「あら」
そよそよと揺れる薄手のカーテン。砂漠の夜風が一瞬止んだ。
マリナは窓を振り返った。王宮の最奥、高さもあるバルコニーの手すりに、1人の男の影。
「刹那。…いらっしゃい」
マリナは笑顔を向けて、ひとりの青年を迎え入れた。


「ダブリンは、今頃寒いのでしょうね」
薄い寝巻きの上に、ショールを羽織ったマリナが、水の入ったグラスを差し出した。刹那はそれを受け取り、こくりと飲み干す。
「しばらく、アイルランドには帰っていないの?」
「…ああ」
「まぁ。心配しているわ、きっと」
「これが終れば戻る」
「そう。よかった」
にこりと笑顔を向け、ベッドシーツの上に、そっと腰を降ろすマリナを、刹那の目がまばたきをする事もなく追う。
一国の皇女の部屋に、若い男。しかも不法侵入である。警備兵が見たらとんでもない事態が起こりそうなものだが、刹那は慣れた様子だ。

「ダブリンのテロは、今沈静化しているようよ。新聞の記事程度の情報だけれど」
「…そうか」
「貴方のパートナーのおかげかしらね?」
「……それは判らないが…。あいつがテロを赦すとは思えない」
「そうね。強い人だものね」
「…最近うるさいだけなんだが…」

連絡を寄越せだとか何だとか。
ダブリンに戻れば、2日はベッドの中に居るし、やたらと肌に触れたがる。まるで子供のように傍を離れないこともある。あの男がそれほど幼稚じみていると思った事は無かったが、本人いわく、「恋人

同士ってのはこういうもんなんだぜ」と言われてしまったから、返す言葉もなく刹那は撃沈した。

「…あいつの考えている事は、時々判らない」
「それは刹那が”恋”を知らないから、かしら?」
「………」

マリナの言葉は核心をついていたらしい。ぐ、と押し黙ってしまった刹那は口を閉じてしまった。
恋、というものを知らない。…確かにその通りだ。
マリナの悪意のない本心の問いかけに、刹那は返す言葉を失った。…あれが恋というものなのだろうか。…あれが。


一方のマリナは、ひたすら”恋”について考えているのであろう刹那を見つめていた。
ここへ来るたびに、彼は少しずつ変わっていく。
話す言葉が少しずつ増え、見せる表情も穏やかなものへと変わってく。

まるで、夜に突然やってくる迷い猫のよう。
今とて、バルコニーに近い場所に腰を下ろして、すぐにでも飛び去ってしまいそうだ。

刹那は猫のように、しなやかに身体を揺らして、音もなくバルコニーから進入してくる。
マリナはそれを迎え入れ、ほんのすこしの時間を楽しむ。
数ヶ月に一度、こまめにマリナの元を訪れてくれる彼は、世界のことや自分のことを少しずつ話し始めていた。

「ふふ。貴方の話を聞くのが楽しい」
「…そうなのだろうか」
「ええ。話は、貴方からのおみやげね」
「…みやげ?」
「ええ。…だから刹那。もっと話して頂戴」

微笑んだマリナの笑顔に促され、刹那はゆっくりと口を開いた。



***



刹那が語る言葉を全て受け止めて、しばらく。
そう時間も置かずに王宮を後にした刹那が消えたバルコニーを、マリナは見つめた。
久しぶりに会った刹那は、以前よりも背が伸びていたし、声のトーンも変わっているように思う。

「…刹那」
数年前、初めて出会った頃、刹那は、まるでナイフのような獣だった。けれど、彼の持つ鋭さはそのままだけれど、幾分か柔らかくなったと思う。
2年前、ラグランジュワンでの戦闘で、ソレスタルビーイングは壊滅したと聞く。刹那がガンダムに乗る事はなくなったけれど、彼の戦いはまだ続いている。そのために、世界各地を廻っているということも

、マリナは、知っているつもりだ。
刹那が、このアザディスタンに立ち寄ってくれた理由は、中東の紛争に介入したからこそだと判っている。
今からダブリンに戻ると言っていたということは、今頃船か飛行機の中だろうか。

「貴方を待っている人のところへ帰るのね」
話してくれたように、ダブリンで待っているひとのところへ。
刹那から語られる言葉は、ダブリンのことや、待っている人のことばかり。…きっと彼は無意識に話をしているのだろうけれど。

「…うれしいわ。刹那」
自分の場所を見つけ、幸せのかけらを手に入れよとしてくれる事が嬉しい。


飲み干したグラスを取り上げ、トレイに乗せる。
ガラスについた水滴が、月のひかりに反射してキラキラと光っていた。

「また…来てくれるかしら」
刹那は。

マリナは月を見上げ、彼を思う。
…話をしに来て欲しい。
そして、どうか、

「貴方が幸せになっているのだと、私に教えてね」