頭の中にはいつだって深い靄がかかっている。
それは、記憶を過去に戻そうとすればする程、深い霧のような靄になって、ある一点までくると、真っ白にホワイトアウトしてしまう。

過去を思い出す。
ぐんぐんとさかのぼる。
CBに入った時のことを覚えている。
刹那とはじめてセックスをした時も。
子供の頃の思い出、ジュニアハイスクールに通っている自分さえも。
家族の顔とて、覚えている。忘れるものか。DNAに刻みつけるかのように覚えている。
エイミーの微笑んだ顔。おにいちゃん、と呼ぶ小鳥のような声。
両親の笑い声。美味しかった夕食。
遊び歩いて日が暮れて、迷子になっていた自分を迎えにきてくれた父親。その胸で泣いて、泣きつかれて背中で眠った。ゆれる大きな背中、遠くの丘の上では明かりのついた家が見えた。待っていた家族。
忘れるものか。覚えている。

「けど…、なぁ…」
何故だ。その記憶は鮮明なのに、何故これ以上が思い出せない。
「なんだ?」
「いーや、ちょっと思い出してただけだ」
胸の中で、ひくりと反応した刹那が見上げる。
気にするなよ、と胸にぴtったりと身体を寄せた。
額には、汗が滲んで前髪が張り付いていたから、あらわになった額に吸い付くように唇を落とした。額の薄い皮膚の上に刹那の体温が乗っている。唇よりも熱い。それはつい今し方まで激しく動いていた所為だろう。いずれ収まる。
外は雪。外気温は驚く程寒い。家の中とて完全に暖房がきいているわけではないから、ひやりと冷たいはずだが、刹那の身体はどこもかしこもあたたかかった。爪の先まで。

毛布を引き上げて、2人で包まる。あたたかい。汗が引く前にパジャマを着なければ風邪ひきは確実だが。
「昔はよくこうしてたモンだなと思ってさ」
「…昔」
たずねた刹那の口調が僅かにいぶかしんでいるのがわかって、ロックオンは笑って訂正した。
何を考えているんだ。昔って、別に恋人なわけじゃない。
「家族だよ。兄弟で並んで寝てた。誰が真ん中になるのかいつも取り合いで。あの国も冬は酷く寒かったからさ。今、この国よりもずっと」
「……」
刹那をもう一度胸元に引き寄せるように抱き寄せながら、ロックオンは汗ばんだ黒髪を梳いた。
ふわふわとした髪は、エイミーの髪質に良く似ていた。
あぁそういえば、真ん中になるのはいつもエイミーだったんだ。
1つ、思い出す。頭の中の深い靄が僅かに晴れた。それはまるで巨大なパズルのピースが1つだけ埋ったように。

「…お前は、どうしてた?冬は?」
刹那が冬を苦手だという事は知っている。
普段、寄り付きもしない刹那が、眠った直後に冷たくなった足先を擦り付けるようにして眠るのを知っている。
かじかむ指先を擦り合わせるかのように、ロックオンの足にくっついてくるのだ。それは眠った直後の無意識の行動だったが、それが嬉しい。本能で求められているのだと判るからだ。

「…冬」
「そう、冬だ。寒かっただろ」
「……ここに来た時は、こんな寒い気温があるんだと、驚いた…」
刹那が告げる。
ここに来た時は、か。
つまり、今までは常夏の地方にいたという事か。
ロックオンはそれだけをきくと、満足だとばかりに微笑んで小さく息を吐き、口を閉ざした。

守秘義務を課せられているCBで、これ以上の言葉を聞くのは酷だ。
恋人同士になっているのだから、多少の事はいいだろうとは思うが、刹那は過去を話したがろうとはしないから、黙っているほうがいいのだろう。
時期がくれば、少しずつだろうが話してくれるだろうとロックオンは思っていた。

「寒いな、刹那」
刹那の背中に手を回し、その身体をぎゅっと抱き締めて寄せる。どれだけひっついても、刹那の体温が移らない。
「…俺は寒くない」
「お前はよくても、俺は寒い」
首筋に刹那の顔を引き寄せ、覆い被さるように身体を寄せる。セックスはつい数十分前に終ったばかり。身体も汚れたままだ。服さえまだ着ていない。
けどああ、いい加減このまま眠りたくなってきた。
ゆるゆると眠りへと落ちていく。
意識の底へ落ちる感覚。なんて心地いい。…ああ、眠りたい。眠ってしまいたい。
刹那の鼓動を聞きながら、きっといい夢を見られる。…そう思った。

頭の中の靄が晴れる。
ほんの少し。
ほんの、ほんの少しずつ。





眠りに落ちるその中で、蘇った過去の記憶。
その世界は真っ赤な世界だった。
見慣れたリビング、ドアを開けたそこに広がった赤の世界。
「…あ……」
強いにおいが、ロックオンの鼻先を掠めて鼻腔の中に入り込む。
生理的に受け入れたくなくて、鼻を手で覆った。けれど、肺にまで入ってくる匂い。
鉄錆の、強い血のにおい。

引き千切られた四肢が飛んでいる。鉛のような足を踏み出せば、そこは池だった。血の。
「とおさ、…かあさん、…」
呼んだ名。
あれは本当に父親か?…形は僅かに残っているばかりで、判らない。
血が、部屋すべてを覆っていた。

なんだこれは。いったいなんだ。

声が出ない。喉が痛い。くるしい。
けれど、何が苦しいのかが判らない。
はぁはぁと息をつく、自分を遠くから見えているようだった。
目の前で起きた事態を信じたくはなくて、逃げ出したくて、けれど足は鉛のように動かない。

何故、こんなことになっている?
何故、俺はここにいる?
何故、俺は息をしている?…だって、そこに横たわっている形のない家族は、息すら、もう出来ないのに。
苦しむことも、嘆くことも、何も出来ないというのに、何故自分だけが。

「あ……」
リビングの中心、赤い血の上に、黒い影が落ちていた。
それは黒い黒い姿だった。
「…あ、…ぁ…」
叫んだ。
あんたは。…あんたが。…あんたが、ころしたのか…?
けれど、それを発するよりも早く、黒い影は白い靄となって消えた。
直前に走った青白い閃光が、ロックオンの全てを奪っていく。
そうして赤から白に変わった世界で、ロックオンはまたひとつ失っていた。


***


また、昔の夢を見るようになっちまった。
白いシャツのボタンを上まで留めつつ、目覚めの悪い頭をがしがしと掻いた。それでも心は晴れないが、頭にかかった靄の僅かな一部は見えたような気がする。
昔の夢を最近またよく見るようになった。何故かは判らない。
あの日、何が起こったのか、子供の頃の自分はよく覚えていなけれど、確かにあの血の海の中で、黒い何かが立っていたような気がする
…。あれはなんだったんだ。

黒い影、部屋の真ん中で、まるで人形のようなそれが部屋の中央に居る。
血を浴びているのか、それとも何も汚れていないのか、ただ黒いものがぽつりと。
あれは人間か?
いや、…人間のようで人間ではない。人の気配がしないのだ。
大きさは、少年に近い。あぁ、あれは確かに人の形をしていた。

(…ってぇ…)
記憶を探ろうとすれば、思い出すなとばかりに脳天がズキズキと痛む。まるで酷い二日酔いの後のように痛むそれが気持ち悪くて仕方ない。
(なんだってんだよ…まったく…)
溜まらずに頭を振った。それでも鋭い痛みは消えないから、蛇口を思い切り捻りあげて、冷水の中に頭を突っ込む。
冷えた水を顔に浴びても、痛みは治まらなかった。
左腕に嵌められた時計を見れば、あと30分で勤務時間が始まる時刻を示している。
「…あー…」
喉の奥から声を出し、ロックオンは白い靄と黒い影をふっきるように頬を叩き、息を吸い込んで顔を上げた。
鏡に映る、いつもと何一つ変わらない顔。



家族の仇を探している。
その為に、この得体の知れない組織に入った。
惨殺された家族、警察も手を引いた事件。猟奇的殺人と当時報道された事件は、ロックオンから大切な家族を根こそぎ奪ってしまった。

当時の事を思い出すのは難しく、ストレスのためかショックのためか、あの光景を見てしまった後、自分がどうしたのかよく覚えていない。
気付けば病院のベッドの上に居た。
家族は市によって丁重に埋葬され、僅かな遺産の相続も全て終了した後で、孤児院に行けと用紙を渡されて事件は終いになった。
それからは、警察をどれだけ訪れて、事件の真相を聞きだそうとしても、捜査中だとあしらわれ、真犯人は捕まらないまま時効となった。証人もおらず、物証もない。迷宮入りだった。
何もかも失った世界で、死ねもせずにただ流されるままに生き、誘われて始めた射撃の腕だけは上がった。
いっそ、この銃に本物の鉛弾を詰め込んで、あの日家族を殺したヤツを撃ち抜いてやりたいと思った事も1度や2度じゃない。

生きたくもないが、死のうと実行に移せるほど愚かでもなく、ただ閾値得るだけの日々。
CBから誘いがあったのは、ニールディランディと名乗っていた自分が、成人した頃だった。

(…家族の仇を見つけられるだろうか)
死ぬかもしれないと言われても、構うもんかと笑ってやった。
エイリアン、そんなものを信じた事はなかったけれど、実際にCB本部に行けば、人の形ではないものがうじゃうじゃと居るから、認めるしかなくなった。

『…ニールディランディ。貴方は過去と名を、今日限りで捨てる事になる。これからはコードネーム、ロックオンストラトス』

新しい名前に、上等だ、と口端を上げて笑った。