(…ああ、ロックオンが出て行く) 朝も開けぬ5時。目が開いた。 判ったからだ。 ロックオンが、今、外へ出ようとしている。 シンは、ゆっくりと目を開いた。 目に映るのは僅かに灯した明かりが映すシーツと床の色だけ。 ふと、隣のベッドを見れば、刹那の姿は無い。 どうやら今夜は朝までロックオンに買われたらしい。帰ってこなかった。 ロックオンが泊まっている客室は2階だ。 1Fの最奥にあるシンの部屋まで、物音が聞こえたわけではない。けれど、気配で判ってしまった。 ロックオンの部屋から殺気が漂っている。 仕事に行くのだ。…シンは理解していた。 ロックオンがどうしてこの町に滞在しているのか。どうしてこの宿を利用しているのか。 おおよその見当はついている。 理由を、彼に聞いたことはない。 この宿に泊まっている客のすることを詮索するのは、ご法度だ。 それが判っていて、ロックオンを泊めている。 何も聞かず、何も調べない。それを守れば後は何でもありだ。 彼が好んで刹那を買っていることさえ、ロックオンの自由。 刹那とて承知で買われている。 シンは、空いたままの隣のベッドを見つめた。 ロックオンが仕事に行くというなら、刹那はじきに帰ってくるだろう。 殺気が漂いはじめてからしばらく、足音も立てずにロックオンの気配は遠のいていくのが判った。 殺気が徐々に遠ざかる。この宿を出て行った。おそらく、帰って来るのは明日以降だろう。 シンは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。 ようやく身体を動かせるとばかりに、けだるげに起き上がる。 目が醒めてしまえば、もう一度寝る気にはなれなかった。水でも飲むかとキッチンへ静かに歩いて、一杯の水を飲む。 殺気に当てられてしまった。 まだ喉が苦しい。 息を吐いて、目を閉じる。 そうして鼓動を抑えようとしたところへ、背後から突然の声が響いた。 「…起きていたのか」 「……っ」 びく、と身体が震えた。 気配を感じなかった。まったくと言っていいほど。 「…あんた…」 アスラン・ザラ。 何故ここに。…いや、どうして気配さえ感じさせずに。 いくらロックオンの殺気に当てられていたとはいえ、神経はピリピリしていたはずだ。 なのに、この男が近づいていることさえ判らなかった。 「ちょっと起こされてね。…あの殺気は誰のだ?」 「…さぁ」 それを感知できただけでも大したものだ。 この街には、人の負の感情など幾らでも渦巻いているのだから。 「水、飲むならどーぞ」 「…いや、俺はいい」 ならどうしてキッチンに来たのか。 殺気の正体を知りたかったとでも言うのか。自分に向けられたわけでもない殺気を。 (……) アスラン・ザラ。 この男は得体が知れない。 突然この街にやってきたと思ったら、馬鹿正直なことばかり言って、女は買わないだの、男は論外だのと。 その割には装備だけはしっかりしていて、この広大な砂漠をひとりで越えるつもりだったらしい。 けれど、砂漠の本当の怖さは知らない。 この町の事を知らなかったり、砂嵐の長さも判ってないほどの。 この男は、バランスが取れていなさ過ぎる。 見た目は、優男に見えなくもないのに。 「アンタさ、何者?」 「…ん?」 ん?じゃない。そんな何気ない顔をしても、とぼけているようにしか見えない。腹の中は何を考えているのか判ったものじゃないからだ。 どう考えてもこの男は普通じゃない。 「…いいけどさ、何者でも。この宿じゃそーゆーの気にしない主義だし。…でもアンタおかしいよな」 「俺の、どこが?」 「どこがって…」 どこもかしこも、なのだけれど。 けれど、言えない。 ああ、面倒くさい。本当にコイツは一体なんなんだ。 「…俺は部屋に戻りますけど」 「ああ、おやすみ」 「…寝れるわけないだろ。こんだけの余韻が残ってんだから」 ロックオンが残していった、ぴりぴりするような。 「…余韻…?…あ、すまないそういう事なのか」 緑の目を、ぱちりと数度瞬きさせて考えた後、アスランは身を引いた。 見れば僅かに頬が赤い。 「……は?アンタなに言って………」 ああ、勘違いしてんのか。 すぐに答えにたどり着く。ウブな男の考えつきそうなことだ。 「俺はロックオンとヤってない。勝手にエロい妄想しないでもらえませんか」 「…そう、なのか。…ああ、いや、そういうつもりじゃ」 じゃあどういうつもりだったんだよ、という言葉は心の中だけにしておいた。 こんな話をするのも億劫だ。 面倒くさくなって、アスランの前を無言で通り過ぎ、すたすたと歩いてキッチンを出て行く。 アスランが声をかけることはなかった。 けれど、シンが扉を閉めた後、アスランはひとり、ぽつりと呟いた。 …ああ、これはロックオンの殺気だったのか、と。 その目が、険しそうに細められたのを、シンは気付く事が出来なかった。 ** 部屋に戻ってきたばかりの刹那が、濡れた髪を古びたタオルで拭いていた。 おそらくロックオンの部屋でシャワーを浴びてきたのだろう。 おかえり、とだけ言って、シンは自分のベッドの中にもぐりこんだ。 ごわごわの布団を頭から被る。 「…起きてきたのは、あの男か」 「そうだよ、キッチンで会った。カンだけは鋭いみたいだ」 くぐもったシンの声。 刹那は、髪を拭く手を止めた。 蓑虫のように丸くなったシンの背に、言葉少なく声をかける。 「…シン、あの男には」 「判ってる。気を許すつもりはないよ」 それは、何度となく言い合った言葉だ。 刹那は口に出さずとも、目でも訴えてくる。だからその度にだいじょうぶだと言い聞かせる。 アスランザラ。 突然やってきた訪問客。 こんな砂漠の、寂れた街に。 気を許すな。 …あの男に。 判ってる。そんなの判ってる。 シンは強くシーツを握り締めた。 「…刹那、お前だってロックオンに、」 「判っている」 言い返したシンの言葉を、最後まで言わせずに一言で片付ける。 「判ってるならいいよ。…身体だけだからな、許していいのは」 「ああ」 迷いもない刹那の声を聞いて、シンはようやく、指先に込めた力を抜いた。 そうだ。 この町では、だれひとり信用なんてしちゃいけない。受け入れてはいけない。流されてはいけない。 …そうして生きてきた。今まで、この街で、2人きりで。 だからこそ、今度の客さえも自分の身となり肥しとなって、消化しなければならないんだ。 ロックオンストラトスも、 アスランザラも。 「…あの2人は、もう、俺達の罠にかかってるんだから」 呟いた言葉は、シンの唇の中で薄く掠れて消えた。 |