「はぁっ、はっ…は…」
どうしよう…。
物凄い勢いで追いかけてくる追っ手から、命からがら逃げ出したシンは、ミネルバの居住区通路のわずかな死角部分を見つけ、薄暗い壁へ背中をぺったりと押し付けた。こんな時、自分が赤服を着ている事が悔やまれる。目立つのだ。この服は。…かといって白だろうが緑だろうが、人1人が隠れるにはどうにも難しいものがあるのだが、今のシンのように追い詰められてしまうと、制服の色というそんな些細な事さえも疎ましく感じてしまう。
まさか、自分の母艦であるミネルバで、追っ手から逃げるという醜態をさらす事になろうとは。


追っ手の追撃は厳しく、いくら身体能力に優れているシンとはいえ、逃げ続けるには苦戦する。先ほどからこのミネルバを何往復したのだろう。行く先々で追っ手の姿を見つけ捕まる前に逃げて、また見つかりそうになって逃げて、の繰り返しだ。幾らここが死角部分とはいえ、ここに居てもすぐに見つかってしまうだろう。相手も皆軍人だ。逃げるものを追うという事は慣れた事だろうし、ミネルバの構造は追っ手全員が熟知している。
しかも、追っ手というのは一人二人ではない。あろうことか、このミネルバ全ての人員が敵に回った、と言っても過言ではない。いや、この際味方など居ないと思っておいた方がいいだろう。
トラブルやゴシップが大好きな女性クルーはもちろんだが、恋人のはずのアスランまでもが、こんな事で本気になるとは思わなかった。あれだけ普段穏やかであるのに、何故こんなレクリエイション的な事に本気になるのか。
(…いや、けど今の俺の状態を考えたら、喜んで飛びつきそうなものか…)
考え付いて、またため息だ。

遠くから聞こえるクルーの声は、楽しげで、ルナマリアやヨウランもまるで退屈しのぎのように楽しんでいる。
(これじゃただの鬼ごっこだ…!)
しかもシン以外は全て鬼というとんでもない不平等な。これでは弱いものいじめだ。

(なんで…なんでこんな事になるんだよ、こんちくしょうッ…!!)
いっそ、大声で叫んでしまいたかったが、それも出来ない。いつ見つかるか知れないからだ。こうしている今でさえ、遠くからシンを探す追っ手の声がこだましている。今、外に出れば確実に捕まる。
(…そうなったら最後、俺は地獄だ----)
確信してシンは震えた。身体中鳥肌が立ち、鼓動は尚も早くなった。


ミネルバのクルー全員を敵に回してしまうような事態になったのには、わけがある。
シンがまた何かをしでかして、…という事でもない。今回ばかりは。
まぁ、シンにも落ち度があるといえばあるのだが、今回ばかりはハメられた、のだ。

何故、誰もいない医務室にあんなものが置いてあったのか。
少し考えれば判るはずだった。

(あからさまにおかしいだろう…!医務室に置いてあるキャンディなんて…!!なのになんで食べちゃったんだよぉ…俺ッ…!)
唇をかみ締めるものの、シンの口内で消化されてしまったキャンディは、すでに粘膜に吸収されていて、吐き出す事も出来ない。今はただ、あのキャンディの効果が無くなるのをじっと待つしかないのだ。
そう、…いつ切れるか判らないあのキャンディの効果を。

「み・つ・け・た」
「ひっ!」
シンが過ぎ去りし後悔にこぶしを握り締めていたその時、背後から聞こえてきた声は聞きなれた同僚の楽しげな声だった。本能的に肩がすくみ、壁に背をつけているというのに、さらに後退しようと腰が引けた。しかしすでに逃げ場所はない。死角というのは、身を潜めるには効果的だが、囲まれてしまっては逃げ出す事も出来ないのだ。
「…る、なッ…!」
「アンタ逃げ過ぎよ。よく捕まんないわね。でも、もういい加減覚悟なさいな」
「出来るわけないだろ!!!俺が今から何されると思ってんだよ!」
「それはまぁ…尋問?」
「笑顔で言うなー!!!」

尋問なんて言葉で現される程、それが生易しいものでないのはすぐに判る。何せこのキャンディの効能は抜群だ。
「あんたも、不用意に物を食べたりするからこうなるのよ」
「なッ…だって、あんな風にただ置いてあったら食べるだろ、普通!ちゃんと個装してあったし、袋に変な番号書いてあったけど…!」
「それが不用意だっていうのよ」
「うるさい!ルナこわいんだよ、お前は!」
「あら、それが本心なのね」
「ッ!!」
さも楽しそうにシンを見下ろして、ふふ、と笑うルナマリアがこれほど恐いと思った事はない。
今はこの口が言う事を聞かないのだ。何でもしゃべってしまう、この自白用のキャンディは。

医務室に置かれていたキャンディは、最近軍で開発された特殊な試作薬だった。
脳神経に作用して、大脳上皮を麻痺させるが、麻薬的な薬物依存はなく、中枢抑制作用がある…とは、シンがキャンディを食べ終わった後に軍医が伝えた理論的な事である。つまり、「普通なら黙っているような事をぺらぺらとしゃべってしまう」という、いわば自白剤だ。
キャンディ形にしたのは敵に警戒心を与えない為(ただのキャンディだと思ってしまって食べたシンのように)で、いずれは粉状やペースト状など無味無臭のものへ改良されていくらしい。
今はまだ開発途中の薬品のため、キャンディという水飴で包んだ形にして、においや味をごまかしている、らしい。

それがミネルバ医務室にあったのは、軍で使用するものであるから当然にしろ、それを何も知らなかった、ただ絆創膏を貰いにきただけのシンが食べてしまったのは事故だった。
「くそぉっ…」
「でもそれってシンの不注意が招いた結果よね」
「ルナッ!」
「効果がどのぐらい続くかとか聞いてないの?」
「し、知るわけないだろッ」
「ふうん。じゃあ一生このままかもね?」
「そんなわけ!」
「ないって言える?だって、軍が自白用に開発した試作品でしょ?コーディネーターに簡単な薬なんて聞かないんだから、劇薬の可能性だってあるかもしれないじゃない」
「そ、っ…そんな、の!」
シンの前にずずっ、と寄るルナマリア。シンは足を引いた。しかしそこは壁だ。
「素直なシンってどんなのかしらね。みんな気になってしょうがないのよね」
「気になるからって俺の人権無視すんなーッ!!」
「はいはい、あんまり騒ぐと人が集まっちゃうわよ?」
「っ!」
口もとを覆うシンに、ルナマリアはもう一度にっこりと微笑んだ。
元々シンは思った事は口に出す素直な性格だが、ちょっと内心に入り込むとその深い部分は酷くデリケートで、本人もそんな部分を決して人に話そうとはしない。
シンとアスランが深い関係になってからは、いくらルナマリアが2人の事をひやかしても聞いても、真っ赤な顔をするばかりで何も答えなかった。少し性的な話をしただけで、取り乱したように耳まで赤く染まられては、ルナマリアもさすがに興味を覚える。あの犬猿の仲だった2人が、どうやって夜を過ごしているのか---と。無粋だとは思うものの思春期の女性としては当然の欲求だ。

「答えてもらっちゃおうかなー」
「こわい!ルナ!!こわいって!!!」
尚も接近するルナマリア。引こうとして引けないシン。2人の表情は対照的だ。

「つかまって…たまるかッ…!」
「えっ!」
叫び声と同時に、一気に跳躍したシンが、ルナマリアの肩を跳び箱のように押し付けて宙に舞い、くるりと前転して、着地した。ルナマリアの背後へと回ったシンはまんまと脱出し、ルナマリアの静止を振り切って走り出した。
(…冗談じゃない、冗談じゃないー!!)
ルナマリアに追い詰められて全てを白状しなければならなくなるなんて、そんなもの、プライドが許せない。
もっとも、ルナマリアよりももっと本音を聞かれたくない人は居るのだが、その人物に捕まらなければ、おそらくシンに鬼ごっこで勝てるものは居ないだろう。
ザフトレッド、軍学校でも長距離走では負けた事がない。レイがシンの後ろをぴったりと付いてきていたが、そのレイはこの鬼ごっこに参加していない数少ないミネルバクルーだ。
まぁレイになら全てを聞かれても仕方ない…で済ませてもいいかもしれない、とシンは諦めつつ覚悟を決めていた。
レイよりもルナマリアよりもヨウランやヴィーノよりも、絶対に捕まりたくない恋人(のような人)がいるのだ。



***



「それでお前は結局この部屋に戻ってきたのか」
「だって、こうするしか無いだろ。レイなら俺をからかっても、根掘り葉掘り聞いてくるような事しないだろうなって思ったし」
「………」

シンの言葉に、レイはわずかに眉に皺を寄せた。
実は、レイとてこのシンとの鬼ごっこを楽しんでいたのだ。自白キャンディによって、シンの口が止まらなくなった。何でも答えるというのならば見てみたい、と。1時間程はそうして鬼ごっこを楽しんだりもしたが、しかし冷静になって考えれば、そんな事で時間を割くにはあまりにも馬鹿馬鹿しくなり、途中放棄して部屋に戻れば、鬼ごっこの鬼はそこに居たのだ。
部屋など一番最初にシンがいないか調べた場所であり、幾らなんでもそんな判りやすい場所には潜んでいないだろうと、ミネルバ内のあらゆる場所を探している。

「裏をかくっていうの?ここなら多分安全ってね」
「………」
得意げに笑うシンに、レイは表情も変えなかった。
数時間の鬼ごっこはさすがに疲れたらしく、自分のベッドにごろりと横になって目を閉じる。
「いいのか、ここにいて」
「うん。パスワード無きゃ部屋開かないし。しばらく休憩する。…っていうか薬の効果がそろそろ消えるんじゃないかな、と思ってるんだけど俺は」
「試してみるか?」
「?」
「お前が内緒で買い込んだ菓子はどこにやった?」
「ほとんどもう食べちゃったけど、余りはシャワーのバスタオルの間に挟んである…って、うわ、口が勝手に動くッ!!」
律儀に全てを語り終わった後で、自分の口に両手をかぶせて防ごうとしている姿はどう見てもコメディだった。
「まだ効いてるようだな」
「みたいだなー…」
あーあ、と大きく声を出してベッドの上で手足をばたばたさせる。
薬の持続効果がどれだけあるかはしれないが、数時間経っても消えないという事はまだ続いてしまうらしい。
そんなシンを視界の端でちらりと見ると、シャワールームへと入り、ごそごそとバスタオル内からシンの溜め込んだ菓子を取り出した。
「没収」
「ああっレイッ!ちくしょー…」
止めたいものの、どうする事も出来ない。バラしてしまったのは自分だし、ここで何を言っても、真面目なレイは引かない事など判っているからだ。
「…お前にもう1つ残念な知らせがあるぞ」
「え?」
菓子を没収したレイは、シャワールームの扉を全開にし、何故か自分の上着を持って、部屋を退出しようと扉へ向かった。
「何…?扉開けっ放しだぞ、レイ」
「いいんだ」
「なんで?」
「お前はここに来たことで、皆の裏をかいたようだが、さらに裏をかいた人間がいる、という事だ」
「えっ?」
言いながら、部屋から出ていこうとするレイから目線を離し、何故か開けたままになっているシャワールームの扉へゆっくり首を回して目線を合わせた。
そこに、カツッ、と靴音が響き、やがて見慣れた赤服の青い髪の男が姿を現した。
「!!!!!-------レ、レイッ!!」
呼んでもすでに遅し。
部屋の外へと出て行ったレイは、律儀に鍵までかけて退出し、姿を消した。
直後、部屋の中にシンの絶叫が響いた。




***





「ほ、…ホントに嫌なんだってッ…」
「嘘をつくな。本当の事を言え」
「言ってる!嫌だ、恐い、したくない!アンタ、もう目が恐いんだよ!!」
「それが本心なら悲しいな」

口は言う事を聞かなくても、身体ならば自由に動く。
とにかく逃げるしかないと、ドアへもつれるように走るシンの身体をあっという間にベッドにねじ伏せた。
抵抗ばかりするシンの暴れる腕を封じるべく、手首を掴みあげてシーツに縫いとめ、蹴り上げられないように、シンの足に自分の足を絡めて体重を乗せる。
マウントポジションよりもタチが悪いとシンは思った。…けれど”思った”言葉さえも、あのキャンディの力で口に出てしまっているから、アスランは苦笑せざるを得ない。

「あぁ、嫌だ、ホントに嫌だッ」
「お前の口は良くしゃべるな」
「誰がそうさせてんだよ……っう、…!」
怒鳴る口に、アスランの唇がねっとりと絡みつく。
シンの唇全てを覆うようなキスに首を振って逃れようとするも、上から掛けられた体重と巧みなキスにそれもままならない。
開かれた口からアスランの舌が入り込むのはすぐで、歯列をなぞられながらシンの舌先へ急くように絡ませる。
「ん、んうっ…!」
落ちてきた唾液と、生き物のようにうごめくアスランの舌にたまらずに目を閉じて手を握り締めても、アスランのキスは濃厚で絡みつくような唾液の水音がいたたまれなかった。

「…っ、ん、ん、…!」
ふさがっている唇では、自分が何を言おうとしているのか判らず、けれどキスが解かれた所で、自分が何を口走るのか想像が出来るようで出来ない。
口をついて出てしまう本心は、シンが確かに本気で思っている事だが、そんな風に思っていたつもりは無い言葉も、すらすらと言ってしまう。
それが自分の深層心理なのかと思うと、どうにもやるせない気持ちになる。
この人にだけは、絶対に本心なぞ、晒したくなかったのに。

「ん、っ…あ、」
いっそこのままキスを続けていたら、これ以上本心を聞かれる事も無いのかもしれないと思えてきた頃、充分にシンの咥内を堪能したアスランが、唇を一舐めして顔を離した。
「んっ、なんで、っ?」
突然離された唇に、とろりとした目で見上げてくるシンに愛しさを感じて、唇の端にちゅぅ、と吸うようなキスを落とす。

「今日はお前の素直な言葉を聞ける日だからな。唇を塞いだらもったいない」
「なっ、あ、あんた意地が悪いっ!」
「なんとでも。で?どうだ?何をして欲しい?」
「キ、キス、しろっ!ッ…っあ、いや、違う!!」
「違わないだろ?本音だなそれが」
「そうだよ!…あぁ、違うそんなんじゃ、ちくしょッ…!」
言われれば素直に答えてしまうこの口が憎らしい。
キスが欲しい、と言ってしまい、照れて真っ赤になってしまうシンなど、滅多に見れるものではない。
シンが望むキスを、出来るものならしてやりたいところだが、せっかくのこの素直なシンの唇を、ただ流されるままに塞いでしまっては勿体無い。

「キスか。してやりたいんだがな」
「も、あんたはッ…!」
飄々と答えるアスランに苛立ちが増し、精一杯の力でもって、押さえつけられているアスランの腕を押し返そうとするも、わずかに手首が動くぐらいで、びくともしない。
拘束された腕は、尚も強い力でシーツに押し付けられて、ほんの少しも動かす事が出来ない。いくら2つ年上とはいえ、この細い腕のどこにそんな力があるんだと悔しくなる。

「唇にキスは出来ないが、な。シン。…それ以外の場所ならどこでもしてやれる」
「なっ…」
言われて、にや、と意地の悪い笑みを浮かべるのを、冷や汗が流れそうな気持ちで見上げていた。
次に言われるだろう言葉を聴きたくなくて耳を塞ぎたくなる。けれどそれも出来ず、せめてシンに出来るのは唇をかみ締める事だけだ。
動きを拘束された今、シンに出来る抵抗は殆ど無かった。普段ならば口の悪さでどうとでも文句が言えるものだが、今回ばかりはそれも使えない。…というより、それが一番の問題なのだ。
アスランは、もう一度、口端を上げて笑った。

「…どこに、」
「い、いうなっ!!」
「----------どこに、キスして欲しい?」

言いたくない、と。精一杯唇を噛み締めたのに。
どこにして欲しい?という問いに、シンの唇は、素直にためらいもなく答えてしまった。
その瞬間のアスランの表情。驚いたような嬉しそうな顔を間近で見てしまったシンは、気を失いそうな程の悔しさと恥ずかしさを感じて唇を噛み締め顔をシーツに押し付けた。