「…さいってぇ…」
よりにもよって、朝、顔洗ってる最中にこんな事にならなくてもいいんじゃないかと、自分の身体を呪った。
お陰で、鏡で自分の状態をはっきりとみてしまい、情けないったらない。

いつだって痛みは突然やってくる。
ズキン、なんてもんじゃない、まるで内臓をナイフで切られたみたいな激しい痛みの後、胸の奥から内臓がせり上がってくるような感覚があって、苦しくて咳き込んだら、口の中から赤い血がごふっと溢れた。口を押さえたつもりの手は一瞬で真っ赤に染まった。
指の隙間からぼたぼたと流れ落ちる、濃すぎる赤い血。
うわ…、と思うのは毎度の事。もう慣れた。
けど、今回は顔を洗ってる最中だったから、目の前の鏡を見れば、自分の口端から流れる血と目の色が一緒で、余計にげんなりなった。
身体中の痛みはもう、慣れてしまっていた。





***



「シン、顔色が悪い」
「そーでありますかあ?」
別にいつもとおんなじだと思いますけど。ってか、アンタに言われたくない。キラは、今日で2日完全に徹夜してる。
しばらく外出やら訪問の予定があって、執務室に戻ってなかった所為で、書類が恐ろしいぐらい溜め込んでしまっていた。めちゃめちゃな高さになってる書類タワーを2日間貫徹して仕上げようとしてるのに、いつになっても減らないタワー。その上に、貰ってきたばっかりの決裁書類をよいしょと積み上げた。
「倒れる…よ?」
「もう置くところがないです」
「でも…さ」
キラうるさい。どうせやらなきゃいけないものなんだから、どこに置いたって一緒だ。
タワーに積み上げる書類。こんなのはバランスだ。よろりと傾いた書類タワーを無理矢理まっすぐ立たせる。そっと手を離せば、タワーは不安定ながらもまっすぐに立った。よし。

「ねえ、シン、ホントに顔色悪いってば。ほら、ちょっと見せて」
「いいですってば!ほらアンタは仕事しなよ」
話を逸らそうとしたのに、キラは話を戻し、顔をまじまじと見てくる。
席を立ってまで、俺のとこに来ようとするから、すすすと後退して拒絶を示す。アンタが俺の顔色見たって、治せるわけでもなんでもないだろ。
「でも…」
「でもじゃない」
「上官命令、なんだけど…」

キラは、最近その言葉を良く使うようになった。
ごめんね、とか言いながら、「命令です」っていう。でもそれは大抵、軍の仕事の事じゃなく、俺がご飯を抜こうとしてる時とか、こうしてキラが何かを求めて拒んだ時に使われるから尚の事、タチが悪い。
「…顔色見せるってのが、上官の命令ですか」
眉間に皺を寄せて冗談言うなよって表情で言っても、キラはあっけないほどあっさりと「うん」という。
ホントにタチが悪い。


「やっぱり顔、白いや」
ほっとけ。いつもの事だ。どうせアンタみたいに健康体じゃない。
「お医者さんに見せた方がいいと思うよシン。ちょっと痩せた」
誰のせいだと思ってるんだ。アンタの面倒見るのが役目なんだからしょうがないじゃないか。俺はスーパーコーディネーターじゃない。2日も貫徹したら、マトモな思考回路で会話できなくなる。
「おやすみ取らない?シン。少し休んで休養した方がいい」
だったらアンタが仕事片付けてくださいよ。サポってるわけじゃないのは判ってるけど、この仕事量はハンパないんだ。
軍のやつらはキラの限界を試そうとしているのかと思うほど、普通の人間の10倍ぐらいある仕事を平気でなすりつけてくる。
まぁ、オーブに居た准将さんが、ラクスクラインを連れ立っていきなりザフトの司令の立場に上がってきたらそりゃ、気分悪いのは判るけどさ。
キラは敵が多い。軍内の人間に暗殺される可能性だってある。…だから俺がここに居るわけだけど。
でも一人で、この人を本当に守れるのかどうか、判らない。


俺がキラに就く事になったのは、当のキラ本人と、ラクスクラインからの直接の嘆願だった。
頭おかしいんじゃないかと思った。だって俺はキラが物凄く嫌いで、物凄く憎んでいて、物凄く近づきたくもないのに、「僕の面倒みてくれる?」って言うんだ。どこの年寄りの言葉だよって思った。
最高評議会委員長と軍の全権を握ってるって言っても過言じゃない人たちからの嘆願に、一兵士の俺が「いやです」なんて言えるわけもなく、仕方なくキラの面倒は俺が見る事になった。それこそ、こういう書類運びやら、MSのシミュレーションもSPみたいなのも。
もっと人数を置けばいいのに、キラは俺を頼って、他の人には執務室にさえ入れない。
一度、なんで人を増やさないんだって聞いたけど、「この部屋にあんまり人を入れたくないんだ」って答えられて終い。結構わがままだ。
その所為で、一人で大変な目にあってる。

スーパーコーディネーターというキラヤマトは、確かに人よりずっと優れていて、コーディネーターの中でもズバ抜けていて、何やったってこの人に勝てないってのは判ったけど、自分が経験して勉強してないことに関してはとことん出来が悪いんだと知った。
たとえば、軍の訓練を受けていないから、緊急時の肉弾戦だとか、逃げ方だとか。そういうのは出来てない。本人いわく、射撃もちょっとね、っていうけど俺は知ってる。やろうとすれば出来るんだ。だってそうでなきゃフリーダムであれだけ正確な射撃が出来るわけない。
キラの場合、ただ単に、拳銃で人を殺すのがいやなだけだ。
MSでは殺せても、生身はイヤっていうやつ。…フリーダムは不殺さずを貫いてるみたいだけど、実際、被弾したMSが他の敵機に撃墜されているのを俺は戦場で何度も見てる。恐怖と苦痛を長引かせるだけ。軍人としてのプライドも奪うだけ。ただ、運がよければ命が残る。そんな程度の「不殺さず」だ。

キラの身体は、人よりずっと丈夫で、人よりずっと頭の回転も早くて、人よりも優れてる。
俺といえば、平凡なコーディネーターの両親から運よく生まれた二世代目のコーディネーターで、特に何かを特化させたわけでもない。アスランさんみたいに金をかけたわけでもない。
だから、伝染病だったり死ぬような病気に対する免疫だけは強かったけど、それ以上に肉体的にも精神的にも強いところなんて何一つなかった。
それはこの間の戦争で、嫌ってほど、判ってる。結局キラのフリーダムには1度勝ったっきりで、アスランさんにさえ負けた。ストライクフリーダムというバケモノを手に入れたキラにはきっと叶わないだろう。あの人は一人で要塞と数百機のMSを落とすから。
確かに俺は平凡だったし、普通のコーディネーターだったけど、でも、それでもインパルスをもらえたんだ。ザフトの一番えらい人から賞賛されて、ディステニーだって貰った。
それは実力だ。努力の結果だ。…そう思ったっていいだろう?


「ねえ、本当に顔色悪いよシン、休んで?あとは僕がやるから」
「馬鹿言ってないでくださいよ。これで俺が休んだら、ただの給料泥棒ですよほら、さっさと」

そこまで言って、キラの手を振りほどこうと身を捩った途端、ナイフで抉ったみたいな例の痛みがズキンと来て、とっさに口元を押さえた。
まずい。
まずい!
あまりに突然の痛みに身体が凍りついたように動かない。ただ頭の中だけが妙にクリアで、まずいぞどうしようってそればっかり考えてる。一瞬で必死で考えてた。
「…シン?」
心配そうに覗き込んでくるキラを慌てて突き飛ばして、執務室のドアを開けようとして失敗した。震えた手じゃ、ノブを回せなかったんだ。
とにかく逃げなくちゃ、キラに見せるわけにはいかないってそればっかりを思うのに、湧き上がってきた悪寒やら痛みやら内臓がせり上がってくるような、あの慣れた感覚は、ささいな抵抗を蹴破るみたいに強い力で襲う。
ガチャガチャと音を立てるノブ、回してるつもりだった。けど空回りする。
ダメだ、まずい、まずいって頭の中が真っ暗になる。こんな姿、見せるわけにはいかないのに!
「シン!!」
キラがうるさい。
すげーうるさい。
近づくな!あんた黙れよ、ホントにもう、ちょっ、叫ぶな、支えようとするな!そんな事するんだったら、このドアを開けろ、ちくしょう!
罵詈雑言は口の中に湧き上がった真っ赤な血の所為で何も言えず、ああダメだって思った途端に、執務室の床に真っ赤な血を吐いていた。
「-------ッ…!」
キラが息を呑んだ音がした。
直後、酷く噎せて、立っていることも出来ずにその場に膝をついた。キラが支えようと手を伸ばしていたけど、とっさの事に反応できなかったみたいだった。
だから言ったのに。…馬鹿、キラ。おまえのせいで。
何も言葉に出せない。それなのに、こころの中ではめちゃめちゃボヤキながら、血を吐くなんて間抜けなんだろう。
けれど、意識はそこでブラックアウトしてしまったから、もうそれ以上、何も考える事は出来なかったけれど、ただ、キラが必死で名前を呼んでいたその声だけが、耳の奥深くに木霊するように残っていた。


***


最初に、ギルバートデュランダル議長から薬を渡されたのは、確かユニウスセブンが落ちた直後だった。
俺宛に届いた荷物の中に入っていた錠剤。君に必要なものだと言われて飲んだ。何の薬なのかも判らずに飲んでいたけれど、その薬の意味を知ったのは、多分、「SEED因子」という言葉を知った後だった。
どんなものかを知った後でも薬を飲み続けたのは、俺の意思。
そう、必要だと思ったし、そうしなければいけないと判っていたからだ。…ほら、俺はやっぱり単純な一人の兵士だったから。


「シン、…シンっ…」
意識がちょっとずつ戻ってくるのは、沈んだプールの底から浮き上がってくるような感覚に似ている。
泣き声が聞こえていた。キラの声だってすぐに判る。
こんなにはっきりと泣く知り合いは、キラヤマトぐらいしか知らない。
あらかた、血を吐いて倒れたから、動転してんだろう。俺にとっては今更…って事でもきっとキラにとっては重大。そりゃそうだろう。部下が血を吐いて倒れたんだ、監督不届きだとか思われたら困るもんな。

「…ごめんね、ごめんね、シン」
キラは必死で謝っていた。
多分、手を握ってる。
左手だけあったかくて、声は左の耳から聞こえてきたからだ。
あー…まずいな。何か言ってやらなきゃいけない。
こいつはすぐに泣くし、人の痛みを自分の痛みみたいに理解しようとして苦しむから。俺が血吐こうが死のうが、そんなのどーしよーもないだろって、笑ってやらなきゃいけない。
だから、もうしょうがないんだって。あの薬を飲み続けたのは俺だ。

「…ごめん…ごめんね…ごめんねえっ…」
キラは謝る。
ずっと謝る。

そもそもさ。なんで謝ってんの、あんた。
ああ、知ったから?何であの薬を飲んでいたのか、知っちゃったから謝るのかキラヤマト。
ばか。だったら余計にみじめになるじゃんか。

「…ホント、…手間のかか、る…」
「シンっ?」
口元を覆われた酸素呼吸器をつけたまま話すのは気持ち悪いし難しくて、痛んで仕方ない右腕で、それを強引に取り外した。あーくそ、痺れてるみたいに手の感覚もない。…なのに左手はキラがしっかり握っていて、あたたかさだけははっきりと判る。

「シン、だめだよ、シンっ」
顔をアップにするな。判ってるから。もういらないって、こんなの。どうせつけたって命の残りは決まってる。

「あんたが、泣くか、ら」
「だってっ…!」

ぽろぽろ零れる涙が、あったかい手に当たる。あんたは涙もあったかいな。
キラは泣き虫。
キラは弱虫。
本当はね。
フリーダムに乗ってる時とは想像できないぐらい。
俺は、あのフリーダムを倒さなきゃいけなかった。
めちゃくちゃ強くて、信念もってるキラヤマト。
でも俺はザフトで、インパルスを与えられたザフトレッド。ステラもアスランさんもマユもとおさんもかあさんも、みんなみんな持っていっちゃったあのフリーダムを倒さなくちゃならなかった。
ただそれだけ。
それだけで、薬を飲んだ。

「…しょうが、なかったんだ…って」
あの薬を飲まなきゃ、アンタを倒せなかった。

「…でも、でも、…!」
でもじゃない。キラ。
俺はアンタみたいによく出来た人間じゃなかった。実力だってたかが知れてた。SEED要素があるってだけで選ばれた。たったそれだけ。俺にあった1つだけの才能。

「あんたを、討つのが…俺の役目、だった」
「だからって、こんな劇薬っ…!」

キラの手には、ぐちゃぐちゃに丸められた検査結果があった。
あー…見られた。
ルナにもレイにも艦長にも黙ってたのに。誰もしらないおれのひみつ。…キラには、一番バレたくなかったなぁ…。

「…シン、ごめんね、ごめんね…」
謝るキラ。
一番それがイヤなんだけど…。だってあんたの所為だろ?薬飲まなきゃって決断させたのはアンタがいたからだ。…でも飲んだのは俺の意思だって、割り切ってたのに。泣くなんて卑怯だ。

謝るばっかりのキラを見ていたくなくて、目を閉じた。
それでもキラの泣き声ばっかり耳に入ってくるから、しょうがないなホントに、って、キラの手を握り返した。
あったかいあったかいキラの手。

たぶん俺は、キラのこと、だいきらいなんだろうな。
だからこそ、この手を離さずに最後まで握ってやるんだ。