光などなくなったっていい。 クルジスで舞い降りた、あの神々しいまでの光は、瞼の裏に焼きついている。あれさえあればいい。あれさえ。 そうして、今の自分が光を失った代わりに与えられるものが、悠久の暗闇と孤独だとしても、それがきっと天罰なのだろう。 *** ゆっくりと意識が浮上し、指先や身体の重みを実感したことで、自分が目覚めたのだと知る。 この目は、もう開かれる事はない。 白い包帯で巻かれた眼球の上、瞼を開いても映るものは同じだ。 この目に映るものは、暗闇しかなくなったと、あからさまに知らされたようで、刹那は細く息をついた。 視力を失うという事は、こんなにも不便で虚無なものだったのか。 今、背にあたるベッドの柔らかさも、身体を覆う服も、シーツも何もかも、触れる感覚はあるのに、目で認識出来ないという事がこんなにも不安を煽るものなのか。 自分の部屋で眠っているはずだが、その証拠は何処にも無い。 神経を研ぎ澄ませれば、今この部屋に誰も居ないのだという事は判る。気配がまったくないからだ。 規則的な電子音、自分の鼓動と呼吸音、そして低く唸るGN粒子の操業音。 プトレマイオスの自室、ベッドの上で、薄い布団がかけられているだけだ。腕にかすかに感じる違和感。点滴でも入れられているのか。 起き上がる事さえ出来ない全身の痺れと倦怠感に、刹那はもう一度息を吐き出した。 手術は無事成功したらしい。 このプトレマイオスにも、手術に必要な専門用具は揃っている。その気になれば、移植さえも出来るんだとドクターは豪語していたが、まさか本当に移植手術をするとは思ってもみなかっただろう。しかも、ガンダムマイスターに、角膜を移植するなどと。 目が見えないこと。 そして、自室に戻されたという事か、手術が成功した、確かな証拠だ。 刹那Fセイエイの角膜を取り出して、あの男に分け与えた。 GN粒子によって失ってしまった目は、再生させる事が出来ないのだと、ドクターが告げた言葉を聞いた途端に、刹那の心は決まっていた。 あの男が失ったのならば、今度は分け与えてやろう。 奪ってしまったのは自分だ。あの男から、奪った、幾つもの、もの。 『俺の目を使え』 再生不可能な眼球なら取り除いて、そして新しく入れ変えろ。 有無は言わせない。ウェーダの指示も仰ぐ事はない。あの絶対的なホストシステムはもう使えない。 その時を判断した一番正しいと思う事をするだけだ。 刹那の提案に、スメラギは目を伏せた。反対はされなかった。それが一番的確な事だと判っているからだ。 デュナメスを乗りこなす事が出来るのは、あの男しか居ない。 エクシアは替えが居る。自分でなくとも、フェレシュテには優秀なパイロットが控えている。 デュナメスは駄目だ。あの男ではなければ駄目だ。特異すべき射撃能力、高高度射撃を行える者はロックオンストラトスしか居ない。 ならば、自分がとるべきは1つだ。 『駄目だよ、刹那!そんなの駄目だ!』 酷く反対をしていたアレルヤを思い出す。 あの男はとてつもなく優しい。 人のために人が傷つく事を恐れる。…それは過敏な程に。 戦争をしていないからだ。 人の命を、その銃で奪い取ったことが無いからだ。それを全てハレルヤに任せてしまった。だからあの男は優しく強く弱く脆い。 アレルヤには経験がないだろう? 目の前で、お前を殺したいのだと、殺意の篭った目で告げられた事がないから。 だから、ロックオンへ目を捧げようとする刹那の事ばかりを心配する。…あの男を失えばどうなるのか、アレルヤとて判っているはずなのに。 そうして手術室へ入る刹那を、引き寄せて止めなかったのも、アレルヤの優しさだった。 真っ暗闇の中で、シーツを握りしめた。 そのシーツは何色であろうか。…白色。この部屋は、何色? 流れる血の色は。 この点滴の色は。 もう、色は無い。 そして光を与えられる事もない。…もう二度と。 「…ちょうど、良かった」 そうだ。ちょうど良かった。きっと、ここまでだった。 切り捨てられたガンダム。何にもなれないまま失われようとした命だった。 けれど今は違う。こうして一人の男に託す事で潰えるのなら。 「俺は…、これで…」 縋れるものなど何も無いと知っていた。いつかは贖罪しなければならない重い罪を幾つも背負っていたのならば、これはそれ相応の罰だったということか。 光を失い視力を失ったガンダムマイスターなど、何の役にも立たない事は判っている。 この宇宙で、死はあまりにも近い。 生身のまま外へ出してしまう事が何より簡単な処刑だが、果たしてあの優しいばかりのクルー達がそれをするかどうか。 「死…、」 何も見えない暗闇の部屋に、自分の声だけが響く。 死。 …死ぬ。 死んだら終わりに出来る。 もう戦わずに、もう何も失わずに、そして自分という存在は消える。 ソレスタルビーイングの刹那Fセイエイは死に、クルジスのソランイブラヒムも死に、残されるものは何もない。 「ようやく…死ねるの、か…」 ああそうだ。お前はあの男に光を託して、そうして死ぬんだ。 静かに息を吐き出した。 しびれの残る身体でベッドから起き上がり、腕に刺さった点滴のコードを手探りで辿って抜き、手探りで部屋のドアを探す。 指先に触れた閉開ボタン、静かにドアが開く。その先も永遠の暗闇だった。 暗闇は、嫌いだ。 暗闇は、なんて怖い。 だって何も与えない。何も判らない。 自分はどんな顔をしている? 相手はどんな表情で自分を見ている?もう役に立たなくなった、俺、を、どうやって見ている? これ以上、こんな空虚な世界にいるよりも。 たどり着いたプトレマイオスの外部ドアの前。 このドアを開ければ、漆黒の暗闇が広がる宇宙へと続いている。 そのドアのボタンを手探りで探す。キーの組み込まれたドアを、開けるその手に躊躇いはなかった。 だって、これで、俺は。 「そこは開かないぜ刹那」 背後から聞こえた声に、手を止める。…気配を殺していたのか。 いや、もしかしたら、ずっとここにいたのかもしれない。移植後の病み上がりの身体で、きっと無理を押している。 こうするだろうと判っていたからか。 「そのドアには、角膜承認が組み込まれてる。…俺に角膜を渡しちまったお前じゃ、開く事は出来ないんだ刹那」 言葉と共に、殺していた気配を復活させ、ありありとした存在感で、近づく男が床を蹴った音が聞こえた。空気が震える。 「…見えるのか」 その目は、もう。 「あぁ見える。お前の姿が見えるぜ、刹那」 「そうか」 ならば、良かった。 これでもう、本当に、何もする事はない。 「開けてくれ、ここを」 ドアをゴツ、とこぶしで叩いた。 あとはここを開くだけだ。たったそれだけで。 「そこを開ければお前は宇宙に放りだされる」 「俺はそれを望んでる」 「俺は…望んでないけどな」 声と共に、伸ばされた腕、そうして触れて初めてこの男が本当にロックオンだと知った。 知っている声、におい、触れた腕の感触。 あぁ。暗闇の中に、なんてあたたかい身体。 「…お前が犠牲になって、俺を助ける事は無かった。俺が自分の意思で被弾したんだ、お前が背負うことはなかった。…無かったんだよ、刹那」 ふわりと抱き締められた胸があたたかく、言葉を話す度に触れる、吐息が熱い。 目のほかに怪我は無かったのか。…無事に動くその身体を確認して、ようやく刹那は身体の緊張を解いた。 被弾したと知ったあの瞬間から、固まり続けた身体の硬直が、ようやく解かれる。 涙が、出そうだ。 そんなもの、この身体には、もう無いけれど。 この目に入っているのは飾りの眼球で、光も色も映す事はない。 白い包帯に巻かれたこの目に映るのは、永遠の暗闇だ。 「殺せばいい」 俺を。お前が。そうして全てを終わらせろ。 お前の復讐も、お前のしがらみも。 それを望んでいただろう?ロックオンストラトス。 「…宇宙に出て死のうとしてたやつが、今度は俺に殺されようっていうのか、刹那」 死に方なぞ。なんでもよかった。 本当は、あの時、あの島で、お前に撃ち抜かれて殺されているはずだった。 そうして、贖罪は終わったはずだったのに。 もういいだろう。 なぁ、もういい。 俺は戦いたくない。戦いなくなんて、…もう。 けれど、やめることは出来ない。生きている限り戦わなくてはいけないこの身体と心を縛っているのはお前だ。 だから、お前が。 「終わらせて」 囁いた言葉を、ロックオンはただ聞いていた。 この小さな少年の、この唇から紡がれる言葉。 耐え切れず、そっと触れた唇は、乾いて震えていた。 「…お前は、俺に眼球を分け与えて、視力全て失ったと思ってるようだがな、刹那」 ロックオンの手が刹那の目に巻かれた包帯にかかる。 しゅるしゅると解かれる包帯が、無重力に従って辺りに舞い、そうして刹那の閉じた瞼があらわになった。 …その、目を、ゆっくりと開く。 「見てみろ、刹那」 あぁ。なんて事だ。 なんて、こんな。 「ほおら、半分こだ。俺達」 そこに映った、片目だけ、茶色になったロックオンストラトスの姿に、刹那の開いた片方の瞳から、涙がふわりと溢れた。 |