「やぁ刹那いらっしゃい。珍しいね」

ドアを開けた途端、目があったと同時にアレルヤの表情が綻んだ。
営業スマイルを顰めて、にこりと本物の笑顔を向ける。
この青年は、そういった仕草が酷く幼い。
人よりも大きな身体、肩幅も広く筋肉もしなやかに全身を覆っている。けれど手先が器用で言葉も優しく、笑顔も多い。
刹那はアレルヤに気を許していた。
もしかしたら、ロックオンよりも彼と会話をする方が多いかもしれないと思う程に。
アレルヤと顔を合わせていると、自然と言葉が出るのだ。アレルヤの傍は心地よい。

自席だと決めたつもりはないが、いつも座る入口近くの隅の、足の長い丸椅子を引いて腰掛けた。

「ロックオンは」
「買出し。今日は君に頼まなかったから自分で行ってるよ」
「…そうでなければ困る」
「そうだね」

でも君に会いたがっていたからしょうがないじゃない?
アレルヤの笑顔に言葉を悟る。
…あぁ、知っている。
刹那も小さなため息と同時に肩を落とす。

「買出しから帰ってきたロックオンきっと喜ぶよ」
「……」
「だって君がそこに座ってる」
「……」
アレルヤの問いかけには答えずに、さっそく出されたドリンクに一口口を付ける。
刹那用にアレンジした、アルコール度数が極端に低いミルクカクテルだ。酒が飲めないわけではないが、ロックオンは強い酒を刹那に勧めない。それはアレルヤとて同じだ。

「今日はティエリアも居ないのか」
「調べ物があるって言ってたよ。ヴェーダがないと不便だって言ってた。それが普通なのにね。何か食べるかい?」
「…軽いものを」
「じゃあ、コルカノンとサラダで」
「ありがとう」
「どういたしまして」

ここアイルランドに来てから、刹那の表情はかなり豊かになったとアレルヤは思う。言葉もだ。ありがとう、と素直に言葉にする機会も増えた。それが嬉しくてアレルヤはつい刹那の世話を焼いてしまう。
笑顔を見せる事は昔と同じで少ないが、僅かな表情の変化はソレスタルビーイングに居た頃よりも随分と多彩になっている。やはり戦いという場所に身を置いている所為だったんだろうなとアレルヤは冷蔵庫から食材を取り出しながら思う。
驚いた顔、切なげな顔、見せてくれる表情ひとつひとつが嬉しい。
刹那との会話は、アレルヤのひそやかな楽しみである。

サラダ用のレタスとベビーリーフを取り出してちぎる手を、刹那はじっと見つめていた。
一点を凝視する癖はそのままだなと思わずほほえましくもなるが、刹那の身長はここ数ヶ月でぐんぐんと伸び、ティエリアに迫るほどになっている。
どうやらちょうど成長期に入ったらしい。
ロックオンも、服が合わなくなってきやがったとぼやいていたのを思い出す。

アイルランドに来て、マイスター4人の生活は激変した。
アレルヤは大学生活を謳歌していたし、ロックオンは故郷であるこの国に戻ってきたばかりか、この小さなバブのオーナーだ。ティエリアは何をしているのか良く判らないが、この国は気に入ったようで、時折アレルヤや刹那を連れ出しては散歩を楽しんでいる。
少し足を伸ばせば変わらぬ自然が広がっている美しい国だ。

「変わったね、みんな」
「…そうだろうか」
「そうだよ」

じゃがいもの茹で具合を確認しながらアレルヤが笑う。

「みんな幸せなのがいいよ」
「……許されることではないが」
「そうだけど」
刹那が言う事はもっとだ。
理由も判る。しかしそれでも今この現状でマイスター4人が健在して居ることを誰にも咎められていないのならばいいのではないか。ガンダムマイスターとしての使命はあのラグランジュワンでの戦闘で終わってしまった。今ソレスタルビーイングがどうなっているかも判らない。壊滅状態なのだ。
…もしまた、世界が必要とするのならガンダムマイスターに戻る用意がある。
しかし、出来る事ならば、再び召集がかからなければいいと、アレルヤも刹那も望んでいた。
今、世界はひとときの平和の中に居るのだから。

刹那、君はソレスタルビーイングに戻りたいのかい?

アレルヤがそう問いかけようとした時、刹那の背後で、木ドアが乾いたベルを鳴らしてカランと開いた。



***



「いらっしゃいませ」
告げたアレルヤの表情が僅かに強張った。
ドアに背を向け、アレルヤの表情だけを見ていた刹那は、その様子に何が起きたのかと、ゆっくりと後ろを振り返る。
木ドアについた鐘がカラリと余韻を残して閉まる。その前に立っていたのは、深くフードを被った大柄の男だった。
布地の隙間からうっすらと目が見える。鼻筋、もさりと伸びた髭。
その風貌に刹那の表情も強張った。カウンターテーブルへと目線を戻す。

…アザディスタンの、男だ。

同じ人種でも見れば判る。
ドクリと心臓が鳴った。

アザディスタン出身者が、クルジス人を見ただけで判別出来るように、逆もまたしかりだ。
刹那から見れば、アザディスタン出身である男を見抜くことは造作もない。フードで顔を隠していても、そこから見える骨格や目の色は、まさにアザディスタンで生まれ育った男だった。
アレルヤはそれを気配で察したらしい。
しかし、わずかに表情を強張らせた後、にこりと客に微笑みを向けた。

「酒を飲ませてくれるか」
「ええ、もちろんです。どうぞ」
アレルヤは、刹那とは対岸のカウンターを指し示す。しかし男はアレルヤの誘導を断り、刹那の横にドカリと座った。筋肉質な体重を受け止めて、細い足の椅子がギシリと軋む。

刹那は静かに呼吸を繰り返した。
隣の男とは肩が触れ合うほどに近い。迫られているわけでなく、単純に身体が大きいのだ。せり出した二の腕の筋肉が刹那に容赦ない圧迫感を与えていた。

まだ、この男に何を言われたわけでもない。
アザディスタンの男だと判っただけだ、他になにがあるというのか。
男がひどく癖のある英語で、ギネスをとアレルヤに注文を出す。アレルヤはすでに表情を繕い終えて、サーバーから黒いビールを注ぎ込れる。
刹那はただじっと飴色のカウンターとグラスを見つめていた。

『クルジス、か』
ふいに。ひどく久しぶりに聞く、祖国の言葉が耳に入った。滑らかに発声された声に思わず身体が強張る。
『こんなところでクルジス人に出会うとは思わなかった』
思いの他静かな声だった。
こんなところで。…偶然出会ったといいたいのか。刹那は男を振り返った。ちらりと見、目線が合う。しかしそれ以上見る事は無く、男はゆっくりと目線をビールへと戻した。
『クルジスから逃げ延びてここに来たのか』
続けて発せられる言葉を聞く。何を答えればいいのか。その問いに対する答えは難しすぎる。

『…ここに居てもまともな生活は出来ないだろう?』
ぽつぽつと告げられる言葉は蔑みの声。
アレルヤが差し出したビールを受け取り、紙幣を1枚渡す。これ1杯だけでいいとサインを出す。すぐに店を出て行くつもりのようだった。

アザディスタンの男は、抑揚のない声を念仏のように唱えるばかり。
クルジスの人間に会えた事が珍しいのか。静かに告げられる言葉を刹那は静かに聞いていた。
アレルヤに目線をあわせて、目で問いかける。
この男を知っているのか、と。
しかしアレルヤは僅かに目を細めただけだ。どうやら初めての客らしい。

どうするべきかとアレルヤは腹の内を探っていた。
このまま何も無いのならば一番問題は無いが、どうにも胡散臭い男だ。中東の生まれを隠すようなフード、どう見ても軍隊上がりか何かの隆々とした筋肉。そして何より解けない緊張感。
間違いなく、戦いに身を置く人間の鋭さだ。
もしかしたら、この男は刹那を知っているのだろうか。男の話す中東の言葉の意味がアレルヤには判らない。刹那は理解しているようだが、今此処で聞くことも出来ない。
ロックオンが帰ってくれば何か判るだろうか。

カウンターに肘をつき、大口でビールをがぶりと飲み、一気に量を減らす。
会話が途切れたとき、刹那が口を開いた。気付けば随分と久しぶりに話す祖国の言葉だった。
『アンタはなんでここにいる』
ここは人を差別する国だと判っていて、恨みを篭めてまで何故。
刹那の声に、男が振り返った。
目と目が合う。同じ色をした目が見ていた。

『知りたいか』
『………』

知りたいわけではない。
ただ、気になっただけだ。嫌だと言いながらもこの国に居る意味を。

『…知りたければついてこい。お前のその反抗心の目、俺がかってやる。AEUに属するこの国を変えたいのなら、な』

飲み干されたビールグラスをカウンターに滑らせるように置き、立ち上がる男の背中を刹那は見つめた。
来た時よりも乱暴な音を立てて木ドアを開けて閉める。大きな身体がドアの外へと消えた。

「…刹那、あの人なんて?」
あの男が話していた言葉をアレルヤは知らない。
ガンダムマイスターとして、幾つかの言葉を学んだけれど、アラビアの言葉は学ぶことは出来なかった。
うっすらと単語だけを理解する。
クルジス、逃げる、AEU。


刹那はじっと木ドアを見つめていた。アレルヤの問いに答える事は出来なかった。

あの男がこの国に来た理由。
知りたいならついてこい。
言われた言葉がひっかかっていた。…何故そんな事を。

「行ってくる」
「えっ、刹那!?」

アレルヤが手を伸ばすよりも早く、刹那は上着を取り上げて、駆け出すように男の消えた木ドアの向こうへ飛び出していた。