数年前






身体中の粘膜にまとわりつくような、強い香水のにおいが邪魔だった。

グロスがたっぷり塗り篭められた、ステンレスのように光る口紅が近づいていた。キスをすればぬちゃりと唇にまとわりついて邪魔だ。すぐに離そうとしたのに、角度を変えたと思われたのか、さらに追いすがって来るから、受け止めるしかない。
ロックオンは、すぐさま離したくなる腕を押しとどめ、感情を隠した。これは仕事だ。何度も自分に言い聞かせる。

女の唇が、まるで磁石のようだ。すりついてくる。
仕方なく唇に触れ続け、舌を絡める。ようやく離された唇、至近距離で見つめてくるから何をするのかと思えば、ロックオンの唇にベっちょりとなすりつけたグロスを舌で舐め取って、ふふ、と笑う。そのあどけなさが、いっそ狡猾に見えて、ロックオンは同じように表情を崩して笑った。
そんな事をしても、この唇の気持ち悪さは消えない。

一度、唇と唇が張り付いて、キスをしてしまえば、もうどうでもよくなってきた。
女性の頭を抱き寄せ、もう一度キスをさせてやりながら、(ハタから見ればロックオンがもっとと誘っているように見せながら)、ふと壁にかかった時計を見つめた。
あと残り5分。
思えば、このミッションが終るまでに、随分長い時間がかかった。この女性を落とすのが目的だっただけなのに、ガードが硬い。ほんの少し口を割らせれば良かった。証拠となる言葉さえ録音できてしまえばこの任務は終了だったのに、いつまで経っても口を割らないから、本部からはどやされ、外で待機している刹那はずっとロックオンが女性を落すための睦言を聞く破目になっている。それももう終いだ。本部が決めたリミットはあと5分。…いや、4分30秒。これを過ぎればこの女はこの星からの「強制退去」を命じられる。…いやまて。あと4分15秒もこのキスを続けていなければならないのか。…それは勘弁しろよ、おい。

どうしたの、上の空みたい。
流れに沿って仕方なくベッドに倒した女性の声は、縋るような少女の声だ。それになんでもないよと返して、どうせぬちゃぬちゃになったなら構わないかとさらに唇を押し付けた。少々乱暴になったそれを受け止めて、女は喘ぐ。こっちが早くヤりたくて仕方がないように思えたのだろうか。
地球人だと思えば、この女は、本当にいい女だった。そういう外見を選んでわざと憑依したのかもしれない。おそらくモデル雑誌か何かを見て真似たのだろう。知恵や過去もコピー出来るのか、本当に地球人らしい言動をする。このキスも愛撫さえも。ロックオンの首筋に縋り、キスを望むように誘うやり方は、どこかのハリウッド女優の名演技のようだ。放っておけば、誰も不審がらない立派な女性だろう。
しかし、ロックオンは、この女の正体を知っている。


早くこの仕事を終わらせたい。
(…あいつはスネないだろうか…)
この高級アパートメントの外で、黒塗りの車の中に居るだろう刹那を思った。
きっとあいつの事だから、表情をかえず淡々とこの話を聞いているだけだろう。盗聴器から会話は全て筒抜けのはずだ。女に縋る言葉を吐くロックオンをどう思っているだろうか。そもそもこの任務の間、四六時中ロックオンの睦言と女を口説くセリフばかり聞かされているんだ、少しばかり機嫌を損ねて欲しいものだが、果たしてどうなのか。
(多分、アイツの事だから、なんとも思ってねぇな…)
ロックオンがどれだけの事をしようと、顔色ひとつ変えない。たとえ潜入捜査とはいえ、女性を抱こうがキスをしようが、いつもの無表情で、顔色も変えずに聞いているに違いない。
自分の恋人が、他人と親しくしていてもおかまいなしの顔で。
(…けどたぶん、身体には表れる)
判っている。感情を表にだせない分、刹那の内側で渦巻く感情は相当なものだ。吐き出す事を知らない少年の感情。それを吐き出させてやるのかロックオンの役目だ。…いや、想い、だろうか。
刹那を愛している。


女性の唇をようやく離し、薄い布地一枚の服を脱がす。首筋は白く、血管が浮き出るかと思うほど。柔らかいそこに唇を落としたのは、愛しいからではなく、唇になすりつけられたグロスを押し付けたかっただけだ。最低な事をしているなと思いつつも、あと2分で終わるのなら、もうどうにでもなれとやけっぱちにもなる。
結局、この女からの有力な情報は引き出せなかった。
それが似務だったというのに、リミットがきても手がかりはゼロ。
おかげで、強制退去させるしか手がなくなった。あと1分30秒。

刹那はそろそろ車を離れた頃か。呆れているに違いない。
刹那だけではないだろう。ロックオンにこの任務を依頼したティエリアとて、何をやっているんだと眉間に皺を寄せるに決まっている。女性を口説いていい思いをしたのにそれかと不満をぐちぐち言われるに決まっている。アレルヤは仲介役に入ってくれるだろうか。
上半身をすっかり裸にし、胸の乳房に手をかけて、いや、これ以上するのはやめておこうと手を止めた。
時間はあと30秒。もういいだろう。

どうしたの。
告げれた言葉に答えず、ロックオンは身体を起こした。ベッドの上から身体をどかし、感情もなく、女性の形をした裸体を見下ろす。見事なプロポーションだとは思った。どこかの女性の皮をまぶっているだけだと、知っているけれど。
いぶかしんで見上げてくる美人の目から、「すまないな」と苦く笑った。それでタイムリミットになった。

「…そこまでだ。R-38」
アパートメントの窓、突然開いた窓。
驚き、肩を竦めた女が、シーツを引き上げて胸を隠し、開いた窓を振り返る。
窓からは、夜の風がざぁっと流れ込んでくる。窓の向こうには宵色の空に浮かぶ大きな丸い月。
その月に被るように、少年が窓枠に足をついていた。両手でしっかりと持たれた特異な形をした拳銃が、女に向いている。
ロックオンは静かにベッドから離れながら、くつろげられたシャツもそのままにやれやれと表情を崩す。
「お前を強制退去させる」
刹那の声が、無慈悲に響いた。
「…うそ…」
ようやく事情が判ったらしい女性は、びくりと震えてシーツを胸元へかきむしった。揺れる乳房を隠そうとし、震える手では隠しきれずに、ずるずるとベッドの上を移動する。
まるで怯えている人間の女性のように。

「騙した…の?」
まるで幽霊でも見るかのように首を回し、ロックオンの顔を見上げる。その表情に少しばかり心が痛んだ。…同情はしないけれど。
「すまないな」
「……っ…!」
その瞬間、怒りの表情をあらわにし、長い爪でロックオンに飛びかかろうとした女性の眼前に、ピンク色の光線が走った。拳銃から発射されたビーム光線は、壁に当たってジッと音を立てる。もしも当たれば人体では致命傷だ。

「…退去命令が出ているといっている」
「いやよ…」
「命令だ」
「いや!」
首を振る。涙がぱたぱたと散った。
怯え、恐怖し、やがてロックオンに裏切られた事が判ると激昂し、そして泣き出した女性にも、刹那は冷静だった。拳銃を撃つ事も躊躇いない。退去命令だと告げる声が低かった。

「人体無断使用、入星許可違反。準B級犯罪だ。お前をこの星から強制追放する」

無慈悲に響く刹那の声に、女の身体ががくりと力が抜け、長い髪と頭が項垂れた。


***

アパートメントから出れば、小雨が降っていた。
傘の必要はないが、しかし中途半端に降り注ぐ霧雨。
どうせなら、どさーっと豪雨が降ってくれたらいいのに。そうすれば、この気持ち悪い口紅の感触も落せるかもしれない。
仕方なく、白いシャツの袖で唇を拭くと、べったりと紅色のグロスがついて、ロックオンは顔をしかめた。

「うえっ…こないだ始末した泥型エイリアンの体液みたいだな」
女性の化粧品に向かってなんて言い草だと、言ったロックオン本人が思うが、職業柄仕方ない。
どろりとねばつくグロスなど、あの組織では必要のないものだ。それを言うのならば、女性との接触も、あのキスとて必要なかったとは思うが、穏便に事を進めようとしたらああなった。恋人の居る身で何を酷い事をしているんだと思ったが、やってしまったものは仕方ない。
目の前を歩く小さな背は、無感情を装って先を歩いている。その後について歩き、ため息を漏らした。

「久しぶりに会えたってのに、ご挨拶だな刹那」
潜入捜査の1ヶ月の間、顔さえ見ていなかった。
「俺はずっと見ていた」
「…そりゃお前が俺のパートナーなんだから仕方ないだろうが。俺はずっと一人だったようなもんだぜ」
「あの女が居ただろう」
「あれはターゲットだろ!」
歩く速度を緩めない。なんでこんなに早歩きになってるんだ。
ロックオンの方が足は断然長いというのにこの速さ。…多分、意地になっている。
「お前がロストした犯罪者だ。結局何の情報も手に入れられなかった」
「おまえ…」
今日はやけに絡むな。
これはどうやらロックオンが予想していた事は間違っていたらしい。
感情を押し殺すだろう、不機嫌にはなっていないだろう。
(…そんな事はなかったな)
どうやら、1ヶ月という長い期間、ロックオンがあの女の傍に居た事が、刹那にとってはかなりのストレスになっていたらしい。
(まぁ…そりゃそうか)
作戦のリミットがあと1時間も遅ければ、あの女とセックスをしていたかもしれない。…あれの正体が、見るも無残なグロテスクなエイリアンと知っていなければの話だが。
(カワイイよな)
結局感情を自分のうちで吸収できずに、俺に当たるなんてさ。
よっぽど信頼されているのか、それほどまでにイライラしていたのか。抱き締めてやりたくなる。公衆の面前だろうが、町のストリートだろうが構うもんか。どうせそこらを歩いているやつらは、突然の霧雨に家路に急いでいる。
抱き締めてやろうかと前を行く刹那に手を伸ばし、けれど、と思いとどまった。
…せっかく不機嫌になってくれたんなら、もう少しカワイイ事をさせてやろうか。

「なんだよ、刹那。なんでお前そんなに不機嫌なんだ」
伸ばしかけた手を止め、ロックオンは刹那の1歩後ろを歩く。
「刹那、おい」
「………」
言葉は帰ってこない。予想通りだ。カワイイやつめ。

「お前もしかして、俺があの美人から情報機器出せなかったから怒ってるのか」
「違う」
返事は即答。これは楽しい。
「ああ、そうか。あの女から俺が情報引き出せなかったら、次は刹那のミッションだからか。お前が苦手な腹の内を探るようなミッションを…」
「違うといっている」
「女装するのがいやなんだろ」
「任務だ」
「いや、お前しょうがないだろ、だって相手はパーティぐらいにしか顔を見せないショタコンヤロウ…」
「関係ない」

はいはい、判ってるよ。
俺が任務失敗したら、次はお前の番だと言う事も、それを嫌がっているそぶりを見せればいいのに、違うと否定するお前のカワイイ行動も。
ロックオンは肩を竦めた。

あの女と密着する事で、ロックオンが情報を引き出せればそれで終了のはずだった。けれどそれが失敗した今となっては、今度は違うターゲットを攻めるしかない。人間のフリをするのが上手いエイリアンだ。次のターゲットは大物政治家に成り代わって地球社会に適応している男。その男から情報を引き出すには、ヤツの弱い部分を突くしかない。

「…俺じゃアイツの趣味にあわねぇし、アレルヤだって無理だろ。お前しか居ないんだ」
「ティエリアは」
「あいつがやるわけないだろ」
15,6歳程度の、成長しきっていない女の血が好みで、定期的に血液を摂取しなければ癇癪を起して暴れるタチの悪いエイリアン。その行動監視と駆除、そして仲間の居場所を知ること。
それが、今ロックオンと刹那に課せられたミッションだと判っていても、難しいものがある。
幼い血を好む男の傍に潜り込めそうな容姿を持っているエージェントは、刹那Fセイエイただひとりだった。

(…化粧したら刹那は美人だろうなぁ…)
刹那の不機嫌などさておいて、ロックオンはまだ成長途中の刹那の背中を見つめた。
まだ肩幅も小さく、腰も細い。小さな頭、すらりと伸びた足、伸びきっていない手足。…どう料理しても、可愛い少女に生まれ変わりそうだ。

「ま、頼むぜ相棒」
狼の群れの中に、そんな刹那を入れるのは、ロックオンとしても気が気がじゃないが、刹那はきっとミッションをこなすだろうと判っている。刹那の擬似人格は見事だ。問題は声だが、まぁ適当に高い声を出すなり、堰で誤魔化していればなんとかなるだろう。なんなら何処かの星が面白半分で開発した、地球人用の変声機を使ってもいい。
ふわふわの長い髪をつけ、アイラインとシャドウ、ぷくりとふくらんだグロス。開いた胸元のドレス、極めつけのガードル。…想像するだけで変な気分になりそうだ。

思わず頭に浮かんでしまった妄想を、首を振ってやり過ごす。これ以上刹那の機嫌を損ねるのもこわい。
ずかずか歩く刹那の隣に寄り添いながら、小さく笑った。
「いざとなったら俺が守ってやるよ、刹那」
必要ない、というきっぱりと告げられた返事は、やはり、即座に返って来た。


霧雨の中、刹那とロックオンは街を歩く。
すれ違う後処理班に手を上げて答える。今頃あの女は、星外へ追放される手続きを取っているはずだ。

「毎日毎日エイリアンの相手だ、たまんねぇな」
「それが仕事だ」
「まあな。エイリアンなんて憎むべき存在だ。俺達がなんとかしなきゃ地球が滅びる。…まぁ、そうじゃないやつだって居るだろうが」
「……」
ぼやきながら、ロックオンが黒いスポーツカーの扉を開けた。ガルウィングだ。
アパートメントから100メートル以上離れた場所に路駐されていた車は、刹那とロックオンに与えられたCB専用の車だ。
ロックオンは耳からようやく盗聴器を外した。ついでに車のフロントにつけられている通信機も線を切る。任務は終ったのだから構わないだろう。

何も答える事なく、助手席に滑り込んだ刹那が無言で席につく。ようやく終ったと目を閉じ息を吐き出す。前をみようとして、その正面にロックオンの顔がある事に気付いて眉を寄せた。
「…なんだ」
「なんだじゃねぇキスさせろ」
「したいなら勝手にすればいい」
その、口紅がついた唇でしたいのなら。
刹那の目が言葉にしない意思を吐き出す。
それを正確に汲み取って、ロックオンは、むぅ、と唸った。

「しょうがないだろ」
「だから、好きにしろと」
「キスがダメならここでヤるか」
「勤務時間内だ」
任務は終ったが。
「ああそうかい」
ロックオンは素直に刹那に寄せていた身体を元に戻した。運転席に座って、霧雨で濡れた髪をかきあげる。前髪が後ろに流れた。

ロックオンが、どれだけの言葉を刹那に言っても、いつだってそっけない。まぁ仕方ない事かと諦めも沸く。ついさっき、嫉妬を覗かせてくれただけでもいいとするべきか。
1ヶ月も離れてた割には合わないが。
とりあえず、本部に戻って報告書を書く。そうすれば勤務時間もようやく終了する。あとは仕事抜きだ、刹那をどうしようが勝手のはずだ。恋人同士、なのだから。

「本部に戻るぞ」
諦めきるつもりで口に出して言い、エンジンをかけてギアをバックに入れた。後ろを振り返った途端、その顔が、ぐいと刹那に引き寄せられて驚いた。目の前に刹那の唇がある。それが近づいてあっという間に唇が塞がれた。
つい今しがたキスを嫌がった刹那は、エイリアンと絡み合ったロックオンの唇を深く塞いでいる。拭いきれなかった女物のグロスの感触が残っていた。
ねちょ、と絡むそれに眉を顰める事もなく、刹那はキスを続ける。

嫌だなんて言った覚えはない。

キスから伝わる刹那の感情を、ロックオンは汲み取っていた。
あぁ、そういえばそうだな。嫌だなんていってない。好きにしろと言っただけだ。…嫉妬していたのは俺の方だったのか。

刹那の肩を抱き寄せると、ロックオンは容赦なく唇に絡みついた。それは深いキスだった。


『エイリアンなんて、憎むべき存在だ』
ロックオンの言葉が蘇る。
それは何度となく、ロックオンから聞いた言葉だ。
エイリアンを倒すためにやってきた。この星が平和になってくれればそれでいいと。だからロックオンがCBに入った事を刹那は知っている。

『そりゃあ、こうして俺達CBが活躍できるのは、異星から持ち込まれた最先端の機器のお陰かもしれねぇが。エイリアンのほとんどは地球人を見下しているし、馬鹿にしやがる。…そもそも俺の家族だって-----』
やつらが殺したかもしれねぇ。
ロックオンは苦々しく吐き出した。惨殺された家族、犯人は捕まっていない。警察は最初のうちは犯人逮捕に乗り出していたが、ある日ぱったりと捜査をやめてしまった。そのまま時効までずるずると日々は過ぎ去り、ロックオンは家族の仇を討つ機会さえ失った。
そして、事件が迷宮入りとなって気付く。あれは、人間のなせるものではなかったのはないか、と。

『もし、どっかのエイリアンが俺の家族を殺したとしたならゆるさねぇよ。…私怨だといわれようかなんだろうが。…だから刹那、それまではよろしく頼むぜ』

な、相棒、と、頭をわしわしと撫でるその手。
そして今、触れる唇。咥内を堪能する舌、濡れる水音、顎を伝う指先。

受け入れた。
これがロックオン・ストラトスという男なのだと言うのなら。

受け止めよう、最後の、その日まで。