「いらっしゃいませ」
ビールサーバーのガスボンベとビア樽を持ち上げたままのアレルヤが、にこやかな笑顔を向けるから、ティエリアは面食らった。思わず、ドアのノブを握りしめたまま固まってしまう。
「普通の人間は、そんなものを抱えたまま、そんな風に笑えない」
「…そう?そうかな?じゃあ…」
と、サーバーを置いたのはいいが、30キロはくだらない重量級のものだ。さらにガスボンベとて同等の重さがある。
ドカリと音を立てて落とされたそれが、古い木床を軋ませた。どれだけ重いのかがよく判る。しかし、アレルヤは涼し顔で微笑んだ。

「いらっしゃいませ、ティエリア。いつものでいいかな?」

改めて頭を下げなおすアレルヤに、変わってないなとティエリアは笑った。



「ロックオン…いや、マスターは?」
「まだ出てきてない。今日は僕だけで店を開けたんだ。…忙しくなる頃には出てくると思うけど」
「忙しい時間なんてあるのか」
「あるよ、たまにだけどね」
嫌味を言ってやったつもりだが、アレルヤはさらりとかわして肩を竦めながら、ティエリアがいつもの場所と定めたカウンターの最奥の椅子を引いて席を促す。木製の小さな木椅子だ。古びたバブの内装には似合いだが、大男が乗るとひどく軋む木椅子の古びた革に音を立てる事なくティエリアが座る。

すでに何度も通って見慣れた小さなパブをティエリアは改めて見渡した。10席ほどのカウンターテーブルだけのバブの目の前にはギネスのサーバーと無数のウイスキーの瓶が並んでいる。
狭いカウンター内で、アレルヤは大きな身体を器用に動かしていた。グラスを取り出しビールサーバーの準備を始める。白いシャツに色柄のネクタイ。細いスラックス。ベストも上着も身につけてはいない。白いシャツが薄暗い照明の中でも目に入る。アレルヤの筋肉をうっすらと浮かび上がらせるような、糊の利いたシャツだ。

「マスターが遅刻か」
「用事があるって。多分もうすぐ出てくるよ」
ふん、と鼻を鳴らして、ティエリアが飴色のカウンターテーブルを見下ろす。年季の入った長いテーブルには、無数の傷と煙草の焦げ痕がついていた。随分前から受け継がれている小さなバブだ。ロックオンがこの店を前のオーナーから譲り受けてまだ一月程度。客の入りもそれほどではないが、ロックオンとアレルヤの人柄に惹かれて、徐々に客がつき始めている。今は静かなものだが、もうすぐこの店は人気店になるだろう。そうなれば、この店には来来辛くなるなと予見して眉を顰めた。

グラスに注ぎ込むビールの泡を見つめながら、アレルヤはティエリアを見つめた。
開店直後の時間を狙ってティエリアがここにやって来るのは、煙草のにおいが立ち込める店内が嫌だからだ。人の多いところも苦手である。
店の営業を早めの時間に設定したのは、ティエリアのためみたいなもんだとロックオンは笑っていた。

ティエリアが気に召しているのは、ギネスの黒だ。
ビールのような大衆酒をティエリアは好まないだろうと思ったのだが、どうやらギネスの黒だけは別ものらしい。苦味のないクリーミーな味が気にいったようで、1杯だけをちびちびと飲むためにやってくる。
ギネスぐらい、どこの町のパブでも飲めるのに、それでもティエリアが足繁くこのバブに寄るのはアレルヤとロックオンに会うためだ。時折刹那も顔を見せるから、このバブはティエリアにとってひどく居心地がいいのだ。
アイルランドの大学に通うアレルヤにとって、ティエリアと静かに過ごせるこの時間は貴重だ。ロックオンにバイトとして雇ってくれませんかと願いでて良かった。酒の知識を身につけるのは大変だったけれど、シェイカーもサーバーもやってみればなかなか奥が深くて楽しい。知らぬ人とも話が出来るのもアレルヤにとっては掛け値なしの経験だ。
ティエリアに会える場所。会話を楽しめる場所。
マスターにこき使われているお前を笑いに来ているんだ、とティエリアは拗ねた事を言うけれど、本当は彼がどれだけ優しいのかを知っているアレルヤは、ティエリアの毒舌も笑って聞き止める。そんなティエリアの些細な言葉を聞くのも今は嬉しい。

グラスに注いだギネスがゆっくりと泡と液体に分離してゆく。ゆっくり落ちてゆく黒い色の液体と、真っ白に浄化されながら浮かぶ、夏の雲のような白い泡。まだ客に飲ませられる状態ではないから、その間に、フライヤーを温めて、ティエリアのための料理を用意する。
注文を受けたわけではないが、ティエリアの好みの味は知っている。
ロックオンにも、ティエリアの料理は任せたと言われているから、何を出そうと問題はないはずだ。

ふと、ティエリアは腕時計を見つめた。アンティークの小さな時計は彼の細い腕によく似合っている。
「…アイツはまた寝ているんじゃないのか」
「ロックオン?」
「遅い」
「いや。来ると思うよ。…今日はロックオンにとって特別な日だから、遅くなるかもしれないけど」
分離の収まったギネスにゆっくりと泡を注ぎながらアレルヤは表情も変えず告げる。綺麗な泡と黒色のビールが出来上がってティエリアに差し出した。店内の曲を変える。静かなナンバーの昔の曲だ。

「…特別な日?」
「そう。特別な日。きっと郊外に居る。だから戻るまでに時間がかかるよ」
「…郊外?…あぁ」
「うん、多分。刹那と一緒に行ってる。今朝、花を買ってる姿を見た」
「そうか」

理由を知って、納得したティエリアが、ゆっくりとグラスを口に向けて傾ける。クリーミーな泡が喉に流れこんで、飲み干した。いつもの味だった。
ほぅ、と小さく息を吐き出したティエリアの表情に安堵して、アレルヤは冷蔵庫からチーズを取り出す。小さなナイフで切って器に盛り付けながら口を開いた。
「ロックオンが刹那と一緒にあの場所に行けるって、すごい事だと思わないかい?」
「…そういうものなのか」
「そうだよ。だって特別な場所で、特別な人だから」
こじんまりと上品に盛られたチーズをティエリアの前に出す。添えられたパセリの緑が綺麗だ。

「…だからと言って、あいつが仕事に遅れてお前に任せるなど」
「まぁ…僕だって一応バイトとはいえ、もう一人前だ。…それに、君と二人で話すのは好きだから」
「…なっ」
二口目を口につけようとした途端に告げられた言葉に、ティエリアは目を見開いてアレルヤを見つめると、左右違う色彩の瞳が、ティエリアを見つめ微笑んでいた。
「そういう冗談を言うのは!」
「冗談じゃないよ」
「あの男に感化されたんじゃないだろうな!」
「ロックオンはそんな気障な事言わない」
「気障って自覚があるのか!」
「あっ、そうか、そうだね、ええと…そういう事になるかな?」
「アレルヤハプティズム!」
照れ隠しに怒るティエリアの言葉をひょいひょいとかわすアレルヤは楽しげだ。微笑んだ表情のまま、ティエリアの毒舌の猛攻をかわす。
ふと、背後で木ドアが開く音が響いた。
ドアの開け方で、誰が来たのか、アレルヤには判っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
革靴がコツリと音を立てた。木ドアがカランと音を立てて閉まり、口を荒げていたティエリアは、まずいものを見られたとバツの悪い顔で椅子に座りなおす。
ようやく来たかと思えば、なんてタイミングの悪い。
ふい、とそっぽを向いたティエリアを、ロックオンは口端だけで笑った。店の中を歩いて奥へと向かいながら、手に持っていたベストを羽織って、慣れた手つきで後ろ髪を結った。パチンと止めて、袖をまくる。ティエリアの横を通り過ぎるとき、ロックオンから、ふわりと花の香りが舞った。どうやら墓地から直行したらしい。
「アレルヤ、任せてすまなかったな」
「大丈夫ですよ。お客さんはティエリアだけだったから」
「そうか。…にしても、今日は随分とにぎやかじゃないかティエリア」
「うるさい」
「いいことじゃないか」
喜怒哀楽ってのは人間あってしかるべきだ、と笑うロックオンがシンクの前に立つ。さっそくグラスを洗い始めたロックオンを一瞥して、ティエリアはふんと鼻を鳴らした。
そんな顔をしたとて、ティエリアがこの店から出て行く事はない。
居心地がいいのだ。

「…刹那は?」
「ライムとサラダを買いに行かせた。もうすぐ来るだろ」
「買出し行ってくれたんだ」
僕の仕事なのにねとアレルヤが呟く。
「いいんだよ、手が開いてるやつがやれば」
ロックオンの細く長い手の中で、濡れたグラスが拭き上げられていく。その指先を見つめていたアレルヤがふと、ロックオンの指にある傷を見つけた。
「……?」
薬指の第一関節のあたりだ。赤黒くなった痕が指の甲に広がっている。
あれは余程強くぶつけたのだろうと、痛みを想像して目を細める。…が、ロックオンは鼻歌でも歌いそうなほどに軽やかだ。
…痛くないの…?
首を傾げるアレルヤに、ティエリアは行儀悪く肘を付きながらちっとも減らないギネスを傾けていた。
「…指輪も用意しなかったのか」
「そんな金も暇もないって」
嘘をつけ。…ティエリアの目が語る。
「指輪?」
首を傾げるのはアレルヤばかりだ。どうやらロックオンとティエリアは2人で言葉少ない会話を成立させている。
「指輪って…なに?」
「想像しろ」
「えっ」
事情を察したティエリアはそれだけを伝える。ロックオンは上機嫌。一体なんだというんだ。
深く問いただすことも出来ないアレルヤが、意味が判らないまま口をつぐむ。
あまり深入りしていい雰囲気でもないから、聞くことも出来ない。仕方なく料理の準備を始めたアレルヤは半ば諦め気味だ。
ロックオンの機嫌はいいし、今日はまだお客も姿を現さない。ティエリアが居続けてくれるのも嬉しい。
ならば、このままこの店内の雰囲気を楽しんだ方がいいじゃないかと、アレルヤも仕事をこなす。
ティエリアのギネスは、まだ減らない。

アレルヤが、やってきた刹那の指にも青くなった痣が左薬指にあるのを見つけるのは、もう少し先のこと。