『刹那、今日こっちに来るか?来るならついでにいつものチーズ、買ってきてくれないか』

告げられた電話に、判ったと頷いた。
まただ。またあいつは買出しを間違えたんだ。持って来させたいがゆえに、わざと。


小さなため息一つを吐き出して、エアコンを消してリビング内をぺたぺたと歩き、飲みかけだったコーヒーをキッチンへと流してからベッドルームへと歩いた。ドアを開けた途端に、先ほど変えたばかりのシーツの香りが立ち上ったことに少しだけ気をよくして、クローゼットを開く。
中から厚手のコートを取り出して、買ってもらったマフラーを巻いて、ポケットに財布が入っている事だけを確認してから玄関のドアを開けた。
冬風が流れ込んで、刹那は身を竦めた。
真っ赤なマフラーの中に、顔の下半分ほどを埋めて、ふるりと身体を震わす。

チーズ。いつものやつ。

頭の中で繰り返しながら、ドアの鍵を閉め、鉄の階段を下りる。カンカンと高い音を響かせて下りてゆけば、このアパートメントの家主である白髪の老女が荷物を運んでいた。中から果実やらコーンフレークの箱が見えているところを見るとどうやら買い物帰りらしい。手を差し出して荷物を受け取った。驚いた老女が白髪を上げる。真っ白な髪の中から白い肌と青い眼が見えて、刹那は少しだけドキリと胸を高鳴らせた。
「何処に行くの」
老女が声をかけた。優しい声音だ。この国の人の声は好きだ。きっとそれはこの国の言葉が綺麗だからなのだと思う。
「買い物に」
「何を買うの」
「ゴルゴンゾーラとカッテージチーズを」
「あら、それなら隣町の店の方がいいわ」
この街の店はチーズの品揃えが悪くなってきたわ、と付け加えてウインクをする陽気な家主が荷物を受け取って玄関をくぐる。
荷物をありがとう、と笑顔をつけられて刹那は小さく丸くなった老女の背中を見送った。

北風がびゅう、と吹く。
どうやら今夜は寒くなりそうだった。

歩く
歩く
歩く。

ロックオンが、ものを買い忘れるのは、大抵「わざと」だ。
あの店に刹那を来させたいのが理由なのだと知っている。
だったら、バイトに雇うなり、一緒に出勤させるなり、なんらかの方法を取ればいいと思うのだが、ロックオンはそれをしない。店のオープンは夜からで、それの準備のために夕暮れ時に家を出る。けれど、それまでの日中の間の殆どを刹那と寄り添ってすごしているのに、どうしてそれでも店にこいと言うのか。

今日は平日で、ミサもある。
客が少ないだろう日を見計らってかかってくる電話、おいでと諭されて、理由づけに買出しを頼む。
本当は、チーズぐらい、何処のスーパーにも置いてある。チーズの専門店さえ、店の傍にあるのを知っている。だいたい、買い溜めしておかなくてはならないようなものが、どうして手元にないのだろう。

店までの距離を、マフラーの中に顔を埋め、肩を丸めて歩く。
遠くはないが、近くもない。
しかも今日は、隣町まで買出しもある。
せっかく老女がくれた情報を無碍にするわけにもいかなかった。

赤いマフラーが顔の半分を埋める。
これは一体、なんの毛を織ったものなのか。シンプルな赤色は、色の効果もあってかあたたかい。
首筋から上がるあたたかな感触に、刹那はこのマフラーを渡された時の事を思い出した。

お前のマフラーは中東仕様だろ。それじゃあダブリンは寒い。
愛着があって離せないのは判るが、風邪をひかないためにもこれを使ってくれ。

差し出されたマフラーを受け取った。
確かにあたたかい。
「ほら」
くるりと首に巻きついた赤い糸。
見上げればロックオンの微笑みがあって、思わず見つめる。
キスが下りてきて、受け取った。
これで、その日、ロックオンから贈られた物は2つになった。


***


「ごめんな、ちょっと無理だ」
開店前のパブ、
半地下に作られた石の階段を数段下がると、CLOSEと立て札のかかった木ドアがある。長い年月を過ぎた飴色のドアだ。
開けた途端に、刹那の耳に聞こえてきたのは心底申し訳なさそうに詫びるロックオンの声だった。
カウンターの最奥に、肘をつけて苦く笑っている。その前には小柄な女性が居た。
見れば、白シャツを身につけたロックオンはまだ開店準備をしていたらしい。白シャツのボタンは胸元までしか留められていないし、ネクタイも首に下がっているだけで結ばれていない。
では、ロックオンの目の前に立っている女性は客ではないということか。
そっと店内に目線を彷徨わせれば、少し離れたところでアレルヤが開店の支度をしていた。ドアをそろりと開けた刹那に気付いたようで、苦いような笑いを向けてくるから意図を知った。
…あぁ、つまりはあの女性はロックオンに。

「…ほんの少し、雇ってもらうだけでもいいんです。たまにでいいです。仕事します」
「申し訳ないが、人を雇うような余裕はこれ以上ないんだよ。…しかも店、狭いしな。君が俺に押しつぶされたら大変だ」
「そんな事、」

泣きそうな声がした。
どうやら余程純粋にこの店で働きたいと思っているようだ。いや、その本心はロックオンに迫りたい、という事か。
刹那はため息まじりにドアを閉めた。
もう少し時間がかかりそうだ。
仕方なく、ドア前の小さなスペースにしゃがみこんで、北風が吹く上空を見つめた。夕暮れは間もなく夜闇となる。オレンジ色と宵色の綺麗なグラデーションが頭上に広がっていた。

こうして、女性がロックオンに迫るのを見るのは何度目になるだろうか。

故郷であるアイルランドの人間から見ても、ロックオンは随分と魅力的な人間らしい。それはそうだ。あれだけ整った顔立ち。この国に来て気付く。ロックオンは美人なんだ。ティエリアとは違う、男としての美しさ。すらりとした身長と細身の体躯。銃を扱うに最良と言われた指先と腕のリーチ。
ロックオンの魅力。

座り込んで、石畳の目や、ひっそりと植えられた植木鉢の緑を眺める。
暇になって、目に入る赤のマフラーをいじって遊びながら、買出しの袋の中のチーズを見つめたり、ついでに自分の褐色の手も見つめてみたり。
この国の人間は白い白い肌が多い。この褐色の肌はこの国でどれだけ異質なものか知った。
褐色の、この国の人間ではない肌の色。
街を歩けばものめずらしげに眉をゆがめられて見つめられる事も少なくない。
対外的なグローバル化は進んでいても、ここは島国なのだ。
この国の人間でなければ入れない店も多いのだと聞いた。「閉鎖的な国なんだよ」ロックオンは笑って肩を竦めていたけれど。

あまり外に出ない刹那は、この国の多くを知らない。
前はミッションをこなし、どこの国にでも行っていたものだが、こうして国の中に溶け込んでみて判る。自分は特別に異質な事をしていたのだと。
あの故郷でさえ、異端児として扱われたじゃないか。クルジス人が戻ってきていい場所じゃないと指をさされ、石を投げられ。そうして故郷が無くなった事を今更のようにありありと自覚した。

多分、居場所は何処にも無い。
ロックオンと共にアイルランドに下りたのはそこ以外に居場所が無かったからだ。
だから知っている。ここは俺の国じゃないから、ここだって居ていい場所じゃないから、だから家の中に居るから。

刹那が外出をするのは、せいぜい、買出しにいくことと、ロックオンの経営するバブを出入りするぐらいだ。
殆どを部屋の中ですごしている刹那にとって、アイルランドの国は未知の世界になった。
この国の言葉を知らない。英語は通じるから助かるけれど、アイルランド独特の綺麗な言葉を知らない。


やがて、女性が飛び出すように店から出てきた。
地上へ上がる階段を、ヒールを響かせてカツカツと上がり、走り去っていく背中を見つめながら、ようやくロックオンとの話が終わったのかと知る。

「待たせて悪かったな刹那」

間髪おかずにすぐにドアから顔を出したのはロックオンだ。

「いや、そんなに待ってない」
「待ってたじゃないか。とにかく入れよ。…わざわざ外で待ってなくてもいいんだぞお前は」

入れるわけないだろう。
あんなにあからさまな恋心を見せ付けられて、それでも俺がその場に居ろと?
アレルヤの方が、まだ状況を判っていた。苦く笑ってごめんねと目線で伝えてくるそのしとやかさの方がずっといい。

「…冷たくなっちまって。ほら」

刹那の手から荷物を取り上げて、外気の冷たさに凍えた指先に白い手を重ねた。

ロックオンは、褐色の手に、白い手を重ねる。
そうして招きいれるんだ、この木ドアの向こうの暖かい空間の中へ、お前の場所だよと。