第五十二話〜怒涛〜〜


もう、あの頃とは違う なにもかも

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 鳥さんの囀りはホントに気持ちよくて、意識がふわーってしてまう。
 ふわーっとなった意識はふっくらパンケーキみたいになって、ウチの心はほかほかさんやえ。
 でも、眼を開いたらそこは翠の下のカフェテリア。折角雲の上でお茶していた気分なんに、眼ぇ覚まししまうなんて、ちょっと残念やなぁ。
 テーブルの上に在ったカップの中のミルクティーを一啜りして、空を見上げてみる。見上げても、どうせ翠の枝葉が視界を塞いで空なんてみえへん。
 そう思ってたのに、今日は、ちょっとラッキーやったみたい。
 でっかい羽さんを持った鋼性種が空を行っているお陰で、翠の枝葉が大きく揺れて、青い空、太陽の光がひしひし体へ伝わってきてくれる。

 心がほわっとなって、目を閉じたらさっきと同じ感じになれるのは、ホントに久しぶりやなぁ思う。
 うん、こんな風に心が和やかになったのは、どれぐらいやろな。
 そこの書店で買った風景画集を一ページ開いて、撮影者の名前を見てみる。
 朝倉和美。ウチの元クラスメイトの子で、今では新聞記者やったりカメラマンやったり世界中でぶいぶい言ってる自慢のお友達や。
 その子が、今度写真画集を発表する言うから買ったちょっと厚めの風景画集。
 映し出されてるのは、翠の底に沈んだ多くの町や村の跡地。あるいは、そうやって翠に飲み込まれかけても、まだ頑張って生活している人たちの姿が映し出されてる。

 そして、数枚ごとに映された見た事も無いような生物ちゃんたち。
 いやいや、なんや生物の教科書の端の方で見た事があるかもしれへんな。そんな感じの生物。
 偉い学者さん言うには、滅んでもーた生物の遺伝子を受けついどった生物が、自然が増えて、またその絶滅した生物が普通に生きて生けれた時代に近い環境になって、逆進化言うのを始めたっていっとったっけ。
 汚れた空気が尽きてなくなったし、水もホントに綺麗になって、別にこれ以上進化せーへんでも平気になったから、逆に進化……元に戻ろうとしているとか言ってた気がする。

 残念やけど、うちらはダメみたいなん。今の環境に慣れすぎてすもうたから、逆に進化していくのは無理みたい。
 せやから、ウチらは滅びる言われてる。遅かれ早かれ。
 鋼性種さんが手を下さへんでも、自然界がウチらの世界を満たしたら、ウチらはもう、滅びるしかない言われてんのな。
 …………死にたくないなぁ。心底に、そう思ってる。
 せっちゃんとは喧嘩したままやし、ネギ君とは顔もあわせてえーへん。
 ネギ君帰ってきたのは、魔力の変化で何となくは解ってる。
 学園都市内部の魔力密度がちびっと増加したし、それが、感じ覚えのある魔力気配やもん。ネギ君以外には、考えられへん。

 ネギ君にも会いたいなぁ。会ったら、ほっぺたぱちーんってすっぱたいたろな。
 何処行ってたんやーって。あはは、それ、ホントに楽しいなぁ。それが出来たら、嬉しいなぁ。
 ……知ってるん。そんなん、今のウチには無理や。ネギ君になんか言うのも。
 せっちゃんに謝るんも。明日菜を、どうにかするんも。ウチには、無理無理や。
 ウチそんなに強くあらへんもん。強くなったのは腕っ節だけで、他にはなんも成長言うのが見られへん。一人で何でも出来るなんて、うそに決まってるやん。
 でもなせっちゃん。ウチ、一人でも大丈夫になったんよ。
 ウチ、自分で自分を守れるようになったんよ。せやから、せっちゃん、せっちゃんも―――

 ざざざぁって、枝葉が大きく揺れた。
 水面の下みたいで、影がすごく変わっていく様子がホントに手に取るようにわかる。
 日の光。それを通す空気。そして当たる翠。
 全ては清涼で、人間には、ちょっと毒みたいにも思えてまうんよな。
 この清浄さがこの星の本来のあり方や言うのに、ウチらは、散々この清浄さを汚して、そして、汚れた世界にてんで慣れてしもーて。
 結果、少しずつ綺麗になっていく世界には耐えられなくなっていってるんな。

 自業自得言うのは解ってるけど、やっぱり悲しいものがあるなぁ。
 この星の上で今日まで生きてきた言うのに、突然切り捨てられるみたいなのは、なんとも悲しいもんやよなぁ。
 でも、これが宿命なのかもしれへん。これが、散々この星の上で好き勝手やってもーたウチらへの、この星自らの復讐なのかもしれへんしな。
 せやから受け入れよう思う。滅びの日が繰るその日まで、ウチらは鋼性種の傍の元で生きていくんも、悪くないかもしれへんな。そう、受け入れていこう。
 だから、神様。鋼性種さん。一つだけお願いや。皆で仲良くさせてな。
 仲たがいしたり、選べなかった道に進んでしもうた人、いっぱいいるんよ。
 その人たちにちょっとだけ橋を渡してあげてぇな。それがウチのお願いや。叶わなくても、そうなれるまでは、待ってほしいいんよ。

 叶うかどうかなんて、解らへんかった。それも仕方ないけどな。
 相手は、天下御免の鋼性種さんやもん。ウチらとは違う、完全な生命体や。
 お願いを聞く聞かないの世界に住んでる命さんや、あらへんもんな。
 ミルクティー啜る。眼を閉じれば水面の底の様。
 ざざぁざざぁ言う音が耳を抜けて、脳に届いて、眼を閉じているのに、幻視させてまう。
 水面の底の世界。ざざぁざざぁと言う音にあわせて揺れる波。
 その底で、ウチは眠ってる。眠って、その音だけを聞き届けてる。そんなお昼時に。

「…………こんな所で寝てますと、風邪をひいてしまますわよ?」

 お姉ちゃんみたいに優しい声の、すごく綺麗な声を聞いた。
 振り返る。首だけ返して、ウチの右肩辺りからかけられた声の主さんを見て、びっくりと同時に、どぎまぎしてもうた。
 だって、ホントに綺麗な人なんやもん。何度も会ってるけど、いい加減慣れなだめ思っても、やっぱり、目の前にすると身が引き締まってまう言うか、同じ女の子として、嫉妬してまう言うか。
 金色の髪。穏やかな顔立ち。細く、けれどもどこか薔薇みたいに研ぎ澄まされた鋳薔薇を携えた趣の、その女の人は―――

「久しぶりやね―――いいんちょ」
「もう―――委員長ではありませんわよ?」

 苦笑の顔立ちでも、綺麗なのは変わりない言うのはホントに羨ましいなぁ。
 なぁ、いいんちょ。

 カツンと。目の前に座っとったいいんちょの前にカップが置かれる。
 不思議そうにそれを見つめた後でウチを見るいいんちょに、片手でどうぞ、の合図を送ってみる。

「奢りやえ。飲んでぇな」

 ウチと同じミルクティーの注がれたカップ。それに手をつけると、いいんちょは一息で唇を付けていく。
 相変わらず優雅で、綺麗な様やった。あの半年前に出会った時より、もっと、もっと綺麗になっとった。
 そうして置かれたカップの端に、赤い口紅。そうやなぁ、ウチもちょっとぐらいはおしゃれしてもいいかもしれへんな。

「お変わり無いようで嬉しいですわ、木乃香さん」
「相変わらず綺麗で羨ましいわぁ、いいんちょ」

 お互いに顔を見合わせて、笑う。その、いいんちょの笑顔。うん、やっぱり綺麗や。
 線は細いし、着ている服装もちょっとお嬢様っぽくてステキで、憧れてしまう様な女性像。それが、目の前の女の人やった。
 いいんちょ―――雪広あやか言う子は、今は麻帆良には住んでおらへん。
 鋼性種の大々的な大量発生に伴って、世界中の財団、財閥にも大きな影響が出たんで、いいんちょも世界に名だたる雪広財閥の次女として、世界を飛び回る羽目になってもうた聞いたん。
 それが、ウチらが高校に挙がるぐらいの頃。
 いいんちょは一人家族の人と一緒に外国へ飛んで、そして数年がかりで、何とか財閥を立て直した聞いたのが、丁度半年ぐらい前。
 いいんちょは一人日本に帰ってきたそうで、真っ先にウチらのところへ顔を出してくれた。

「ずっと何してたんの? 帰ってきたなら麻帆良に住んでいれば良かったんのに……」
「そうも参りませんわ。仮にも雪広財閥の次期総帥と呼ばれてますもの。今からやらなければいけない事は多いですわ。問題は山積みですもの。
 ……? 木乃香さん。何か在りましたの?」

 そういわれて、びくっとした。
 でも、ああやっぱりとも思ったのは事実やった。
 そう、今日の練習中は誰にも気付かれへんかったけど、きっと、クラスメイトの誰かなら確実に気付くやろ言うことに気づかれただけの事。
 でも、何も言ってへんのに気付かれるなんて、やっぱりいいんちょはいいんちょやったんやな思う。
 あの、Aクラスの手綱を握っとった委員長。
 もし、まだ麻帆良にいたんなら、今ならもっともっと高い地位に座してる事間違えないやろ言うほどの敏腕やったんやな言うのを、改めて実感する。

 真っ直ぐに見つめてくるいいんちょの眼差し。
 それから、視線を逸らすことは出来へん。綺麗な目言う事もあるんけど、何より、その眼力がすごいもんな。
 同じ日本人言うのが信じられへんほど力の篭った、意志の強い眼差し。
 それを直接眼に打ち込まれると、逸らすどころか、逆に吸い込まれてしまいそうになる。
 そうして、漸く目線をはずした所で、いいいんちょは、やっぱりと呟いた。ああ、やっぱりいいんちょには敵わへんなぁ。

「どうして気付いたん?」
「あのですね。私は何年木乃香さんや皆さんとお付き合いしてきたと思ってらっしゃられますの?
 特に明日菜さんと木乃香さんとのお付き合いは如何程でした?
 今更木乃香さんのお考えしている事を読み取るなど、造作も無い事ですわ」

 ミルクティーに口を付けつつ、いいんちょはあっさり言ってのける。
 ああ、そうやな。そうやったな。いいんちょとウチと明日菜のお付き合いは、今に始まった事やあらへんもんな。
 初等部時代からのお付き合い。
 喧嘩している二人の仲を保ったり、お互い様や言うて突っ込み入れ合ったりしてたもんな。ホントに、今更やった。

「で、何があったんですの? ああ、やはりいいですわ。木乃香さん。貴方が頭を悩ませていること、当ててみましょう。
 刹那さんの事でしょう? 帰ってきていらしたのですね。お会いしたなら、よくもネギ先生を悲しませましたわねと文句の一言でももうしたいですわ」

 ……正直ビックリの連続やった。
 そりゃ、いいんちょは洞察力もあるし、あの頃から特筆するほど多くの才能に満ち満ちとった人やったけど、今では人の考えてる事まで解るようになったんか。
 そうも思ったけど、それは間違えやろうなとも思う。
 半年前のお話。久々に会ったいいんちょとの再会の場所は、薙刀部の部活動中の話やった。

 見上げたバルコニーの先に、金髪のお嬢様っぽい人が立ってるのに皆が気付いて、あんまりにも皆きゃーきゃー言うもんやから練習にならへん思ってバルコニーに上がって、其処で会ったのが、いいんちょやった。
 ウチも結局練習投げっぱなしにしていいんちょとお話してもーたんやけど、その時のお話は、何のことやない。明日菜とせっちゃん、それに四年前の事やった。
 ああ、そうや。あの時、ウチ散々せっちゃんの事とかで文句言ってたもんな。
 したら、今のウチの雰囲気がその時と同じや言うのなら、気付かれてもしょうがあらへんかもせーへん。

「正解。流石はいいんちょ。未来の社長令嬢やな」
「社長令嬢などになる気はありませんわ。私は自分の脚で様様な土地を廻り廻る事の方があってますの。
 明日菜さんの影響かもしれませんわね。あの方、あの頃から何処へ行くにもドタバタしてましたもの」

 ……そう。あの頃から明日菜はドタバタしとった。
 何処へ行くにも全力投球みたいな感じで、皆を引っ張っていくすごいパワーの持ち主やったよな。
 それが、皆から見るとドタバタしているようにえとってな。
 いいんちょ。いいんちょは知らないかもしれへんけど、明日菜、今でもどたばたしてるんえ。
 世界中の色んな所に行ってるんよ。ひょっとしたら、いいんちょの旅先で出会えるかもしれない思ってたけど、会えへんかったんな。
 残念や。いいんちょなら、一発引っ叩いただけで明日菜戻って来てくれるかもしれへんのに。

 いいんちょも明日菜のことを話すときは、ちょっとだけ声が滅入った感じになってまう。
 それだけ二人は仲が良かったし、二人は長い付き合いやったんよね。
 だから、ちょっと明日菜といいんちょの関係が羨ましい思うん。こんなに距離が開いている言うのに、二人はどこかで繋がってるみたいな雰囲気がするんよ。
 だから明日菜の影響で世界中を廻ってる言った時。びっくりした。
 今でも世界中を廻って、そして帰ってきた明日菜。世界中を旅していて、色んなところへいったいいんちょ。
 その二人が、同じような時期に帰ってきたんやもん。びっくりで、それと、ちょっとだけ通じ合ってるみたいで、羨ましいわ。

「…………羨ましいなぁ。いいんちょ、明日菜と以心伝心してるみたいやわ。
 ウチは……あかんな。せっちゃんとまるで通じてへん。
 ウチの気持ち、真っ直ぐ伝えたつもりやったんけど、ダメだったわ。ウチ、不器用なんかもしれへんな」

 そんな事は知っとった。
 ウチが不器用なんて事、ずっとずっと前から承知の事実や。
 せやから、せっちゃんに自分の意思なんてロクに伝えられへんかったし、伝えてもこうして後悔ばっかりやもん。
 溜息をついて、天を仰ぐ。空を行くのは鳥さんいっぱいと、それと轡を並べて飛んでる、大きな大きな銀色の鋼さん。
 あはは、なんや。鋼性種さんまで、せっちゃんとウチの仲を哀れんでるみたいに鳥さんと飛んでるわ。

 あんなに違う生物同士なのに、同じ場所で、同じように飛んでられるんに。
 ウチとせっちゃんは、同じ人間なんに、同じ場所で、同じようには生きていけへんのやろかな思う。
 そんな事ない。だから、あの仰いだ空の上で飛んでいるのはお手本やえ。
 ウチとせっちゃんの、お手本。二人並んで飛べるような、そんな、お手本。
 いいんちょは黙ったままやった。ただ、ウチの様に空を見上げることも無く、ただただ目の前に置かれたカップの中身を口へ運んでくだけ。
 ウチは青い空を見つめて、いいんちょは白いカップを見つめたまま。

 時間の流れは止まったみたいに。周囲を流れていく。

「……それで、木乃香さんはどうしたいんですの? 刹那さんを赦したいんですの? それとも、赦すことは出来ないんですの?」

 それは解らへんかった。けど、赦すとかと言うのとはなんや違う気がするん。
 ウチは、きっとせっちゃんの事を恨んだりはしてへん。それは絶対で、でも、それならどうしてせっちゃんを赦せてないのかが解らへん。
 ウチは、強なった。せっちゃんに守られへんでも大丈夫なぐらいに強くなって、それで、それでどうしたかったんやろ。
 解ってる。ウチはせっちゃんと仲良くなりたい。それは、絶対の事で。
 だったら、どうしてせっちゃんをあんな風に拒否してしまったんやろ。やっぱり、ウチ怒ってるのかもしれへんな。

「……でも、私がどうにか言ってもどうにかなる問題ではないかもしれませんわね。
 木乃香さんも桜咲さんももう大人。あの頃とは違うのですもの。
 クラスメイトの皆さんとも離れ、お一人で歩み出した道ですわ。お二人で答えをお出しすることをお勧めいたしますわ」

 優雅に。でも、ちょっと厳しくいいんちょはそう言う。そうかもしれへんな。
 ウチも20歳になって、大人になったん。だから強くもなって、今を頑張ってる。
 答えを出せるのは、ウチとせっちゃんの二人だけ。
 いいんちょの言うとおり、これはウチとせっちゃんの問題やもんな。せやから、ウチらで解決せなあかんのやけど。

「ごめんな。なんや愚痴みたいになってしもうて」
「いいえ。フフフ、でもなんだか嬉しいですわ。あの頃でも相談など受けたこともありませんでしたもの。
 まさかこの歳になってからこの様に相談事を受ける事になるなんて。思ってもませんでしたわ」

 そうやったかも。中等部時代でも、こうやっていいんちょに心底から相談事したことなんて、思い返せば殆どあらへん。
 あの頃はネギ君も居ったし、それに周りの皆も居った。
 明日菜にせっちゃん、皆と仲良くやっていたから、相談事なんかもずっとずっと心の奥底に留まり続けていたのかもしれへん。
 だから、今こうして話せてる気がするんえ。明日菜が居なくなって、ネギ君が居なくなって、せっちゃんが、あの頃のままに帰ってきて。そうして、一人ぼっちだったウチ。
 そうやなぁ。ウチ、寂しがりやったんやなぁ。
 だからこうしていいんちょと話しているし、悩み事も話して、何とかしたい思ってる。

 でも、やっぱり答えは自分で出さなダメなんやね。
 解ってる。これはウチとせっちゃんの問題やもん。いいんちょに何もかも手を貸してもらうわけにはいかへん。
 まだ悩みは尽きてへん。まだ、考えなくちゃいけない事も多いし、せっちゃんともお話せなあかへん。
 尤も、あんなふうに話してもーたからもう一回口利くのも大変なんやけど。

「それで? もう一つ隠している事は何ですの?」

 ぎくりと、胸の内がびっくりしてもーた。
 顔を挙げる。目前には、にっこり笑顔で頬杖ついたいいんちょが、ウチの心の中身なんで全部お見通しですわよ、みたいな顔で見入ってる。
 綺麗やけど、怖い。怖いんやけど、なんやああ、この人には勝てへんなぁ思ったりもした。

「何で気づくん?? ホンマにいいんちょ、洞察力鋭くなったぁ」
「あのですね、木乃香さん。昔のほわほわしていた貴女の方がよっぽど表情が読みにくかったですわ。
 今の貴女の顔、鏡見てますの? 酷い顔。そんなのでは、誰が見たとしても何か隠し事をしていると認知できますわ」

 うにっと、自分のほっぺを引っ張ってみる。
 痛い。そりゃ痛いのは当たり前なんやけど、そんなに変な顔をしているのかなとも思ってしまう。
 まぁ。確かに昔ほどウチは笑えなくなってた。
 それは、きっと、他の人から言われても知っとったし、自分でも何処と無く自覚は出来ておったっけ。
 笑えなくなったからどうこう言うわけやあらへんのやけど、そっか思う。
 笑顔が浮かべられなくなると、表情からいろんなこと読み取られるようになってしまうんね。いいんちょからの教訓。しっかり受け取らせてもらうわ。

 朝起きてみる鏡の中のウチの顔。笑顔やった時期がはたして一度でもあったやろか。
 誰かと一緒の時以外で、ウチが笑顔になった時期はあったやろか。
 ない思う。なかった筈や。間違えなく、ない。断言してもええかもしれへんな。ウチは、今日の今日まで一人になって笑んだ事は、なかった。
 しょうがあらへんやん。皆、居なくなってもうたんやもん。笑顔で独りでにへらにへら出来る訳、あらへんやんか。
 正面向いて、笑う。笑顔にもなりきれてへん、苦笑じみた笑顔だった。そんなの、誰でなくても、自分自身が一番自覚できておった。

「―――それで、もう一つの隠し事は何ですの?」
「―――いいんちょには朗報かもしれへんなぁ。ネギ君、帰ってきたんえ」

 ガタンと、いいんちょが眼を大きく見開いて立ち上がる。まぁ、予測どおりの反応やね。
 いいんちょ、ネギ君にお熱だったもんなぁ。せやから、この後どんなリアクションを取るんかはちょっと予測できていたんやけど。どうにも、なんやリアクションが薄い。
 眼を見開いてガタッとしたんはたったの一瞬。落ち着いた雰囲気で席に付いて、でも、夢見るみたいに空のカップを見つめとる。

「……そうですの……ネギ先生がお帰りになられたんですのね……」
「……いいんちょ? 嬉しくないんの? ネギ君帰ってきたんえ? 昔のいいんちょならもっとええリアクション取る思ったのに」

 こう言う質問もホントは昔のいいんちょにはご法度やった。
 いいんちょ、誰かにショタコンとか言われるん、嫌がってたもんな。
 でも、今のいいんちょは全然やった。ウチのさりげないそんな一言にも反応しないで、静かに空のカップだけを愛しげに見つめとった。

「昔は、ですわね。今と昔は違いますわ。今の私と昔の私では大きく違う事がありますわよ?
 大人になって……今は仕事命の女のようなものですもの。
 五年。早いものですわね。気持ちが変わってしまうと言うのは」

 夢見るように、いいんちょはそう言ってのけた。
 何処か、悲しげな眼差しで。何処か、遠いものを見るような眼差しで。
 そして、何処か。二度と戻らない日々を惜しむような眼差しで。ずっとずっと、虚空を見つめ続けとった。
 お互いにだんまり。一言も交えずに、どんどん時間だけが過ぎとっていった。
 ふと、いいんちょの方を向くと、なんや、やっぱりなんか嬉しそうな顔立ちで笑っていた。
 それが、ネギ君のこと、まだ思っているんやなと思って、その笑顔を見ている。

「―――木乃香さん、ネギ先生をどんなお言葉で労って挙げるんですの?」

 それは、ちょっと不意打ちやったかもしれへん。いいんちょはてっきりネギ君のことで頭が一杯でニコニコしていたと思ってたんに、急に振ってくるんやもん。
 どんな言葉で労ってあげるのかといわれても、正直、どんな風に言ったらいいんか、ウチ、解らへん。
 ネギ君も一人ぼっちで、ウチも一人ぼっちやったのはわかってる。でも、ウチは、ネギ君を―――

「……解らへん。でもなんや納得も出来てへんかも。急に帰ってきて、いきなり労う言うのは多分、今のウチには出来へんと思う。せやから」
「あら? では何時の貴女なら、今のネギ先生を労って差し上げられるんですの?」

 ひゅうって、風が流れた。目の前に両手で顎を支えるようになったいいんちょは目を細めてウチを見てる。
 その綺麗な眼差しは、なんや、ウチのもっともっと奥を見据えているみたいな―――
 何時のウチなら、今のネギ君を労ってあげられるんやろ。
 いや、そんなん無理やえ。今のウチは、今しかいーへんもんな。何時のウチでも、今のネギ君を労って挙げられてなんて。
 頬杖突いたままのいいんちょが、かすかに笑う。
 本当にかすかな笑顔。それは、なんか、ウチの顔の変化を見て笑っているみたいな。

「もぅ。本当にあの頃の貴女とは思えないような代わり振りですわね、木乃香さん。ネギ先生が帰ってくるという事の意味、それが何を意味しているのか、ちゃんと解っている筈では?」

 ネギ君が帰ってくる意味。それは一体なんやろかって、その意味を考えてみる。
 帰ってきた。皆帰ってきた。せっちゃん。ネギ君。明日菜。
 皆、帰ってきたんや。どんなカタチでも、皆、此処に。この麻帆良に、帰ってきた。その意味は―――

「まぁ、大丈夫ですわね。貴女ですもの。信じてますわよ、木乃香さん」

 先に動いたのはいいんちょで、荷物と一緒においてあった大きな丸いつばの帽子を被ると、春の終わりも近いにも関わらず、ちょっと分厚い白のコートに袖を通して、席を立つ。

「―――もうちょっと此処には居るん?」
「ええ。休暇は長く取りましたもの。暇があればお泊りにお伺いますわね。
 あまり悩まないように。大丈夫。木乃香さん。答えは、もう出てますでしょう?」

 去り際に、いいんちょはそう言って去っていった。
 翠の隙間から差し込む銀色の光を浴びるその後姿は、心底に、優雅で、華麗で、でも、ほんのちょっと。ホントに、ほんのちょっとやったけど。


 鎌みたいに、鋭い気がした。


 ……空を臨む。ああ、広い広い空なのに、ウチらは翠の檻の中。解き放たれる日は二度とは来ない、そんな籠の中や。
 でも、籠は何時かは開け放たれるような気もするんよ。何時までも囚われたままとは違う。そんな気も、ちゃんとしてるん。
 答えは、もう出ているんかな。そんなのは解らなかった。解らなかったけど、でも。いいんちょの言う事を、ちょっとだけ信じたかった―――
 鋼性種が行く。ウチも荷物を持って、行く。去り際に振り返り、小さくなった人影の中には。白のコートの人は、もういーへんかった。


―――――――――――――――――――――市街地:夜


 夜。相変わらず空は満天の星空。天空には、満ち欠け始めた白い巨岩だけが無貌で浮び、眼窩の世界を照らしあげている。
 その最下層。天を行く銀壁のソレを抜け、翠の枝葉を越え、さらに下を行く。
 レンガ造りの構造物。麻帆良学園都市東側湖上に、四つの影がある。
 二本の刀を携えた、あの巫女服にも似た烏族特有の戦闘服桜咲刹那に、白いローブに身を包んだアルビレオ。
 それと似たような出で立ちながらも、何処か落ちつかな様相で更に奥の闇の其処を見つめているネギ・スプリングフィールドと、それを心強そうに、あるいは、やや心配そうな眼差しで、少年の背を見送っていた。

「…………やはり、エヴァンジェリンはこないのですね」

 その場にエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの姿は無い。
 無理も無いだろう。彼女は既に魔力を持たない常人のであり、これから始まる死闘の場に追いつけるような身体能力は持っていないのだ。
 あるいは、居ない方が効率良く事を進められるかもしれない。
 相手は、かの鋼化した神楽坂明日菜。そして、それと同じくして居るであろう限死である。
 それらと互角にやりあえねば、即殺されても誰も助ける事など出来ないのだから。

 だが、アルビレオは彼女の援護を求めるよりは、彼女の知恵を欲していた。
 恐らくは、どの人間よりもエヴァンジェリンは深い知識を持った人物である。
 その知恵は、仮令戦力でなくとも充分過ぎるほどの戦力になる筈なのだ。

 今回の方法で神楽坂明日菜が元に戻せるとは限らない。
 神楽坂明日菜が今だ『神楽坂明日菜』と言う少女の形状を成しているが故、その根源たる部分。
 神楽坂明日菜を神楽坂明日菜として存在させている定義。
 それにより、神楽坂明日菜の魂を呼び起こそうと言うのが今回の案である。

 それが、魔法でどうにかできるのかなどは誰にも解らない。
 あるいは、この場に居る四人全員は、ある一つの結論を出しているかもしれない。
 それは、元に戻る可能性は限りなくゼロに近いということ。
 相手はマジックキャンセル能力を保有し、かつ、鋼性種の非認識無力化能力すらも取り備えた対魔法使いに関しては天敵と呼ばれるモノを大きく上回る。
 それは、魔法使いから見れば最早第二世代に近い。
 何事をも受け付けない第二世代。生存する為にその害となる要因を全て破棄することの出来る完全生命体。
 それが第二世代と言う生物であると、高畑・T・タカミチが発表した機能得限止の鋼性種考察にはそう記されていた。

 鋼化した神楽坂明日菜は、鋼化現象によってより第二世代へ近づいたといっても過言ではない。
 第一世代であった神楽坂明日菜と言う『人間』は、鋼性種の生体情報の集約である単一性元素肥大式の混入された注射器からの液体で鋼化、鋼性種へと『転醒』を行った。それにより、神楽坂明日菜は鋼性種化したのだ。

 元々自らの害となる魔法に対しては絶対的な耐性を持っていた神楽坂明日菜だ。
 鋼性種化した事で、その特性がより際立っている事など、その場に居る全員が予測している。
 故に、魔法で元に戻すと言うのは最早不可能にも等しかった。
 だが、他に方法など無かったのも事実。彼らは魔法使いであり、この世界のどの人間よりも暗部、裏に精通している人間の集まりである。
 アルビレオもタカミチも。そして桜咲刹那も、ネギ・スプリングフィールドですらも。
 彼らは皆、各々でその暗部から様々な情報を仕入れていっていた。

 だが、どれだけ暗部を捜し、どれだけの情報を仕入れても、鋼性種相手となっては話は別だった。
 人の住む世界が崩れかけた現状の世界でも、暗部に住むものや裏で生きている者達は多い。
 あるいは、鋼性種が出現する前よりも活発になったと言えるだろう。
 だが、それらの裏側の住人でさえ、鋼性種と言う存在への介入は禁じられていた。
 鋼性種の“鋼”の字にさえ反応する者すらいる始末。
 それほど鋼性種と言う生命体は壮絶であり、鋼性種と言う生命体への関わりがタブーとされているのだった。

 その中で仕入れた鋼化現象した生命体の正常化方法。
 そも、鋼化と言うのが『転醒』と呼ばれている以上、鋼化事態が『異常化』なのかの判断すらつかない。
 従って、正常化と言うのもまた、間違えているのかもしれない。
 元に戻せるのか否か。散々世界を時間ある限りで調べ尽し、得られた鋼化からの脱出方法。
 それが、はたして本当に鋼性種と化した生命体を元の状態へ戻せるのか。

 アルビレオを初め、その場の三名はソレだけが不安だった。だからこそ、エヴァンジェリンの存在は欠かせないとも言えたのだ。
 だが、この場にエヴァンジェリンはいない。幾ら魔力が完全に尽きたとは言え、エヴァンジェリンの気配探知能力は永年によって積み重ねられたモノであり、魔力などの関係性ではない。
 従って、この学園内の気配探知能力ならば、エヴァンジェリンは今だ健在の筈なのだ。
 それを知って、エヴァンジェリンは此処には着ていなかった。
 神楽坂明日菜の帰還も、恐らくは知っているであろう。にも拘らず、エヴァンジェリンが此処に来ないという事は―――

 ネギ・スプリングフィールドは顔を俯ける。それは、自分にも責任があるのだろうという事からだった。
 エヴァンジェリンが、全てを知りながらも此処に現れない理由。その理由は、エヴァンジェリンが単純に魔力を失ったからと言うワケではないと。
 少年が失ったものは多く、損なわせたものもまた多い。
 数多くのものを失い、数多くの人間から損なわせた。
 それは、罪の一種であり、それは、少年へのせめてもの、ささやかな罰であったのかもしれない。

 来ない人間を悔やんでも仕方が無いと想い、アルビレオは意識を集中させ始める。
 相手は、自然界と何より共生できる生命体の一端であるのだ。ソレ相手にする為には、何より先手であり、何より徹底的に攻めなければいけない。
 鋼化生命体相手に一方的徹底的と言うのもおかしな話だが、他に手は無い。だからこその四人であり、しかし、少数精鋭と言うカタチでの四人だった。
 夜風が撒く。夜波の様に枝葉は擦れ、夜の麻帆良は大海原のような轟音に包まれる。
 それも、鋼性種のお陰なのか。何故か酷く心地よく聞こえるのだ。
 鋼性種の、認識しない事は干渉しない、出来ないというものが広範囲に亘って齎されているのか。
 夜の麻帆良は、起きている人間だけが、この大海原の様な轟音を実に浴びる事が出来るのだ。

「……一先ず戦法だけお話しておきましょう。明日菜さんの運動能力は通常のソレを遥かに凌駕しています。
 よって、接近戦闘を挑む、タカミチくん。刹那さんは出来る限り最高速度に近い速度でお願いいたします」

 二本の刀の内一本を引き抜いた桜咲刹那と、スーツのポケットの中に手を納めたタカミチが立つ。
 二人の役割は、早い話が魔法主体の二人が完全な魔法発動体勢に入れるまでの時間稼ぎだ。
 過去に双方鋼化した生命体と刃と拳を交えたが、その時は手も足も出なかった事など知っている。
 だがその時から既に五年。タカミチも桜咲刹那も腕を更に挙げ、その実力はかつてのサウザンドマスターの仲間のソレに迫るまでになっている。
 問題は、それが鋼性種相手であると、霞に霞んでしまうという事なのだが。
 この際それも不問とするしか在るまい。他に頼れるような人間は、この学園内には居ないのだから。

「私とネギ君はお二人が明日菜さんをお止めしている間に呪文詠唱を行いましょう。
 効力が有るかどうかは放ってみるまで解りません。少々強引な策ですが、他に手段が無い以上、コレで行きます。宜しいですね?」

 反論など無い。他の手段などない以上、どれだけの愚策であってもそれに任せる以外には道は無いのだ。
 その場の全員は、あえて想っていることを言わなかった。
 知っているはずの事であり、八割を越す確率であると認識しておりながら、その言葉だけは胸の内に収め続けていた。
 もし、元に戻らなければ如何様にするのか。
 それだけは、四人共に心の中に納め続けた。それは考えてはならない。考えれば、成功するものも成功しないとだけ言い聞かせ―――
 空気が変わる。敵ならざる敵の来る気配。

 それは、闇の中より放たれたモノであり―――臙脂の髪の獣が、長い外套をなびかせて現れた。

 見合う様な間もない。
 臙脂の髪の獣。それを目の当たりにして、まずタカミチは顔を顰め、ネギ・スプリングフィールドも顔を顰める。
 見れば、少年の方には僅かながら涙も浮かんでいるか。
 アレが、かつて自分を慕ってくれた少女なのかと。タ
 カミチは鋼化した神楽坂明日菜の姿を見るのは始めてであったが、その異様と威容に顔を顰めるほか無かった。それほど、目の前の少女の異様は想像以上だった為である。

 同じく想うはネギ・スプリングフィールドである。
 大きく成長した少年がまだ小さく、見上げているに過ぎなかった時とは違う。
 今の少年と臙脂の髪の少女の身長は同じ程度。
 少女は、少年が最後に見たその姿の頃から何一つ変わっていないと言うのに、見上げていた頃の、あの太陽のような笑顔は無く、僅かに見える口の端から犬歯をむき出していた。

 その異様と威容に苦悶の顔を浮かべても、両者は一部たりとも心を乱しはしない。
 決意。それが、両者の心を強く繋いでいるからだ。
 一歩踏み込むたびに、世界が揺れるかのようなほどの威圧感。
 当たり前だ。目の前に立つ少女は、少女のようであって少女ではない。
 既に鋼性種と同区画に分類してよい生命体。鋼化と言う鋼性種化現象を以って、人間以上と成った特殊生命体である。

 歩み寄って揺れる大地が、その手に持つ鉄塊に寄るものなのか。
 それとも、実際に獣と化した神楽坂明日菜自身の重量なのか、誰一人として判断が出来ない。
 鋼性種は外見では判断の付かない生命体であり、それは鋼化生命体にも該当するのだ。
 タカミチと桜咲刹那が並んで出る。
 同時に、後方の二人、ネギ・スプリングフィールドとアルビレオ・イマが構え、その口の中で呪文を詠唱し出す。

 二対一、否、四対一でありながら、神楽坂明日菜は一歩も引かない。
 ただ、ぐるぐると、獲物を狩る前の獣の様な距離を図る動きで彼らの外周を廻っている。
 ポケットに収められる両拳。横一線に構えられる白刃。
 そして、集っていく魔力。だが、あの五年ほど以上の魔力は集わず―――二者と一匹は激突を開始した。

 飛び出したのはほぼ同時。
 桜咲刹那もタカミチも、お互いに瞬動を混ぜた特攻で、神楽坂明日菜との距離を零までにし、その背後に立つ。
 振り返り様に打ち込まれる高速の拳と、音速の斬戟。
 独楽のように回転しながらの横薙ぎと、かの打ち下ろしの居合い拳。
 それが、神楽坂明日菜の胸の高さ背中を抜け、頭上から落とされる間際であったか。神楽坂明日菜は、既にそこに居なかった。

 空中。華麗な動きでバク転している神楽坂明日菜の姿があった。
 体を限界まで反り、三日月のような美しい体勢で飛び上がっている神楽坂明日菜。
 とても、鉄塊を担っているとは思えないその身軽さに、攻撃を打ち込んだ二者の動きは完全に凍る。

 なんと言う反射神経だろうか。
 完全に動き出したのは彼女たちが先手だったと言うのに、神楽坂明日菜は後手に回りながら先手必勝の一撃を容易く、そう、容易くであろう。回避しきって見せたのだ。

 飛び上がった神楽坂明日菜が両手持ちにその大剣を身構える。
 落下の位置は、恐らくは瞬動を以って移動した剣士と拳士のその背後。そこに、獣の少女は落ちるつもりなのだろう。
 ネギ・スプリングフィールドは思わず心のうちで唄っていた詠唱を中断しかかる。
 あの大剣の一撃がどれ程なのか、少年には理解出来ない。だが、臙脂の少女が持ち上げるにしては余に巨大な鉄の板。
 それが、鋼化した肉体を持って放たれる一撃がどれ程なのか。理解出来ない方が正常とも言える。
 だが、打ち下ろしの体勢になった神楽坂明日菜のその気配を、攻撃を打ち込んだ剣士と拳士が理解出来ないわけも無く、剣士は、一息置かずに跳躍する。

 今度は剣士が三日月のような体勢になる番。体を極限まで反って振り下ろしの一撃を叩き込もうとしていた臙脂の髪の獣の目が、目前も目前まで迫った黒のツインテールにした髪の剣士の瞳と重なる。
 背中を向け、ほぼ頭上へと差し掛かっていた臙脂の髪の獣。
 彼女へ向けてやはりバク転の様に飛び上がった剣士の体勢は右欠けの三日月であり、同時に空中であった臙脂の髪の獣の体勢は相反するかのように左欠けの三日月を模し、両者の顔はお互いに両者の顔の真正面にあった。

 天に向けて足を向けていた剣士の体が、空中で捻られる。
 応じるように、獣の少女の身体が更に大きく反る。打ち下ろしと横薙ぎ。鉄塊と白刃の激突。
 独楽の様に捻られた小躯と、タイヤの様に回転し出す間際の小躯。
 お互いに振り抜かれた剣戟は絶殺必死の一撃。それが、空中で交わり―――
 金属音は、甲高く学園中に響き渡った。

 それが聞こえたのはたったの一瞬。
 獣の少女は、彼方に蜘蛛のように這い蹲った体勢で身構えており、剣士は、ネギ・スプリングフィールドらの足元まで吹き飛ばされていた。
 剣士の傍らに瞬時に拳士が移動する。
 それを見る間もなく、拳士と剣士は駆け出した。否、駆けると言うよりは、やはり瞬動。一瞬で距離を詰めきる、その技能である。
 だが、それとほぼ同時。臙脂の髪の獣はその鉄塊を地面へとたたき付けた。
 鉄塊がめり込む。両刃で有りながら、刀の様な形状をしているその剣。
 その、みねに当たる位置。其処が、僅かに動いたのを、瞬動中の桜咲刹那は見た。

 そして思い出す。先に獣の少女と激突した際の、ある現象。
 かの大剣が急激に軽くなった事。軽くなり、打ち込みの速さが増した事。
 そして、その直後に自らの足元を次々穿っていった鉄針の雨が降り注いだ事を。
 瞬動状態のままで、桜咲刹那とタカミチは突き抜ける。恐らくは、鋼化している神楽坂明日菜にはまだ遅く見えるだろう。
 それでも、二人にとっての限界速度で、臙脂の髪の獣に目掛けて二人は突っ込んでいく。

 だが二者は高速移動の最中で思う。僅かに動いた大剣のみね。そして、その中に何が入って居るのかを知っている桜咲刹那。
 それの考えが纏まるより先に―――瞬動状態から常時速度へと移る一瞬。桜咲刹那の目の前は、剣山に覆われた。
 眼を見開く。ソレより先に、瞬動の速度を押し留めようとする。
 だが間に合わない。一瞬で距離を詰める瞬動移動だ。その速度は瞬間的では何にも勝る。故に、急激にその速度を変える事は出来ない。

 桜咲刹那の真正面に展開される、針の壁。それは全て鉄塊のみねが上開した事で剣先方向へと伸びた鉄針であった。
 先日、瞬間で空中へと解き放たれた針の雨。それを、今回は壁に。突っ込んでくる相手を串刺しにするように、目の前に展開したのだ。
 桜咲刹那の鼻先に一番近い針が触れる。最早迷っている余裕もないと、剣士は、右方向へ脚部を捻った。
 捻折れるかの寸前の状態の右足。そこに、彼女は己が気を注ぎ込んで―――無理矢理、体勢を右へと流した。

 掠る。数本の鉄の針は、桜咲刹那の左肩を削り、鮮血を滴らせる。
 桜咲刹那が体勢を崩し、臙脂の髪の獣へ視線を向けた時、タカミチが、その背後で拳を振り上げているのが視界に入った。
 決まる。桜咲刹那も、ネギ・スプリングフィールドもまたそう確信したに近い。
 この五年でタカミチの鍛え上げた力を聞いている両者にとって、背後を取って居合い拳の体勢に入っているタカミチは確実に決めると踏んでいたのだ。だが、そこに例外が起きる。

 針を打ち出した剣のみね。やや上方へ浮いているかのようになっていた剣のみねが、そのまま剣を叩き落した体勢になっている臙脂の髪の獣の方へとスライドしたのだ。
 ちょうど、握り手、二の腕、肩の真上を通り過ぎるかのように、針を打ち出した場所にあった剣のみねは一気に伸び―――後方へ居た、タカミチの頭部目掛けて一気にその形態を槍のように伸ばしたのだ。

 剣の中に剣の節が込められていたに近い。百足の様な剣の節。
 それが多重に連結し、一気に後方まで延びたのだ。それを回避する為に、タカミチは離れてしまった。
 大剣の構造。それは、二人が思っている以上に複雑であり、しかし、獣の本能でしか戦っていない筈の少女は、それを完璧にも近いカタチで扱いきっていると言うのだ。
 桜咲刹那とタカミチは思わず笑った。一瞬だけ、心の底から感嘆したのだ。
 かつての神楽坂明日菜を知っているタカミチは、幼少の頃のガトウ・カグラと共にあった頃。
 その頃の神楽坂明日菜を思い出し、よくも此処まで強くなったであろう事を感嘆すると同時に、ガトウ・カグラが最後に言った神楽坂明日菜への言葉を思い出して、僅かに奥歯を噛み締める。

 かたや、かつての神楽坂明日菜を知る桜咲刹那は、あの武道会において剣を交えた時。
 その時の神楽坂明日菜を思い出し、これ程までに強くなれたのかと、その潜在能力に感嘆すると同時に、共にあの少年を守っていこうと約束した事を思い出して、眼を伏せた。
 針が収納され、後方へ伸びたみねが元へと戻っていく。
 元の鉄塊の剣へと戻ると同時に、臙脂の髪の獣は、倒れ臥した二人に顔を向けることも無く、一気に魔法使い二人へ向けて、突撃していった。

 倒れた二人が驚愕の顔立ちをする。
 解っているのかとも思考したが、それは否と切り捨て、だが、しかしと二人は瞬時に考えを纏めると、一気に駆け出した獣を瞬動で追い出した。
 臙脂の髪の獣。鋼化した神楽坂明日菜は、基本として鋼性種と同じ性質を重ねていると言うのが一番正しい。
 鋼性種は認知できる物事にしか干渉せず、干渉させないと言う性質を持つ。鋼化により、鋼性種化した生命体も、若干ながらそれは継承するのだ。

 神楽坂明日菜は攻め込んできた二人に反応し、迎え撃った。
 それは良い。それは生命体としては生存に対して何より執着する鋼性種の性質を大きく受け継いだが故の行動。どれは、まったくもって不思議ではない。
 だが、と二人は思考した。もし、自分の生存に関わる事態で、より大きい方を感じ取ったとすればどうなるべくのか。
 攻め込んでいた二人以上に、生命の危険を感じさせる存在を感知したというのならば、鋼化した生命体はどちらへ向かうのか。そんな事、解りきっているにも等しい。

 臙脂の髪の獣は、溜まっていく魔力を感知したのだ。
 そして、それが己が生存に関連する事である。
 そう認知して、倒れ臥した二人には眼も払わず、一気にネギ・スプリングフィールドとアルビレオ・イマ目指して突っ込んでいた。
 瞬動状態の桜咲刹那の剣に気が溜まっていく。
 それが最大まで溜まりきる前に、桜咲刹那は、躊躇無く、剣を振り下ろす。
 放たれる剣圧ならぬ気の塊。神鳴流なる剣術における、基本中の基本とされる気の射出による遠距離攻撃である。
 威力は差ほどではないかもしれないが、同じ生物としてならば充分に効果の有るだろう、その一撃。

 それを背後に迫るのを感じてか感じずか、しかし、獣の少女はその勢いを衰えようとはしない。
 一直線に、愚直なまでに真っ直ぐに相手へ向かって突っ込んでいく姿は、かの神楽坂明日菜そのものであり、しかし、確かな殺意を持った鋼化生命体のそれに他ならない。
 ネギ・スプリングフィールドとアルビレオ・イマはそれを知っている。
 突っ込んでくる事などしっかり理解できている。だと言うのに動こうとしない。正しくは、タイミングを見計らっているのだ。
 実は、既に二人が発動させなければいけない魔法の詠唱は完了している。
 それで以ってなお動き出さない理由。
 壮絶な動きを披露する臙脂の髪の獣にその魔法を打ち込むには、一時的でも意識を閉じさせるか、あるいは動きを止める必要があるのだ。
 故に、鋼性種独特の人外の動きで以って行動している神楽坂明日菜には、まだ完成させた魔法を打ち込む事が出来ないのだ。
 だから待っていた。動きが止まる瞬間、あるいは、こうして、正面から突っ込んでくるそのタイミングを―――

 アルビレオ・イマの片手が翳される。それと同時に、臙脂の髪の獣の動きが僅か、ほんの僅かにだが鈍った。
 尤もそれも一瞬であろう。アルビレオが行ったのは重力魔法だが、臙脂の髪の獣本人にかけた訳ではない。ただの、突っ込んでくる先の空間に対し施した一種の障害物的なもの。
 バキンと、施された重力の結界は容易く解かれた。だが、一瞬ならずともその動きが鈍ったのは事実。
 本当に一瞬である。よほどでなければ気付けないような、一瞬の速度の鈍りに―――少年は手を翳し、決意の元に、完成させた魔法とは違う、しかし、既に完成させていた魔法を解き放つ―――
 奔る暴風と雷。少年が行える攻撃魔法の中では最大級の魔法を、間髪いれずに解き放ったのだ。
 僅かに体勢を崩していた臙脂の髪の獣を穿つような一撃と、そして、獣の背後から直の剣気。それが挟み撃ちのカタチで直撃する瞬間。
 臙脂の髪の獣は手を出す。右手を、僅かな距離から打ち出された少年の大魔力の込められた魔法に向け、方や僅かにまで迫った剣気。それを迎え撃つように、大剣が天へ構えられる。
 次の瞬間に広がったのは閃光。視界全てを塞ぐほどの閃光の中で、その場の全員の視界は完全に封じ込められた―――

 爆煙が舞う。しかし、その爆煙の中でも、その場に居た四人は確かにその姿を捉えていた。
 追っていた桜咲刹那とタカミチ。魔法を打ち出したネギ・スプリングフィールドとアルビレオ・イマの間。そこに立っている、臙脂の髪の獣を。
 右手に奔る電撃。そして、完全に叩き潰された剣気。
 それに、その場の全員が息を飲む。
 無理も無いだろう。距離的には、ほぼゼロ射程にも近いような距離から打ち出された魔法と、魔を狩る神鳴流の剣術から打ち出された剣気。
 魔法の方はマジックキャンセルのその特性からわかるだろうが、だがマジックキャンセルだけでない事を、ネギもアルビレオも理解していた。
 また、剣で掻き消された剣気だったが、それもまたただのマジックキャンセルではない事など、桜咲刹那とタカミチにも理解できていた。

 あまりに壮絶になっていた。人間としてマジックキャンセルを誇っていた時以上に、神楽坂明日菜のマジックキャンセルの威力は向上していた。
 鋼化による鋼性種の非認知不干渉の能力。
 それも相まってか、マジックキャンセルは、マジックキャンセルどころの領域では収まらないレベルのキャンセラーとなっていたのだ。
 強制の終了だ。打ち消し、と言うレベルではない。無理やりでも、終了に導いてしまうというのだ。

 神鳴流の剣気を掻き消したのも同じ事。神楽坂明日菜は、飛襲してきた剣気に対し、マジックキャンセルのそれなど一部たりとも使っていない。
 本当に剣圧のみ。剣を地面にたたきつけるという行為だけであり、それも、片手での振り下ろし。
 最大膂力込められる両手持ちではない筈の片手で、神鳴流の技は潰されたのだった。
 アルビレオの頬に汗が伝う。滅多な事では動揺などしないアルビレオであったが、今の一瞬には驚愕の念を隠しきれなかった。
 如何に優れたマジックキャンセル能力とは言えど、まったく方向性の違う魔力と気を同時に捌く事は出来ない。
 それを、かの存在は本能的に悟ったと言うのだ。本能的に、悟り、マジックキャンセルの能力は一方のみに働かせ、迫る気の一撃は、剣圧のみで払ったのだった。

 アルビレオが一歩踏み出す。ローブを翻して、アルビレオはその身に強化の魔力を注ぎ込む。
 傍らに立っていたネギ・スプリングフィールドもまた、その身に魔力の鎧を纏わせた。
 両者が成すその魔法は、魔法使いにおける接近近接戦闘用の魔法である。それを、二人が使用したと言う意味合いは―――

「ネギ君。遅延魔法は最大でどれ程遅らせられますか?」
「大丈夫です。何もしてなかったわけじゃありませんから、良いと呼ばれるまで開放させるなと言われても、丸一日ぐらいは平気です」

 少年は僅かに汗を滴らせ、前へ踏み出す。同じく、アルビレオもまた、前へ。
 魔法と気の一撃による卒倒作戦が効かないとなれば、最早手段は一つのみ。
 接近戦闘による直接魔力攻撃。それによる気絶、あるいは動きを停止させる事で魔法を叩き込もうと言うのだ。
 四対一と言う状況。それも、一人は対魔戦闘集団でも高名な神鳴流剣士であり、一人はサウザンドマスターの仲間。
 それに加えて、通常の魔法使いから比べれば、遥かに高度な戦闘技術を誇る二人である。

 相手が鋼化生命体でないというのではないと言う事を前提するならば、どの相手でも勝利する事は可能だろう。
 だが、相手は鋼化生命体。鋼性種同様に、尤も第二世代に近づいた生命体の一種である。
 それが相手でないというのならば、この四人相手に単独で勝利を収められる相手などなかっただろう。
 鋼性種と言う生命体が存在していると言う事が、公になる前ならば、だが。

 二人の魔法使いが近接戦闘に参加しなかった理由は、単純に神楽坂明日菜を見くびっていたからではない。
 純粋に、彼女を傷つけずに元に戻そうと思っていたからだ。それ故、二人の魔法使いは接近戦闘には参加しなかったのだ。
 だが、その余裕は最早消えた。相手は、かの五年前以上に鋼性種へと近づいた鋼化生命体なのだ。
 気と魔力。相反する筈の攻撃を前後から受け、それを、マジックキャンセルと一切の不可の無いただの剣圧だけで押しつぶしたと言う事実。
 その事実を前に、最早、傷をつけずに卒倒、あるいは動きを止める方法などは思いも浮ばない。
 少年とローブの魔法使いが歩み出る。同時に、臙脂の髪の獣の左右背後に剣士と拳士が立つ。
 各員、各々の強化方法で強化した身体から立ち上る気と魔力。それを夜風に靡かせて、四人は、一体の獣を包囲した。

 父から譲り受けた杖を槍の様に構え、少年が立つ。
 流派不明ながらも、掌底の形状を取る片手を挙げ、ローブの魔法使いが身構える。
 剣を構え、僅かに、背中へ力を注ぎ込みかけて、剣士が白刃を平行に構える。
 ポケットに収められる拳。そして立ち上る気と魔力の合成の余波。それを靡かせ、拳士もまた立つ。

 四面楚歌。その状況下でも、臙脂の髪の獣は身構えもしない。
 ただ、次の瞬間に襲い掛かってくるであろう怒涛の攻め。それを、あくまでも正面切って迎え撃とうとするのみであり―――
 クロス状に立っていた四名の姿が、瞬時に消失する。
 消えたと同時か。臙脂の髪の獣が独楽のように、しかしその大剣を竜巻の様に振り回して、一回転を終えた。
 吹き飛ばされたのは二名。桜咲刹那と、アルビレオ・イマ。
 しかし、回避しながら臙脂の髪の獣の上方から飛び掛るのも、また二名。高畑・T・タカミチとネギ・スプリングフィールドの二人。
 やや跳躍体勢から瞬動に入った二人は、地面と平行に振り回された一撃を跳び越え、臙脂の髪の獣へと肉薄する事に成功していたのだ。

 吹き飛ばされた二名もまた、落ち着いているような余裕など無く再び瞬動に入る。
 それが早いか、臙脂の髪の獣の右上方から打ち出される目視不可の拳の一撃と、左上方から本物の槍と見間違わんばかりの勢いで突き出される木製の杖。
 だが、獣は体を捻るだけで二つの撃を避けきって見せた。瞬動から唐突なまでに入った攻撃だと言うのに、獣にはそれが見えていたかのような避け方。
 それどころか、僅かに髪の隙間から見えていた口が大きく開く。独楽の様に回転しながら、撃ちおろされた爆撃のような拳と槍の様に突き出された杖を避けつつも、その突き出された杖。それに、彼女は喰らい付いたのだ。

 一気に引き寄せられる。まるで、旋風に引き寄せられる木の葉の様な勢い。
 それと同時に突き上げられる大剣に、少年は顔を引きつらせた。持っていた杖を噛み寄せられ、しかも怒涛の勢いで顔面目掛けて突き上げられる大剣。
 数秒後には、少年の顔は突き抜かれる。そう思考した瞬間には、既に剣先は少年の鼻先に触れて―――
 だが、剣の軌道が大きく外れる。鼻先から後頭部へと突き抜けたであろう一撃。
 それは、鼻先を僅かに掠り、右頬に刃傷を付けながらも即死はしない程度でずらされた。
 同時に、引き寄せられていた感触はなくなる。目の前には、駆け込んだ桜咲刹那の足払いで大きく体勢を崩している臙脂の髪の獣が在った。

 それは、大きな隙のはず。鍛錬と研鑽を重ねた少年ならば、その隙に卒倒必至の一撃を加える事も出来るだろう。
 だが、少年はそれを良しとしない。足に込めた魔力は最大限。ソレを以って、少年は一気に退いた。
 退く間際に、少年の髪が数本断ち切られ、屈み込んで足払いをした桜咲刹那の頭上目掛けて何かがたたき落ちる。
 それを目認するより先に、桜咲刹那は、両手を地面につけて体を逆立ちの要領で挙げる。
 頭部の位置は足払いの時のままであったが、ちょうど振り抜いた足の辺り。そこへ、大剣がたたき落ちていた。

 退くのが一瞬遅かっただけで、少年の首は弾き落とされ、桜咲刹那の両足は断ち切られていた。
 その一撃は、体勢を崩した臙脂の髪の獣が、背中から地面へ落ちていくその状態を利用して一回転して振り抜かれた一閃に他ならない。
 逆立ち状態の桜咲刹那。瞬動により、数メートル間を空けた少年。
 突き出された筈の剣を振り上げ、崩れ落ちようとしていた背中に到達する勢いで振り抜いた獣は、剣が桜咲刹那の足を叩き切る筈の勢い振り抜かれたが、結果としてただ地面にたたきつけられるだけとなった。
 だが、ソレを以って尚、その勢いで獣は、空中へと上がったのだ。

 扇風機のように回転する獣に目掛け、アルビレオ・イマと高畑・T・タカミチが飛ぶ。
 左右から飛び掛った、二人の拳士。互いに、その拳に篭められた魔力と気の量は凄まじく、まともな悪魔やその類の存在ならば、容易く掻き消されてしまうだろうその一撃の載せられた連撃を、扇風機のように回転しながら、臙脂の髪の獣は全て捌いていっている。
 次々に打ち抜かれる拳と、舞う様に打たれていく拳撃。
 それを臙脂の髪の獣は、回転と絶妙な身の捻りだけで捌き、そして回避していっているのだ。
 そこへ飛び込んだ桜咲刹那が加わったのは、丁度、全身を一気に捻りぬいて、漸く扇風機のような動きを停止した臙脂の髪の獣が両手を広げた時と、また、空中で打ち合っていた二人の拳士がその勢いで吹き飛ばされた間際であった。

 刀と大剣がぶつかる。上がる火花は、火花と言うよりは閃光に近い。
 それだけの勢いと加速。それが、落下していく両者の間で交じりあわせられているのだ。
 両者の足が地面に到達するまでに刀と大剣が打ち合った回数を、桜咲刹那ですら確認し切れなかった。
 それだけの速度と打ち込みが、両者の間でめぐり合わせれていたのだ。
 幾度目かの横薙ぎ。それを、桜咲刹那は跳躍で回避する。獣が上空を見上げたと同時であったか、獣の右手側、左手側、そして後方。
 そこから、陰が一瞬で形を成す。右からは居合い拳の拳士。左からは、杖を構えた魔法少年。そして、後方からはローブの拳士が飛び込んできたのだ。

 横薙ぎに振り抜かれた勢いで、臙脂の髪の獣はそのまま一回転しながら、上空へと剣先を向ける。
 それの理由を、桜咲刹那は瞬時に判断した。一瞬だけ空中へと向けられた大剣、そのみねが開くと同時に、矢の様に、何が桜崎刹那目指して飛び掛って行く。
 かの鉄針。幾本もの鉄の針が大剣から射出され、空中の桜咲刹那への滞空攻撃となったのだ。
 刀を構え、打ち上がってくる幾本もの針を捌く。だが、その範囲は意外なほどに広い。
 肩、足、大腿、額、何箇所かを割かれつつも、致命傷にはならない範囲で、その針を捌いていく中、桜咲刹那は、とてつもない光景を目の当たりにした。

 針を捌く桜咲刹那の後方。三者が一体の獣に向かっていく中で、獣の大剣に異常な変形が発生する。
 針を飛ばし、みねの一部が槍のように伸びる。あの大剣はそれだけではなないというのだ。
 大剣の左右。刃を形成している左右が僅かに飛び出る。桜咲刹那が見下ろしている空中から見れば漢字の“三”あるいは“川”にも似た形状。
 それとなる。そうして後方へと向き直る獣、獣自身が相対する事を選んだのは、三者の中で最強であろう魔法使いであった。
 アルビレオ・イマ。ソレへ向けて三叉に分かれた大剣を構える臙脂の髪の獣。その左右から襲い掛かってくる少年魔法使いと、拳士相手には一部の警戒心も払っていないというのか。
 だが、“川”の形状を画いていた大剣の左右。真中の鉄板を除く左右に展開されていた二本が、激しく回転を始める。
 そして射出。扇風機のように。二本の刃は、凄まじい回転で、左右から突っ込んできた二人に襲い掛かっていく。

 だが、その一撃を避けられない程左右の二人は愚鈍ではない。
 身を咄嗟に捻り、二人は顔面目掛けて飛ばされた刃を避けきって見せる。
 だが、その一瞬。臙脂の髪の獣には、左右から突っ込んでくる二人の動きが、一瞬でも鈍ればソレでよかったのだ。
 全ての針を捌ききった桜咲刹那が地面を見下ろしていた時には、既に異変は起きていた。
 一瞬だけ、拳と大剣を交えていた臙脂の髪の獣とアルビレオ。だが、アルビレオの体は既に弾き飛ばされていた後であった。

 左右には身を僅かにだけ捻っている拳士と魔法使い。だがその後方。そこから、二枚の刃が戻ってくるではないか―――
 桜咲刹那が吼える。何を吼えたのかなどは記憶には無かったが、彼女は危険を知らせるべく二人に向かって吼えたのだ。
 見下ろす光景。魔法使いと拳士は後頭部ギリギリまで迫った所で、身を屈める事で大剣の左右を避ける。
 だが、その遅れも、鋼化した生命体には圧倒的な後手に廻る隙。
 三叉となっていた大剣は一振りに戻り、その状態になったと同時に、臙脂の髪の獣の体は一気に捻りぬかれた。
 飛ぶ二つ分の体。突っ込んだ拳士と魔法使いの少年の体は、その振り抜かれた大剣の勢いに圧倒され、紙の様に吹き飛ばされたのだ。
 そうして、その身を急速に回転させたままで、臙脂の髪の獣もまた、跳躍した。

 眼前まで身を捻りながら飛び上がった臙脂の髪の獣。その姿を、桜咲刹那はただただ見つめる事しかできていない。
 反撃に転ずる事が出来ない理由は至極単純。かの剣戟のやり取りを目の当たりにし、かつ、一瞬でそれを成して見せたと言うその事実。
 それを前に、神鳴流の剣士足りえる彼女は、相手が相手にならないモノであると認知してしまったからだ。
 だが、振り下ろされた大剣の風切り音で彼女は元の状態に戻る。かつて、顔面に向けて叩き落された一撃にも似た一撃。
 だが、今回は避け切って反撃に転じれる様な余裕なども無い。
 それだけの勢いと加速で叩き落された一撃を、桜咲刹那は、寸で引き抜いたもう一本の刀。それと愛刀である“夕凪”をクロスさせるようにして受け、その身を地面に向けて叩き落とされた。

 四方向に立ち上る砂煙。それの中心に、臙脂の髪の獣は立った。
 相変わらず勇壮と言う以上に獰猛な姿であり、その大剣を、相変わらず片手で持ちながら。
 先ず立ち上がったのがアルビレオ。かのまほら武道会では、無傷にして異常とも思える強さを発揮したかの魔法使いでさえも、鋼化した神楽坂明日菜相手には手も足も出ていないと言うのだ。
 ローブに付いた汚れを払いつつ、アルビレオは一度、大きく呼気を行う。
 それと同じか、アルビレオの左右に付く二人。魔法使いの少年と、居合い拳の拳士。
 やはりお互いにボロボロになった姿で、彼らは神楽坂 明日菜の方を見やっている。

「……やれやれ。まさかコレほどまでに力の差があるとは……それにもましてやりにくい剣ですね。ふぅ……できれば、正気の時に完璧に扱っている姿を見たかったものですが」
「……明日菜さん……」

 アルビレオと少年の呟きも、最早獣と化したかの少女には届いていないだろう。
 少年らの目の前に立つものは、最早神楽坂明日菜と言う少女であって神楽坂明日菜ではないのだ。そんな事は、その場にいた全員が知っている事であろう。
 だが、その場において、鋼化して獣と化した神楽坂明日菜がかつての神楽坂明日菜とは別ものであるという事を、全員が理解しているというのに、そうなった本質を理解できている人間は一人としていなかった。鋼化を選んだ神楽坂明日菜の本質。それを知る人間は、ソコには一人も。

 見合う一体と三者。桜咲刹那はいまだ遠くに吹き飛ばされたのか姿を見せず、見合って居るのは三人だけ。
 タカミチがポケットに入れていた自らの拳を引き抜く。その拳は僅かに出血で真紅に染まっており、そして、その拳に溜まっている筈の魔力と気。その変化に、タカミチは気づいてしまった。

「アルビレオさん。どうやら時間が来てしまったみたいですよ」
「……第零世代の反発魔力供給現象ですね……
 より第二世代に近い生命体である鋼性種を相手にすると、自然界内の第零世代が対局している対象への魔力供給を急激に押さえ込む減少ですか。
 ……やれやれ、人間も本当に自然界に嫌われてしまいましたね。
 幾ら第二世代進出候補から落とされたとは言え、多少なりとも魔力供給を行ってくれても良いと思うのですが」

 楽観的に語るアルビレオの頬に冷や汗が垂れる。
 今し方の衝突で誰一人肉体的な決定的ダメージを負ってないのは、単に魔力と気の供給が正常であった為に過ぎない。
 だからこそまともに相手を行え、辛うじてその壮絶な鋼性種の反射神経にも対していけたのだ。
 だが、その魔力供給が尽きつつある。この事態を、アルビレオは魔法界の噂程度で知り、ネギ・スプリングフィールドと言う少年は数年前、ある間違えから敵対関係になってしまった鋼性種から知り、そして、高畑・T・タカミチは、五年ぶりに感じ取っていた。

 魔力供給の強制遮断。いかに強力な魔法使いとは言えど、それは、魔力による供給あっての事柄が大きい。
 現に、かつて魔力供給が一切行えなかったエヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェルを見よ。
 彼女は、かのまほら武道会で常人程度の動きしか披露できなかったではないか。
 それでも彼女が気を纏った桜咲刹那と互角に遣り合えていたのは、単に彼女の研鑽と桜咲刹那の僅かな油断からそう出来ただけの話。
 アルビレオ、ネギ、タカミチがエヴァンジェリン同様、まったくもっての魔力供給が絶たれ、常人と同じ動きしか出来なくなったとしても、彼らもまた気を纏った相手にはそれなりの大立ち回りは演じられる。

 だが、相手が鋼性種、ないしは鋼化生命体であったのであれば、話は変わる。
 恐らく、一瞬も相手にはならない。一瞬で叩き潰されるであろう。そんな事を、否応なしに予想させた。
 獣の少女と三者は見合ったままで動かない。どちらかが動き出せば、どちらかは攻め込むだろう。
 ただし、その時勝負は一瞬。神楽坂明日菜だったモノの圧勝と言うカタチで、この戦いは幕を下ろすだけだが。
 ピリピリとした空気が流れる中で、桜咲刹那は、漸く覚醒した。
 他の三人とは違い、レンガの地面にワンバウンドするほどの勢いで叩き落された彼女は、三者と一体からやや離された位置に落着していたのだ。

 幸い、ワンバウンドした後で叩き落ちた場所が茂みの中であった事が体に与える衝撃を僅かに軽減できた為か、彼女は本来ならば直にでも眼を覚ませない筈の痛みの中で、何とか体を起こす事が出来たのだ。
 消失しかけの意識の中で、これでも勝てないのかと言う無力感を味わざる得なかった。
 気による強化に、数年にも及ぶ神鳴流本山での修行。それを重ねたとしても、鋼化生命体には届かないのかと言う無力感。それが、桜咲刹那の身を貫いていく。

 解ってる。彼女には解っているのだ。
 相手は、常識の通用する相手ではなく、既に鍛えた鍛えなかった程度の問題に立っている存在ではないと。
 そんな事は、かの鋼性種が世界中に出現したその時。
 あるいは、初めて鋼性種と同格の相手と合間見えたあの時。あの、守ろうとしたものを守れもしなかった時に、知ってしまっていたのかもしれない。

 背中が疼いた。やはりと思う。だが、そう思うのも当然か。
 人間以外のものとして封じ続けていたその力。だが、今の世の中で彼女のその姿を見た程度で誰が彼女を否定するだろう。
 言葉が通じ、理解出来る範疇と言うだけで、彼女は人間として迎え入れられるだろう。
 ならば、やはりと顔を挙げる。
 苦悶に顔を歪め、そうであるしかないと顔を挙げた所で、彼女は、天に浮ぶ白い巨岩を見た。
 月。未来永劫変わる事無く世界を照らし続ける、その衛星。

 その真っ白い巨岩の中心辺りに、何か、赤いものが浮んでいた。

 彼女はその赤い点を知っていた。彼女が京都へ向けて出立した日も、あるいは、関西呪術協会総本山に襲撃がかかった日も、彼女はそれが月に照らされて浮いていたのを知っていた。
 赤い点。ぽつんと浮んだ赤い点。それが何で在るのかなど、総本山の巫女達も、そして桜咲刹那自身も何であるのかなど理解できなかった。
 だが、その理解の出来なさ。理解する事が出来ないと言う、その定義は、何かに似ていると思ったのだ。それを理解しながらも、何も手を出さずに此処へ来た。
 その点。ピクリとも動かず、ただただ地上を見下ろしているだけの様な、その点。
 それから視線を外し、三者の方を見たと同時に―――桜咲刹那だけが、その光景を捉えていた。

 アルビレオ、ネギ、タカミチは鋼化した神楽坂明日菜と見合い。
 動かずに構えあったままである。そう、それは良い。剣戟の音も、轟音も無い。
 静寂だけが支配しているその世界なのだ。それが、桜咲刹那の見る世界に広がっている。それは良いのだが―――三者の後方に、居ては成らないものが居る。
 白と黒の大型の獣。三者は、恐らく気付いていない。それ程無機質で、無気配を以って出現したのだろう。
 あるいは、それ程の速度。それを以って、三者の後方傍らに爪牙を光らせる巨大な獣の姿があった。

 声をかけても遅い。それだけの時間差がある。頭の中で思考し、それを電気信号に変換して口内の筋肉へ伝達、声を出すというその余裕。
 それだけで、かの巨大な獣は六度はかの三者を殺害できる。それが、桜咲刹那には理解できていた。
 一撃で殺される。彼女はそう確信する。鋼性種第一種転醒種。全世界でも、最も初めに確認された鋼化生命体。それが、三者の後方に居て―――
 剣士には叫ぶ余裕も無い。よって、三者にも避ける余裕など無い。
 ただ、一人だけが、僅かに後方へ視線をずらしたのを確認できた。
 風を扱うが故か、僅かに揺れた風に顔を背けた方向こそ、後方に迫っていた白黒の獣の居る位置。
 
 少年の顔が歪むも遅い。剣士が叫ぶのもまた遅かった。
 確実に殺されるというその状況下で、天からの一撃が、落ちた。

第五十一話 / 第五十三話


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