暗闇に慣れた目に浮かび上がる、青白い天井を見つめ、アスランはゆっくりと目を閉じた。 耳につくのは、シャワー室から流れる水音と、それに混じって聞こえる、音量を絞ったテレビのステレオ音だけ。 シンが、何事もなかったかのように携帯端末を持って行ったのを見ている。 テレビ、ラジオ、メール、全ての機能が集約された小さな端末だ。シャワールームで何をしていてもアスランには判らない。 水音と、テレビの音が響き始めてからしばらく、アスランの鼻先にもシャワールームから水分を含んだ空気の流れが届く。それが湯から水へと変わった事さえも、アスランは感じ取っていた。 (敏感になり過ぎているな…) 思わず自嘲の笑みが洩れる。いくら軍人とはいえ、ここまで他人の気配や殺気を感じ取ってどうする。 シンとて隠したい事はあるだろうし、自分とて知りたくない事はある。今は戦争時ではない。小さな戦闘やテロが頻発しているが、交戦状態に入っているわけでもないのに、こうして身体を繋ぎながらも緊張が解けないのは、7年前の戦いの時からずっと続いている。MS越しでさえ、殺気も気配も感じるようになったのはあの頃だが、今はそれがエスカレートしている。先日の長期休暇で、本当にしばらくぶりに神経が穏やかになっていたのに、休みが終わった途端にこれだ。 研ぎ澄まされた神経は、シンのほんの僅かな殺気さえも感じとってしまった。 (…おまえは、何を考えているんだろうな…) 目を閉じた瞼の裏に、先ほどまで抱いていたシンの裸体と表情が浮かぶ。 喘いで乱れてみせたあの顔を、アスランは知らない。 7年前、酷く初心な態度で接していたシンアスカを見た。 先日、7年ぶりに出会った彼を抱いて、その体と心の変化に驚いた。 そして今夜、またシンアスカの何かが変わった事を知った。 いつの間にあんな顔が出来るようになったのか。セックスへの誘いも抵抗も無くなっていた。それは予想はしていても驚いてしまう程に。 差し伸ばされる手に迷いがなくなっていた。引き寄せる腕の強さ、キスの呼吸タイミング、全てがアスランの知っているシンアスカのものではない。唇の形、声。同じ人物であるとわかるのに、あれほどの変わりよう。 7年だ。 彼とて、いつまでも16歳のままではないだろう。それは判っている。 アスラン以外の誰かに抱かれているだろうという事も、女性を抱いた事もあるのだろうということは、再び出会った一度目のセックスで判っていた。 7年も、会わなかった。 あの戦争が終結し、シンがザフトへと復帰した頃、いつでも会えるさと微笑んで別れた。白服をまとったキラと、評議会議長として就任したラクスに、またなと別れを告げ、赤服の襟を正したシンを見つめて握手を交わした。 『…アスランさん、元気で』 伝えられた言葉に、お前もな、と伝え、返されたのは小さな微笑だった。思えばそれが最後だ。 『いつでも会えるさ』 宇宙と地球で戦争をしなければいつでも会えると。 それから随分の時が流れてから、シンがザフトを退役したと聞いてショックを受けても、それでもいつかは会えると漠然と思っていた。 そうして、7年。 あいつは、何を考えて何をしていたのだろう。 何故退役したのか。そういえば、そんな会話もしていない。 久しぶりに偶然出会い、身体が望むままにセックスをし、話したことは他愛もない事ばかりで、今までどうしてたんだとそんな事さえ聞いていない。 7年。 7年だ。 よくも悪くも人間が変わるには充分な時間だった。 「あれ…?寝てないんですか」 かすかな物音の後、腰にタオルを巻いて髪を乱暴に拭きながら、湯気をまとい出てきたシンを見、アスランはベッドから上半身を起こして髪を掻きあげた。7年前と変わらぬ長さの髪がさらさらと首筋と頬にかかる。 「寝ていたらいいのに」 「いや、自分の部屋に戻って寝ようかと」 「あぁ、そうですね、せっかくスイートルームですもんね。オーブの准将さん待遇で」 「別に…、」 そんなものどうだっていい。ただ、お前が何か考えごとがあるのなら、俺が居たら邪魔だろう。 喉までついて出た言葉を飲み込んだ。真水のシャワーを浴びる程に己を責めているのなら、事情も何も知らないアスランが口を挟むことではない。 がしがしと頭を拭くその姿が、7年前のシンアスカと同じ姿で、アスランは微笑む。 「お前のそういうところだけは変わってないな」 「…どういう意味です?」 「7年なんてあっという間だったって事さ」 「そうなんですか。俺にとっては7年は長かったですけどね」 つぶやき、タオルを椅子の背もたれへとかける。 腰にタオル1枚巻いただけの姿で近づくシンを、アスランはただ見つめていた。 何をされるのか、判っていた。 「…たまには俺からだって誘いますけど?」 「へぇ…」 珍しいじゃないか。その言葉を告げる前に、シャワーを浴びたばかりの水分を含んだシンの唇がアスランの口を塞ぐ。 「…ん、」 それを受け止めて目を閉じる。手を伸ばしてシンの腰に触れれば、あたたかみはあるものの、体の芯が冷えている事に気付く。真水を浴びた後であたたなシャワーを浴びてもあんな短時間では身体の内まではあたたかくはならない。 腕を伸ばし、シンが唯一纏うタオルも落とした。しなやかな身体が薄暗闇の中に浮かび上がる。アスランはそっと目を開けた。口付けを続けるシンの腕が伸びて、アスランの首筋に絡められる。程よく筋肉がついているものの、薄くしなやかに延びた腕は、指先で辿るようにアスランの皮膚を移動して首筋に絡み、うなじを一撫でした後に、するすると移動して胸を辿り、引き締まった脇腹へと移動させ、そこで指の動きを止めた。 そこは、銃創の痕がある。 指先で痕を何度もなぞられて、アスランは笑った。 「くすぐったいな」 「…この傷は」 「知りたいのか?」 「俺が貴方を落とした時のやつじゃないんですか」 間近で見つめる真っ赤。 躊躇いも迷いも後ろめたさもない目だ。だから答えた。 「違う。これは、カガリがつけたやつかな」 「あの人、銃なんか撃つんですか。オーブの国家元首なのに」 「いや、もっと前の話だ。狙って撃ったわけじゃない。オープンボルトの銃が暴発したっていう方が正しいかな…随分昔の話だよ」 「じゃあこれ、は」 「それは…あぁ、父親が」 「…アンタ、どれだけ身内に撃たれてるんです」 いまに、キラヤマトやラクスクラインにさえ撃たれて傷を作りそうだ。あの穏健派の2人が拳銃を構えるとは思えないが、この人は誰の銃弾も受けてしまいそうで怖い。そのうち、人が受けるべき銃弾も己の身を盾に庇って傷を作ってしまうんだろう。 父親に撃たれ、今彼が守るべきカガリユラアスハにも撃たれている。 「…俺がつけた傷はどれです?」 「知りたいのか?」 「茶化さないでください」 笑うアスランに、シンの表情が強張った。 胸や脇、肩に触れ、背中にも手を回して傷を探る。 「アンタ、傷だらけだ」 「軍人だからな」 「俺も元軍人なんですけどね」 ここまで傷を作る人を知らない。 歴戦のエースパイロットであるアスランザラの名は有名だ。しかしその彼でさえここまでの生身の傷をつくる。 …しかも、彼が傷ついたのは、戦闘中でない場合が多い。これを貧乏クジといわずして何と言うんだ。 「…俺のつけた傷はないんですか」 「消えてしまったかな」 「嘘、つい、…」 誤魔化すなと問い詰めようとするシンの頬を取り、アスランは口付けを始めた。 色気のない事を言う。こうして抱き合っているのに、自分がつけた痕を探すなどと。 「痕は…今からつけろ、シン」 この、ベッドの中で、お前の爪で。 濡れた唇を舌で舐め、唇をしっとりと濡らして囁く言葉を聞いて、シンは目を見開いた。 赤い眼が零れて落ちてしまいそうだ。 どうか落ちないでくれと、瞼に唇を落とす。 「そんなの、聞き慣れた常套文句ですよ、アスランさん」 「そう…かな?」 「もっと、情熱的な口説き方、してください」 「…思い浮かばないな、お前とはいつも身体で話してばかりだ」 「その言い方がエロいっていうんです」 しかもオヤジが入ってます。 眉をハの字にして苦笑しながら、唇を近づけた。 キスしてください。 シンの身体が望んでいると判るから、すぐに、口付けは与えられる。 そのまま身体の力を抜いて、2人、ベッドに倒れこんだ。 これだけ、濃密に過ごしていても、一緒に居られる時間は限られている。朝が来れば、違う制服を来て、このザフトの基地で取調べが行われるだろう。それが済めば、今度こそ、お互い別々の場所へと戻る。 シンは再びシャトルのパイロットへ。 アスランは、オーブへと。 深いキスで咥内をまさぐりながら、アスランは唾液の混じる水音を聞いていた。時折混じるシンの吐息が愛しい。 うっすらと目を開ければ、陶酔しきった顔でキスを受けるその表情が、7年前の彼の顔と重なった。 年月が替えたものはあまりにも多く、立場も心さえも形を変えてゆく。 それでも、少しも変わらずこの胸の中にあるものもあるんだ。 それを確かに確認して、アスランはシンに溺れた。 *** 白い制服を身にまとった青年将校が2人、ザフト軍基地に構えられた、キラに与えられた一室で向かい合っていた。 同じ白色でも、意味はまったく異なる制服だ。 提出された事件の詳細に目を通しながら、アスランは眉間に皺を寄せた。 「使用されたのはグフ汎用型…、前戦争時に使われたものと見てる」 「落ち延びたって事か?」 「…落とされたものをジャンク屋が改修して直したのを横流しした、…っていうのが一番有力なのかな」 「乗っていたパイロットは?」 「死亡が確認されてる。認証情報によると、やっぱりこれも行方不明者扱いになっている元軍人だった。ザフトの、ね」 モニタのディスプレイに流れた有力情報の量の少なさに、アスランはさらに、眉間に皺を寄せた。 思いの他、情報を得ることが出来なかったことに驚く。どうやら相手は、随分と用意周到にあのシャトルの襲撃したらしい。 「けどその割には、射程外からの遠距離攻撃を繰り返していた。あきらかに当たるはずのない攻撃…、あれは威嚇か?」 考え込むアスランに、キラは肩の力を抜いてコーヒーカップを取った。若干冷めてしまってはいるが、香りと味は格別だ。険しい顔のアスランを横目で眺めながら、キラは自分好みに淹れられたコーヒーを啜る。 ザフト軍、アプリリウスの軍基地の一角。 キラのためにと宛がわれた部屋で、グフの残骸から得られた情報が随時キラの端末に入力されていく。それはアスランも共有して見られる情報だが、そこにアスランが望む答えはなかった。 「アスラン、コーヒー冷めちゃうよ」 「あ、…あぁ、…」 生返事をしながらも、アスランの手はコーヒーカップへは動かない。モニタを眺め、情報を頭に入れて色々な角度から真相を探るが、満足できる答えはない。 そんな幼馴染を見つめながら、アスランは相変わらずだ、とキラは微笑む。 分厚い窓からは、燦々とあたたかな光が差し込んでいる。 軍施設といっても、プラントに直結している軍港だ。窓から見える景色は、アプリリウスの町並みと、人工に作られた湖が太陽に乱反射して輝く水面、そしてその周囲を覆うような緑の鮮やかさだけ。 なんていい天気なんだろう。キラは空を見上げた。 砂時計型のプラントの天井へ続く長いエレベーターが視界の中央に見える。見上げても太陽は見えないが、覆われた内壁に眩しいばかりに当たる太陽の光と雲が美しい。 ここは地上よりも綺麗なのかもしれない。 プラントで、キラが何度もそう感じている。ここは綺麗だ。 こんなにも綺麗なものを人間は作れるのに。 ゆっくりと息を吐いて、目線を戻し、いまだモニタに映る情報とにらめっこを続けるアスランを見つめる。 狙われたのは、このアスランザラだ。 おそらくは、オーブを嫉むテロリストが、何らかの情報であのシャトルにアスランが乗っている事に気付き、グフで出撃、攻撃をしかけた。 シャトルに乗る、名も知らない一般人を巻き込んで、たった一人を抹殺すべくMSを使用した。しかしその作戦は、シャトルの弾道回避コントロールと、フリーダムの援護によって失敗に終わった。 …そう考えるのが、真っ当で妥当な事故検分だ。事実、そうした報告がキラの手元の端末にはこれでもかと流れている。 「けど、それを認めるには相手の動きが粗末過ぎるだろう」 「…うん」 考えこんでいたアスランの言葉に、キラは顔色を変えずに頷いた。コーヒーカップを両手で持つと、温かな温度が手のひらから染み渡る。 「いくらジャンク屋から回収して買ったMSといえど、安価じゃない。それも3機だ。しかもやつらの攻撃はあたるはずのない遠距離攻撃から行われていた。そんなエネルギーの無駄遣いをするだろうか」 「牽制、だったのかな」 「そうとしか思えない。…なんのために?殺すつもりじゃなかったのか?…俺を拉致でもしたかったのか?」 「アスランを?」 確かに、アスランは、オーブの軍事を司る重役だ。しかしMSで戦いに来ておきながら、拉致とは考えにくい。それならばシャトルに乗る前、空港で襲った方が余程的確で安全だ。 アスランが狙われたというのならば、 「なんの…ために」 それが判らない。 いくつか仮説は立てられるが、どれも首を捻るものばかりだ。 「君が狙われたのは確かなら、なんのために。どうしてMSを使ったのか。どうしてあのシャトルだったのか。…それが問題だね」 コーヒーカップを置き、キラが話の道筋を立てる。 疑問は1つも解決していない。 「…でも、唯一救いだったのは、あのシャトルのパイロットがシンだったって事」 「あぁ、それは…」 ようやくモニタから目を離したアスランがキラを見れば、それを待っていたかのようにコーヒーカップを差し出されたから受け取った。挽いたばかりの豆の香ばしいにおいが広がる。一口啜れば、ぬるいながらも喉を下る香りと味に、ほぅ、と深い息が吐き出される。 キラは微笑んだ。柔らかな笑みだ。それはザフトの白い軍服によく似合う表情だった。 「機長がシンだったから、助かった。…もし軍人出身の機長じゃなかったら…いや、シンだからこそ、だな。危険予測の危機回避があそこまで出来る一般のパイロットは早々居るもんじゃない」 あのコックピットで、突然の襲撃に取り乱しはしないまでも混乱する副機長と比べても、シンの穏やかさは大したものだった。指示も素早く、的確であったのは、回収されたブラックボックスの解析で、明らかになっている。 コーヒーの黒茶色の水面を見つめながら、あの時のシンを思い出す。 アスランはふと顔を上げた。 「なぁ、キラ。…シンはどうして軍を辞めたんだ?」 不意に問いかけられた質問にも、キラは表情を変えなかった。 そう言われると思ってた、そう言わんばかりの表情だ。 「オーブとザフトの和平条約が締結されたら除隊するんだと言っていたらしいな。…それはシンの意思、なのか?」 「どうして?」 「え?」 「…気になるの?アスラン」 シンの除隊理由を。 穏やかに見つめるキラの目を、アスランは間近で見つめて驚く。 何故、と聞かれると答えられない。 ただ、なんとなく知りたかったとしか言えないのだが、それではキラは答えてくれないだろう。 アスランは呼吸を整えてから、まっすぐにキラの目を見つめた。 「シンは…俺の部下だった。今だってあいつと関係を持っている。それはキラ、お前だって知っているだろう」 この、聡い幼馴染のことだ。シンとの関係など、おそらく判っているだろう。 キラは穏やかだ。心に波風を立てず、ただそういうものだとして人の本能を受け入れる。 それはおそらく、今アスランの焦燥を聞き受け入れているように、シンの除隊さえも受け入れたのだろうと、アスランは思った。 「…7年、なんだよ。アスラン」 「え?」 『俺にとっては7年は長かったですけどね』 昨晩、シンが告げた言葉を思い出す。 長かった7年。…それは、シンにとって苦しい7年だったのだろうか。だからこそ長かった、と彼は言ったのか。 「君が、シンと会わなかった7年、僕はシンと会っていた。同じ軍にいたし、同じ作戦で行動もした。…ねえ、アスラン、シンは変わったと思う?」 シンが変わったと思うか、だと? …変わった、彼は変わったさ。 身体も、心も、言葉の受け答えさえも変わっていた。…けれど、それでも。 「変わっていないと…信じたい」 告げたアスランの言葉を、キラは静かに聞いた。 コーヒーから立ち上る、うっすらとした湯気だけが、キラの執務室の中で、ゆらゆらと小さく揺れていた。 |