アンティーク用品店でみつけた小さな鐘を入口のドアにつけたのはロックオンだった。

カラリと鳴る小さな鐘。
入口の木ドアは年代物で、枠に嵌められたガラス細工も美しい。
乾いた音を立てるそれが気に入って買ったものだ。随分と古びているのに、なんともいえない音が鳴る。

先代のオーナーから渡されたこの店に不自由なものなど何一つなかった。ドアの鐘だけを買って備え付け、他は既存のままでこの店を経営している。
カラリと鳴る鐘。
ドアが動くたびに誰かを招き入れて、誰かと別れを告げる。そんな一喜一憂の出会いもいいもんじゃないかと思った。

ロックオンが、先代のオーナーから、このバブを任された理由は、些細なことだ。
ロックオンが、この店の常連だったわけでもない。この寂れた小さなバブに通ったのはほんの数回で、この店を見つけたのさえごく最近。店のメニューも見慣れないうちに、オーナーがこの店を手放すことを知ったから、それなら俺がやるよと受け取った。酒の勢いとバブオーナーになるのも悪くないかという安直な思いから始まったオーナー稼業だが、初めてみればなかなかどうして妙な居心地のよさと充実感を感じている。

世界を相手に戦ってきたガンダムマイスターとは違う、日々少しずつ積み重なる充実感と、今日1日過ごせた事への感謝。
それは神にではなく、この平穏な日々そのものに対して、だ。

バブのオーナーになると、刹那に打ち明けた時には、思い切り目を見開いて驚いた顔をしていたのを思い出す。
何を言ってるんだ、なんの冗談だ、そのぐらいの減らず口を叩かれるかと思っていたが、驚いた割りに刹那は「そうか」とひとつ頷いただけで、何も言う事はなかった。
バイトにくるかと誘ってもみたが、首を横に振られてあえなく撃沈。
一人できりもりしていたところへ、アレルヤとティエリアがアイルランドへ来たからこれ幸いにとアレルヤをバイトに雇った。
大学生の生活と、明け方まで続くバブのバイトのかけもちは、通常の人間にとっては辛いものなのだろうが、アレルヤは「覚えることばっかりで大変だよ」と苦く笑いながらも、酒の種類もシェイカーもどんどんマスターして覚えていった。元々いろんな能力は高いやつだ、心配はなかった。大学生活も上手くやっているようだ。
ティエリアがよくこの店に来ては、アレルヤをひやかして帰るところをみると、彼との仲もまんざらではないらしい。

カウンターに数席の椅子が向かい合っているだけの小さなバブ。
満席になるのは週末ぐらい。
稼ぎは、アパートメントの家賃と食費と生活費が払える程度しかない。
なるほど、先代のオーナーが惜しみながらも手放した理由が判る。これだけ席数も少なければ、いくら客入りがよくても黒字にするのがギリギリだろう。

それでも、故郷であるこの国に戻って、都市近郊の穏やかな街の小さなバブと小さなアパートメントで暮らしていけるのは、ロックオンにとって、とてつもなくかけがえのない財産のように思えた。
呼び出さないとやってこない刹那。酒も満足に飲めない。刹那は下戸だ。
そうして過ぎてゆく日々は、永遠のもののように思っていた。


***


「ロックオン、待ってたんだ!」
「どうした?」
買出しを終えたロックオンが紙袋を抱えて戻ってきた矢先、アレルヤは血相を変えてロックオンに詰め寄る。
それを宥めるように落ち着かせながら、オレンジやらジャガイモの入った紙袋をカウンターに置く。入口近くの席、(刹那がいつも座る席だ)には、ミルクカクテルが半分の量で残っていた。どうやら刹那が来ていたらしい。なんだあいつは普段俺が呼んでも来ないくせに、今日に限っては自分から来ていたのか。珍しい。
ならば寄り道をせずにもっと早く戻るんだったなとぼやきながら、刹那の席の隣に置かれていたビールグラスをちらりと見つめた。
飲み干したのはあっという間だったらしい。グラス側面につく泡のリングが2箇所だけで途絶えている。1杯だけひっかけて帰ったらしい。まだ店が始まって30分も立っていないのだから尚更だ。

「…だからロックオン大変なんだよ、今刹那が来ていたんだけど、中東の生まれの男のあとを追いかけて出て行ってしまった」
「…どういう事だ?」

アレルヤの言葉は簡潔すぎてよく判らない。
中東生まれの男?
それはこのビールを飲んだ男という事か。

アレルヤはこくりと唾を飲み込むと、改めて言葉を吐き出す。

「中東の、多分刹那と同じ人種の男だ。大男で筋肉質。どう見てもカタギじゃない。元軍人かゲリラか何かだ。その男が刹那に声をかけた。言葉は少なかったけど、僕が聞き取れたアラビアの言葉は、『クルジス』『逃げる』『AEU』。恨みの篭った目をした男だった。生きてる人間の目じゃない。そんな男の後を刹那は追ってしまったんだ、ロックオン、つい15分も前の話だよ」
言い切って、アレルヤはロックオンの肩を掴む。
「僕のカンだけど、…嫌な予感がするんだ、だから刹那を追いかけてロックオン」
「…どっちへ行った」
「判らない、ただドアを出て左の方へ」
「左だな?」

アレルヤから概要を聞き、言葉や態度から彼が感じた「嫌な気配」が伝わってくるような気がした。胸騒ぎを覚えてロックオンは今来たばかりの道を駆け出した。
怪しい男、それが刹那に声をかけて、何故か刹那はついて行った。
それは刹那とて嫌な予感を感じたからではないのか。
何故だ。何故だからといって追いかけていったんだ!

「くそっ、なんですれ違わなかったんだ俺は…!」

今来た道を反対に走る。大通りを抜けてきたのに刹那の姿を見なかったということは何処かの路地に入ったということだ。
このあたりは昔の工場跡地が多い。路地1つを抜けた先には廃工場が広がっている場所も少なくはない。どこかに入り込んでしまったというなら探し出すのは困難だ。

「刹那ッ…!」

叫び、刹那の後を予測で追う。
どこへ行ったのか判らない。路地は狭く、人一人が通れる場所ばかり。それを全て覗いて駆け抜け、しらみつぶしに探す。

何故刹那はついて行ったのか。
ついてこいと言われたからか。
それとも何かの弱みを握られたのか。
アレルヤはカンも鋭く、頭もいい男だ。もしも刹那が弱みを握られる程の動揺ならば即座に感じ取るだろう。しかしアレルヤはそんな素振りはなかったという。つまり、刹那は自己判断で男の後をおいかけたことになる。
「なんだってんだッ…!」
苛立ちのままに、ロックオンは迫る壁をうっとしげにこぶしで叩いた。

「くそっ…!」

叫んだロックオンの声さえも、細い路地にかすれて消えた。
ラチがあかねぇ、とロックオンが顎に伝う汗を拭った瞬間、小さな息遣いが聞こえた気がした。
「…刹那?」
それは息遣いというよりも、息を吐く時の喉から絞り出される音だ。
かすかな音は自分の呼吸音に紛れそうになるほど細い。

呼吸を止め、息を潜めた。
呼吸音だというならば、音は続くはずだ。

耳を澄ます。
小さな小さな音を拾う。

「…居たッ…!」

間違いない。確かに人が居る。
ロックオンは刹那だと確信していた。知っている。この音を。これは、…これは。

路地を曲がり、右を見ながら刹那の姿を探す。幾つ目かの路地を入った瞬間、その光景はロックオンの目に飛び込んできた。

「…っ!」

細い路地、壁に背を預けて立つ大きな男に小柄な人間がしがみ付いている。大人が子供を抱き抱えているようにも見える姿だ。

「せつ、な…?」

路地の幅は狭い。
大男の腕が、細い腰を抱き寄せていた。
その腰がゆらゆらと揺れている。
そうだ、これは。

セックスだ。

細い路地の隙間で着衣さえ乱さずに股間だけを露出した状態で、性行為が行われている。
刹那の背中が、路地の壁にぺたりとくっついている所為で、ずり落ちることもない。
大男の腰に乗っているのは紛れもなく刹那だ。
ロックオンが感じた息遣いは確かに刹那のもの。聞いた事があるのは当たり前だ、今日とて仕事に出かける前まで交わっていた、刹那の息遣いなのだから。

「なんっ…」

ロックオンが動揺した瞬間、大男が低い咆哮を上げた。それに呼応するように刹那の声も上がる。小さく、あぁ、と声が響いた。2人が同時に達したのは嫌でも判ってしまった。

「何やってやがるッ…!」

金縛りが解けたように、激しく戦慄いて怒鳴ったロックオンに、男は躊躇いもせずに腰から拳銃を抜いた。
2発、パァンパァンと乾いた音が路地に響いた。ロックオンの足元に弾をめり込んでいる。

「…っ…!」

踏み出そうとした足が止まる。踏み出せない。狙いは正確だった。
この男は手馴れている。
撃ち方も、セックスさえも。
拳銃を持っていないロックオンには威嚇すら出来ない。銃を持っている方が強いのだ。スナイパーであるロックオンはそれをよく理解していた。どれだけ反射神経がよかろうと拳銃の弾から逃れる事は出来ない。相手が素人ならまだしも、どう考えてもこの男は拳銃の扱いに慣れていた。

男の腹に足を絡ませている刹那はロックオンに気付いているのかいないのか。目線さえ合わない。あわそうとしないのか。
怒りと失望と動揺で硬直するロックオンの目の前で、刹那がずるずると地面に落ちてゆく。男が手を離した所為だ。
ぺたりと座り込んだ刹那の耳に吹き込むように男は耳を寄せた。拳銃をロックオンに向けたままの何事かを刹那に囁いた。英語ではない。おそらく刹那と男にだけ伝わる中東の言葉だ。

そうして、暗闇の中へ紛れるように消えて逃げていく姿を、ロックオンはただ見ている事しか出来なかった。