「エージェント、刹那Fセイエイを呼べ」
ティエリアの静かな声がCBセンター内に響き渡った。
直立不動の姿勢で隣に立っていたアレルヤが、あぁまずいなと首を竦めた。
「ええと、刹那は…ちょっと今は無理…じゃないかな…」
「何故だ」
「何故って…」
それを僕に説明しろっていうのかい?ティエリア。
思わず天を仰ぐ。無機質な白い天井が、はるか上空にある。照明器具代わりの発光エイリアンが淡い白色を放ちつつ、ふよふよと浮いているのを見つめた。
…誰か僕にスタビライザー使ってくれないかな。…2時間ぐらいの記憶でいいから。
思わずそんな事を考える。このCBをスメラギ李ノリエガと共に纏めるティエリアは物事に対して容赦ない。それは同期の同僚であるアレルヤに対してもだ。もちろん、刹那やロックオンに特別な恩情をかけたこともない。

アレルヤは、助けを求めるかのように目線を彷徨わせた。その先にはリヒティとクリスが居るが、両方とも厄介ごとを持ち込んでくれるなと目を背けている。
さらに奥にはフェルト・グレイス。しかし彼女は天然ゆえにこっちを見ようともしない。データ処理に夢中だ。
イアンは席を外しているし、スメラギはオフ中。
このCBセンターの中心部で、今最大の責任を持っているのはティエリア・アーデで、つまりアレルヤはティエリアの要望に従うしかなく。
(困ったな…)
眉間に皺がぎゅっと寄る。どうしたらいいのだろう?

「何故刹那Fセイエイが出れないというんだ」
問いかけられた言葉に、どう答えてやろうかと考える。
「諸事情で」
「だから何故」
「何でもだよ。…ティエリア、僕が出る。それじゃダメかな」
「………」
あ。あからさまにむっつりとした顔だ。
困った。
ティエリアは頑固だから、刹那を出すといったら絶対にこのミッションには刹那を出すつもりなのだろう。そりゃあ、CBでもそれぞれに特技があるのだから、刹那を出したい理由は判らなくもないけれど、今ばかりは無理だろう。
だって刹那は、今。
(…言えるわけないよ…)
今の刹那とロックオンの状態を、このティエリアには。

「そもそも今日は刹那、オフのはずだけど…」
「緊急事態があれば呼び出すのが通常だろう。召集がかかれば30分以内に合流が基本だ」
「けどね」
口答えしようとして、ティエリアの鋭い眼光に睨まれる。
ただでさえとてつもない美人なのに、そんな顔をされたらさらに怖い。
これは何を言ってもダメだろうか。けれど刹那を呼びに行く気にもなれない。ここは話題を転換させるに限る。

「まぁ…とりあえず、コーヒーでも入れようか、ティエリア」
肩を竦めながらコーヒーサーバーに近づくアレルヤに、これ幸いとばかりにクリスが後ろをついて歩く。
「まて逃げるな。クリスティナ・シエラ。刹那Fセイエイを呼んでこい」
「ええっ私がですかぁ!いやですよ!ちょっとリヒティ、いってきて!」
「また俺っすか!?」
冗談じゃないですっすよと机に突っ伏すリヒティに、クリスが、あんたは男なんだから、とかなんとか適当な理由を押し付けている。…男だという理由だけで濡れ場になりつつあるあの部屋に入れといわれるのは中々酷い条件だ。
あまりの理不尽さにアレルヤが笑った。…僕が行けばいいってことは判っているけど、…でも、ねぇ…。

悶々と考えを巡らせながら、アレルヤがサーバーのセットをはじめる。
水は軟水のミネラルウォーターを準備して、豆は、ついこの間王留美から貰ったコロンビア産の良質のものを。
エスプレッソサーバーにセッティングして、スイッチを入れる。途端、豆を挽く音が響いた。

この世に数多い銀河の中でも、地球のコーヒーの味を好む異星人は少なくない。
この星のコーヒーが、ちょっとした名物にもなっているぐらいだ。ゆえに、CBに置かれているコーヒーサーバーは一流のものだ。エスプレッソからカフェラテまで、最高級品が瞬時に出来上がる。
ティエリア用に、ミルクを多く入れたカフェラテを抽出しながら、その隣で自分用のエスプレッソを仕込む。リヒティとクリスも飲むだろうか。フェルトやラッセは黙々と仕事をしているようだが、コーヒーの香り高いにおいがすれば、きっとほしがるだろう。アレルヤはプラスチックのコーヒーホルダーを用意する。カフェラテが4つとエスプレッソが2つでいいだろう。
こんな風にのんびりお茶を沸かしている間に、ティエリアの機嫌が収まって、刹那とロックオンも何食わぬ顔でやってきたらいいのに。今なら休日出勤大歓迎だ。
記憶が戻ったばかりのロックオンが、果たして刹那を離すかどうかが問題だけれども。

(あんな事があったのに、あの2人は凄いな…)
あらためて、アレルヤは思う。
どうして刹那が、ロックオンの記憶を消さねばならなかったのか。
知っている。
それどころか、ロックオンと刹那に関する事は全て知っているつもりだ。それはもちろんティエリアや他のメンバーとて同じだ。
とてつもない理由があったのに、それをすっぱり忘れて普通の人間と何一つ変わらない生活をしているロックオンを知った時は少しばかりの腹立たしさと、羨望が過ぎったが、結局彼はCBに戻る破目になり、せっかく忘れた刹那の事も思い出している。
つまり、ロックオンが「あのこと」を思い出すのも時間の問題という事だ。

コーヒーのにおいが室内に広がって、思わず深呼吸がてら、鼻から吸い込んだ。
深く呼吸をした事で、僅かながらもリラックス出来るような気がする。
…そうだ、こんな事で僕達がキリキリカリカリしていたってしょうがないじゃないか。全ては刹那とロックオンの問題なわけだし。
振り返れば、ティエリアの機嫌は随分と急降下している。怒鳴り出さないだけマシかもしれないが、ティエリアが怒鳴ったとなれば、おそらく力づくでないと止める事は出来ないだろう。

「ティエリア、ほら、カフェラテだよ」
「…よくも呑気な口を聞いてくれるな」
口では毒を吐きながらも、アレルヤから素直に受け取って、一口啜る。続けて2口、3口。
憮然とした顔のまま、カフェラテを啜る。ティエリアは言葉を押さえた。どうやらカフェラテ効果が効いたらしい。あたたかくて美味しいものを飲んでいれば、自然と口数は減るし、苛立ったこころだって落ち着く。
微笑んで、アレルヤもカップに口をつけた。

「…でも、まさか本当にロックオンの記憶を戻すとは思わなかった」
「何故」
「何故って…だって刹那は」
「ロックオンストラトスに記憶を必要があったのだから仕方ない事だろう。あとはあの2人の問題だ」
「そんな簡単に…」

ティエリア、人ってね、そんな簡単なものじゃないんだよ。
その言葉は飲み込む。今は言ってはいけない言葉だろう。

「…ロックオンは刹那がした事を、知ってしまったんだよ?…あんなに思いあっていたのに、刹那は、本当はロックオンの、」
そこまで言って口を噤んだ。真っ黒なコーヒーの水面を眺める。
それ以上を言うのが怖かった。

刹那とロックオンは大丈夫なんだろうか。
不安でたまらなくなる。
ロックオンの記憶を戻さなければいけないと判っていたけれど、それは容易な事ではない。
スタビライザーによって失った記憶は、肉体的なつながりによって、少しずつ戻ってくるけれど、何か1つのきっかけで一気に思い出す事もある。
その時、ロックオンは、どんな感情で刹那を見つめるんだろう。
彼が犯してしまったことを、どう思うのか。
そして、もし、

彼が、ロックオンが、刹那を許さなかったらどうするんだろう。

ふと思い至って、いや、そんなことを考えてもしょうがないとアレルヤは首を振った。
黒いコーヒーの水面を見つめていた目が揺らぐ。
静かにカップに口をつけ、その味の苦さに眉を顰めた。
今日はやけに苦く感じるエスプレッソだ。




***




何故、知ってしまったんだ、ロックオン・ストラトス------。

刹那が静かにそう告げた。
脳髄に直接響く、声ではない刹那の感情。

刹那がスタビライザーを構える先にロックオンが居た。
サングラスを付けないままのロックオンは、刹那が構えたスタビライザーに怯んだ。
スタビライザーは、記憶を消す装置だ。刹那がほんの少し力を篭めてボタンを押しさえすれば、ロックオンの記憶は、何年間でも消去される事になる。記憶を昨日の状態に戻す事も、赤ん坊の頃まで戻す事も可能な機械。
異星人が運んできた装置はハイテクなものばかりだが、この装置だけは何度使っても慣れなかった。
他人に向けて使った事は数あれど、こうして目の前に突きつけられてみて初めて恐怖が判る。
これの光を浴びれば、記憶は消える。過ごしてきた日々が全て無駄になる。そうして誰かが与えた情報が、偽の過去となって頭に埋め込まれるのだ。
それは自身を否定されるような恐怖だった。

記憶を消されるのは怖い。けれど、それ以上に、たった今知ったばかりの驚愕の事実にロックオンは怯んでいた。
頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。
刹那がスタビライザーを向けた。
その直後に、ロックオンとて拳銃を抜いた。条件反射のようなものだ。
CBの中でもトップの射撃能力を持つスナイパーだったロックオンは、刹那に対しても拳銃を突きつけることは出来た。ただこの引き金が引けるのかどうか。それはロックオンにも判らない。
刹那は、同僚である以上に恋人でもあるのだから。

「…なんだってんだ…よ…」
混乱した頭がロックオンにそんな無意味な言葉を喋らせる。

なんだっていうんだ。
本当に、どうしろっていうんだ!

今、胸に湧き上がってくる刹那への感情は、「憎しみ」というよりも「戸惑い」や「困惑」の類だ。

どうして、なぜ、おまえが。
そんな言葉が頭の中を埋め尽くす。
動揺ゆえに、気を抜けば、トリガーにかけた指が震えてしまいそうになる。
このままではスタビライザーだけを的確に撃ち抜く事が出来ない。少しでも手元が狂えば、刹那を撃ち抜いてしまう。下手をすれば心臓に当たる。殺してしまう、刹那を。

…あぁ、けれど。
本当は、そうすればいいのかもしれない。
刹那を殺す。
憎しみがあるから、今、目の前に立つこの男を。
なぜなら、

「お前が、…俺の家族を、」

声が震えた。
家族、という言葉を出してみて、初めてロックオンの胸に明確な怒りが宿った。
そうだ、探していた。
探していたんだ、親を殺した相手を。妹を微塵にしたやつを。
何故家族は死んだのか。犯人を知らない。探し続けていた。そうして自分の手で殺すために、力を付けてスナイパーとなって、CBへ入ったのがロックオンの過去だ。
CBは一般組織ではない。
政府だけが認めた、対外宇宙機構の一部だ。
異星人の監視や抹殺、主に地球の平和を守るための極秘組織。一般の人間は存在すら知らない。
知ってしまえば、スラビライザーによる記憶の消去が待っている。
それを聞いても、ロックオンはCBに入る事を望んだ。エージェントとして活動するために、家族を捨て過去を捨てることになると言われて、そんなもの構うもんかと投げ捨てた。自分の過去など家族と一緒に遠い昔に時間は止まったままだ。
そう、探していた。殺した相手を。
探して探して、なのに。

「…なんで、お前が…ッ…」

嘘だと信じたい。
信じたいのに。
何故、お前はスタビライザーを俺に向けているんだ、刹那!

動揺するロックオンを見つめる刹那の目は普段と何一つ変わらない。
刹那の僅かな変化さえ見抜くことが出来たはずのロックオンは、その時の刹那の考えを読めなかった。
まるで閉ざされているような刹那の表情。
その、能面のような刹那の唇が、うっすらと動いた。

「…何故、知ってしまったんだ、ロックオン」
「刹那ッ…!!」

叫んだ声と同時に、ロックオンはトリガーを引いた。
けれど、その瞬間に、真っ赤な閃光がロックオンの眼前を覆い尽くしていた。