あ、ロックオンが刹那欠乏症にかかってる。
そうアレルヤが思ったのには理由がある。ロックオンが見事にグラスを割ったのだ。
ただそれだけなら、たまにはあるかもね、と思うのだが、ロックオンの場合、仕事はいつもきちんとしていて、ミスやポカはほとんどない。それなのにこの1週間でロックオンはすでにグラスを3つ割っている。そう気付いて、アレルヤはおもむろにカレンダーを見た。
(ええと…前に刹那が来たのが春だったから…)
今はもう夏を超えて秋に突入しようとしている時期だから、刹那は半年近くアイルランドに帰ってきていないことになる。
確かにロックオンもそろそろ刹那に会いたくなってくる頃だろう。それがうっかりミスに繋がったのだろうと、アレルヤは結論付けた。

「まずいな、割っちまった」
「片付けようか?」
「いや、やるよ。俺のミスだしな。ええと…ほうきほうき…」
乱暴に頭を掻き乱しながら、奥の部屋にほうきを取りに行くロックオンの背中を見送って、アレルヤはパブカウンターの一番奥に陣取っているティエリアの元へ、つつつと歩み寄った。
カウンターの内側から、上半身を倒してティエリアに身を近づける。
「ティエリア、今刹那ってどこに居るか判るかい?」
「今調べている」
「…わ、さすが。早いね」
ついさっきまで辞書を拡げていたはずなのに。ティエリアもロックオンの異変に気付いたのか。
ティエリアは、このパブの常連だ。…いや、常連というよりも「住み着いている」と言った方が正しいかもしれない。パブがオープンする数時間前、アレルヤかロックオンが仕込みのために店を開ける時とほぼ同時にティエリアはやってきて、いつもの席に腰を下ろす。サービスで食事を取って、パブがオープンしている間は、まるでそこが自分の家かのように、ずっと寛いでいるのだ。
ティエリアの趣味は、「世界各国の言語を覚えること」らしく、日に日に違う国の言語辞書を広げては、ふむふむと唸っている。いっそ言語学者にでもなるのかと思う程の熱中ぶりだ。一度集中したら止まらないティエリアは、ロックオンがグラスを割ったことさえ気付いていないかもと思ったけれど、さすがに甲高い音は耳に入ったらしい。
ロックオンがガラス破片を片付けている間、ティエリアは素早くパソコンのキーを叩いてGPSから居場所を呼び出す。
刹那の位置を判っているのはティエリアだけだ。
世界各地の紛争を根絶するために、気付けばアイルランドから出て行ってしまう刹那は、いつ帰って来るのか、誰にも判らない。半年ほど留守にする時もあれば、数週間で帰って来ることもある。
ようやく帰って来たかと思っても、あっという間にまた出ていってしまう。おかげでロックオンはいつも気を揉んで過ごしている。最近ではそれも慣れた様子で、このバーで仕事をしながら、あのドアが開くのを待っている。
だからこそ、刹那欠乏症が出るのだ。本人も気付かないうちに。

「…刹那は…、移動しているな」
GPSで居場所が判ったのか、ティエリアがふむ、と唸った。
「移動してるって?」
「飛行機を使ったようだ」
「あ、じゃあ戻ってくるのかな?」
刹那が移動に飛行機を使う事は滅多に無い。いつもGPS画面に示される居場所は、想像もつかないような土地ばかりだ。
海のど真ん中の小さな小島、砂漠の中央、雪山の頂上付近、地図でも追えないほどの深い森の奥。
そんなところで一体どんな介入をしているのだろうと思う程に刹那の行動は奇抜だが、刹那が滞在していた国の記事を見ると、彼の足取りが判る時がある。
麻薬組織の壊滅、民族紛争の終結。そんな記事が小さく載っているのを見ると、ああちゃんと生きてるんだなと判る。
彼はひとりで、小さな争いから大きな戦いまでを殲滅しに行っているのだ。それはまさにガンダムを使わないソレスタルビーイングそのものだった。
紛争の根絶。まるでとり憑かれたかのようにひたすらに動いている。
「…でも…そろそろ帰ってきてくれないと…」
これ以上、ロックオンが割らなくてもいいグラスを壊すのは困る。大きな世界の紛争を根絶するのはいいけれど、このパブの中の小さな破壊も防いで欲しいのだ。
割れた破片を新聞紙に包んでいるロックオンの背中は少しばかり寂しそうに見えた。苦笑いをしているけれど、おそらく刹那のことを考えているのだろう。
(もうちょっとの我慢だよ)
アレルヤはその背中に、言葉でなく心で伝える。あと少し我慢すればきっと刹那が帰ってくるよ。そうしたら沢山刹那を補充してね。
背中に向かって、念を飛ばしたその時、カラン、とパブのドアが軽快に開いた。あまりのタイミングの良さにまさかと思ったものの、やってきたのはライルだった。
蹲ったロックオンの背中を見るなり、ぎょっとしている。
「何してんだ兄さん」
「…いやぁ、ちょっとポカやっちまって」
新聞紙に包んだそれを持ち上げてみせれば、カチャカチャと音が鳴った。ライルはそれだけでどうしてそうなったのか判ってしまったらしい。ふうんと鼻を鳴らした。
「恋わずらいってわけだな。手元もおぼつかなくなるぐらいの」
言われて、ロックオンが苦く笑った。訂正もしないところを見ると、自覚があるらしい。
「恋わずらい?…なにそれ?」
アレルヤが首を傾げる。
椅子に座るなり、すぐさま煙草を取り出したライルが、知らないのか、と呟く。
「恋焦がれちまって、他のことが億劫になるのさ。コイビトの事ばっかり考えちまってな。いやぁ、にいさんも若いね!」
「お前が言うなよ。恋多き男なんだろ?」
「俺は場数踏んでるから大丈夫なんだよ。純なにいさんとは違ってさ」
煙草の先端に火をつけ、すーっと吸う。煙がライルの肺に引き込まれていって、静かに吐き出せば長く細い煙がまっすぐ伸びた。
「でもまぁ、そろそろ刹那も帰ってくる頃なんじゃねえの?」
ライルの言葉に、アレルヤはドキッとした。
「えっ、どうして知ってるの?」
「…へ?本当に帰って来るの?」
「…あっ」
ライルはカンで言っただけなのか。それにしては先ほど調べたばかりだったから、驚く。
「だってさ、にいさん。帰って来るみたいだぜ。ハニーの刹那ちゃんが」
得意げに笑ってみせるライルに、ロックオンは気恥ずかしげに眉を顰めた。
「あのな、帰って来るってったってな、そんなすぐ帰って来るわけじゃないだろ。てかハニーとかやめろ」
「ハニーはハニーだろうがー。かわいいねー。で?すぐに帰って来るの、あいつ」
「…うん、飛行機には乗ってたって言ったよ」
「飛行機?」
「誰がだ?」
「誰って…そりゃおまえ、刹那に……きまっ、て…」
って、ちょっと待て。
今誰が言った?
その声に、パブ内の空気がひたりと止まった。一斉に目が向いたのは、パブのドアだ。
誰も居なかったはずのその場所に、随分と煤けた恰好の刹那が立っていた。
「刹那!」
「えっ、嘘っ?だって、今飛行機乗ってるって!」
アレルヤが慌ててティエリアを振り返るけれど、当のティエリアは何を言ってるんだとばかりに眉を寄せた。
「…飛行機で移動したようだ、と僕は言ったが。今乗っているとは一言も言っていない」
「……ええええっ!」
「刹那は近くに居るとも言っただろう」
「近くって…だってこんな近くだと思わないよ!普通!」
調べた矢先に着くなんて思うものか。てっきりもう2、3日掛かるだろうと思っていたのに。
あまりにも突然のことで驚く皆をよそに、刹那はズカズカとパブの中へ入って来ると、ロックオンの目を見上げ、色あせたマントで隠れていた顔の下半分を露にすると、「ただいま」と一言、抑揚もなく告げた。
ロックオンは不意をつかれて固まっていた表情をようやく緩めて微笑んだ。
「…おかえり。今回は長かったな」
「ああ。時間がかかった」
「もうちょっと早く帰ってきてくれると助かるんだがねぇ?」
「助かる?…誰がだ?」
「俺が、だよ!」
笑うように言って、刹那の頭をロックオンの大きな手がくしゃりと撫でまわした。

(ああ、本当に帰って来たんだなぁ…)
この光景を見るのも久しぶりだとアレルヤはじんわりと胸が温かくなるのを感じていた。
今ここにはティエリアも居て、ライルも居る。やはり皆で一緒に居るのはいい。そしてこういう何気ない光景が何より胸にじんわりとくる。満たされていると感じるのだ。
また刹那が無事に帰ってきてくれて良かったと思う。
ロックオンが微笑んでくれて、良かったと思う。

「…にしても、今回も汚れて帰ってきたなぁ…どこいってたんだ?」
「南米」
「…南米…。またジャングルにでも入ってたのか…」
どうりでこれだけ汚れているはずだ。南米の軌道エレベーターあたりは、政情が常に不安定な地区だ。刹那が介入する理由は良く判る。
決して簡単ではなかったはずの紛争を、この小さい身体ひとつでなんとかしてしまったのだろうか。いつものことながら、見事な刹那の動きに、苦い笑いが洩れた。
「…ロックオン、今回、土産があるんだが」
「土産?珍しいじゃないか」
煤けたマントの中に手を伸ばして取り出した。それは、刹那の手の中に収まる程度の、汚れたガラスで出来た「何か」だった。
「…何?これ?」
カウンターテーブルの上に、置かれたそれを、皆が顔を出して覗き込む。
今回のトラブルは、そのガラス瓶から全てが始まった。