暗闇の中に、ふいに感じた気配。

見慣れた赤い軍服が見えた気がして、アスランは目を凝らした。
ずっと向こう、景色も何もない空間に、赤い軍服が見えた。それは少しずつ人の形へと変わってゆき、ぴょこぴょこと四方に跳ねた黒髪を映し、そしてまだ背も伸びきらない成長途中の姿へ形が作られていく。
まだであったばかりの頃、ミネルバで戦場をかけていた頃のシンの姿。

(シン)
呼んだ名に、少年は振り返る。赤い眼。あぁ、やはりシンだ。
呼び止めたこちらを、驚いた顔で見つめるその目が大きく見開かれている。
どうした、なんで驚いているんだ。
声を掛ければ、今度はムクれた顔をして、いきなり声をかけるからですよと、幼いシンは怒る。
何故だ。声を掛けただけだ。
ただ、お前が一人で居たから寂しいだろうと。…しばらくぶりで出会った事が嬉しくて声をかけただけ。何故それを怒られなければならない?
幼いシンは、頬を膨らませて角を立てて怒る。こうなったら仕方ない。シンの機嫌が収まるのを待つしかないな。時間が過ぎるのを待って、怒りが収まるまでシンの文句を聞いていよう。
時間はある。…あの頃と違う今は、時間ならたっぷりと。
話せる環境もある。話なら、幾らでも出来る。

「…どうして、出会っちゃったんでしょうね、アスランさん」

ふ、と耳についた声は、幼いシンの声ではなかった。
…そう、幼さの残る声ではなく。
顔を上げれば、そこに居たのは、機長服を纏った、立派な青年だった。
赤い軍服の感情豊かなシンはもうそこには居ない。
目は、あの赤色のまま。
髪が黒髪のまま。
そうして、あの頃とまったく違う表情で、まるで泣くように微笑んだ。

「俺達、出会わなければ、良かったのに」

***


何故だ、と声を掛ける前に、身体を打ち付けられるような激しい衝撃に目を醒ました。
「…っ?」
目を醒ました事で、自分が眠っていたのだと知り、あれが夢だと知る。
あぁ、夢だ。…そうか、夢だろう、16歳のシンや今のシンが出てくるなどどうみても夢だ。しかも自分は、今、まさに彼が操縦するシャトルで地球へと向かっているはずではないか。…そう、オーブへと戻るために。

考えをめぐらせたアスランは、しかし機内が異常に騒然としている事に気付いた。
シートベルトが外されぬまま固定されている。これは緊急時の自動保護システムだ。
何かがあった。
事故か。トラブルか。
考え付いて、アスランはとっさに周りを見渡した。
満席に近いシャトルの中、ざわざわと騒ぎ始めた乗客。宙を舞う誰かの鞄。PC、ドリンクカップ。
ドリンクの中身は零れ、玉をなって宙に浮かんでいる。
ざわつく機内に、客室乗務員の声が響いていた。しかしその声こそが震えていることで、これが非常時なのだと知れる。
悲鳴は酷くなる一方だ。

…何があった?
アスランは寝起きの思考を、軍人のそれへと変え、あたりの状況を伺った。
シャトルの事故か?エンジンの不調?それとも。
最悪の事態を想像した矢先、窓ガラスの向こうに漆黒の宇宙を突き抜ける光が見えた。

「…あ、また光が見えた!」
子供の声が響く。
「ママ、今度は近いよ、ほら!ピンクのひかり!」
それは、窓の外を見つめていた子供の口から発せられた声だった。窓の向こうの宇宙を見つめ、シャトルすぐ脇を掠めたというひかりを指差す。
このシャトルの脇を掠めたという、ひかり。
そして先ほどの揺れ。

-----まさか、この船が狙われているのか。
アスランは、状況を理解した。


「すみません、俺をコックピットへ通してください」
客室乗務員を引きとめ、間髪おかずにオーブ軍の軍属証を見せれば、あきらかに動揺の顔を隠し切れない乗務員が軍属証の階級を見つめて驚いた。しかしそれも一瞬で、事態の重さを判っているのだろう、アスランのシートベルトロックが解除される。
シートベルトを外す指が酷く震えている。それを冷静に見つめながら、アスランはこの状況をどうするか思考をめぐらせていた。
シャトルに武装は無い。
ここまで狙い撃ちされるという事は、よほどこの艦を落としたいのか。そこまでして落としたいのだとすれば、海賊の類ではない。暗殺か何かか。

シートベルトが外れた途端に、大きな揺れが船体を襲った。
「…くそっ…!」
揺れる機内の床を蹴り、コックピットへと向かう間にも、窓から激しい光が映し出され続けていた。悲鳴の広がる機内、放たれたビームは徐々に狙いを定めている。よほど遠距離からの攻撃なのか、それともこの小さなシャトルでは狙い撃てない程度の腕なのか。
窓の後方を覗き込めば、MSも戦艦さえも見えない場所から、数本のビーム砲が続けて放たれているのが判った。

まちがいない、このシャトルは狙われている。
同じ火線上から2度3度と放たれるビーム砲は、威嚇の意味か。

「囲まれているのか…!」
シャトルには当たらないが、それでも狙ってくるという事は、よほどこのシャトルを沈めたいのか。闇雲に撃っているようにも見えるが、もしかすると、狙撃するMSの姿を晒したくないからなのかもしれない。
と、なれば相手はテロリストである可能性が高い。

「…シンッ!」
ただ事ではない。
シャトルの傍を、ひかりが掠める度に、乗客の悲鳴は悲壮を帯びてゆく。
完全なパニックに陥った乗客をかきわけ、アスランはコックピットへと急いだ。傾く船体を蹴り、コックピットへの通信回線パネルを開いて、怒鳴る。
「シン!俺だ、アスランだ!シン、入れてくれ!…聞こえているな!シン!」


***


(まずいな…)
機長席に座るシンは、操縦桿を握りしめて、放たれるビーム砲から、ランダム回避運動を手動で行っていた。揺れの所為か、制帽が宙に浮いている。いつの間に取れてしまったのか。船体が揺れる度に、客室からの悲鳴が届いていた。もう駄目だと叫ぶ声を聞きながらも、シンは冷静だった。
この程度なら落ちない。
まだ被弾もしていない。
相手は遠距離射撃に頼っている。ならば、命中率も低いだろう。

しかし、それも時間の問題だ。焦れた相手が、いつ近距離戦にシフトするかわからない。長距離とて当たらないというわけではない。シンとてMSの癖は熟知しているが、それでも小回りのきかないシャトルがランダム回避で避けるには限界がある。
客室のパニックも、度が過ぎれば自滅する。
さらに、こんな状況に慣れていない副操縦士もパニック寸前だ。
通信機器と計器を操りながら、プラントに対して必死で救難信号を発信しているが、すぐに迎撃に向かわせるからという返答だけが伝えられていた。客室に比べれば悲鳴とまでは行かないが、副操縦士の顔にはびっしりと汗が浮かび、救難信号を告げる声は震えて聞き取りにくい。

「シン」
神経を集中させていたシンに、アスランの声が響いた。
あまりにも穏やかな声に、我に返るが、アスランの表情は不安に満ちている。
(まったく、コックピットの外からあんなにドカドカと扉を叩かれちゃ、入れるしかないでしょう)

「…アスランさん、貴方が居てもちっとも状況は良くならないですよ」
「それは判っているが、」
「これはシャトルですからね、武装もなければMSもない。俺達に出来るのは、救難信号を発信する事と逃げる事だけです…いまのところは被弾してませんけど」

淡々と語ってはみるが、この絶望的な状況は、どうしようもない。意識すれば恐怖も込みあがって、頬を汗が一筋伝っていた。
実戦から退いて、もう随分な時間が経つ。あの頃は、コックピット越しに敵の殺気さえ判ったものだが、さすがに民間の会社に勤務するようになればあの緊張感も抜けてしまうのか。…いや、これは自分がMSに乗っていない所為だ。
現に、アスランとて、不安げな表情を隠しきれない。
ここに、MS乗りが2人も居るというのに、与えられたのは武装のないシャトル1機だけだというこの状況が酷くもどかしい。
今は、救難信号をキャッチした最寄の軍基地からの迎撃を待つしかない。
いまのところ、まだ被弾はしてないのが救いだ。
…そう、いまのところは。
その言葉の意味を知る。
(…もって、あと3分だろうな…)
どんどん近づいてくるビーム兵器、揺れる機内、乗客のパニック。
3分だろうと予測を立てたが、果たしてこのシャトルが持つかどうか。

MSが一機でもあれば。シンでもアスランでも、時間稼ぎ程度の戦闘は出来るだろうが、シャトルという何も武器を持たぬ状態に焦れるほか無い。

何故、こんな民間シャトルが狙われるのか。判らない。
考える間にも、コックピットの横をすり抜けるビームが前方へかすんで消えていく。
「テロ…か?」
「そうでしょうね」
操縦桿を握りしめ、副機長に指示を出しながらも、シンはアスランの問いに答えた。
焦ろうが、黙ろうが、喋ろうが、撃たれるときは撃たれるだろう。
一瞬でこの命は消えていく。
乗客の預かった命でさえ、一瞬に。
そして、今隣に居る、このアスランザラの命でさえ。
ぞく、と背中を駆け上がる悪寒を悟られぬよう、シンは静かに息を吸い込んだ。

「こんな何にもないような民間機が狙われるっていうのか…!」
「確かにこれはただの民間機ですよ。けど、殺したい人間が乗ってるからかもしれません」

言葉にしてみて、シンは、ああそうか、と思いつく。
そうだ、殺したい人間が乗っているから狙われているのか。…そうだ。…まさにそれが理由なんだ。

「誰が、そんな、」
アスランが口を開いた。シンの言葉に、アスランも同じ答えにたどり着いたようだ。
開きかけた口が、はた、と止まる。
唇が噛み締められ、眉がきゅっと寄った。

殺したいほどの人間。
そう、テロリストが殺したいような人物は、国の役人であったり、自分の信念を曲げさせられた軍の高官である事が多い。
…たとえばアスランのような。

息を呑む。…まさか。アスランは機長席のシートを握りしめた。
シンはちらりとアスランを見つめ、そして静かに息を吐き出した。

「まだそうと決まったわけじゃない」
「…シン、このシャトルに軍人は」
「だから、そうと決まったわけじゃ」
「シン!」

アスランの口調は鋭いものだった。
思わず数年前を思い出す。そうしてこの人は強い口調で詰問して、シンにいつも問いかけた。
…変わっちゃいない。

そういうところ、変わってませんね。
絶望的な状況で、シンは小さく笑った。それは表情になど出せないけれど。

アスランがシンを見つめていた。
望むなら、答えましょう。
そう、この船には。

「このシャトルに乗っている高官軍人は、アスランさん、あなた一人だけです。オーブ軍准将」


***


「……っ」
シンの言葉に、思わず息を呑んだ。
狙いは俺なのか、呟いた声が小さく響く。
俺1人を殺したいがために、シャトルの撃墜をしようとまでするのか。
拳をにぎりしめ、唇を噛み締める。ぐちゃぐちゃとした怒りや失望が胸の奥に苦く広がってゆく。どうしようもない。
どうしろというんだ、この状況で。このシャトルの中で自分だけが狙われているとはいえ、テロリストと会話など出来るはずもない。相手は国際救難信号さえも無視をするような相手だ。

シャトルのコックピットのガラスに映るのは、かろうじて被弾を免れた砲弾の光だった。
「…でもどうしようもないです。ここで貴方を下ろす事も出来ないです。プラントには緊急救助信号を出しましたから、もうすぐ救援がくるはずです。…間に合えば」
アスランを庇うように、シンが言葉を付け足す。
間に合えば。…最後に付け加えられた言葉が痛い。
間に合うのか。こんな地球とプラントの中間地点で。
いくら、高速艦で出撃したとしても、とてもじゃないが持ちこたえることなど出来ない。
このままでは、確実に堕とされる。おそらく、あと2、3分が限界だろう。

「…っ」
途端、駆け上がったのは、ぞくりとする悪寒だった。
死ぬのか。ここで。
シンも巻き込んで、罪もない乗客を巻き込んで、ここで皆。

それはとてつもない恐怖だった。
MSを駆って、戦場を駆ける時に感じる、高揚感にも似た恐怖感とはまるで違う。
シャトルの中で、何も出来ずに、ただ撃墜を待っているような状態。それだけの。

隣の副機長が、悲鳴を上げていた。
救助を求める声が泣き声に変わり、指は震え、顔は歪んでいる。
どうやら軍人出身ではないらしいなとアスランは冷静に彼を見て思った。

シンは。
シンアスカはどうだ。
今でも、何か打つ手はないかと考えているのだろうか。
さらさらと揺れる黒髪の中で、赤い瞳が正面を見据えている。

ドォン、と一際大きな音が響いた瞬間、機体が激しく揺れた。
「何ッ…!」
アスランの叫んだ声と、シンの舌打ち。
副操縦士の悲鳴が響いた。
「後部燃料タンク被弾!消火剤強制散布中!…機長、こ、これでは…!」
「タンクを切り離せばいい!」
シンの怒鳴り声が響く。
被弾した燃料タンクを切り離した途端、機体の後方で大きな爆発音が響いた。閃光弾のような光が飛び散る。
タンクが爆破されたのだ。
すざまじい光が、後方に広がって消えた。

「…目くらまし程度にしかならないな…これは…」
「燃料タンクを切り離してしまったから、推進剤ももう無いです。漂流するだけだ。回避も不可能」
「…シン、」
「絶対絶命でしょうかね。…これは」
ため息を吐き、シートに背中をつける。シンの目は諦めの色を強くしていく。
握りしめていた操縦桿から手を離しても、スピードコントロールをどれだけ押しても動きはない。どうやら推進剤を切り離した時に、どこか推力系もやられてしまったようだ。

「…シン、お前」
アスランがその名を呼び、口を開こうとしたその瞬間だった。
けたたましいアラームがコックピットに響きわたった。それは新たな敵機を知らせるものではない。
アンノウンの存在を知らせるアラームだ。
しかし、これは。

「…っ?」
前方に見えていた、プラント群の光の中から一筋、一際明るい光がぐんぐん近づいてくる。それは小さな光からあっという間に大きな光となり、このシャトルに向けて近づいて来ているのだとすぐに知れた。
「…なんだ?」
「高速艦じゃない、MS…?にしても早い。…あれは」
とてつもないスピードで迫ってくる物体は、戦艦ではではないが、MSにしては早い。…いや、MSでもあのスピードを出せる機体はある。それはアスランもシンとてよく知る機体だ。…あれは、まさか。
驚きに目を見開く二人の眼前に、そのMSは、あっという間にやってきた。
アスランもシンも、その光を知っている。…知っているはずだ、だって、あれは、あの光は。

「フリーダム!」
叫んだアスランの声に、シャトルのコックピット内に強制通信が響く。ザザザ、とノイズが走った後、聞こえた声は、クリアだった。
「こちらキラヤマト、フリーダムです。救難信号キャッチ、救援に来ました」
「……キラ…!」
聞きなれた声。思わずアスランの肩の力が抜ける。あぁ、確かにキラだ。
「キラさん」
フリーダムの光はどんどん近くなって、あっという間にシャトルに追いつき、テロリストとシャトルの間で停止して自らの機体を盾にするように滑り込んだ。今度はテロリストに向けて回線を開く。
このシャトルは民間機である事と、投降を呼びかけるものだ。
ただちに戦闘行為を中止し、現空域からの撤退、ザフトへ投降せよ。
無駄とは知りつつも発せられるキラの声を遮るように、ビームはフリーダムに集中してゆく。
そうして、敵機の投降の意思がまったくない事を確認したフリーダムは、鮮やかな曲線を描いて飛翔し、MSへと攻撃を開始した。
脚部や頭部を狙った攻撃は、コックピットを残し、あっという間に機能を停止する。
それはあっという間の出来事だった。

シャトルのモニタに映る、フリーダムの攻撃を見つめながら、シンは静かにゆっくりと言葉を吐き出した。
「…キラ、さん…」