うえっ、という押し殺したような泣き声が聞こえてきた気がした。
アラスカの猛吹雪の中を飛行している所為でひどく揺れる艦体は、嵐の音なのか、低い音がずっと響いている。
「…なんだ?」
聞こえてくる泣き声は本当に小さいもので、ともすれば気のせいだったで済ませてしまえそうな程の音量だが、耳を澄ませば、またすんすんと鼻を鳴らす音も聞こえてくる。これはさすがに気のせいではない。アスランは周りを見渡し、けれど誰もいないと判ると、死角を中心に目を凝らした。犬や猫の鳴き声でないはずだから、誰かが物陰で泣いているのかもしれない。
アスランは持ち前の正義感で(…というより、好奇心と放っておけない心で)泣き声の主を探しはじめたが、それはあまりにもすぐに見つかった。

「シン…?お前なにやってるんだ、こんなところで!」
見れば、ちょうど廊下の突き当たりで身体を丸めて小さくなっているシンの後ろ姿が見えた。
いくら軍服を着ているとはいえ、肩を落とし、さらに小さくしゃくりあげているのは、後ろからでも良く判る。いつも目で追っていた、何をしでかすか判らない愛しい恋人の姿だ。判らないわけがない。
しかし、アスランの知っている恋人であるシンは、強気でまっすぐで怖いもの知らずでけれど恋愛にはかなり奥手な、それでいて喧嘩っぱはくて、上官だろうが恋人のアスランだろうが、つっかかるけれど、でもそんなところさえも(慣れてしまえば)好きだと思えるような人柄である事をアスランが一番よく理解していた。
泣き虫なのも知ってはいたが、実際アスランの前で泣いたのは、ベッドの中を抜かせば数度で、しかもこんな戦艦の廊下でひっそり声を潜めてなくような人間ではないと思っていたから驚きだ。
「シ、シン?」
再度声をかければ、やっと気がついたのか、こちらを振り返ったシンは、薄暗闇の中でもはっきと判る程、涙の跡を頬に残し、切なげに眉を寄せてアスランを振り返った。
「……アスラ、…さん…」
「シン!」
思わず小さな背中に駆け寄ってこちらを向かせ、肩を掴み、抱く。
こんな姿のシンを見つけたのが自分で良かったとアスランは心から思った。

「もう大丈夫だ、大丈夫だからな」
思わずかけてしまった声は、あまりに小さく震えて泣いているシンが不憫でならなかった所為か、保護欲がマックスに駆け上がった所為か。
しゃくりあげるシンの身体を抱き寄せて、アスランは胸が切なくなるのを感じていた。

「アスラン、さん、離して、ください」
ひくひくと鼻をすすりながら言われた言葉に、何を言うんだ、そんなお前を離すわけにはいかないだろう、とさらに強くシンを抱きしめた時、アスランとシンの密着した、胸あたりから、パキッ、という何かが割れた音が響いた。

「うわぁっ!」
「シン??」
「あ、あ、離れろって!!!…これ以上壊れたらどうすんだー!!」
「ええ?」

小さく泣いていたはずのシンからアスランに繰り出されたのはかなり強い右足のキックだった。密着していたアスランの腹の部分を思い切り蹴り上げたシンは、痛みにうめく恋人には目もくれず、胸元の何かをかばった。

「あんた馬鹿か!抱きつくやつがあるか!」
「いや、シン…」
痛みにうめきながらも、恋人に対するにはあまりな態度に、涙が落ちそうになる。
どうやらシンは恋人よりも何よりも胸元の何かにご執心らしい。

「シン?」
「あ、あ、コードまで出てきたッ、どうしよう、これじゃ、もう…」
震える声で言うと、また泣き出しそうになるシンに、不当な扱いを受けていたアスランもさすがに何事かとシンの胸元を覗きこむ。
見れば、大事そうにかかえるシンの手の中に見慣れた機械が大切そうに抱かれていた。

「…これは…?」
どこかで見た形だ。コンセントと、長く伸びたコード。しかしコンセント部分は見事な程にぱっくりと割れ、互換機なのか中のICチップまで飛び出し、コードまでもが見えている。
「………充電器?」
「そうだよ!見れば判るだろ!?馬鹿か、アンタ!」
馬鹿、と言われたアスランはさすがに少しショックを受けはしたが、しかしシンの悪態は今に始まったことではない。
「…壊れたのか」
「これ、マユの携帯の充電器で、…あれ、オーブで買ったやつだから、もう手に入らなくて!前にオーブに寄った時に、バッテリーは買えたんだけど、充電器はもう製造してないって言われたんだ、だからこれが最後のだったのに…!」

あぁ、つまりそれを割ってしまった、というわけだろうか。
確かに、戦艦の中では携帯電話の発信着信はご法度だ。シンの携帯は無くなった妹の唯一の形見という事と、すでに電波が発信できる状態ではないという事で、特別に使用許可が出ていたようだが、それが今こんな状態になってしまっている。
シンが何よりもその携帯を大事にしていたのを知っていたアスランは、シンのこの泣きぶりが、判らないでもなかった。

「自分で直してみようとか思って、いじったけど、俺こういうの苦手で全然ダメで…!整備班の人達にも見てもらったんだけど、IC割れちゃってるからダメだとかって言われて…!俺、これないともうあのケータイ、……!!」
言いながら、彼らしくも無くぽたぽたと涙を落とすシンに、めちゃくちゃときめきはしたが、しかしあまりに悲痛に泣くので、見ているのも辛くなった。
充電がないと、あの携帯を見られない。あれはシンの唯一の家族の形見であり、出来が良いとは決して言えない携帯についているカメラで撮られたフォトかシンに残された家族の全てだ。
心のよりどころの1つとなっていたそれが壊れてしまった事で、シンの精神が一気に壊れてしまったのだろう。
「オーブにいけば、これ、手に入るかもしれないけど、でもこんな状態じゃ、いつオーブに行けるか判んないし、そうなったら俺…!!」
耐え切れずに髪を振り乱して泣くシンを、思わずもう一度アスランが抱きしめる。今度はシンに抵抗の言葉は無かった。壊れた充電は、シンの手の中にしっかりと抱きとめられていたからだ。
「……シン、」
恋人のアスランよりもずっと大切そうに守られているそれに少しの嫉妬を覚えつつも、アスランは、注意深くシンに呼びかけた。
「シン、その充電、ちょっと俺にも見せてくれないか?」
「うぇ…?」

まるで子供のような泣き顔で、至近距離からアスランの顔を見上げるシンの泣き濡れた表情。
アスランの鼓動がどくっ、と跳ねた。キスがしたい。けれどその衝動はアスランの決死の理性に抑えられ、泣いた涙の跡をぺろりと舐めるというキスだけで済んだのは、アスランの根性のたわものだ。

「…アスランさん?」
「それをそのまま直せるかどうかは判らないが…。整備のやつらでもダメなら俺もダメだろうな」
「うっ…」
「けど、な、けどシン、それと同じ機能のものを作る事は可能かもしれない」
「……え?…」
「携帯1つを充電するぐらいの機能だろう?作れると思うんだ」
アスランの言葉を1つ1つ聴くたびに、シンの涙がすすすっと無くなり、顔色が明らかに血色を帯びてきて、口元が震えだした。
「あ、あ、あ、……」
「…あ?……」
「アスランさぁぁん!!!」

その時のシンの抱きつき方は、それこそオーブの姫のタックルよりもずっと強烈だったと、アスランは思った。
大型犬が勢いよく抱きついてきたような衝撃に、アスランは驚きはしたが、しかししっかりとシンを抱きしめて背中を撫でる事を忘れなかった。



***



「充電器をそのまま作るって考えもよかったんだけどな」
「はい」
「どうせなら、充電器を使わなくても自力で発電するぐらいの機能を付けたほうが言いかと思うんだ」
「はい!」
「だから、ええと。その携帯の充電池も貸してくれ。本体も」
「壊れないですか?」
「壊さないよ。大切なんだろ?」
「じゃあ、いいです」

こと、とアスランの作業台に置かれたピンクの携帯。さすがにところどころ傷があるものの、シンが大切にしているというだけのことはあって、綺麗なものだった。
さっそく作業に入ったアスランを、ベッドに腰掛けながら見守る。
その姿は先ほどまでとはうって変わったもので、鼻歌まで歌いだす始末だ。よほどアスランの一言が嬉しかったらしい。
「…あー。シン、そんなすぐには出来ないぞ?」
「いいです。俺今オフなんで、待ってます」
「…そこでか?」
「ダメですか」
「いやいいが」
恋人と居れたら嬉しいに決まっている。背中からの視線が痛い程に感じるが。
「じゃあ、います。アスランさんの背中みてる」
「し、シン!」
「俺、アスランさんのそういうところが大好きだ!」
嬉しさが止まらないのか、そんな普段ならありえない告白までしでかすシンに、アスランは喜びつつも離れられない作業台で、ひそかに脱力した。

この携帯が出来上がったあかつきには、シンは何でも言う事を聞いてくれそうだ。
近い未来図を想像しながらも、そのためには手元のこれを完成させるべく、意識を集中させた。