ロックオンストラトス。
この男とのはじめてのセックスは、とてつもない焦燥ばかりを感じていた。
怖かった。
あんなセックスをしたことがない。
あんなセックスをする男を知らない。
初めて与えられた快感と怖さとあたたかさ。
怖くて怖くてたまらなくて、逃げるようにこの家を去った。
けれど、今は、なんという心の変化だろうか。
まるで、穏やかな海に浮いているようだ。心がどんどん静まりかえって心地よい心音だけを耳に届ける。

刹那の後ろ髪を指に絡め、くりくりと指に巻いてみては遊んでいる男の胸に顔を埋める。
息を吸い込めば、ほんの僅かな硝煙のにおいと、かすかに香るコロンのにおいがした。…おんなものの香水だ。

「…髪、切っても似合うと思うぜ」
その言葉は以前にも言われた事がある。後ろ髪、そんなにも気になるのか。
「コレもコレで似合うけどな。うなじを見せるのもいいんじゃないか。俺が切ってやるよ」
「断る」
無様な髪型になるのはゴメンだ。
優しい手つきで触れられる指先。けれどそれはスナイパーとして引き金を引く手だ。鋏を持つ手ではない。

「まあ、この冷えた国で肌を出すのも寒いか」
そんな検討違いな事を言って、つむじにキスを落とし、顔を抱きかかえるように胸へと寄せる。
包まれている。
この男に、全てを。
刹那はゆっくりと目を閉じた。
なんてあたたかな、なんて満たされた時間なのだろう。
この男の傍に、ずっと居られたら。共に時間を過ごせたら。…それはどんなに満たされたものになるだろうか。

「…なぁ刹那。俺はこの街から離れる」
「…いつ」
「今日、この足で」

刹那の黒髪に触れる吐息が愛しい。
ロックオンが喋るたびに、やわらかな刹那の髪が揺れる。
その髪に顎を乗せてみたり頬を擦り寄せてみたりと、まるで愛玩動物相手のように扱う。
自分が手懐けられた小さな獣になったかのように感じる刹那に、ロックオンの言葉は続いた。
…次に言われるだろう言葉を、知っていた。


「いっしょに来ないか、刹那」

小さな部屋、小さなベッドの上、ロックオンの声が響く。
いっしょに、こないか。

「この街を出て、今度はあたたかいところへ行く。お前を連れて行きたい。なぁ刹那」

言葉ひとつひとつが、体に染み渡るオイルのように、刹那の耳に、胸に、身体に、甘く響く。

そうだな、今度はあったかいところに行って、仕事がしやすい場所に部屋借りてさ。狭いベッドひとつあればいい。こうやって二人で眠ってたらいいだろ?海の近くの家もいい。お前中東生まれだから海なんてあんまり見たことないだろ。そうだ次の仕事が終わったら、南の国に行ってしばらく休もう。お前が見たことないものがきっとあそこには沢山あるぞ、刹那。
だから。

「来いよ、刹那。お前が、あの男から離れられない呪縛があるなら、俺がその鎖を断ち切ってやる。お前が本能であの男の元に戻ろうとするなら、抱きとめて離さない。あぁそうだ、今度は俺の腕に掴まれよ、刹那」

まるでその言葉を体現するかのように、刹那の背中を抱き締め、身体を強く密着させる。
足を絡め、腕を絡め。
そうして、刹那の身体を全て包み込み、逃げられないように。

抱擁。愛。希望。
与えられるその大きさに、眩暈がする。
人はこんなにあたたかいのか。初めて知る。この心地よさを。この満たされた思いを。

たてつけの悪い窓が、風に煽られて、カタカタと音を立てていた。
包まれた胸の中で目線を動かしてみた空は、鉛色の重い雲。
きっともうすぐ雪が降る。風も強いから、温度も下がる。外に出るのは辞めたほうがいいだろう。極寒の地で、天気を読めなければそれは死につながってしまう。
この部屋から、出て行くか。…残るか。
答えを出そう、今。

目を閉じ、息を吸い込んで、ゆっくりと目を開けて、この男の肌の色を見る。
この肌の奥深くに、心臓が眠っている。トクトクと鼓動を刻む、この男に温度と生命を分け与えている、真っ赤な血を潤滑させる、命のみなもと。
その、胸先に。


「…俺は、いかない」

突きつけられた拳銃は、確かにロックオンの心臓の上にあった。
ゆっくりとセーフティーを解き、引き金に手をかけ、抱擁の緩んだロックオンの上に乗り上げる。シーツがひらりと床へ落ちた。
ロックオンの腹の上、全裸の刹那が構えた拳銃は、ロックオンの胸、に。

「…刹那」
「俺は、いかない。お前とは、いけない」
「刹那」

拳銃を心臓へ向けられながらも、ロックオンの表情は何一つ変わらなかった。
ゆっくりと息を吐き出し、目を伏せ、再び開いた目で、刹那を見上げる。
手を伸ばし、刹那の頬に触れて、そっと肌をなぞる。
頬に触れて知る。拳銃を構える震えが止まっていない。

「…震えるなよ。最初っから判ってた事だろ?」

ああ、判ってた。判っていた。だって殺さなきゃならなかった。
アンタはスナイパーだ。
サーシェスの命を狙うスナイパーだ。
そんな事、あの酒場で出会った時に判っていた。判っていたけれど、それでもこの男がこんなに優しい手を差し伸べるから!

「…っ、…ぅ…」
「ほら、狙いが鈍るだろ。指が震えてる。それじゃあ心臓を撃ち抜けないぞ、刹那」

頬を撫で擦るロックオンの手。そうしてもう片方の手で、カタカタと震える刹那の拳銃に手をかける。
狙いの定まらない銃口を、しっかりと左胸に突きつけさせて、ほら、と促すロックオンの表情に迷いはない。

「なるべく、ひと思いに殺してくれよ。俺だって苦しむのは嫌だからな」

…ああでも、一瞬で死ぬよりも、お前の顔を見ながらじわじわと死ぬ方がいいのかな。
お前は俺の心臓が止まるまで、抱き締めていてくれるか?
まるで夢見心地に呟くようにロックオンは静かに伝える。
突きつけられているのに。…銃を、今。

「…アンタ、はっ…」
「ん?」
「アンタだって、判っていたじゃないかッ…」

こうなることを。

刹那の震えはいよいよ酷いものになっていた。細く早い息をつき、震える唇は閉じる事も出来ない。はぁはぁと息をつく肩が上下していた。
それはまるで、泣き方を知らぬまま大きくなった子供のようだ。ロックオンにはそう見えた。

「悪かったよ、悪かった、刹那」

ごめんな、と頬を擦り、黒髪に手を絡める。
会えばいつも触れる。刹那の後ろ髪をくるくると。

「ごめんな?」
一緒にいこう、だなんて。
出来ない事、判っていた。そんなのは無理だと知っていた。…知っていても、それでも。

「判ってたさ、刹那。…だから言ったろ?俺の負けだ、って」
「…っ、…!」

今日、再び出会い、ベッドに入る時。
まるで諦めた表情で、ロックオンが告げた言葉だ。

”あそこで俺がお前に話しかけた地点で負けだったのかな…”

囁いた言葉を思い出す。
負けたと。
…それは、こうなることまで見越した言葉だったのか。

会ったその時に、こうなる事を、予感していた。
あの酒場、一人で居たお前に話かけたあの瞬間に。

…あそこで話しかけなければ。
刹那に興味を持たなければよかった。
けれど、それでもどうしても、お前を放っておけなかった。

「ほら、刹那。もう苦しむな。楽になったらいい」

俺が、お前に教えてしまった感情がある。
硝煙と血と砂漠と冷たい感情の中で生きてきたお前に、与えてしまったもの。
それは、その場所から逃げ出せないお前にとって、苦しむためのものでしかなかった。

ごめん。ごめんな。

謝罪の言葉は、もう口には出さずにおく。
あと、数秒後には消え去る命だ。この刹那の手で、たった一発の銃声で、命は終わる。

アリーアルサーシェスを、殺してしまえばよかった。
お前が傍に居ると知っていようが、何をしようが、殺してしまえばよかった。
そうすれば、何も無くなったお前を拾い上げて、その身体を抱き締めることが出来ただろうに。

ごめん、な?

心臓に突きつけた銃の上。
刹那の指をするりと撫でて、ロックオンは手を離した。

数秒後、
刹那の引き攣った苦しげな呼吸が聞こえた直後に響いた一発の銃声は、狭い部屋を満たし残響も残さずに消えた。

ゆっくりとシーツに落ちたのは、雪雲の隙間から覗く月の光に照らされた、力のない腕だった。