「よお。会えてよかった」

くったくなく微笑む、その顔。
つい先日知った顔で、
名もその時に聞かされているから知っている。
あの、古びたアパートの小さな部屋で、最後に告げられた言葉を刹那は覚えていた。
ロックオンストラトス。

目の前に、マフラーが差し出されるまで、その男の気配に気付けなかったのは刹那のミスだ。
相手に殺気が無かったからだ。殺気があれば、ある程度の距離からでも気配を感じ取る事が出来るのに、この男から殺気じみたものは微塵も感じられなかった。

ホテルの裏玄関、一般に開放されていないその場所に、ロックオンストラトスは飄々と現れた。
サーシェスが、見ている、その目の前に現れた男。

何故この場所が判った?
いや、何故ここにいる事を知っている。
(あぁ…知っているに決まっている、だってこの男は平和に生きる男ではない)

刹那の表情が凍りついた。
相手に殺意がなくとも、不用意にこちらのテリトリーに踏み込むのならば容赦しない。情もない今なら、ポケットに仕込んだナイフで首を掻っ切ってみせる。…出来る。今なら出来るはずだ。

欧州でも指折りの、絢爛豪華なホテルの正面玄関とはかけ離れた、こじんまりとした裏玄関は、正面玄関などを使用しないVIPと、名の知れたものだけが使用出来る場所だった。
サーシェスが出掛けると言ったのは、つい1時間前。
その間に小さな裏玄関に持って来させた車は、赤色の2シータースポーツカーだった。
サーシェスが運転席に乗り込んだ事を確認してから、助手席に乗り込もうとした刹那の目の前に差し出されたのは見覚えのあるマフラーだった。
間違いない。自分が数日前につけていたマフラーだ。
運転席に収まっていたサーシェスは、近づく男の気配に気付いていたらしい。表情も変えず、運転席に収まっている。

ドクリ、と、刹那の胸が跳ねた。
ここにはサーシェスがいる。そして目の前には、先日抱かれたばかりの男。
「どうした?」
マフラーを差し出すロックオンが掛ける声に、反応さえ出来ない。

よく教育されたホテルマンは、この際どい雰囲気の中でも姿勢を崩さず、緩やかな目線で、事の成り行きを見つめていた。
サーシェスとてそうだ。普段と何も変わらない。ただ、車に乗り、刹那を待っているだけの。
あぁ、ならばこのマフラーを受け取って、そうして終わりにすればいいのに。…なぜ出来ない。なぜ。
一番動揺しているのは刹那だ。
差し出されたマフラーから目を離す事が出来ず、目の前の男を殺せると豪語した割りには、その身体は硬直してしまった。


何故、このロックオンストラトスは此処に来た。
なぜ。
どうみても、自分やサーシェスがカタギの人間などではないと、この男になら解るだろうに、躊躇さえせずに声をかけられた。

(…俺達の正体を、わかっているのか)

いや、知らないはずだ。
中東全土やこの欧州、いや全世界で、サーシェスの名は裏世界によく知られている。
…が、「アリーアルサーシェス」の名は、あまりに強大だ。暗殺されかけた事は数あれど、ここまで堂々と接してくる男など今まで類を見ない。
サーシェスの傍に居る刹那の正体さえ、この男は知らないはずだ。

(…やはり、どこかの組織の人間なのか)
サーシェスを暗殺するために、近づいたのか。
考えられる一番の理由を考え、けれどならば何故今、サーシェスを狙わない?
殺気は微塵も生まれない。これでは殺せない。…おそらくはスナイパーなのだろう、彼には分が悪すぎる。

マフラーの無地を見つめながら、刹那は冷静に考える。
胸の高鳴りは、酷くなる一方だが、それでも頭の最奥は酷く落ち着いている。

最初から、判っていた。
このロックオンストラトスの正体に。
あの店で声をかけられた地点で、真っ当な人間ではないということぐらい、判っていた。
そのぐらい知っている。
知っていて抱かれた。
あの男の部屋にあった、不釣合いなクローゼット。その中に入っているだろうものぐらい、想像がついていた。


「受け取れよ。忘れていったんだ俺の部屋に」
目の前に出されたのは、血のような赤いマフラーだった。
中東で身に着けるようなものではない厚手のそれを、刹那はあの部屋に忘れていた事に気付いていたけれど、忘れたのならそれで構わないと気にもとめていなかったのに。

何故、持って来た。
何故、ここが解った。

…いや、この男なら、解るだろう。
ロックオンストラトス。お前は、こういった気配を知るのが誰よりも上手い。
そうだろう?…スナイパー。
あの店で、触れてきた手、気配を殺していたつもりの刹那の元へ迷わずやってきて、声をかけた。腕についた筋肉、鍛えられた足腰。
…この男は、そういう男なのだ。

ならば、あのセックスは。
あの、胸を焦がすようなセックスは、何故。
懐柔するためなのか。…ああして心を奪って、そうしてサーシェスの懐に入るつもりだったのか。
ならば、そのたくらみは少しばかりは成功している。
今、こんなにも心を乱されている自分は、きっとお前を知るよりも弱くなっている。確実に。

「…人が忘れ物を届けてやったっていうのに、ありがとう、とか言えねぇのかお前は」
「頼んでいない」
「忘れ物は届けるのが俺の主義だ」
差し出されたマフラーを、受け取りもしない刹那に焦れたのか、ロックオンは息を吐いて肩を落とすと、刹那の無防備な肩にふわりとマフラーをかけた。
赤い色に包まれた刹那の上半身に、ロックオンは満足げに笑った。

「それなら凍える事もないだろ」
「………」

確かにあたたかい。
露だった刹那の首元をあたためるマフラー。けれど、そのあたたかさの中で、刹那の背筋は凍りつくようだった。
サーシェスが、見ている。
…見ているんだ。

「刹那」
ふいに背後から、聞き慣れた声を掛けられて、刹那の表情が軋む。
無表情の上に一瞬浮かんだのは、怯えの色だ。
サーシェスの目は、刹那の背中に向けられ、そうして一旦目を逸らし、ロックオンを見据えた後、口端を上げて微笑んだ。

「失礼。うちのものが粗相をしたようで」

普段の声とはまるで違う、柔らかさをもったサーシェスの声が、車の中から響いた。
ロックオンはその声を受け止めて、ようやく車内のサーシェスを見下ろす。

「いや?別に失礼も粗相もされてねぇよ。挨拶も無しに出ていっちまったのだけが戴けなかった。…ああ、それより、そうか、お前は刹那っていうのか。…良い名だ」

サーシェスの言葉をするりと交わし、硬直したままの刹那の首筋に触れる。長くなった後髪に触れ、そっと整えた。赤いマフラーの中に隠れる黒髪。

やめてくれ。
…やめろ。
サーシェスが見ている。

なのに、どうしてこの手を振り払えない!

サーシェス程の男が、今更一度ぐらい刹那とセックスをしただけの男に興味を示すような事はない。
それなのに何故、絡んでくる。
放っておいてくれ。
見るな、
アンタは何も見ずに車の中に居ればいい!

こぶしを握りしめた。
正面に、あたたかい男の冷たい表情があり、
背後に、冷たい男のあたたな仮面だけの表情がある。

身体が、凍り付くようだ。

「刹那、乗れ」
「……、」

僅かな時間の静寂を打ち破るように、サーシェスの声が響いた。
震える身体を叱咤して、刹那は車に乗り込んだ。2シーターの助手席、サーシェスの横。
運転席に座る男の顔を、見る事など出来ない。

「刹那」
締まりかけたドアに、ロックオンの手袋がかかる。
その顔が近づく。…キスをされるのかと思った。身を引く刹那の顔のすぐ近くで、ロックオンは囁くように告げた。

「また会いにくる。刹那」

ドアが閉まるその直前、告げられた言葉に、きつく目を閉じて耐えた。

あぁ。なんて、あの男は。

…全てが、掻き乱されていく。