ。
 時には錬金術、槍術などと言うのも学んだかとも考えた。
 その端に、生物について学ばなかったわけではない。だがそれほど深く学んだわけではなかった。
 精々齧った程度。当時の彼女にはソレで良かった。だが今は。それは違うと思って、彼女は思考をめぐらせてた。

「―――ちょっと。声かけておいてだんまりはないんじゃない?」

 長い机だった。中世の城。その食堂に携えられたかのような長い机。
 その端と端。端と端には神楽坂明日菜とエヴァンジェリンが対面で腰掛けている。
 その周囲に本や冊子が山積みになっていると言うのが状況であった。

 縦長の窓から日が差す。温かい昼下がりの青い空を映した光。
 薄暗かった二人の周囲を照らし上げた。対面するお互いの顔。神楽坂明日菜は怪訝な顔立ちでエヴァンジェリンを見つめ。エヴァンジェリンは目を細めた顔立ちで、神楽坂明日菜を見ていた。
 お互い、表情には疲れが見える。
 無理もない。絡繰茶々丸だったものと、機能得限止だったもの。この二つの意味を知るのは事実上二人だけであった。
 そして、エヴァンジェリンは絡繰茶々丸だったものを。神楽坂明日菜は機能得限止だったものを。
 お互いにお互いがそれを担う。ある意味で重く。ある意味で、とても苦しい事であった。

 三年前の麻帆良の冊子を閉じ、エヴァンジェリンは傍らに放置されていた六年前の冊子を開く。
 しおりの挟まれた一ページ。そこに機能得限止の写真があった。
 同じクラスの宮崎のどかと言う少女にも似ている髪形。だが、蚊ほども似ては居ないその様相。
 前髪で表情を隠した、その姿を見とめ、エヴァンジェリンは別の冊子。一年前の教員のページを開いた。
 そこに機能得限止の名はない。だが、確かに教員の名には登録がなされている事を知っている。調べ上げたのだから。ソレがおかしいとも、いえた。

「そっちはどうだとでも聞こうとしたのさ。で、どうだ」
「エヴァちゃんと同じ。キノウエ先生本当に居たり居なかったりしてるわ。
 いたと思ったら次の年は居ないし。一番古いので11年前のかな。それより前にはキノウエ先生居ないし。
 それよりキノウエ先生って何歳? 高畑先生とかよりは年下に見えなくもないけど」

 お互いに同じタイミングで冊子を開き、機能得限止の顔立ちを確認するが直ぐに閉じ、机の上に投げ捨てられる。
 読み取れる筈もないのだ。変わらない顔立ち。まったくもって変化のないその表情から、年齢など読み取れるはずもない。

 噂は聞いていた。機能得限止と言う男の年齢には幾つかの噂がある。
 その中で一番有力なのが28歳程度だと言う事。
 だがそれはどうでも良い事であったかもしれない。
 重要なのは、何故もこうも断続的に機能得限止と言う人間が教員として登録されていたり、そうでなかったりするのかと言うことであった。

 それを考えても答えは出なかった。出ないのは当たり前であるかともエヴァンジェリンは考える。
 鋼性種と言うものに知識を幅広く持っていた機能得限止。
 それを調べれば、あるいは絡繰茶々丸、ないしは機能得限止を元に戻す手段も見つかったかもしれないとも考えたのだ。
 だが現実はそんな事などなく。生物準備室も調べ上げたが、鋼性種と言う存在に対しての記述は一切がなかった。

 途方に暮れるような真似をしなかったのは何故か。諦めたくなかったのは何故か。
 まだ生きていたからだろうか。生きている限りは、できることをやる。
 それは、かの機能得限止の考えに近かった。
 彼女たちはソレを意識したわけではない。神楽坂明日菜は純粋に絡繰茶々丸と言うクラスメイト、友人を救おうと。エヴァンジェリンは純粋に自らの従者を取り戻そうと。それだけの事だった。
 深い意味など無い。ない筈であったが、如何にしても二人の脳裏には言葉が浮かぶ。
 今までは魔法使い、魔法と言うものに関係するものが相手であった。
 だが今回は違う。正体不明の相手。正真正銘の正体不明。そんなものを相手にするからこそなのか。
 二人の脳裏に浮かぶのは、そんな存在を語るかのようでもあった機能得限止の発言ばかりだ。
 その発言を気にしてはいけない。お互いはそう考えていた。にも拘らず、思い返すのは機能得限止の言葉ばかりであった。

「―――何歳の時か知らないけど。私、キノウエ先生に虐めの事で相談した事があるんだ。
 別に私の意志じゃなかったけどね。高畑先生がお休みで、それでキノウエ先生がその役割を任せられていたって処かな。
 でも、結局キノウエ先生はろくなこと言ってくれなかった。
 ううん、ひょっとしたら、今だからこう思えるのかもしれないけど、あの時のキノウエ先生は既にこうなる事を決めていたんじゃいかなとも思うんだよね。
 だから、私なんてどうでも良かったんだと思う。ハハハ……そう考えると、結構悲しいかな」

 エヴァンジェリンは黙って聞いていた。
 しかし神楽坂明日菜の顔は見ていない。神楽坂明日菜も同じだった。
 エヴァンジェリンの顔を見ながら言ったわけではない。
 お互いに顔は窓の外。蒼い蒼い。深い深い。悲しみに満ちた涙の海のように青い空。それを見ていた。

「―――思い出した。いや、忘れていただけか。思い出しても面白くもない話だったからな。きっと。
 私も四,五年前にキノウエと話したような記憶があるんだ。
 大した話題ではない。何時もどおりの私の議論的なものだ。それをあいつに話してやったんだ。
 案の定答えは何時もどおりだったがね。
 ああ、そう考えれば、キノウエが私に人間とは何か、と問うたのには訳が在るか。
 そうだな。あの質問。あの、人間とは何かと言う質問は、私は一度聞いていたのかもしれない。
 時に神楽坂明日菜。お前は人間と言う存在をどう定義する。
 どこから何処までが人間以上であり、何処から何処までが人間以下だと言い切れる」

 お互いにお互いの顔を見ずに進められていく会話。
 何故見ないのかは解らなかった。ただ、見てしまうとどうにも決意が崩れてしまいそうだったからかもしれない。
 エヴァンジェリンは、絡繰茶々丸を助けると言う決意。神楽坂明日菜は機能得限止に対峙すると言う決意。
 お互いがお互いにぶつかり合う決意。
 それが、崩れてしまいそう気がしたからかもしれない。

 それを意図はせず、神楽坂明日菜は考える。
 人間とは何か。それはなんなのだろうと。
 その話は授業でも話していた事を思い出す。だが答えは出なかった。
 何故答えが出ないのかも解らない。ただ、考えて考えて出した答えの全てに否定が付きまとう。
 矛盾と否定。その二つだけがついて離れない。

 エヴァンジェリンはそれを読み取った。神楽坂明日菜の表情から。答えなど出まいと。
 それはエヴァンジェリンの意地の悪い問い詰めではなかった。
 純粋な質問。問い掛けだったのだ。
 何処からが人間か。何処までが人間であり、何処からが人間外なのか。

 神楽坂明日菜はそんなエヴァンジェリンの顔を見てやや顔を顰めた。
 神楽坂明日菜は伊達にエヴァンジェリンとの付き合いが短いわけではない。だが長いともいえないが、それでもエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと言う少女の内面はある程度解っているつもりであった。
 そこで神楽坂明日菜は顔を顰めたのだ。
 今のエヴァンジェリンの表情。目線を細めて、口端だけで笑む様相。
 それは大抵エヴァンジェリンと言う少女が誰かを小ばかにする時の顔立ちだったからだ。

 その表情に顔を顰めた神楽坂明日菜をエヴァンジェリンは目線の端だけで捉えた。
 何時もなら笑い転げてやろうと思うかの表情でも、今は笑い出すような真似はなかった。
 ただ、そんな神楽坂明日菜の表情を見て、深く笑むだけ。
 神楽坂明日菜の、人の事ばかにしてるでしょ、と言う表情に、ただ笑うだけだった。

「―――そんな顔をするな、神楽坂明日菜。
 確かに意地の悪い質問だったと言う事は自覚できるよ。
 私だって同じさ。人間が何であるかなど。人間の定義などつけられないでいる。
 私個人では差ほどもどうでもいい事だと思っていたが、何。いざ断定させられると深く考え込んでしまうのさ。
 さっき話したとおり、私は何年か前にキノウエよりその話を告げられた。
 何処から何処までが人間か。何処からが人間以上であり、何処までが人間以下か。そんな質問だった。
 私はどうでも良かったが、少々暇だったものでな。考えてしまったんだ。
 そうなると、この答えはどれを上げても矛盾が発生する。
 あそこまで頭を捻って考えたのは久々だった。
 人科ヒト遺伝子を持つのが人間か? 否、それでは人間の細胞を持つものが……髪の毛一本ですら人間と言うことになってしまう。
 業を持ち、罪の概念を持つのが人間か? 否、それでは本能のない存在でも人間としての概念が当て嵌まってしまう。
 魂を持つもの、心を持つものが人間か? 否、それでは魂のない人間でも人間外になってしまう。
 人外を語る私だが、その人外の判断もまた曖昧だったと言う事さ。
 そう言うことを聞いたものだから長らく封印していたんだろうな。
 私は私を正しいと信じている。それが崩されるのが、私は怖かった。
 だから忘れて、私は私を信じ続けたんだ。
 結局あまり意味は無かったがな。ナギやアルビレオのやつも苦手だが、私はキノウエも苦手だった。
 性格の悪さではない。あの否定にも似た態度が苦手だった。
 人間や生物の全てを一生物として統合して考える姿に、私は如何にしても納得が出来なかった。
 どうやらあまりに相反するかのような性格と私は合わない様だな。プラスでも。マイナスでもだ」

 風が鳴る。何処かの窓が開いているのか、神楽坂明日菜とエヴァンジェリンの髪が静かに揺れた。
 日の光を、揺れた髪が弾く。煌くような軌跡。
 それだけ手入れがされているのだろう。二人の髪は、流暢に流れた。
 冊子の一枚が開く。風に揺れ、風が導くかのように両者の目の前にあった冊子が開かれていく。
 互いにまったく違うページが開かれた。
 エヴァンジェリンの目の前の冊子は、中等部在学生のページ。2年A組、春の在学生徒一覧。
 一人を除き、全員が居る。相坂さよを除き、絡茶々丸もエヴァンジェリンも居る。
 神楽坂明日菜の前の冊子は在籍教師の頁。エヴァンジェリンの目の前で開かれたのと同じ年の、在籍教師陣一覧。
 ネギ・スプリングフィールドは居ないが、2年A組の担任教師にはタカミチ・T・高畑の名前と確かに機能得限止の名前が連なっていた。
 初めて知った機能得限止の本名。それだけが、静かに風に靡いていた。

「神楽坂明日菜。さっき言いそびれた話の続きだが、貴様まさかぼーやにこの事を話してはいないだろうな」

 エヴァンジェリンの言葉に、神楽坂明日菜は無言に頷く。
 言えるわけもなかった。ネギ・スプリングフィールドは自己の責任を感じていた。
 神楽坂明日菜は知っている。あの状態の少年の姿を。あれは悪魔が襲ってきた時の少年と同じ態度だったと。
 クラスメイトの一人が行方不明になり、かつそれだけでは終わらずクラスメイトや他の人間が傷ついていっている。
 それに責任を感じ、あの明るさは空元気になったのだ。
 クラスメイトの人間はその理由を知っている。励ましはするが、少年は相変わらずため息が多い毎日を送っていた。

 神楽坂明日菜はその原因を知ってはいたが、あえて少年には言わなかった。
 言えば、ネギ・スプリングフィールドと言う少年がどうするのかを重知していたからだ。
 確実にその原因を突き止めようとする。そんな事を、神楽坂明日菜は充分に自覚していた。

 だからこそ、ネギ・スプリングフィールドと言う少年には一切を伝えず、エヴァンジェリンと二人だけで今回の、全てを知っている二人だけでこの件を調べ上げていたのだ。
 それは優しさか、傲慢さかは解らなかった。
 ただ、神楽坂明日菜は直感を信じた。
 少年に語れば、どのような結果が待っているか。
 クラスメイトを傷つけた、機能得限止と言う人物だったもの。絡繰茶々丸だったもの。それと戦わせるような事だけは、あってはならないと。

 だからと言って二人だけで戦って勝利できるつもりなどない。
 そも、戦う気など両者にはなかった。
 戦って勝てる相手などとは、蚊ほども思ってはいなかったからだ。
 あの圧倒さと、あの異常さを二人は知っている。人間の理解の範疇を越えた存在の気配を、二人はまだ覚えていた。

 勝てる気などない。勝とうと言う気はない。
 ならば二人は如何様にするのか。
 言った筈であった。二人は助けたいだけなのだ。
 特にエヴァンジェリン。絡繰茶々丸と言う従者を助けると言う決意。それがあった。
 二人は、ただそれを成そうとしているだけなのだ。

 それゆえに、絡繰茶々丸に憑依したと言う鋼性種を知ろうとした。
 だが情報は得られず、仕方はなしに二人こうして変異した二人の事を調べ上げていたのだ。二人だけで。
 誰にも相談せず。否、出来ず。あの、かつて、そうであったものになってしまった事を受け止めるかのは、二人だけでいいと思うかのように。

「私は茶々丸の相手をする。なんとしてでも元に戻す。そのつもりだ。
 だが、元に戻せんかもしれん。そうなった時は、私は私の手でケリをつけなくてはいけまい。
 だが神楽坂明日菜。お前は。キノウエとそれほど親しかったわけでもあるまい。
 お前はどうする? キノウエなどほおっておいても構わんのだぞ。幾ら共にあの変異を見たとはいえな」

 今一度エヴァンジェリンは問うた。
 神楽坂明日菜に、あのそうではなくなってしまったモノに挑もうとする理由を。
 だが神楽坂明日菜は笑って応じた。明るい笑みではない。エヴァンジェリンにも似たかのような、そんな目を細めて口端だけで笑む。悲しげな笑いだった。

 それを見て、エヴァンジェリンは確信する。
 退く気はないのだと。神楽坂明日菜は最後まで付き合うつもりなのだと。
 何故か。エヴァンジェリンはそれを考えなかった。ただ協力していると言うのであれば、そうなのだなとだけ受け入れる。
 仲間ではない。共通の目的があるわけでもない。
 エヴァンジェリンが絡繰茶々丸を戻すと言っている以上、彼女は譲る事はない。
 神楽坂明日菜はそれを知っていた。ならば、自分がやる事はと考えたのだ。
 その末期にあったものが、機能得限止だっただけの話だった。それだけのこと。本当に、それだけの。

「そうか」

 エヴァンジェリンはそうだけ告げ、俯いたままになる。
 神楽坂明日菜はそんなエヴァンジェリンを見送るのみだった。
 エヴァンジェリンと神楽坂明日菜は席を立って、まったく逆方向へ向けて歩き始めた。
 お互いに語り合うことはないと結論したのか、二人はその場をそのままにして行く。
 片付けをしなかった理由など簡単だ。彼女たちは、まるまる昨日含めて、ここで活動し続けてきたのだ。そしてまだ暫くは続ける気があった。
 故にこのままだったのだ。明日も。明後日も。恐らく、全てが解決するまで、出来る事など、他にはないのだから。

 神楽坂明日菜は図書館島に続く橋の上を一人行っている。
 時折振り返り、自分たちが居たであろう図書館島の一塔を見上げ、帰路に着く。
 ここまで何か一つの事で図書館に通いつめた事など無かっただろうか、彼女の顔には疲労の色が浮かんでいる。
 だが、と神楽坂明日菜は考えた。それより辛い状況に立っているものがいると考えれば、苦もなかった。
 勉強よりも目が痛くなる資料の再認も苦しくはなかった。

 肩から提げたバッグの重さが歩みを重くする。
 入っているのは、昼に食べた友人の作ったサンドイッチの空箱。
 そして、調べ上げた幾つかの資料。それが肩に食い込むほどの重さになって、神楽坂明日菜の肩にのしかかっていた。
 心底に重かった。肩に食い込むほどの重さは、人間としての全てを捨てた機能得限止の重さと、あの少しずつ表情の変化を見せていった絡繰茶々丸の捨てたものを足した重さにも思えた―――

――――――――――――――――――――中等部女子寮 神楽坂明日菜、近衛木乃香室

「ただいまー」
「おっ、姐さんお帰りっす」

 自室へ戻ると真っ先に出迎えたのは、同居人であるネギ・スプリングフィールドの使い魔。カモミール・アルベールであった。
 その一匹だけの出迎えに、神楽坂明日菜は僅かに小首を傾げる。

「ネギは教員会議だって聞いたけど…このかは?」

 もう一人居る筈の同居人が居ない。今日は休みであり、彼女には用事もなかったと神楽坂明日菜は記憶している。
 だが部屋を端から端へと見渡してもその姿はない。彼女と、彼女の同居人である少年の使い魔であるオコジョが一匹だけの部屋。

「このか姉さんっすか? 何でも今日は刹那姉さんの模擬試合があるからって一緒にいっちまいましたよ?
 遅くなるとか何とか言っていたような気もしたっすけど」

 神楽坂明日菜は解くには何も語らず荷物を自分の机の傍らへ置き、そのまま席に座ると窓の外から空を見上げた。
 その様相を、アルベールは不思議そうに見上げている。
 彼とてここの住人と付き合いが短いわけではない。年単位ではないが、数ヶ月単位での付き合いはある。
 その中で、性格を読み取る事程度はなしてきたつもりであった。だが、ここの処の様相は何処か違ってみていたのだ。
 今までとは違う様子。悲しさではない。憂いでもない。もっと違う、何か。
 アルベールはそれを感じ取り、神楽坂明日菜が頬杖しているその傍らへと跳んだ。

 ちょこんと居座るアルベールに神楽坂明日菜は特に感慨は懐かなかった。
 何時もなら何か感想を言いそうなものだが、神楽坂明日菜は窓の外を見届けたままであった。
 つまらない、とはアルベールは思わない。ただ、どうにも気乗りしなかった。
 あの慌しさのない部屋。自分の行為に突っ込みを入れる筈の人間が、その気配すら見せない。
 それにアルベールは、僅かながら寂しさを感じた。

「――ねぇカモ。あんたって、自分が人間だって思うこと、ある?」
「へ? いやだなぁ姐さん。おれっちはどう見たってオコジョ妖精じゃないっすか」
「そうね。そうだわ。馬鹿よね。私」

 頬杖を深めて神楽坂明日菜は窓の外だけ見ている。
 アルベールはそんな彼女の様子を小首をかしげながら見ていた。
 質問の意味も理解出来なかったが、何より、その質問が意味する要素が読み取れなかった。
 だが、アルベールはそんな神楽坂明日菜にその問いを口にするようなマネはしなかった。否、正しくは出来なかった。
 その横顔に見惚れたわけではない。アルベールとて人間の心情を読み取れる生物だ。
 彼は神楽坂明日菜からそんな感情の変化を読み取ったのだった。深いモノ。とても深い、何かを。

 窓の外を揃って見た。
 空。不変の空だ。幾星霜が経ち、月に光を当てているあのお天道様が砕けて散るまで、空は何も語らず蒼いままだろう。
 人間など蚊ほども思わず。何時までも、人の目に蒼く見せ続けるだろう。
 青ではないかもしれない空に、白ではないかもしれない雲が往っていた―――


 ――――――――――――――――――――場所不明 学園都市内のどこか


 夜。何時になく深い夜だった。ただの夜ではないと、桜咲刹那は感じていた。
 その気配の感じ方。鋭敏なまでに気配を読み取るソレは、かつて桜咲刹那のソレであった。

「せっちゃん? どないしたん?」
「あ。いえ、何でもありません。最近は何かと物騒です。早めに帰りましょう」

 先導するかのように桜咲刹那は歩みを速めた。
 後追う近衛木乃香からするとやや早歩きにならなければいけない速度。それで、女子寮を目指して歩いていく。
 桜咲刹那は一刻も早く此処から離れたかった。
 正しく言うならば、一刻も早く家屋の中に入りたかった。
 外は危険だと、自らの内側に在る何かが必死となって訴えている。

 それを桜咲刹那は感じていたのだ。その何かが何で在るのか。得体の知れない何か。それを彼女の内は探知していたのかもしれない。
 今この麻帆良は、学園祭の時のような華やかさとは真逆の何かに包まれている。
 血みどろの何かでもあり。錆付いた何かの様にも感じていた。
 それを払拭するかのように歩みを速める。
 その得体の知れない何かに龍宮真名と古菲はやられた。桜咲刹那はそう認識しており、そこに畏怖も懐いていた。

 あの二人を、一般人とは大きく違う筈の二人を凌駕した存在。
 今まで戦ってきたどの相手とも比較にはならないのだろうか。桜咲刹那はそう考えていた。
 鬼や下級悪魔程度には遅れも取らない筈の二人を駆逐して見せた存在。それが、今だこの学園に居るのだ。
 それを考えると一刻も早く野外よりは屋内を目指したかったのが本心であった。
 屋内での被害は一人として出ていない。
 屋外は良くない。確信にも近い思いだけを信じるように、桜咲刹那は歩みを速め続けた。

 だがそんな折。桜咲刹那は背後の気配がふっと消えたことに気付いた。
 正しくは消えたではなく離れたに近い。僅かな距離。振り返れば、近衛木乃香が林の向こう側を見つめている事に気付いた。
 桜咲刹那はそんな近衛木乃香の傍らにまで戻り、同じ方向を見る。
 林の向こう。木々が避けているかのようで、スペースが空き、月の光が差し込んでいる中に、一人。
 白い、ズタズタの襤褸布を纏い、足元まで隠された姿。良く知っている人物。人物ではないが、良く知っているであろう存在が居た。

「あれは」
「ちゃ、茶々丸さんやっ!!」

 近衛木乃香は駆け出した。その背中を、何故か桜咲刹那は追えないでいる。
 正しくは、追わない方が良いと体のうちが訴えたのだった。
 追えばどうなるのか。追えば、どの様な目に合うのか。桜咲刹那の裡の何か。それが訴えているのだ。
 死にたくないと。死ぬのだけは、厭だと。
 近衛木乃香を思うよりも。何かを考えるよりも、それを優先して考えてしまったのだった。

 それを他所に、近衛木乃香は絡繰茶々丸と思わしきものの近くまで駆け寄っていた。
 近衛木乃香よりは背の高い長身で、エメラルドグリーンの髪をした少女の様相。
 髪は何故か異常に長く、その外見は浮浪者のそれのようにも見えた。

 近衛木乃香は見上げているだけであった。語りかける事が出来なかった。
 どうしてだろうと考えても、その考えるべき脳が麻痺したかのようにそれ以降の回路がまったく以って働かない。
 絡繰茶々丸が振り返る。近衛木乃香の顔を覗き込むかのように。
 その顔を見て、近衛木乃香は身を震わせなかった。ただ、特には何も懐けなかったそれが恐ろしかった。

 どんなものにも感慨を持つはずの近衛木乃香。それを彼女自身はどこか理解できていたのかもしれない。
 それをまったく感じない。小石を見たかのような。無機質感。虚無感。喪失感。
 それだけが、近衛木乃香の内心を包み込んだ。
 近衛木乃香の頬に冷たいものが奔った。それは汗だったのか、涙だったのかは本人も自覚できないでいた。
 感じたのは恐怖か、憂いか。それすらも解らない。
 ただ、振り返ったソレを見て。これは、絡繰茶々丸ではないとだけ確信した。似ているだけの、別のものだと。

 振り返った事に賞賛を送るべきか。
 近衛木乃香は振り返って、桜咲刹那の方を見た。
 サークル上になり、月の光が差し込んでいる林の中の不思議な空間。
 その外周ギリギリに桜咲刹那は立って、近衛木乃香と『ソレ』を見つめていた。
 近衛木乃香が振り返ったその瞬間。桜咲刹那は、自分の瞳孔が近衛木乃香ではなく、その前に立っている『ソレ』に目を奪われた。
 方や、近衛木乃香は立ちすくんだ桜咲刹那の様相を見たと同時に、背後。今まで自分が向いていた方に立っていた『モノ』の方から。

 めきり。
 骨が軋む様な。骨がへし折れるような。そんな聞きなれない不快な音を聞いた。

 桜咲刹那はそれまで心底の恐怖と言うものを感じた事はなかった。
 あえて感じたと言うのなら、自分の異形。それが本当に、近衛木乃香を初め、共に受け入れられるかと言う事の方に恐怖を感じていた。
 他者や、他の要素に恐怖を抱いた事は余りない。抱いた事はあっても、それは直ぐに解消されてきた。
 だが、桜咲刹那は瞬間的に踏み出せなかった。足が震えて居るのを自覚した。体の細胞が悲鳴を上げている事を自覚した。
 最早桜咲刹那の瞳は『ソレ』の前に立つ近衛木乃香など捉えていない。
 見て居るのは、守ると誓った筈の少女の背後に立つ、『ソレ』。直線の羽。自分以上の異形が、近衛木乃香の背後に立っていた。

 白い襤褸布が、舞う。

 桜咲刹那は初めて近衛木乃香を見た。そうして、その背後に立つ異常を見る。
 頭部こそ絡繰茶々丸。だがその両手は信じられないほど長く、細く、硬質的であり黒く。その指は、刃物の様に鋭い。
 手だけでなく、その体に皮膚はない。骨格だけの体。頭部は正常だと言うのに、体だけは歪に歪んでいる。
 巨大なまでの直線的な翼を開いたソレが何をするのか。桜咲刹那は瞬時に考え、体を震わせ、一歩踏み出す。
 
 大きな一歩だった。同時に、酷く近衛木乃香との距離が遠く感じるような一歩だった。
 意図せず、翼が開いた。白い翼。純白の翼だ。近衛木乃香や、そのほかの友人だけが知りえる大きな翼が開く。
 その力を使った時こそ、桜咲刹那の力は最大となる。僅かな距離だった。故に、翼さえ開けば追いつけると言う確信も持っていた。

 それは近衛木乃香も同じだったのか。彼女は背後を振り返ることなく駆け出していた。
 桜咲刹那を迎えるように。背後のソレは、最早絡繰茶々丸ではないのだと涙しそうなまでの悲しみを持ったまま。

 頬を何かが掠めたと思った。近衛木乃香は。
 顔に何かが覆いかぶさったと思った。桜咲刹那は。

 僅かに一歩。後は其処から飛び立てば良いだけだったのに、『ソレ』はそれさえ許さなかった。
 翼を開いた桜咲刹那の顔面をわしづかみにする無機質な手。それは、異常なまでに長い『ソレ』の手が際限なく伸びたモノであった。
 疾走の速度がかかる一瞬だった為か、桜咲刹那の体は大きく仰け反らざる得なかった。
 全ての動きが酷く鈍い。まるで時間が別の何かに支配されているような異常感。
 桜咲刹那は、顔面を包み込んだ冷血の流れているかのような冷たい手の中でそんな事を感じた。
 感じたのが最後。桜咲刹那の身体が大きく跳ねる。彼女は、自分の体内に直接落雷を叩き込まれたかのような激痛もろとも意識を飛ばされた。

 叫び声を上げる余裕も無い。桜咲刹那の体は、『ソレ』の手が顔面から外れたと同時にその場に崩れ落ちる。完全に意識を失った状態で。
 近衛木乃香はそれに駆け寄った。駆け寄って、抱き上げる。それだけの行為をするはずだった。
 筈だったが、『ソレ』はそれすら許さなかった。正しく言えば、それを許さなかったのではなく、単純に目の前に立ちふさがったのが全て敵対する存在であると認知しているだけなのだが。

 近衛木乃香は背中に鈍い熱さを感じた。妙な熱さを記憶する。
 そう、喩えるならば。夏の暑い日。ワイシャツだけを素肌に着こんで、そのワイシャツが汗で肌に湿付く様な、そんな不快感。それを、背中から感じている。
 近衛木乃香は駆け寄る動作をうつ伏せに倒れた桜咲刹那の前で止めた。
 なぜかは解らなかったが、そこからまったく身体が動かなくなったのだ。
 足元を見る。紅い染みが、桜咲刹那からではなく、自らの足元から発生している。
 ソレと同時に、何時か誰かが梳いてくれた。そんな、自慢の黒髪が何本かバサバサと言う音を立てるほど大量に落ちている。

 彼女は背中に手を回した。何故か左肩が動かなかったので右手で。
 右の手で、髪が届いている筈の腰元を確かめる。右腰には、確かな髪の感触があった。
 だが左肩。其処に触れた瞬間。熱さは痛みに変わった。異常なまでの痛み。涙するほどの熱さと、嗚咽を上げる事ですら激痛を招くような痛み。

 それを感じて、近衛木乃香は。自らの左肩から降りている筈の髪が、ばっさりと斜めに切り落とされている事に気付く。

 正しく言うのであれば、近衛木乃香は左肩から右腰までを袈裟に割かれた。
 髪の毛もろとも。背中を斜めに切り裂かれたのだ。
 それでも振り返らなかった近衛木乃香を誉めるべきだろうか。
 ただ彼女は僅かに表情を悲しげに歪めた。その表所は何に当てたと言うのか。自分か。桜咲刹那か。
 それとも、絡繰茶々丸の姿をしていながらも、確かに絡繰茶々丸であったものに対してか。

 答えはなかった、ただ一筋だけ近衛木乃香は涙の軌跡を残しながら倒れる。桜咲刹那の上に。雪のように倒れ込んだ。
 月の光の差し込むサークルの外周付近。
 そこに、体の内を焦がされた剣士と、背中を割かれた少女だけが倒れ付し、異常なまでに長い腕を持った『ソレ』だけが残った。

 直線の、定規のように規則正しい羽が大きく広がった。『ソレ』は天を仰ぐ。
 漆黒の空。ソコには、あの黒い上下結合四角錘が浮かんでいる。
 ソレを目指すように、一瞬で『ソレ』は姿を消した。
 一瞬。まさに、肉眼では捉えられない速度だった。
 否、速度と言う概念には当て嵌まらない動き。動きには当て嵌まらない消失。しかし、消失ではない飛翔。
 それで『ソレ』はその場から消えたのだった。

 後に残るのは暗い林と、倒れた二人だけ。重なり合い倒れた二人だけ。
 これはただ単純に被害者が二人生まれただけだった。ただ違うのは、一人は泣き、一人は爪が手の平に食い込むほど強く手を握り締めていたと言う事だけであった―――


 ――――――――――――――――――――麻帆良中央病院


「高畑先生!!」

 神楽坂明日菜は病室へと飛び込む。
 飛び込んだと同時に目の前に入ったのは、死して眠るような寝顔を見せる近衛木乃香と桜咲刹那の二人の姿だった。
 その桜咲刹那の枕元にタカミチ・T・高畑は居た。
 飛び込んできた神楽坂明日菜に人差し指だけで沈黙を意味するポーズを取る。それを察し、神楽坂明日菜は静かにその傍らへと歩み寄っていった。
 永眠のような寝顔。それを前にし、神楽坂明日菜はその場にへたり込みそうになる。
 それを耐え切ったのは賞賛に値するだろう。その姿をタカミチは悲しげに見つめ、入り口に居るエヴァンジェリンの姿に目を丸くもした。

「エヴァ」

 声をかけられると同時に、エヴァンジェリンは入り口の影に姿を隠した。
 だがタカミチは笑ってそれを見送る。隠れる今際に、赤らんだ頬を見たからだろう。
 枕元に花束が備えられた。色とりどりの花。
 彼女のクラスメイトである委員長が選出して見繕ったものであった。それを二人の枕元に置き、神楽坂明日菜は泣いた。
 嗚咽はない。ただ瞳から涙を流すだけの行為。それが断続的に続く。拭っても拭っても。拭っても拭っても。

 タカミチはそんな神楽坂明日菜の肩に手を置いて、彼女を病室の外へと導いた。
 病室は二人だけの専用個室。それは即ち、二人がそれだけ重症であると言う事を意味していた。
 振り返る事はなかった。扉は重く閉ざされていく。
 その扉が閉じていく最中。桜咲刹那の瞳がゆっくりと開いたのを、誰一人視認出来なかった。
 重い扉が閉じられる。人が何時になく行きかう病院の長い長い廊下で、タカミチ・T・高畑と神楽坂明日菜、エヴァンジェリンは向かい合っている。
 ようやく落ち着き、嗚咽を漏らせるようにもなった神楽坂明日菜を見てタカミチは一先ず安心をしたか。
 嗚咽を漏らしてくれた方が、涙を流し訴える意味がある。そう考えているからであった。
 声を出すほどに嘆いていてくれている。傷ついた友の為に。それがタカミチは嬉しかった。

「で、今回は何処のどいつが二人を襲った?」

 今まで黙っていたエヴァンジェリンが口を開くが、タカミチは妙な違和感を覚える。
 確かに神楽坂明日菜に近衛木乃香と桜咲刹那が重症で病院に運び込まれたと言う話を告げはした。
 告げはしたが、それが何が原因でとは語ってはいなかった筈だと記憶する。
 また、病室の二人の傷。それから誰かに襲われたと言う形跡は窺えなかったとタカミチは思う。
 ならば、エヴァンジェリンは何故にと考えるが―――タカミチは一先ずソレを押し隠す。
 二人が何かを隠しているのは、前回龍宮真名と古菲の見舞いの時に見知っていた。
 故に、それは向こうから語ってくれるようになるまでは黙ったままでいるべきだろうと考えたのだ。
 それは、それが二人の何かしらの優しさだと知っていたからであり―――

「今までと同じさ。ただ、真名くんと古菲くんを襲ったのとは違うよ。
 厄介な相手そうでね。今日から全魔法教師・魔法生徒が夜間警備に回るらしい。
 勿論僕に、ネギ君も一緒だ。エヴァはどうする? 一緒にやろうか」

 まさか、とエヴァンジェリンは顔を伏せる。
 いつもなら笑って済ますことに、エヴァンジェリンは笑わなかった。
 それだけ状況を自覚しているんだとタカミチは読む。笑って済ませられるような状況ではない。そう自覚しているのだと。
 それでも協力を申し出ない所を、タカミチはエヴァンジェリンらしいと感じる。
 何時もどおりのエヴァンジェリン。時に冷徹。時に慌忙。そんなエヴァンジェリン。変わらない、エヴァンジェリンを心強くも見る。

「高畑先生……でもそれって危険なんじゃ……」

 神楽坂明日菜の言う事も尤もだとタカミチは理解していた。
 解らないわけがない。相手は居合い拳を狭い回廊でも避けきるような反射神経と魔眼を持っていた龍宮真名を手も足も出させず叩きのめし、かつかの神鳴流剣士さえも一息のうちに打ちのめした相手。
 今までの最大勢力で挑んでも、駆逐できる可能性はないと踏んでいた。
 それほどの相手だと、全魔法教師・魔法生徒は自覚していた。勿論、タカミチも。ネギ・スプリングフィールドも。

 一体相手はなんなのか。それを思考するのはタカミチだけではない。
 ネギ・スプリングフィールドも同じ事を考え、タカミチへ告げていた。それは解らないと答えるほかなかったが。
 だがとタカミチは神楽坂明日菜とエヴァンジェリンを見た。二人は何かを知っているのではないのか。確信にも近いその感じ。それを懐いていたのだ。
 それでも聞こうとはしなかった。何故だろうか。
 それは、きっと二人もまた独自に答えを出そうとしているからではないだろうか。
 そう考える。考えるしかなかった。もしそうでなければ。その先は考えない。考えないようにだけ、した。

「大丈夫だよ。僕もネギ君も一人では絶対に行動しない。二人。ないしは三人以上で行動するように言い聞かせているさ。
 ソレと同時に、学園長も言い聞かせているんだ。決して戦ってはいけないと。
 相手を確認したら、何が何でも生き残る事を優先して生き延びる事を第一に考えるように。
 それが第二。第一は、勿論、他の生徒や一般人を守る事。その上で、自分たちの安全も確実に確保する事。それが僕たちに与えられた任務さ。
 大丈夫だよアスナくん。こう見えて、僕は頑丈だと言う事を知っているだろう? ネギ君にも先走りは決してしないようによく言い聞かせておくさ。だから―――」

 君たちも、無理はしないように。
 本気でそういいかけた。エヴァンジェリンと神楽坂明日菜。二人が何をしようとしているのか。
 それは解らなかった、解らなかったが、二人だけで大丈夫だろうか。そんな不安も懐いた。
 だからこそ言いかけ、しかしやめる。悟られるわけには往かないと。二人に余計な不疑感を抱かせまいと。

 神楽坂明日菜は一礼だけして駆け出した。
 お願いしますの意味合いだろう。ネギ・スプリングフィールドと言う少年への。タカミチはそんな神楽坂明日菜とエヴァンジェリンの背後に心のうちで謝罪する。
 この事件で、ネギ・スプリングフィールドと言う少年はまず帰りが間違えなく遅くなる。
 神楽坂明日菜の同室の近衛木乃香は重症。暫くは戻れない。
 神楽坂明日菜は、事実上今日より一人で夜を迎える事になってしまったと言う事。
 そしてエヴァンジェリン。修行中の身である少年をここまで早く実践へ送り込んでしまったことを。タカミチは、それぞれ二人へ謝罪する。

 タバコを出そうとして、禁煙だと言う事を思い出す。
 白く閉ざされた一室の扉。それを見送り、タカミチは正面玄関へ向けて歩き出す。
 その目つきは極めて鋭い。
 今日からは永い夜になる。それだけは確信であった。
 そしてもう一つ。その夜を感じるのは一日で終わるかもしれないと。今日やられてしまえば、それで終わりだと。

 憤怒か畏怖か。自分でも解らない決意を秘め。タカミチは、夜を待つ。

 ――――――――――――――――――――桜咲刹那 近衛木乃香 病室

 桜咲刹那は起き上がり自分の体を確認した。
 焼け爛れた皮膚。その上からガーゼが張られている。
 皮膚の再生を促進させる薬剤でも入っているのだろうと思考し、視線をずらした。横には、守らなければいけなかった人が眠っている。
 桜咲刹那の頭の中はクリアだった。酷く思考が冴えて。故に、その思考を冷静に見つめたくなかった。
 だが、どれだけ見つめても結果は変わらなかった。

 守るべきものを守れなかった。それが現実であった。
 そして結果として自分は火傷程度。守らなければいけない最愛の人は重症になった。
 泣く事はなかった。ただ、異常なまでに冷静にクリアとなった頭でそれを見つめているだけだ。
 守るものを守れなかった。それが現実だった。
 だったというのに、酷くクリア。何故か。答えを、桜咲刹那はなんとはなく理解していたからであった。
 龍宮真名の言葉を思い出していた。何か圧倒的なものを前にすると気が晴れる。そう言うことだった。それがコレかと、桜咲刹那は泣くでもなく実感し続けた。

 そうして、傍らの少女を見る。あの黒髪が斜めに切り裂かれていた。
 左から右に。斜めに。一刀両断されていた。
 比べて、と桜咲刹那は自分の体を確認する。
 骨折はなし。裂傷もなし。
 あるのは、ただの火傷。体に直接叩き込まれた電撃による火傷だけが、桜咲刹那の体に刻まれた傷跡だった。

 そうして湧き上がったのは、やはり後悔。なぜと言う、煩悶。
 守るとは共に居る事であった筈と。だが桜咲刹那はあの一瞬で躊躇った。
 正しくは、桜咲刹那の裡、機能得限止で言うのであれば、潜在的な遺伝子。生き残ろうとする、第一世代。それが、桜咲刹那の脚を止めさせたのだった。
 そう。桜咲刹那は、あの絡繰茶々丸だったものを見た時、なまじ長年戦場で戦い生き残っていた勘が優れているが故に、本能的なものに惹かれてしまったのだ。

 死にたくないと。生きたいと。そんな当たり前のことに、桜咲刹那の近衛木乃香護衛と言う役割は忘れ去られてしまった。
 生存本能が、当たり前に桜咲刹那を留めたのだ。それは間違えのない生物の生存本能であり。しかし、桜咲刹那にとっては、恥ずべきものであった。
 窓の外は白かった。霧がかっているワケでもないのに白い窓の外。夢の中に居るような心地になっていた。

 同時に、とても静か。病院の筈だと言うのに、この喧騒のなさ。
 Aクラスの喧騒が懐かしいと思えてしまうほどの静けさの中で、桜咲刹那は真っ白い病院の病人服に袖を通したままで立ち上がった。
 足を引きずる。引きずって、窓際へ。窓を開くと、冷たい風が頬を撫でる。だが自分を責めるような風ではなかった。
 あるいは、桜咲刹那は誰かに責めて欲しかったのかもしれない。
 責めてもらえれば、決心がつく。自分は守れ切れなかったのだと、自分は未熟だと言う結論が出る。

 だが。開いた窓の外は静か。冷たくなりつつある風は賞賛するように頬を撫でた。
 鼻腔を突く木々の。草花の香は何より讃えるように桜咲刹那を慰める。
 それは何故か。何故も何もない。
 自然界が正しいといっている。言っている筈ではないが、桜咲刹那にはそう感じれた。
 そも、風は何も語らない。風は風だ。人間の定義を当て嵌めてはおけない。

 だが桜咲刹那は当て嵌める。風から伝わる現実の厳しさと、生存の価値を。
 生き残ると言う事。桜咲刹那はそれを選んだ。
 近衛木乃香と共に行って絡繰茶々丸か否かを確認するよりも、桜咲刹那は本能的にソレは絡繰茶々丸ではないと結論した。
 その答えが、桜咲刹那の生存への欲求の現われだったのだ。それは間違えのない、間違えなどあるはずもない、生存への欲求。
 桜咲刹那は、泣いた。誰の為の涙だろう。ただ無性に悲しかった。
 そして泣いている。何に泣いているのか。その理由は解らなかったが、唯一つ解る事があり、それに涙していた。

「―――うっ。ふっっ、ぐぅ。――おじょうさま。もうし、もうしわけありません。この、このちゃん、このちゃぁん…許したってやぁ……」

 膝を付いて、窓に寄りかかり泣く。縋るように、泣き続ける。
 人の声はしない。木々のざわめきと、花の香だけが桜咲刹那を包みこんでいた。
 流す涙。悲しいはずだった。悔しい筈だった。だが、しかし、それは。その涙は―――

 近衛木乃香の為ではなかったと言うこと。それだけが、無性に悲しかった―――
 

第三十四話 / 第三十六話


【書架へ戻る】