第四十一話〜生〜(前編)


 重く扉が開いた。部屋の中は暗く、何も見えない。
 その中で冷たい色の瞳だけが輝いている。だが爛々とではなかった。
 入ってきた彼女が知る限り、彼女の目は爛々と輝くような目つきしか出来なかったと記憶していた。
 だが今の目をどう喩えられるだろうか。冷たい色の目は爛々とではなく、悲哀の色の青で光っていた。
 そうして見る。傍らに立てかけられた長大な槍。
 深紅の。不気味な形状をした槍であったのを、神楽坂明日菜は確認しつつ、彼女、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの前まで歩きついた。
 神楽坂明日菜を見上げて、エヴァンジェリンは無言で傍らにおいてあったバスタオルを投げつける。
 神楽坂明日菜の体は濡れている。頭から足元まで。全てがびしょ濡れであり、同時にそれが泣いているようにも見えた。

 バスタオルを受け取り体を拭き始める神楽坂明日菜であったが、妙な違和感に気付いた。
 バスタオルが体を拭う前から湿っていたのだ。それを確認した神楽坂明日菜は膝を抱えてソファの上に座していたエヴァンジェリンを見る。
 ぽたりと、その艶やかな金髪から一滴のしずくが落ちた。
 彼女もまた雨の中に居たのか。それとも、この様な状況下でありながらシャワーでも浴びていたのか。
 その理由を神楽坂明日菜は考えなかった。考えることもないと思ったからであった。
 お互いに同じようなものだった。神楽坂明日菜とエヴァンジェリン。
 彼女たちは、ある意味で同じ境遇に立っていた。大切なものを傷つけられ、大切なものは消えていった。
 その繰り返しを、二人は味わったものであった。そして、その苦悩を知るのは同様に彼女たちだけであった。

 ソファの傍らに腰を下ろし、その服を一枚一枚神楽坂明日菜は脱ぎ捨てていく。
 部屋の中は乱雑であった。いたるところに人形が散らばり、クリスマス準備前の装飾のようなものまでもが転がっている。
 宴の支度前。あるいは、宴の始末前。そんな乱雑さが、部屋の中に広がっていた。
 それを気にする様子もなく、神楽坂明日菜は靴下下着含めて全て捨て切って、ソファの傍らに座す。
 エヴァンジェリンと同じように、膝を抱えて、雨音やんだ天井を見上げ。

「家宅の不法侵入は罪状に該当するぞ、神楽坂明日菜」
「何を今更言ってんのよ。似たもの同士なんだからいいじゃないの」

 視線も何も合わさずに言い出し、言い切る。その程度の会話だった。会話にならぬ会話だった。
 お互いに動き出すような気配は見せていない。
 何をするでもなく、神楽坂明日菜は生まれた時の姿そのままで、しかし、恥ずかしがるようなそぶりは一切見せず、鈴に結われた髪の一房を指で弄び、そして鈴を外す。
 双房に結われた双方の髪が解け、その臙脂にも似た鮮やかな髪が降りる。
 同じようにエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルもその身には何一つ纏ってはいなかった。
 唯一纏っていたのは、肩からかけた淡い桜色の毛布一枚のみ。その他には何一つ纏ってはいなかった。

 二人は視線も言葉も何も交える事無くただ佇み続けていた。
 従って、何時、どのタイミングで。どちらが先に切り出したかなど、最早二人は記憶していなかった。
 ただ一つ言える事。それはお互いがお互いに黙っている理由。
 それが、何のこともない、ある理由から来ると言う事だけだった。

「何時出る」
「準備したら、直にでも行くわよ。こっちの準備は万端ってね」

 神楽坂明日菜はそこで話を切った。
 告げた先の言葉はあえて紡がなかった。言えば、確信となるから。
 だが、そんな事は彼女は覚悟していた。言わなかった理由は単純で明確。今傍らに座す、金髪の少女。吸血鬼を語りながら、自ら自分の言う吸血鬼などと言うのは人間と何も変わりはしないと結論してしまった吸血鬼の少女。

「怖くないのか」

 吸血鬼の少女はそう切り出した。
 彼女は怖かった。吸血鬼などになってから久しく味わっていなかった恐怖。それを味わっていた。
 無理もない。彼女が相手をするのは最早かつての従者ではないのだ。
 同時に、神楽坂明日菜が相手をするのもまた、かつての副担任ではなかったのだ。吸血鬼の少女は、それだけを確認したかった。

「怖いわよ。死にそう。死ぬかも。多分死ぬわね。エヴァちゃんは?」
「怖いよ。死ぬ。きっと死ぬ。間違えなく死ぬだろう。
お前の無鉄砲さ。それが、無性に羨ましいし、何故だか心地よい」

 二人は素直な意見を交えて、一度だけ笑んだ。
 たった一度きりの微笑み。
 交わらない笑顔。これから死にに往くものとは思えぬ笑顔であると同時に、断ち切られる間際の麗華のような華々しさと儚さ。それもまた交えていた。
 最早言葉は交えなかった。エヴァンジェリンは素肌のままに立ち上がって、神楽坂明日菜の前に何か、金属音を奏でるモノを置いて二階へと挙がっていった。
 一階に残されたのはただ一人。生まれたままの姿の神楽坂明日菜。その彼女の目が、僅かに金属音を鳴らしたものの方へと向く。

 鍵。銀色に鈍く輝いている鍵と、くしゃくしゃに丸められた紙が一枚そこにある。
 その紙を開いて、神楽坂明日菜は金髪の吸血鬼の家の奥を目指し、立ち上がり歩き出す。
 以前、そこの奥には深紅の槍が突き刺されていた場所。今は抜かれて、また、既にその奥の部屋も吸血鬼の手腕によって塞がれてしまっている。
 神楽坂明日菜が持った紙には、そこへ降りる階段への道筋が記されていたのだった。
 階段を下りていく神楽坂明日菜。相変わらず裸体ではあるが、気持ちだけでもと言うのか、肩から腰辺りにかけてまで長めの大布を纏っている。

 素足で降りて行く階段。彼女の想像を超える長さの階段は、冥府へ続くかのようにも思う。
 だが、神楽坂明日菜本人はそうは思わなかった。これから死に往くようなものであったからだ。
 故にその他の事に恐怖心は懐かなかった。
 懐いたのは唯一つ。エヴァンジェリンと言う少女は、何故に自分を此処へ招いたのかと言うことであったが―――その理由は、直に判明した。

 階段の奥の奥。そこに白く輝くソレがあった。
 喩えようもない物。しかしある固有名詞が当て嵌まる物体であり、大抵の人間はそれが何で在るのかを見た瞬間に理解出来るだろう。
 それは、率直に言えば甲冑であった。
 白い甲冑。無骨ではないが、軽甲冑に分類されるタイプの鎧が階段を下りた場所の僅かな空間に置かれていたのだ。

 麻帆良の印章が刻まれた鎧。上半身と腕全体を覆う小手。足元から腰元までを包み込めるような具足。
 そして、目も覚めるような深紅で彩られたスカート状の腰巻。それが、その鎧の全貌であった。
 学園祭最終イベントの時に着ていた鎧とは、やや異なっているか。あれよりも軽装で、だが、重厚にも見える、鎧。
 神楽坂明日菜は苦笑の様な笑顔で、纏っていた大布を剥ぎ、鎧に手を付けていく。
 置かれていたインナーに袖を通し、慣れた手つきではないが、鎧と言う物を始めてその身に纏っていった。
 鎧は驚くほどに軽く、彼女の軽快な動きを阻害させるような要素は含まれていない一品でもあった。
 時間にして十五分。彼女はその身に鎧を纏い終えた。
 その容貌は戦乙女たると言う表現が似合う。その手に武器を握れば、まさに戦場を行く女神が如きであろう。
 それこそ、彼女の持つ契約カード。それに記された、“傷だらけの女戦士”の名に相応しく。

 居間まで戻り、しかし、神楽坂明日菜は振り返るような様子は見せなかった。
 ただ、雨に濡れていた金色の鈴を掴み、その髪を再び双房に結う。
 厳しい顔立ち。だけれども、何より眩い彼女に相応しいような凛とした表情。
 それを浮かべ、鏡の前に立ち、笑うでもなく鎧姿の自分を確認し終え、神楽坂明日菜は駆け出した。外へ。既に雨のやんだ外。

 白い岩の塊が浮いている。水盆に写ったかのように天蓋に写る白く、丸い岩。

 その下を神楽坂明日菜は一人駆けていた。
 目指す先には巨木。世界樹と呼ばれ慕われていた大樹が一本、月の光に照らされていた。
 振り返ることはなく、少女は一人。
 振り返らなかった事には意味がある。少女はソレを思い、なお一人。
 きっと。彼女は帰ることは叶わないと思っていたのだろう。
 故に振り返らなかったのだ。帰る事は出来なかったが故に振り返らなかったのだ。

 少女は往く。最後となる戦いに。最後となる、時が来る時へ。

 ―――――――――――――――――――世界樹広場

「では今日の見回りに行きましょうか、愛衣」
「うぅ…怖いですけれど……解りましたっ、高音お姉さま」

 怖がる自らの相方を見るや、高音・D・グッドマンは肩を諌めた。
 無理もないかと言う態度。彼女たち魔法生徒にも、今回の事件の凄惨さが伝わっている。
 全魔法教師の中でもトップクラスに位置するタカミチ・T・高畑の敗北による重症。
 その他、魔法教師、魔法生徒の何人かが。相手の姿を目認するより先に打ち倒されていたのだから。
 彼女達に此処、世界樹広場からの見回りが言い渡されたのは今朝の事である。
 極端に減少した魔法教師に魔法生徒ら。
 いわば、彼女たちは代打のようなものであった。本来はタカミチ・T・高畑が見回りの役割を担っている世界樹広場。
 しかし、担当であるタカミチ・T・高畑が倒れた事で、彼女達にその役割が廻ってきたのだ。

 彼女たちの役割はあくまで見回りであった。
 それ以前に。全ての魔法教師、魔法生徒らに言い渡されている事があった。
 それは、行うべきはあくまで見回りであるということ。
 そして、負傷、並びに襲われてる一般生徒、一般人を確認した場合は即時確保の上で即撤退。
 決して、相手をしてはいけないと言うのが、今の彼女達に与えられている役割でもあった。
 その理由。その理由が何であるのかなど簡単な話だ。
 誰も勝てないからだ。相手は、あのタカミチ・T・高畑が手も脚も出せずに完敗させ示した相手。
 それを、当の本人から劣っている魔法教師、生徒らがどうにかできるべくもなかった。
 故に命令は唯の一つのみ。
 疑わしき場所には立ち入るなかれ。
 疑わしきものは追うなかれ。
 ただ。ただ、生き残れというのが、彼女たちへの命令であった。

 高音・D・グッドマン。そして、佐倉愛衣らにも与えられた任務はそれが全てである。
 負傷者、並びに被害者の介抱が第一であるが、それを成したのであれば即座に退く事。
 その命に、二人は反感はおろか、使命感も持ってはいなかった。
 魔法使いと言う人種でありながら対応出来ないと言うこと。
 此処、世界でも有数の魔法使いが集っている魔法学校麻帆良学園でそれを立証して見せた相手。
 そんなものを相手に勝って見せようなどと、彼女たちは露ほども思ってはいない。
 思えなかった。二人は未熟ながらも、それを重々に承知していたのだ。

「あれ? 高音さんに……愛衣ちゃん?」

 背後からかけられた声に両者は竦みあがりかける。
 気配もなくかけられた声だ。それも、場所が場所なだけある為か尋常ではない驚き方で、二人はほぼ同時に。
 しかし、妙な遅さで振り返って―――片手をラフに挙げた、鎧姿の神楽坂明日菜を観止めた。

「夜の見回り? 私も参加させてもらってもいいかな」

 カチャカチャと言う軽金属音を鳴らせながら歩み寄ってくる神楽坂明日菜の事を両者は知らないわけではない。
 高音・D・グッドマンに佐倉愛衣。学際の時は、彼女と一緒に“高畑先生救出部隊”なぞ名乗ってお互いにその力量を目の当たりにしてはいた。いたのだが。
 その力は確かに、今現在麻帆良学園に居る力あるものの中では上位に食い込む力量だろう。魔法使い相手ならば殊更に。だが、しかし、今回の相手は。

「別に構いませんけれど……けれど神楽坂さ――」
「あ、本当? ありがと、高音さん。
それなら此処、私に任せて貰えませんか? ホラ、私魔法とか無力化できるから一人でも大丈夫じゃないかなーって思うんですよ」

 妙に軽快な口調である事に二人は少々戸惑いを覚えたが、神楽坂明日菜の言う事も尤もであった。
 何しろ相手がどの様な存在で在るのかを、二人は知らないのだ。
 かのタカミチ・T・高畑は体調の悪化により面会謝絶。せいぜい伝わっている情報があれば、それは人知を超えているという漠然とした情報程度であった。
 更に二人はまほら武道会での神楽坂明日菜の技量を見ていた。
 桜咲刹那と互角以上の技を凌ぎあったその姿。
 事実、魔法戦闘の場慣れをしていない二人と比べてしまえば神楽坂明日菜は一般人でありながら壮絶な戦いを勝ち抜いてきた戦士でもあるのだ。

「お姉さま、どうしましょうか?」
「……解りましたわ。では此処は神楽坂さん、貴女にお任せしますね。
 ですが、決して無理はなさらない事を約束する事。
 今この麻帆良を騒がせている事件の相手と遭遇しても、決して戦ってはいけません。それを約束できるのなら。
 じゃあ、愛衣。私達はいきましょう」

 高音・D・グッドマンは危険とは思いつつも了承を下した。
 本当ならば三人で行動するのが尤も良いと考えたのだが、戦闘馴れしていない自分たちと、武道会であれだけの技量を見せた神楽坂明日菜とでは、いざ敗走戦となれば、残念ながら一番頼りになってしまうのは神楽坂明日菜であり、自分たちは大した手も出せないであろうと言う事を高音・D・グッドマンならびに佐倉愛衣は自覚していたのだ。故に、彼女たちはこの場は神楽坂明日菜に任せることにしたのだ。
 片手をラフに掲げてその言葉に応じる。神楽坂明日菜は、笑顔で二人を見送っていった。
 二人の姿が林の奥に消えるまで、相変わらず―――
 しかし、見るものが見れば気付いただろう。作り物の笑顔。明らかに立て看板のように見繕っただけの、外見だけの笑顔である事に。
 
 ―――――――――――――

 よく解らない心持で、以前何だか大変な事態に巻き込まれちゃった時に居た人達と別れる。
 その姿が見えなくなるまで手を振って、見えなくなったら、その場に座り込む。その場といっても、階段の上なんだけど。
 カチャリと鳴る甲冑。エヴァちゃんがどんな理由かは知らないけれど預けてくれた鎧。
 正直、こんなのであんなのになっちゃったキノウエ先生の相手を出来るのかは疑わしい限りだけど、使えるものは何でも使わせてもらう。
 今回ばかりは、そうしないといけない。そうしないと、きっと、生き残る事が出来ないだろうから。
 尤も。何をやっても生き残れないと思ってる節もある。実際そう思っているわけだったりもするのよね。ホントに。

 覚えてる。覚えてるよ。キノウエ先生があんなのになってしまった時の事を、今でも、それこそ、眠るたびに思い返していた。
 キノウエ先生。貴方がどうしてそんなモノになってしまったかどうかなんて、私解んない。私頭悪いし、難しく物事考えた事ないから。
 キノウエ先生の授業も、実際半分も理解出来ていなかったのが事実だしね。
 けれど。こんな私でも解る事ぐらいはあるつもり。

 月を見上げてそんな事を思う。センチメンタルになるような格好でもないのにね。

 ポケットの中の注射器を確認する。
 どうしてまだ持っているのか、自分でもホントにわかんない。
 捨てられないのは使おうと思う心があるからなのかな。
 でも残念。私、コレを使う気はないよ。多分だけど、でも、絶対じゃないけれど。使わない。使いたく、ない。
 同じようにはなりたくないから。キノウエ先生。貴方と同じにはなりたくないから。
 本気で、そう思っているから。だから使わない。使わない、と思ってるよ。
 でも、本当に使う気がないのならどうして今日まで持ち続けてきたんだろう。
 何故捨てずに、今日の今日まで。それこそ、この瞬間ですらも眺め、持ち続けているんだろう。

 それはきっとキノウエ先生。貴方に託されたからだと思うのよね。
 託された、じゃないかもしれない。
 汝、獣在れかし。
 その言葉の意味を、調べてみたよ。女の子、それも元とは言えど実のクラスの生徒の女子に向かって獣在れって言うのは酷いと思うわよ。
 でも。その言葉の意味を履き違えるでもなく覚え、そして考えているから捨てきれないで居るんだと思う。
 お前は獣になれる。キノウエ先生。貴方はそう言いたかったんじゃないかなって思うよ。
 どうしてそんな事言ったのかは解らないけれど、キノウエ先生は私の中に何か別の私を見ていたのかもしれないから。
 獣になったら、どうなるのかな。キノウエ先生。何か覚えている?

 思い出を持っていたんでしょ? 悲しい事もあった筈だし、楽しい事もあったと思うよ。
 私だってちゃんと覚えてる。ほんとうに悲しい事と、本当にしあわせなこと。
 二つとも隣り合わせになっていて、すごく、すごく大事だって知っているのよ?
 ねぇ、キノウエ先生。それも捨ててしまったの?
 それを全部捨て去ってしまったというの?
 それって何? 全部止めてまで、何が欲しかったの?
 それが、それしか、貴方は生き方を選べなかったんですか?

 わすれてはいけない事を思い出す。

 ―――ダメ! ガトーさん!! いなくなっちゃやだ……!!―――

 忘れてはいけないという事。本当に悲しい事。閉ざされ続けていた思い出。
 忘れてはならない事を考える。

 ―――ウチ、近衛木乃香言うんよ。このか呼んでな〜。ほかほか、明日菜言うんやね。これで、ウチとお友達やな―――

 初めて出会った時の事。今も思い返せる事。繰り返し続けてきた記憶。
 苦しかった事を思い出す。

 ――――                               ――――

 本当に苦しかった事。辛くて、投げ出したくなってしまった事。それに耐えてきた道。
 
 そうしてたどり着いた場所は穏やかで、楽しくて、嬉しくて。
 毎日、自分の事で思い悩んでいるような暇なんかないぐらい騒がしくて、喜びと苦難と輝かしいまでの現実に満ち満ちた、本当に楽しかった世界。
 キノウエ先生。聞こえていますか。
 貴方はそれを捨ててしまったんですか? 全部なくしてしまったんですか?
 何もかも考えるのを止めて、何一つ思い出すことはなく、唯々生きていくという行為。
 それを純粋に純朴に純然に当たり前のように成していくだけの、一番正しいだけのものになってしまったんですか?

 私には、やっぱりわかんない。頭悪いし、そんなに難しい事を考えて生きてきたわけじゃないから。
 ただ、一つだけ解る事があって。
 人間である以上、それらは捨ててはいけない事だというのが、確信を持っていいたい。言いたいと、思うのよね。
 キノウエ先生。貴方の名前を聞きましたよ。
 限りと言う停止。それが先生の名前だったなんて、何だか似合いすぎて噴出しかけちゃったわよ。
 限りと言う名の、静止。まるで命みたい。限りと言う名の死。いつかは必ず来るという確実な死。
 限界と言う名の死と言う静止。
 キノウエ先生。今の貴方はもう限止先生じゃないのよね。ネーミングセンスないけど、私がつけてあげちゃいますかね。
 限死。今の貴方にはお似合いの名前。
 そう思う。限りと言う死。必ず迎えるソレを招くかのような、貴方。

「ねぇ―――そう思いませんか?」

 ポケットの中から一枚カードを取り出しつつ、腰掛けていた腰を上げて、視線もゆっくりとあげていく。
 世界樹広場。学園祭の時は、私があの魔法の効果を完全に無力化できるハリセンで片っ端から告白対象をすっぱたいていった場所。
 今は夜の影しかない場所。その階段の一番下。
 一際広い、茶々丸さんとネギが試合した時の場となった場所。其処に、白と黒の影が見えた。

「限死先生―――」

 そうして、その人だったモノと対峙する―――


 言葉が潰える。両者の間から言葉と言うものは完全に消えうせた。
 神楽坂明日菜は相手が言葉の通じる相手ではないと断定し。
 機能得限止だったもの。即ち、限死と言う名のモノは人の言葉を理解し、語るような生体機能を持たずが故に。
 向かい合う。合わさるのは視線だけ。それ以外は一切が合わない。それ以外は、全てが無意味であった。
 言葉に始まり、感情、表情、物語、言葉、能力、才能、努力。
 全てが、限死なる存在には無意味であった。
 それを理解していたのか。否、理解していたからこそ、神楽坂明日菜は何一つを口にはしなかったのだ。
 言葉は無用であり、全てが無意味である事を自覚していたが故、何一つなかったのだった。
 アデアット。その言葉により解き放たれる従者専用の道具、アーティファクト。
 普段ならば風にも乗る声で解き放たれる筈のソレであったが、今回ばかりは状況が違った。

 神楽坂明日菜はポケットから取り出したカードにもう片方の手を添えた。
 一枚のカード。しかし、一枚であった筈のカードが二枚になる。
 一枚は紛れもなく彼女本人にマスターである少年が渡したコピーの契約者カードである。
 だが、それならばもう一枚は何を意味するのだろうか。
 それは至極簡単であった。

 マスターカード。本来ならば、主である少年が持っていなければいけない筈の一枚を彼女は持っていたのだ。
 神楽坂明日菜は知っていたのだ。
 彼女の持つ能力。魔力と気の合成も、目の前の限死には関係なく、意味の無いものだと。
 その考えは的中していた。限死は、鋼性種の体質を程度ではあるが継承していた。
 即ち、認識できないものに対し自らを受け付けず、自らに受け付けない。その才を程度ではあったが限死は継承していたのだ。

 故に、魔法並びに気による干渉は一切が通じないにも等しかった。
 神楽坂明日菜はそれを自覚はしていなかったが、無意識で悟っていた。
 目の前のコレに、人間の知識程度は通用しないと。目の前の限死と言う存在には、自分の力は遥か遠く及びはしまいと。
 ソレでも彼女は用意を万全とした。全力としたのだ。
 全力ならざるものは死すべし。機能得限止の言葉どおりに、神楽坂明日菜は限死へと挑もうとしていた。
 それ故の二枚。契約者カード二枚と言う、この状況を作り出したのだった。
 唇が僅かに動く。艶やかな唇が動き、口の中だけで開放の真名が唱えられ、世界が一瞬真白へと染まる。
 その白が解き放たれた時、限死は前傾姿勢の突撃体勢をとっており。
 神楽坂明日菜は、自らの身長に匹敵するほどの大剣を二振りその両手へと握り、その極大の刃を地面へと突き刺した。

 ゆっくりと閉じられた神楽坂明日菜の瞳。
 開けば、始まるのだ。この時。この瞬間だけが、神楽坂明日菜にとって最後の瞬間であった。
 彼女の頭の中。其処に数々の思い出がぶり返す。
 走馬灯とでも言うのか。
 彼女とて走馬灯がどのようなものなのかを自覚していないわけではない。死に際に見るはずのものを死に際でもない、ただこうして対峙しているだけの状況下で感じていることに、神楽坂明日菜は少しだけ心の中で笑った。
 最後の笑顔。神楽坂明日菜の太陽の様な笑顔の最後は、誰に宛てられるワケでもなく、ただ自身の心の中のみで誰の為でなく宛てられ―――

 砕け散る手前まで歯をかみ締め。その両目を見開き。神楽坂明日菜は“即死”へ向けて直進した―――

 風すらその両者の動きには追いつくことは叶わなかったと言う。
 誰が言うでもない。ただ事実そうであっただけの話だ。
 風も、何一つ、その動きに追いつく事は叶わなかった。
 片刃の大剣を地面にこすりつけ、火花を上げつつ神楽坂明日菜は走る。
 同じように、向かい合っていた限死もまた奔る。
 両者の動きは最早超速。
 特に限死。その動きと加速力は、最早特攻した神楽坂明日菜の目でも追いきれなかった。

 神楽坂明日菜の体躯が反転する。平行に構えられた右手の大剣。それが奔る。横一線に。
 同様に、限死の片腕が大きく後方へ引かれる。
 鋭いを通り越えた暴虐な爪。大木じみたその片腕は弓の弦のように引き絞られ、一気為る開放を一瞬後に控えた。
 回転力をそのまま勢いと化させ、神楽坂明日菜の大剣が横一線に奔った。
 その一撃にあわせるように、限死の大腕がその横一線に降りぬかれる予定上であった一撃とかち合った。

 そう。それだけで合ったというのに―――神楽坂明日菜の体躯は、打ち上げ花火のように叩き上げられた。

 神楽坂明日菜の視界は瞬間的に反転する。
 気付いた時には既に世界樹と呼ばれる大木を眼下に控えているような状況であり。
 視線を更に下に居た筈の限死へ向けた時には、限死は、とうに。神楽坂明日菜の背後に控えていた。

 その状況下で神楽坂明日菜は体を捻る。
 遥か空中で出来る事などその程度ではあったが、それでも充分すぎた。
 左手の大剣が奔る。空中へ叩き上げられ、いまだ最高到達点へも至っていない状況で、神楽坂明日菜は空中へ叩き上げるほどの膂力をそのまま利用し、背後にまで跳躍した限死へ向けて反転による剣戟を叩き込む。
 その一撃を、限死は容易く片腕の爪で弾く。
 片手で弾くだけと言うのに、神楽坂明日菜の体躯は左手の大剣を振るう際に捻った方向とは逆方向へといとも容易く撒き戻される。
 撒き戻されるが、その撒き戻された勢い。ソレさえ利用し、神楽坂明日菜は右手の大剣を更に後方へ向けて繰り出す。
 だが、その一撃が背面に居た限死に届くよりも先に、神楽坂明日菜は流星となる。
 麻帆良の空に奔る白い流星。一体空を見上げていた何人が、否、誰であろうとも、それが“人間”だろうとは理解できなかったに違いあるまい。

 尾撃。神楽坂明日菜の体躯は小枝のように空から地へと向けて落ちていく。それが、バットのフルスイングのような。しかし、それを大きく上回る勢いで繰り出された強靭な筋肉の塊である尾による一撃。
 空中で体を一回転すると同時に繰り出された一撃を腹部に受け、咳き込む間もなく、神楽坂明日菜は後方に控えている落下位置を確認すると同時に反転。
 その右手の大剣は鎧に付属されていた剣提げへと収め、左手の大剣を両手もちにし振り上げると、足元に突如現れたコンクリの地面へと突き立てた。

 コンクリート製の地面が抉れていく。
 剣を突き刺した位置から推定でも三十メートル以上は進んでなお止まらない。
 それほどの勢いの中、神楽坂明日菜は正面を睨みつけた。
 彼女の居る位置は、事もあろうか学園の端も端。堀に囲まれたかのような麻帆良学園都市から外部を繋ぐ、巨大な橋、麻帆良大橋の地面を抉っていたのだ。

 八十メートル以上は地面を抉っただろうか、神楽坂明日菜は背中へ力を込め、抉りながら後退し続けていた大剣を引き抜く。
 その勢いで、神楽坂明日菜は空中回転を数回決め、片手でコンクリの地面へと接地した。
 恐らく、指先まで包み込む甲冑でなければ手の平の皮が引き裂かれていてもおかしくはない勢いでの接地。
 片腕を地面につけ、両足は天をむいている状況で、神楽坂明日菜は今し方自分が飛ばされていた方向を睨みつける。
 上がる砂煙。そして火花。
 その視線が向いたときには既に。限死は、神楽坂明日菜の数メートル先まで走りこんでいた。

 接地していた片腕で神楽坂明日菜は跳ねる。今だ後退し続けていた体躯。それが空中へと撥ねた。

 追撃が奔る。限死の右腕が爆砲じみた勢いで繰り出され、神楽坂明日菜の右脇を掠めた。
 それで彼女は、自身の骨が粉々に砕け散った事を自覚する。
 気が飛ぶ寸前の激痛。それをかみ締める暇もなく、神楽坂明日菜は自らの右腕でその繰り出された右腕を押さえ込み、今だ剣を握り続けていた左腕を断頭台のように叩き落した。
 だが、その左腕が完全に叩き堕ちるより先に、神楽坂明日菜の体は遥か彼方へと飛ばされていた。
 押さえ込んだ筈の右腕。しかし、魔力による供給もなければ、気による強化すらない状況では力が弱すぎたのだ。
 結果、地面すれすれで激突していた両者。特に姿勢制御が充分であった限死は、右腕を右脇に固められた時点でその体躯を反転し、神楽坂明日菜を湖の方面へと投げ飛ばしたのだ。

 再び堕ちる。
 以前橋の上で戦ったエヴァンジェリンが橋から落ちたが、その時とは比べ物にはならない。
 堕ちるというよりは、叩き落される。
 まさに流星が大気圏を突き切って、地面へ向けて落着するかのような勢い。ソレを以って神楽坂明日菜は落とされようとしていた。
 だが堕ちない。それには理由がある。それを限死が許さない。
 橋から神楽坂明日菜を叩き落とした直後に飛び出した限死。
 その勢いは軽く落下速度など超えていた。あっさりと落下中であった神楽坂明日菜に追いつき、その爪を叩き込もうとしてくる。
 それを、勿論神楽坂明日菜が許すべくもない。
 再び両腕に大剣を構え、繰り出されてくる無数の嵐撃を迎え撃つ。
 迎え撃つとは言っても、それほど上等なものではない。
 幾つかは剣戟の間を確実に潜り抜け、神楽坂明日菜の体躯を削る。そのたびに、彼女の体は不気味な軋みを上げていった。

 なお、彼女が着込んでいる甲冑。それは無意味なものではない。
 限死相手では無意味だが、限死以外を相手にするというのなら有効この上ない一品であった。
 何しろあの吸血鬼エヴァンジェリンが住んでいた自らの城から回収した一品なのだ。
 既に廃れ、住む者の消えた城から回収した純白の甲冑。
 それにエヴァンジェリンは長年、麻帆良に集う魔力を注ぎ込み、その防御性能と肉体の敏捷性、感覚感知能力を上昇させる。
 彼女が着ている鎧には、彼女が意図してもいないような機能が付属されていたのだ。

 限死はそれを貫いて神楽坂明日菜の体を削っていた。
 鎧の上から、鎧の下の体を削っているというのだ。
 その一撃一撃の勢い。そして破壊力。それがどれ程のものかなど、語るまでもなかった。
 その一撃を捌き、捌かれながら神楽坂明日菜と限死は落下していく。
 湖に向けて。そして、その体躯が水に触れる寸前で、再び神楽坂明日菜の体躯は大きく弾かれた。
 まるで水面を撥ねる小石の如く。水面と並行するかのように、その体躯はいとも軽々と水面を平行に行っていた。

 その水面上で、神楽坂明日菜は見る。凄まじい高さまで挙がった水柱。
 依然彼女が京都で見た巨大な体躯の大鬼。その巨体をも上回る高さまで届く水柱。
 その水柱が、水面上を平行に弾き飛ばされている神楽坂明日菜を追う。
 だが水柱が彼女を追っているわけではない。
 正しくは、その水柱を挙げている原因。限死。四足で水面を『駆けて』いる生命体。
 余りの速度とでも言うのか。水面を疾走するほどの速度で、限死は神楽坂明日菜に喰らいつこうとする。
 繰り出された鋭いまでの二本の剣歯を生やした大口を、神楽坂明日菜は一寸手前で自らの大剣を噛み付かせる事で自らへの被害を防ぐ。
 同時に、最大級の水柱が挙がった。水面を疾走していた限死と、水面と平行に弾かれていた神楽坂明日菜。
 その彼女へ、限死は斜め直上から食いついたのだ。即ち、両者の体は湖の内へと叩き込まれる。

 水の中。両者は一瞬だけ視線をまじ合わせる。
 無機質な目の限死。今まで浮かべた事も無いようなまでに両目を吊り上げ、目前を睨みつける神楽坂明日菜。
 見合う両者。だがそれも一瞬。神楽坂明日菜の体躯は、一気に水面目掛けて上昇を初め―――
 先ほど世界樹直上まで到達しきるかのように叩き上げられた時と同じように、水面から脱した。
 限死が噛み付いていた左腕の大剣もろとも神楽坂明日菜を水面へ押し戻したのだ。

 神楽坂明日菜は僅かに咳き込む。
 急激な水圧と気圧の変化。それに身体がついてきていないのだ。
 加えて先ほどから幾度もなく打ち込まれている爆砲じみた連撃。それが衝撃を叩き困れるたびにうずくのだ。
 だがそれを気にしている余裕などない。
 神楽坂明日菜はその場で両腕を広げて全身を独楽の様に回転させる。
 それにより、彼女の周辺を覆っていた水柱が一気に晴れた。
 水を切るという芸当。神楽坂明日菜は、一切の魔力的な付加も無しにそれをやってのけた。

 再び水面が爆ぜる。
 彼女が水面から脱した時に上がった水柱と同じ程の大きさの水柱が、再び二人を包みこむ。
 そしてかち合っている。爪と、大剣。
 水柱の中、叩き落されたであろう両腕の大剣と、喉元を貫かんとする勢いで繰り上げられた右の大剣を押しとどめる右腕の爪と、左の剣に喰らいついた、牙。

 水面空中で両者の撃が弾け合う。両腕を大きく開いた神楽坂明日菜と、真上に控える彼女に睨みを効かせる限死。
 叩き堕ちる打突。振り上げられる掌撃。
 それがかち合うたびに金属音が響き、水面が揺れた。
 左右の攻防。合わせる事しか出来ない神楽坂明日菜と、徐々に速度を上げていく限死。

 何十度目かの激突で、神楽坂明日菜は終ぞ間に合わなかった。
 彼女の腹部。鎧で守られている筈の腹部を、限死の大腕が容赦なく貫いた。
 吐き気を催すどころか、呼吸困難に陥らせるほどの、内蔵全てを吐き出していまいかねないような一撃。
 内臓が吹き飛んだかを髣髴させる違和感。
 だが苦悶させる暇もない。限死は、腹部を射抜いた一撃を引くと、そのまま体を捻り、神楽坂明日菜は同時に、右頬に激衝を感じる。
 尾撃。大腕の一撃に勝るとも劣らない一撃を、再び貰ってしまったのだ。

 舞台が変わる。なお、この状況で彼女と限死が戦闘、否、『生存競争』を開始してから、未だに五分も経過していない。
 秒単位での経過なのだ。それほどの速度。それ程の勢いで、この生存競争は執り行われていたのだ。
 神楽坂明日菜は背中に衝撃を感じた。
 何度も何度も。断続的に続く衝撃を、神楽坂明日菜は背中に味わい続ける。

 そこは林。神楽坂明日菜は遠く離れた林まで、尾撃一撃で叩き飛ばされたというのだ。
 痛みが走る中、彼女は周辺を確認する。
 木々が立ち並び、背中には絶えず衝撃。折れる寸前まで追い込まれるかのような衝撃は今だ続く。
 その中で彼女は両腕を広げ、大剣の峰を立ち並び並行している木の何本かに叩き宛てていく。
 弾き飛ばされ続ける速度を弱める為。何より、何瞬間後かに飛び掛ってくるだろう限死を迎えるべく、体勢を整えるべく。
 幾ら飛ばされたのか。彼女に思考能力は最早残されていない。
 気迫が飛びかけ、意識は蒙昧。神楽坂明日菜は糸の切れた人形の様に、貼り付けられていた木から地面へと崩れ落ちた。

 声は一ミリも出ない。喉が潰れたのか、はたまた、その余裕がないのかすら判断できない。
 ただ、地面へとうつ伏せに倒れた神楽坂明日菜は実に久々に地面に体をつけた気がした。
 恐らくは、世界樹広場で限死により花火のように打ち上げられて以来。彼女は久々に、地面の感触を味わっていた。
 立ち上がる。数回口から血を吐き出し、頭から流れた血で閉ざされてしまった右目をゆっくりと開き、林の飛ばされてきた奥の奥を睨みつける。
 右手の大剣を背中へ再び収め、神楽坂明日菜は自らの腹部を確認した。
 ごっそりと中身が抉られたかのようにも感じた腹部ではあったが、幸いにも腹部は存在していた。
 ただし、凄まじい鈍痛と、銀紙のようにぐしゃぐしゃになった鎧を代償にしてのその程度であったが。

 彼女は歪んだ腹部辺りの甲冑を部分を剥ぐ。
 最早意味の無いものに成ってしまったソレは、着用しているほうが危険だった。
 再び同じ箇所へ一撃を浴びせられれば、歪んだ甲冑が腹部へ突き刺さる可能性もあったからだ。
 尤も、鎧を砕き散らすほどの勢いの一撃。同じ箇所へ打ち込まれれば、彼女の胴体は見事なまでに二分されるまでであった。
 臍と腹部の柔肌を見せるような出で立ちで、神楽坂明日菜は再び両腕に大剣を構える。
 両腕を大きく広げ、その時を待つ。正しくは、待つまでもなかったが。

 剣を構え、視線を上げた時に神楽坂明日菜の目に飛び込んだものは限死ではなかった。
 大木。散々自分と、自分が持つ大剣で薙ぎ払われてきた樹木。
 その折れた樹木が、復讐のように彼女へと飛び掛ってきたというのだ。
 剣が落ちる。右腕の大剣が振るわれ、木は容易く二分されると同時に、彼女の両脇へと散っていく。
 だが休みなどない。
 次から次。矢継ぎ早。
 その速度で、樹木は絶え間なく、神楽坂明日菜を襲撃しにかかっていたのだ。

 それを左右の大検で全て切り払っていく。
 前にも告げたとおり、神楽坂明日菜には現在魔力による身体強化も、気による肉体強化も施されていない。
 いわば、今日と言う日が来るまで彼女自身が出会ってきたさまざまな状況に対しての適応力。
 彼女を現状で生かし、この様な技能を身につけさせのは、コレまでの“経歴”であった。
 既に切り払った回数など、彼女は数えていない。
 次々と迫り来る折れた樹木。それを反転しながら右。その勢いを乗せたまま、左で叩き落し。
 まったく同じではないが、その連続を彼女は繰り広げていた。

 しかし、彼女は如何に歴戦を勝ち抜いてきたとはいえ、相手は人間の想像力を上回っている対象であり、彼女は普通の人間である。限界が来るのはどちらが早いかなど、聞くまでもあるまい。
 神楽坂明日菜が右の大剣を切り払ったと同時に動きを止める。
 喘ぎ声と、息を吐く音が激しい。ただでさえ腹部を一撃貫かれていると言うのに、それに加えてのこの動き。体力の限界など、容易く来てしまう。
 それを理解したうえで、彼女は視線を戻す。
 戻した時には、今までの中でも一際大きな樹木が彼女に迫っていた。
 神楽坂明日菜は跳ぶ。振り抜いた右の大剣を背中へ収め、左の大剣を両手持ちに切り替えると、限界まで振り上げ、そして叩き落す。
 木は二分された。木は。だが、その後ろ。飛ばした樹木の裏に居たのか。
 限死が、叩き落された剣戟を牙で受け止める。
 懇親とも言える神楽坂明日菜の一撃を、限死はその口で受け止め、降りぬいた勢いを活用し、神楽坂明日菜を、上空へと弾き飛ばした。

 再び空。しかし、神楽坂明日菜は今度は見逃さなかった。
 自分が空中へと弾かれたと同時に跳躍した限死を、目で終えぬ速度で飛び出した限死の到達点を見極め、其処へ背中に収めていた大剣を右手に取り、叩き落す。
 其処へ現れた限死はそれを弾く。
 左の一文字。限死はその一撃の上に載り、更に高く跳んだ。神楽坂明日菜の最高到達点を上回り、限死は更に上へ。
 限死の体はタイヤの様に縦回転を始めた。
 その一撃を、神楽坂明日菜は予測する。左右二本の大剣を楯の様に降り下りて来る限死に向け、十字に構える。
 其処へ、回転力を極限まで従えた限死の左腕による爆撃じみた一撃が叩き落された。
 神楽坂明日菜の体躯は落ちていく。流星のように。しかし、落花の如く。
 その内で、彼女は空を見上げていた。限死。今し方自分を地面目掛けて叩き落した相手。
 その姿が瞬時で消え去る様子を。そして、落下中であった自らの真横に現れたのを。

 横殴りの一撃。最早彼女にはその一撃が何処からどう繰り出されたのかさえも認識できなかった。
 ただ身体が跳んでいる。今度は地面と平行に跳び、そして顔面から削り取られるように。地面にこすりつけるように接地。
 それで、片目が見えなくなった。
 しかし気にしている余裕などない。物事を思考している余裕はなかった。
 奔る。神楽坂明日菜は奔った。気付けば街中。だが誰一人歩いては居ない。
 無理もないだろう。今の麻帆良は以前のような平和な場所ではない。外出するものは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるのだ。

 神楽坂明日菜もそれを覚悟していた。そうと知って、彼女は限死へ挑んだのだ。
 挑戦ならざる挑戦。そんな事、彼女は理解出来ていた。理解していて挑んだのだ。
 死ぬと解って、即死と知って、二度と帰還する事は叶わぬと確信して此処に立ち、挑んだのだ。
 彼女は今の自身を確認する。
 ボロボロの体躯。彼女は笑うでもなく、心の中で嘲笑した。
 まさに傷だらけ。傷ついた女戦士と言う何ふさわしい惨めな状態。
 それを笑うでもなく笑って、彼女は走る。
 逃げる為ではない。生きながらえる為に。一瞬でも生き、相手が見せる一瞬の隙を窺うつもりだったのだ。
 だが、彼女は勘違いと言うものをしている。
 何か。隙と言う定義である。隙と言うものはそれを理解していないから発生する。
 自己のみが認知できず、相手が見つけ出せる刹那の瞬間。それが隙と呼ばれるものの定義であった。

 だが重要なのは隙が出来る出来ないではない。見つけられるか、そうでないかなのだ。
 神楽坂明日菜は限死から隙を見つけ出せるのだろうか。
 否。断じて否であった。彼女は限死から隙など見つけられない。
 そも、隙と言う定義において限死は別格の地点に居る。
 隙を見つける見つけないの差ではない。限死の隙を見つけようとする暇が、限死にとって相手を百殺は出来るような隙であるという事なのだ。
 街中を抜け、人通りの少ない所に至ったと同時に、神楽坂明日菜は背筋に凍えるものを感じ取った。
 それは最早直感。勘ではなく、本能的な察知であった。
 限死とやりあったものだけが懐ける絶対的な本能の危険予知。限死は来ると。此処で、来ると。

 文字通り限死は落ちてきた。
 狼のような。虎のような。熊のような。獅子のような体躯を数回高速で縦回転させつつ、神楽坂明日菜の正面に立ったのだ。
 少女は大剣を構えなおす。応じるように、限死の身体が前傾姿勢に立ち代る。
 先の衝突。それを髣髴させる体勢。神楽坂明日菜は、有無を言わさずに飛び出す。先と同じく先手の一撃。それを加えようとでも言うのか。
 だが、限死は動かなかった。前傾姿勢のまま待機。
 唸り声を上げるもなく、牙をむき出しにするもなく、ただ迫ってくる神楽坂明日菜を待つかのように、しかし、その体勢は如何なる状況でも飛び出せるようになっていた。

 三歩手前で、神楽坂明日菜は跳ぶ。
 限界まで両腕を開き、まるで扇風機のように回転しながら二本の剣を限死目掛けて打ち落としていくその撃。限死の体は、ソレに応じるかのように跳ねた。
 地面から僅か1メートル半。そこで繰り広げられる旋風と旋風のぶつかり。鋼と爪のぶつかり合う音は、激しく、しかし、神楽坂明日菜は僅かな頭の端で疑問を持つ。
 しかし、その疑問は一瞬で消えた。疑問など、思い浮かべているような余裕などなかったからだ。
 神楽坂明日菜が懐いた小さな疑問。
 それは何を隠そうとも、音。剣戟の音に始まり、限死が。自らがたててきた大量にして豪快なまでの音。
 水柱の上がる音に始まり、木々を薙ぎ払う音。甲冑を着込みながら街中を走ったときの音に加え、今、地面から浮き上がりながら爪と剣を交えているこの乱舞の音。
 神楽坂明日菜は感じとったのだ。その音が、一切合切、聞こえないのだと。

 火花は上がる。鋼と爪、しかし、爪ではないもの。単一性元素肥大式たる超硬質などと言うものとは比べ物にならない単独完全物質となっているものとのぶつかりあいが続いていた。
 体を捻りながら片手で振り抜かれていく剣戟を、限死は時に牙で。時にその爪で受け止め弾いていく。
 既に百合。肉眼で捉えられる速度は遠く通り過ぎている。
 回数は数えてなどいない。何度目かになる衝突の果てに、神楽坂明日菜の右手の大剣は限死の牙に受け止められた。
 その状態で設置する両者。牙と剣との押し合いだが、どちらが勝つかなど初めから解っている様なものだ。

 神楽坂明日菜の身体が浮かぶ。浮かぶと言うよりは、持ち上げられたに近い。
 片手で構えた剣。それを軸に、神楽坂明日菜の体躯は容易く持ち上げられ、その状態で回り出した。
 首を激しく回転させる限死。それに従うように、神楽坂明日菜の体は剣ごと回転させられたのだ。
 剣を離す真似は出来なかった。彼女は知っている。
 今までの台風のような嵐撃。それを凌ぎきれたのは、単に剣が二本あり、準備が万端であったからに過ぎないと。
 剣が一本になった瞬間、神楽坂明日菜は即死する。それは、確定であった。
 高速回転する中で、神楽坂明日菜は剣だけは離すまいとしていた。
 彼女は限死が武器の強制排除を狙ったと読んだのだが、それは違う。
 限死。“こう”なってしまった存在に最早知識と策略など無用であり、通用しなかった。
 あらゆる戦術、あらゆる策略、その他の知識と言う人間が持つ最大の武器を、コレは存在そのもので抑え込んでしまうのだ。

 したがって、限死は何も考えていないに等しかった。
 考えていないというよりは、かの存在にとっては立ちはだかるものが敵である以上排除するという“ソレ”に応じているに過ぎない。
 限死には感情も知識も何もない。唯動いて生きているだけであり、生きるという純粋なまでの行為に全力なだけであった。
 牙が離される。神楽坂明日菜は理解できなくなった。
 紛れもなく武器を排除させる為に体を振り回されると思っていた彼女にとって、唐突に体を離されるのは予想だにしていなかった。
 自らが耐え切れず剣を離すならまだしも、相手から離してくるという行為。
 だが、彼女の思考は直に消えた。考えられたのは一瞬だけ。背中に感じたのは尋常ではない激痛。その後に続くのは、断続的な破壊の気配。

 町の外れで相対していたのが災いしたのだ。
 神楽坂明日菜の体躯は、目にも留まらぬ速度で家屋の壁を矢継ぎ早に貫通し続けていく。
 その今まで彼女が開けてきた家屋の穴から、限死は駆ける。一度の直角方向への跳躍。
 それだけで、限死は今だ弾かれ飛ばされ続けていた神楽坂明日菜の体へ追いついた。
 繰り出されるはかの魔法教師一人を完全に沈黙まで追い込んだ胸元への一撃。
 剥ぎ取った腹部へ繰り出されなかったのが不幸中の幸い。しかし、最早不幸も幸福もなかった。
 その一撃は、まさに、機能得限止と言う男そのものを体現したかのような。

 生きていていいのか。死ぬべきなのか。

 それを問わせる程に、無慈悲なまでの一撃だった。
 建物の外壁を貫きながら、神楽坂明日菜の体は“く”の字以上に折れ曲がった。
 胸元を打ち砕くような残酷を通り越えた無情なまでの一撃。
 学園の一箇所で、凄まじい煙が立ち昇った―――

第四十話 / 第四十一話(後編)


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