「明日は何時の便でオーブに帰るんです?」
シャワーを浴びた直後だった。
水の音が止んでから少し経って、備え付けのバスローブに身を包んだシンは、変わらず無造作に伸びた髪を、タオルで乱雑に拭いていた。
「…ん?」
「明日の便ですよ。アスランさん、寝そうですね」
ベッドに仰向けに寝転がり、まどろみの中で目を閉じていたアスランに問いかけたシンは、シャワールームから流れてくる湿気と、ソープの匂いに、シンの存在を感じていた。
タオルで乱暴に髪を拭く姿は、7年前と変わっていなかった。ミネルバのシャワー室でのシンの姿が重なる。…もっともあの頃から随分と背も伸びて、行動も身体も大人のそれへと変わっているが。
こういうところは変わっていない。7年前から、つい最近までのシンを知らないアスランにとって、それは微笑ましい事だった。


明日、アスランは、オーブへと戻る。
数年ぶりに取れた、ほんの束の間の休息だったが、アプリリウスでは、多忙を極めるキラとラクスにも会えた。
たった1日の僅かな時間でも、3人で穏やかな時間を過ごす事が出来た。ラクス自慢の庭園で茶を飲み、緩やかに流れる時間を感じ、お互いの近況を話した。
キラとは夜遅くまで話も出来たし、翌日彼が白服で軍へ出て行くのを見送って頑張れよと背中を押す事も出来た。
また会えるのはいつかな。言われて、このまま平和なら直ぐに会えると返した。
「…せめて港まで送りたかったんだけど」
そう名残惜しげに言ったキラに「いいさ」と笑い、「またいつでも会えるから」と肩を叩いた。
「今度はオーブで会おうね」
キラと手を振って別れた。
オーブで会おうね。…それは、ただの口約束だ。いつ会えるかも判らないが、キラもアスランもこのまま生きている事が出来れば、きっといずれ会えるだろう。

1週間の短い休みの間、キラとラクスと会えたのは1日のみでも、両親や戦友たちの墓参りにも行けた。これも恒久的な平和が、オーブとプラントで結ばれたが故だと思う。
まだ世界は完全に安定してわけではなく、テロも頻発し、内紛も完全に収まったわけではないが、それでも大規模な戦争からは免れている。…お陰で、こうしてアスランのような亡命者にもプラントへの道が開かれている。それは、あの2度の戦争で得て、無くし、そして再び得た権利だ。
あの戦争で失ったものはあまりにも大きい。
けれど、自分は、いや、人類は、ほんの少しばかりの希望も手に入れたのだとアスランは思う。
まるでパンドラの箱だ。全てを失い、けれどかき集めた小さな夢や希望を手に生きていく。それはあのデュランダル議長の元では叶わなかった事だ。

明日。オーブへ戻れば、しばらくは仕事に追い立てられる日々になるだろう。今回のアスランの休暇とプラントへの渡航で、カガリにはかなりの無理をさせている。もっともアスランのプラント行きを進めたのは、件のカガリだったのだが。
「…アスランさん?」
言われて、ふと意識を戻す。
「寝てました?」
「いや…ちょっとぼうっとしていただけだ」
ホテルの部屋に備え付けられたバスローブに身を包んだシンからは、水の匂いがした。ああ、そうだ。明日は何時だという問いだったな。

「午後5時の便だよ。オーブへの直行便だ」
シンの黒髪から滴る水滴をバスタオルで拭う白い指を見つめながら答えると、そのシンの手が止まった。
「…あぁ、なら一緒だ」
「何がだ?」
「その便、俺が機長です」
「!…へえ…」
ベッドから上半身を起した。交わったばかりで服も着ていないアスランの上半身がシーツを跳ね除けて薄暗い室内に浮かび上がる。
シンにとっては見慣れた身体だ。この1週間で何度セックスをしたのだろう。7年合わなかった空白が、1週間であっという間に埋っていく。

「そうかお前が機長か。なら、お前の操縦技術を見られるな」
「…いやだな…降下ポイントがちょっとでもずれたら、怒られそうだ」
「何をしているんだ、シン!…か?」
「あぁ、7年前によく聞いた言葉ですね」
笑うアスランに、シンも笑った。
近づけばアスランの手が伸びてきて、シンの濡れた髪に触れる。直後、唇が合わされたのは、当然の流れだった。

これが最後のセックス。

偶然出会って身体を重ね、アスランがプラントに居る間はと、シンの予定を優先させて何度も身体をあわせた。
1週間の休暇で、キラやラクスと会ったのは1日だけだが、シンとこうして触れ合うのは何度目だろう。
民間シャトルの旅客輸送を担当するシンは、地球降下やらプラント間の輸送やらと忙しかったが、偶然か、この一週間は、すべてアプリリウスを基点としている便ばかりで、時間さえ合わせれば、会うのは簡単だった。アスランが休暇であるために、時間を合わせさえすれば、こんなにも簡単に会う事が出来る。

ホテルで会いたいと言ったのはシンだった。家は見せたくないと言う。
「…だって部屋、汚いんですよ」
「あぁ、それは7年前のお前の部屋を見ているから知ってる。…まだ片付ける癖がついてないのか」
ミネルバに居た頃は、良く部屋の中を散らかしては、同室であるレイに怒られていたのを知っている。7年経つ今も、まだその癖は抜けていないらしい。

「…アスランさんと会えてよかったですよ」
ひとしきりからかわれ、笑いあった後、シンは頭に被せてあったタオルを肩へと落として、アスランに向き直った。表情は笑顔だ。いつの間にか同じベッドの中に居る。今シャワーを浴びたばかりだというのに。
「…俺もだ」
改めて言えば、シンは、7年前とは違う表情で、にこりと微笑んだ。
あぁ、これで最後だ。こうしてシンと会い、セックスを出来るのは。
伝わってくる。シンの言動から、仕草から。

もし、お前が、仕事でもプライベートでもいい、オーブに来る事があったら----。

そう言おうとして、アスランは思いとどまる。
もう会えないだろう。そしてシンももう、アスランとは会わないつもりなのだろう。
家の場所も言わず、連絡先も教えられなかった。これが最初で最後だと。
もうこんな風に、偶然に出会う事も無いかもしれない。
偶然出会えたからこそ、7年ぶりにセックスをしたけれど。…これからも、こんな風に密会する事を、シンは望んでいないだろう。
シンとて、アスランだけがセックスの相手ではない。それは久しぶりに交わった彼のセックス中の動作や手馴れた身体で判った。
今、恋人は居ないといった。けれどそれも本当だろうか。判らない。
軍人をやめ、今を生きているシンに、オーブ軍人である自分が、彼の枷になってはいけない。
あの7年前のミネルバのように。

ただ純粋に無垢に、尊敬と愛情と怒りと失望を、素直に表していたシンアスカはもう居ないのだろう。
今の彼に、またあの頃のように求めてくれと願うのは、あまりにも自分本位だ。
シャワーに濡れたシンを抱きしめ、髪と肌から香る匂いを吸い込みながら、アスランは胸の中で燻る熱情を抑えるために眼を閉じた。


***


短い休みが終わろうとしている。
地球へ降りるためのシャトルを待合室で過ごしながら、アスランは深く息を吐き出した。
オーブ行きの便は、まもなく出発予定だ。
今頃、シャトルのコックピットでは、シンがせわしげに最終チェックを行っているんだろうと思うと、アスランは微笑みを抑えることが出来なかった。
(不思議なものだな…)
かつての部下が、つい今朝まで身体をあわせていたシンが、今はシャトルの機長として、俺を運ぼうとしている。
不思議なめぐり合わせだった。
広い広い地球とプラントの中で、偶然にめぐり合ったこの状況。

1週間のプラント滞在は、アスランにとって、無我夢中で駆けてきたこの10年近い軍隊生活の中で、貴重で有意義なものだった。
キラに会い、ラクスと笑顔を交わし、シンとも再び出会えた。
明日からは、またオーブで仕事三昧の日々になるだろう。1週間も将校が席を外していたのだ。仕事は山になっているだろうし、カガリの事も心配である。彼女がしきりにアスランに休暇を望み、アプリリウスへのチケットの手配をしたのも彼女だったけれど、、それでもカガリの負担を減らせるものならば、減らしてやりたい。帰ったらまずはみやげを渡して、キラとラクスの事を伝え、シンの事も伝えよう。
シンが自分の道を探して歩もうとしている。
そういえば、きっとカガリは喜ぶのだろう。

穏やかな気持ちで、椅子の背もたれに身体を預けたアスランに、シャトル搭乗の手続きを知らせるアナウンスが伝えられる。
静かに立ち上がり、搭乗口へと足を進めた。



チケットに書かれた自分の席を探し出し、座る。
シャトルはほぼ満席の混み方だ。
条約が可決されてしばらく、プラントとオーブを行き来する便がこれだけの人気があるという事が嬉しい。
それは、自分をはじめカガリやキラ、ラクスたちの努力の結果だと思う。
シートに背中を預け、ゆっくりと目を閉じた。
出発を前に、機長シンアスカより皆様へとアナウンスが入り、シンのかしこまった声を聞いてアスランは口をほころばせた。
あぁ、確かにシンの声だ。
本当にあいつ、機長なんてやっているんだな。
失礼な事だとは判っていても、アスランは思わず笑みを零してしまう。
軍をやめたシンが、望んでついた職業が、これなのか、と。


『シンは除隊したよ』
あれは何年前だっただろう。ザフトの軍隊を纏め上げるような立場にまで上り詰めたキラが、オーブへ来た時だ。
…そうだ、条約のサインに立ち会うべく、やってきたキラと、僅かな時間に交わせた言葉の中で。
あぁ覚えている。
そういえばシンはどうしている?元気か?
何気なく言った言葉に、返って来たキラの言葉。
シンはどうしているんだと聞いた言葉に帰ってきたのは、そんな短い言葉で、驚いたんだ。ショックだった。嘘だろう?と言った覚えがある。信じられなかった。
終戦直後、キラがザフトへと渡り、その後をついていくようにシンもザフトへ戻ったあの日から、会っていない。…思い出して、気になって聞いた。
キラは、一瞬、どう答えていいか判らないような表情で悩んだ。やがて、ゆっくりと口にした言葉は、”除隊”だった。
何故、とアスランが問いかける前に、キラが告げた、シンの除隊理由。

『この条約が締結したら辞めるって本人から言われてたんだ。…だから、ついこの間、辞めた。除隊したよ。もうここで俺がザフトでする事は無いって言ってた』
そんな馬鹿な。あのシンが。嘘だ、馬鹿な。
身内もすでに他界したこの世界で、軍に全てを捧げて生きてきたシンが、何処へ行くというんだ。彼に行く場所などないだろう。まだ10代の幼い青年が。
何故それをキラは承諾した?
アスランの気持ちを正確に理解したキラは、肩をすくめて笑った。

『僕にシンの除隊を止める権利はなかったよアスラン。シンはこれからシンが望んだ事をするんだ』
言われて、 それ以上の言葉を失った。キラを咎められない。その資格はアスランにも無い。…本人が望んだ事だ。本人が出て行きたいといって軍を辞め、自分がしたいと思った事をするのだという。
彼が彼の道を選ぼうとしているのか。
軍によっての贖罪を望んでいるように見えたあのシンアスカが。

なら…いいことじゃないか。
あいつが、自分から何かを求め、そしてやりたいと願った事が出来るのならば。

そう、思っていた。
それでいいと、アスランは、そう思っていた。
……まだ、その時は。