「やあ、お邪魔するよ」
「おお。どした?」
年の瀬も押し迫った師走の下旬。
あと3回ほど地球が回れば新年になる、ある日の夕方。
こたつに入ってスルメを切っている俺の元に、彼女がやってきた。
「ん? きみは何をしているんだ?」
俺の向いに陣取って、こたつに足を突っ込みながら彼女が聞いてきた。
こたつテーブルに新聞紙を広げ、スルメをハサミで細く切り刻んでいる俺を、怪訝そうな瞳で観察している。
「ああ、そろそろ松前漬けの用意でもしようと思ってね」
スルメを切る手を一旦止めて、答えながら手を伸ばして急須とポットを手許に引き寄せる。
「私は常からきみを家庭的な男だと思っていたが、まさかそんなものまで手作りするとはね」
感心したように彼女が言う。
お茶を淹れようとしている俺を「いや、私がやる」と制して、席を立ち、少しだけぎこちない手付きでお茶の用意をしていく。
その手元を観察していると、彼女が少し得意げに口角を上げた。
「心配するな。あれから家でも練習しているんだ。ちゃんとお茶葉を蒸らして、開かせてから淹れる」
「そういう心配はしてないよ。いや、変わったなあと思って」
出会ったばかりの頃を思い出して苦笑していると、彼女が楽しげに口元を綻ばせた。
「ああ、あの頃の私は、こんな知識や経験は全く無駄なものだと考えていたな」
お茶が飲みたければ、いくらでも既に淹れてあるものが買える時代だ。お茶に限らず、食べ物にしてもそうだ。出来合いの物がスーパーやコンビニで簡単に手に入る。その方が時間を短縮出来るし効率的だ。それなのにわざわざ自分で用意することを、以前の彼女は「全くの時間の無駄」だと断じていた。
「しかし、きみに手作りすることの意味や手間暇をかけて作ったものを食べた時の満足感など、色んなことを教えてもらい、私は考えを改めた。これは、私の人生観を大きく変えた事件だと言えるよ」
懐かしそうに彼女が言い募る。その言葉に思わず苦笑した。
「そんな大袈裟な」
「大袈裟では無い。きみに出会うまで、私は全てにおいて合理性や効率を重視してきた。それは決して間違いではなかったが、正しくもなかった。きみは、私に人生を楽しむという、私が全く考えてもいなかった生き方を教えてくれた」
急須から湯飲みにお茶が注がれ、立ち上る湯気が彼女の長い睫にかかる。
「私は生まれ変わったような気分だったよ。いや、きみに出会ったことで、やっと私の人生が始まったのだろう。──淹れたぞ、飲んでみてくれ」
彼女は、いつものように平坦な口調なのに感情豊かな語りを終えて、湯飲みを差し出して来た。
「ありがとう。いただきます」
「うん」
二人揃ってお茶を啜る。お茶の爽やかな渋みとほのかな甘みが口の中に広がる。温度も適正だ。
「うん。美味い」
「そうか? 良かった」
嬉しそうに彼女が顔を綻ばせた。それはもう、見とれてしまうくらいに。
俺は誤魔化すように作業に戻った。
「私にも手伝わせてもらえないか?」
丁度スルメを半分切り終わったところで彼女が聞いて来た。
「ああ……、そうだね。じゃあ頼もうかな」
少しだけ逡巡して、お願いすることにした。
「その袋の中に昆布があるから、それをお願い。厚さは適当に、まあ2、3ミリぐらいで切って行って。はい、ハサミ」
「うん。分かった」
スルメは硬くて、切り慣れていないと手がすぐに疲れてしまう。その点、昆布は楽と言える。
今まで自分が使っていたハサミを渡し、俺は引き出しから別のハサミを取り出した。彼女に渡したハサミに比べてこれは切れ味が悪いが、まあ仕方が無い。彼女に切れないハサミで四苦八苦してもらうわけには行かない。
昆布を切って行く彼女を少し見守ってから、俺も作業に戻った。
「松前漬けなんて家庭で作れるとは思わなかったな」
パチンパチンと乾燥した昆布を切りながら、彼女が楽しげに呟いた。
「簡単だよ。スルメと昆布とニンジンを切って、醤油と酒と味醂で3日ぐらい漬け込めば出来上がりだ」
本当は1週間ぐらい漬け込んで柔らくしたものが食べごろらしいが、俺は漬けが浅いうちの、ちょっと固めの頃合が好きだった。
「なるほど。確かに簡単そうだ。そもそも正月料理なのだから、簡単に出来るものが多いんだろうな」
お店に売っているものでも、手間を惜しまなければ簡単に出来るものも多いのだろうな。と感心したように言って、彼女が昆布を切っていく。
黙々と作業を続け、二人の間にスルメと昆布の山が出来上がっていった。
「ああ、ところで……」
大方切り終わったところで、ふと思い出した。
「何か用があったんじゃないのか?」
問いかけると、彼女は平然と答えた。
「用ならもう済んだよ」
「え? そうなのか?」
いつの間に。というか、何の用だったのだろうか?
俺の表情で察したのか、彼女がにやりと笑って答えた。
「保守だ」
終わり
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