どうして退役したんだ。

アスランの問いに、シンはまるで何事でもないかのように、うーん、と声を出し、言葉に悩んだ。
その表情に驚きやためらいはなかった。アスランはじっとシンの顔を見つめる。少しぐらいは動揺するかと思っていたのに、表情も緊張も崩さない。違和感もない。まるでそう聞かれると判っていたかのように、シンはアスランの言葉を受け止めて、どう話せばいいのかなと小首を傾げている。

「キラさんからは何も聞いてないですか?」
「…ザフトとオーブの条約が締結したら辞めると聞いていた、と」
「それだけ?」
「それだけだ」

それ以上、キラからは何も聞いていない。ただ、シンにもシンなりの考えがあり、それは7年の間で出された答えなのだと言っていた。
目を伏せながらも、優しげな表情を崩さずに言ったキラの表情が頭にこびりついている。
なにか、よからぬ事情があったのか。…アスランには判らない。もとより、所属軍が違うという決定的な差があるがゆえに、ザフトの事を細かに知っているわけではない。
キラとは何でも話しが出来る仲だが、それでもお互いに離せない軍機密や国家機密は山とある。それがキラとの隔たりになっていたとは思わなかったのは、機密保持以上に、キラを信用し、信頼しているからだ。
けれど、シンの事は。

ただ、何の理由もなく辞めたとは考えられなかった。
元より、シンに家族は居ない。身内を一人も持たない彼が、ザフトの軍人を辞めて、何が出来るのか。
彼の仲間も友人も、皆、ザフトにいるはずだ。

「別に、軍にいることが嫌になって辞めたわけじゃないです」
「ならどうして」
「俺は居ちゃいけないと思ったんです。これ以上ザフトには居られないと」
「……なぜ」

シンにとって、軍にいるという環境は、己の贖罪でもあり、決意でもなかったのか。
シンに贖罪を望んでいるわけではないが、あの戦いの中で、キラを落とし、アスランを落とし、連合やオーブのあまりに沢山の人々を手にかけたシンが、悩んで悔やみ、失望や絶望に囚われていたのを知っている。
そんな彼が、自分の場所だと決めた唯一の縋るものを無くして、一人きりで慣れない民間会社に入社して働いている。
その方が、軍に居るよりも厳しい環境ではないのか。
今やって居る事が、シンにとって本当にやりたかった事なのか。
アスランは考えて、そんなはずはない、と答えを出す。

「シン、お前は、」

その先を追及しようと、アスランが口を開いたその瞬間、ふ、と一つの気配が消えた。
アスランの周囲に漂っていた、自分を囲む緊張の糸が、ぷつりと切れたかのような感覚に、違和感というよりも不快感を感じて、動きを止めた。それはシンも同じように感じていたようで、アスランを見つめたままの目が、辺りの気配を探って彷徨っている。

(また…、!)
人の気配が消える感覚が、1つ、2つと増えてゆく。そのたびに、周囲の気配が一瞬揺らぎ、何事も無かったかのように街の喧騒に流れて消えた。

「シン」
「アスランさん、」

ほんの数秒の出来事だが、シンも敏感に気配を感じ取っている。軍を離れているとはいえ、張り詰めた人の気配が消えれば判る。それはこびり付いた軍人の性だ。
見れば、シンの首筋を汗が伝っていた。
アスランはそっとシンの背中に手を回した。顔を近づけ、口元の動きを見られないように耳元で声を潜める。

「シン、この先に、開けた場所はあるか」
「無いです。…無いですけど、開発が追いつかなかった区画があります。そこにはまだ人は少ない」
「そこだ」

小さく頷くと、アスランは小走りにアスファルトの歩道をかけた。
コーヒーを持つ、シンの腕を掴む。
徐々にスピードを早めて、街中を駆けながら、非常用にと持たされた軍へ直接繋がるアラームのボタンを押す。すぐに軍が駆けつけるのは無理だろうが念のためだ。これでアスランの位置は発信機を通してエマージェンシー扱いで軍に送られる。

「シン」
「…まいったな…」

腕をつかまれながら、シンは小さく苦く笑った。
こんな殺気に囲まれるのは久しぶりだ。ブランクなのだろうが、向けられる悪意に、末端神経が痛くなる。ちりちりとした頭痛が込みあがって目頭を押さえた。
MS越しとは違う、あからさまな殺意に、目がくらむ。

「シン、拳銃は」
「持ってるわけ、ありません。俺、今は民間人です」

ということは、こちらの武器はアスランのジャケットの裏に納まる拳銃が一つだけだ。

「…っ…」

敵の気配は10人はくだらない。どうやら団体で来たようだ。
先ほどの、人が消えた気配。あれはアスランをガードしていた軍の保安部のものだろう。手馴れた兵士たちでさえあっという間にやられるほど、向こうは人数をそろえてきているという事は、よほど大きなテロ組織であり、アスランの抹殺を確実に狙っているものなのだろうと知れた。
街を駆け抜けながら、こくりと喉を鳴らす。ドクリと心臓が跳ねている。
守りきれるか?…この状態で、自分を含め、シンも。
軍のガードマンさえ簡単にのしてしまった手馴れが相手だ。気は抜けない。

「やっかいな集団だな…」
「アスランさん、人気ものですね」
「減らず口がまだ叩けるのか、この状態で」
「駄目になるときは、どうやったって駄目になるんです」

シンが答えた途端、チュン、と甲高い空気を切り裂くような音が響き、アスランの目の高さのコンクリートに弾丸がめしりと、めり込んだ。
いよいよ発砲が始まった。
アスランは素早くホルスターから拳銃を抜き、発砲された場所に1,2発の威嚇射撃を行うと、人の居ないビルの路地裏を目指して走る。
その隙にも、弾丸がアスランの足元、頭の上を通り過ぎてピシピシと音を立ててビルの壁にめり込む。
あのシャトルの襲撃とは違う、明らかにアスランを狙って撃たれた、確実な狙撃だ。

「ちっ、…!」
「アスランさん!」

まさかこんなにも早く、行動を起こしてくるとは!
弾は数発、アスランの至近距離を掠めた。
いつの間にか囲まれている。四方からの発砲を受けている事に気付く。アスランの先を行くシンも背後を気にしつつ、まっすぐに路地裏の狭い通路を駆けた。
パン、パン、と発砲音が響く。アスランの射撃も正確だが、相手はビルの谷間を利用して巧みに身体を隠している。命中させてはいるが、簡単に撒けるほどの人数ではない。
後ろの敵へ威嚇射撃を続けながら、この場をどう乗り切るか考えをめぐらせた。その一瞬だった。

「アスランさん!」

ふいに、真上のビルから飛び降りてきた人影が、アスランとシンの間に着地し、至近距離でアスランに拳銃を構えた。
まさに一瞬だった。

「…っ!」
一発の銃声音が響く。
それは、アスランよりも早く発砲した敵の発砲だったが、その弾丸はアスランの胸を狙い撃てなかった。拳銃ごと、アスランが敵の腕を蹴り上げたからだ。
蹴りを食らわされ、わずかにひるんだ隙に、シンが敵のふところに入り込み、身長さをものともせず、肘鉄を相手の顎に入れた。
ゴキッ、という音と共に、男の身体がぐずりと地面に倒れ伏す。拳銃は蹴り飛ばされてビルの壁に当たって落ちた。一瞬の出来事だった。

「シン、まだ来る。お前だけでも逃げろ」
「アスランさん」
「この拳銃を持っていけ」
「冗談じゃないですよ、俺が逃げたら確実にアスランさん殺されます。口封じだ」
「いいから逃げろ!」

嫌だと首を振るシンに、自分の拳銃を無理矢理握らせ、つい今、のしたばかりの男が使っていた拳銃を拾い上げる。

「狙われているのは俺だろう。口封じに殺されるというならお前だ」
「…アスランさん!」
「もうすぐ、軍の援軍が来る。そうすればやつらも銃撃戦を続けるわけにはいかない。判るな?今はこの場から早く立ち去るのが先決だ」

呼吸を整えながら、銃撃が止んだことを確認して、拳銃の弾数をカートリッジを開く。
そのアスランの背後に、きらりと何かが光った。

「アスランさん!」

間近に迫っていた殺気に、シンが叫ぶ。
拳銃を構えた男が一人、アスランの背に照準を向けた。あっという間だった。

「…っ…!」
「シン…!」

パァン、と乾いた音が一発、路地裏の狭い通路に響いて反響し、消えた。
それはシンが持つ拳銃から発せられ、アスランのこめかみを通り過ぎて、相手の額の真ん中に弾丸が撃ちこまれた。

「…っ、…」

ゆらりと傾いで倒れた男の頭から、どぷどぷと血が溢れ出す。脳が飛散していた。
アスランも拳銃を構え、向けられる殺気に気配を凝らす。一瞬でも気を抜けば、敵は撃ってくる。判っていた。
目の前には、シンが撃ち抜いた男の死体が横たわる。
仲間の幾人かがやられた事で、アスランを囲んでいた殺気が、動きを止めた。

(どうする…)
緊張を切らさずに拳銃を構えるアスランの耳に、甲高いサイレンの音が響き始めたと同時に、多数の殺気は、驚く程素早く撤退を始めた。
つい今まで取り囲んでいた緊張が嘘のように消えていくのを感じ取りながら、アスランは構えた拳銃を下げた。
振り向けば、シンは拳銃を握りしめたまま、ひくりとも動かずに固まって、目線がただ一箇所を見つめている。

「シン、」

死んだ男の姿を見つめ続けるシンの肩に手を置けば、その身体は小さく震えて、すぐに収まった。

「すいません、大丈夫です」
「お前…」
「久しぶりに、人を殺したから、」
「シン、」

拳銃を投げ捨て、シンは静かに笑った。
小さく響くシンの声と共に、細い路地の向こうから、軍車輌のエンジン音が響いていた。