僅かな日用品が入ったダンボールを抱えながら、苦労して玄関のドアを開けると、真新しい匂いがした。

空港近くのマンションとして建設されたものの、買い手が付かなかった部屋らしい。その後、値段が下げられ、賃貸として提供されるようになった1室。2LDKだ。
玄関を開け、簡素な靴箱を横に設置されている。トイレと洗面所を両脇に見ながらドアを開ければ、カウンターキッチンとリビングが広がっていた。
部屋の一番奥、カーテンもかかっていない窓の向こうには、空港の管制塔が見えた。

リビングはがらんとしていて、まだ何も物が入っていない。どうやらアスランも自分の荷物を運んだだけだったらしい。テレビもラグも何もない。
やたらと広いわけではないが、2人がけのソファぐらいは置ける。テレビとラグとローテーブルをおいても2人なら充分だ。
大きく取られた窓からは、太陽の光が燦々と室内を照らし出し、時折飛行機の離着音が部屋に響き渡るが、判っていた事だ。問題はない。

「結構いい部屋じゃん」
つぶやくと、何も物が置いてないリビングに自分の声が木霊した。

ぐるりと一周して部屋を見渡す。
リビングとキッチンには境目がなく、カウンターキッチンで間仕切られているだけだ。キッチン脇に冷蔵がは入るスペースがぽっかりと開いていて、調理器具やら何やらは、全て備え付けの棚に収まりそうだ。男2人暮らしなのだから、充分過ぎるほどの収納力だろう。アスランが料理が得意なら使うのかもしれないが、基本的にボンボンなのだから料理など得意では無いだろうというのがシンの予想だ。ちなみにシンとて料理は得意ではない。家族が作ってくれたり、軍の食堂で作られたものがシンが今まで食べたものの全てだ。キッチンに立つ時は、洗い物を手伝う時か、お湯を沸かす時ぐらいだ。
(…俺達もしかして、レトルト生活になる…?)
想像して、笑った。いや、どちらかが勉強していけばいいんだ。

ダンボールを抱えたまま、これからの新居生活を想像するのは何だかこそばゆくて、軽く咳払いをして誤魔化す。
リビングは12畳程度のフローリングで、まだ傷1つついていない。右側と左側に1つずつドアがある。アスランが2LDKの部屋だと言っていたから、おそらくは個室に繋がっているのだろう。
シンはどちらを先に開けようか迷って、右側のドアを開けた。
「あ」
そこには、簡素なデスクとシンプルな椅子、それから大きめのベッドが1つが置いてあった。
ベッドが置いてあるものの、まだカバーもかかっていない。部屋の隅にはダンボールが2,3箱無造作に積み上げてある。ここはアスランの部屋なのだ。
荷物を運んだものの、まだ整理も出来ていないらしい。家具も荷物も必要最小限で、まだここに住み込んでいるという雰囲気は無い。
あの人も忙しいからだろうと結論付けて、シンは静かにドアを閉じた。
右側のドアがアスランの部屋だということは、向かい側の左のドアがもう1つの部屋なのだろうと、リビングを横切り、左側のドアを開けた。目に飛び込んできたのは、何も置かれていないフローリングと壁の白。そして奥にはこじんまりとした窓。青空。太陽。
「わ…」
アスランの部屋と同サイズのだろう。こじんまりとした、6,7畳程度の小さな部屋だ。
後ろ手にドアをしめる。ぱたん、という音が部屋の中に響いた。

「ここ、俺の部屋?」
自分に問いかけて、そうだよ、と自分で答える。
「…うわ…」
思わず声に出してしまって、けれど答える人は居ないから、妙にふわふわした気分になった。こんな感覚、しばらく味わった覚えがない。ミネルバでも軍でも新しい部屋は分け与えられたけれど、こんな浮ついた気持ちになった事が無かった。…あぁ、言葉にしてようやく判る。これは嬉しいという気持ちなのだ。

ここに住むんだ。一人じゃなくて、アスランさんと一緒に。
この部屋に戻ってきて、この家でアスランさんと食事して一緒に寝て起きて、歯磨いたりする。
「……へへ…」
そんな当たり前の生活を想像して、なんだかくすぐったくなる。嬉しい。嬉しい、嬉しい!
シンは一人笑いを噛み締めた。



『契約してきた。とりあえず、来月1日から住めるようになってる』
「へえ…早いですね。じゃ、敷金とか礼金とか手数料とか、また今度話をしてください。50/50でいいですよね」
『いいよ。そのぐらい俺が…』
「いやですよ。金関係の事はきっちりしとかないと。金の事なんかでアンタと揉めるのやだし。…あ、そうだ。俺、次の休みしばらく先なんで、アスランさん先に引越ししていてください」

宇宙と地上で、僅かな時間の通信。
ノイズ交じりの通話は1分程度だったが、それでもシンがモニタ画面の中に中々現れてはくれなかった。通信をつなぎつつも、なにか作業をしている音と応答する声だけが聞こえていた。
カーペンタリアに配属になるのも、少し時間がかかりそうだった。
キラが手続きをしてくれているが、そう簡単に配属が変わるものでもない。アスランが部屋を借りた時は、作戦行動中ではなかったが、宇宙でのごたごたを片付けてからでないと、地球に移動も出来ないだろう。
アスランと部屋を見に行くのだと言っていた約束も、叶わなかった。結局アスランのみで見学にゆき、2、3件見た後に契約をしたと連絡が来たのは直ぐだった。
ちゃんと色々な面をチェックしてから借りたのかと不安にもなったが、2人で住める部屋ならトラブルがあってもいいかと思えた。どうせシンとて部屋を借りるなどという経験は無い。どこを見たらいいのか何をチェックしたらいいか想像もつかない。アスランも似たようなものだろう。

部屋の契約をするところまではアスランがやってくれたが、それ以降の引越し作業やら連絡は何も進んでいないようだ。
シンも宇宙で忙しかったが、アスランこそオーブ軍隊の上層部だ。間違っても暇なわけではない。
お互い仕事をこなしながらも、連絡さえまともに取れなくなるほど働き、気がつけばすでに部屋に入れる日が過ぎていた。
数日振りに開いたプライベート用のメールには、アスランがすでに必要最低限の荷物は部屋に置いた事と、次の休みの日付が書かれていた。
シンがようやく取れた休みをアスランの休みと無理矢理合せた。承認するキラは笑っていたが、引越しをするならこの日しかない。ゴンドワナにある自室の片付けをしながらも、最低限荷物を纏めれば、ダンボール1箱のみで済んだ。軍服やら軍の道具は専用の軍輸送機で送ってくれる。自分のMSもだ。シンが持っていくものは私物だけだが、服やら靴や日用品に特にこだわっているものは無い。厳選すれば、ほんの少量だった事に、シン自体が驚いた。
(俺ってこんなに無頓着だっけ…?)
そういえば、戦争が終った時、沈んだミネルバにも大して荷物は積んでなかった。マユの携帯を取ってきたぐらいだ。後は全てあの艦においてきてしまった。
ゴンドワナを出る際、見送りに来てくれたのは、自分よりもずっと忙しいであろうキラで、寂しくなるね、と苦く笑い、小さな包みを手の中に包まれた。
「アスランと一緒に開けてみてね」
言われて、とりあえず受け取る。敬礼で別れを告げようとしたら、キラは笑顔で右手を差し出してくるから握り返した。小さく微笑み合った直後、ふわりと抱き締められて驚く。元気でね、と耳元に吹き込まれるように言われて、この上官が本当に寂しがっているのだと判って、少しだけ嬉しかった。

プラントを出て、数十時間。ようやくついたオーブの、新しい家。
まったく何も物がない自分の部屋に入って、ダンボールをおろす。休みは明日の昼までだ。明日の夜にはカーペンタリアで正式な異動が言い渡される。それまでにやることをやらなければ。
今の状態では何も出来ない。歯ブラシや歯磨きはおろか、何も持っていないから、買い物に出なければいけない。食器も家具も今から買わなくてはまともな生活さえも送る事が出来ないだろう。
「…にしても疲れたァ」
ダンボールをおろすと同時に座り込んでしまった床は冷たくて、疲れに任せてそのままごろりと横になる。立ち上がれなくなりそうな疲労感が湧き上がり、あぁちょっとだけ、ちょっとだけ休憩だからと自分に言い聞かせる。まだやらなきゃいけない事が沢山ある。買い物も掃除も食事も。
けれど、異動に伴うここ最近の激務で、ロクに休んでもいなかった。昨晩ゴンドワナを出てそのままオーブに向かった。シャトルの中でも新しい配属先の書類に目を通さなければいけなかったし、細々とした仕事は幾らでもある。フェイスになってからというもの、シンの仕事は格段に増えた。アスランはよくもこんな仕事をこなしていたなぁと感心するぐらいだ。
ミネルバでただパイロットをしていた時とは比べ物にならない程、働いている自分。慣れないデスクワークや頭を使った作業は、シンを酷く疲労させた。
「…ちょっとだけ。…ほんの数分だけな…」
僅かばかり仮眠を取れば、一時的にでも身体は楽になるだろう。
まだ何も使われていない新品の床のごろりと横になって、シンはゆっくり目を閉じた。
軍人なんだから、何時間も眠るわけがない。大丈夫だ、ちょっとだけ、うとうとしたら目覚めるから-----言い訳のように言って、シンはゆっくりと意識を手放した。心地よい眠りはすぐにシンを包み込んで眠りの世界へといざなってゆく。


***


「…床で眠る事はないだろ…」
1日の激務を終え、なんとか家に戻ってくる事が出来たアスランが、玄関先におかれた靴を見てシンが居る事を知り、部屋に飛び込む。疲れが一気に吹っ飛んだ。
「シン!」
意気揚々とドアを開けるが、リビングには明かりはなく、家のどこにも明かりはついていない。そういえばまだ明りも全て揃えているわけでは無かった。とりあえずリビングと自室に小さな明りを入れただけだ。シンの部屋に至っては、物は何1つ無い。
そもそもアスランこそ忙しい毎日の所為で、まだこの家には住む事が出来ないでいた。リビングやキッチンも手付かずで、唯一自分の部屋にだけはカーテンとベッドとデスクと明かりを入れた。まだアスランも、この家で寝ていない。
今日、シンがオーブについた事は、メールで知っていた。携帯にも連絡があったようだが、軍議の最中で取る事が出来なかった。けれどシンがオーブに来たのなら、あのマンションに居る事は間違いないだろう。
今日は絶対に帰る。明日は休みなのだから、今夜は早めに帰るんだ。あの家で初めての夜に、深夜帰宅などしてたまるか。
アスランの決意は、仕事のスピードに現れた。
いつも真面目にやれるだけの事をやっているが、その日のアスランの仕事は、神がかり的だったと、のちの同僚は言った。

家に戻り、シンが居るだろうと思ったリビングに彼の姿は無い。ではシンの部屋かと、暗闇の中探せば、床になにやら黒い物体が転がっている。それがシンだと判るまで10秒かかり、明かりもない家具も何もないこんな部屋の硬い床で、すやすやと眠りに入っている恋人にアスランは思わずため息が洩れる。
気持ちよさそうに眠ってはいるが、しかし床ではあんまりだろう。

「シン、シン。寝るならベッドにいこう…?」
「……、ん……」

アスランにゆさゆさと揺さぶられても目が覚めない。軍人なのにこんな事でいいのかと思いつつも、これがアスランが相手だからだという事は判っている。懐かない猫のように、シンは相手を選ぶ。それが眠っている間でもだ。
はっきりとは目覚めないシンを、抱き上げる。思ったとおり、身体は床の冷たさを吸って、冷え切っていた。思わず頬を摺り寄せる。熱が少しでも移ればいい。

「…あすら、…さ…?」
「そうだ」
寝ぼけているのか、自分を抱き上げた人物を見上げる。答えれば、そのまま腕が伸びてきた。寝ぼけているシンはいつもより甘えん坊だ。
抱き抱えながら、額にキスを落とせば、くすぐったそうに肩をすくめながらも、アスランの首筋に腕を回してしがみついてきた。
「……かえんなさい…」
「あぁ、ただいま」
「…俺、寝ててい…?」
「いいよ。疲れてるんだな。明日また動こう。とりあえず、ベッド。俺の部屋にしか無いんだ。そっちに連れて行くぞ」
「ん…シない…?」
「しないよ」
シンを抱き抱えながら、自室のドアを行儀悪く足で開け、ベッドの上にそっと横たえる。柔らかなシーツが心地良いのか、小さく身体を動かして丸くなると、シンはまた寝息を立て始めた。
「おかえりなさい、か…」
すやすやと眠りに入ったシンの髪を梳きながら、アスランは静かに微笑んだ。