コツコツを響く革靴の音を聞く。 耳の奥、かすか遠くから伝わる物音を聞き分けられる。それが出来なければ、あの戦場では死ぬだけだ。 ホテルの最上階、スイートルーム。そこに入る事を許可された僅かな人間だけ。 あの男はボーイを殺してパスを奪ったか。 さすがスナイパーだ、その気になれば、やる事はやってくれる。 ドアが開いた。 観音開きの大きなドアを乱暴に開く。無骨な侵入者であるロックオンは、さも当然のようには拳銃を構え、銃口を向けていた。 拳銃はロックオンの手の中に自然と馴染んでいる。 黒いスーツとコートを身につけ、手には拳銃。鬼ような形相で、部屋の中へ進む。 「よお」 サーシェスは、驚きもせず、表情もかえずに、ロックオンを出迎えた。 広いリビング、一人掛けのソファで足を組み、背中を仰け反らせたまま、侵入者、ロックオンストラトスを真正面から見つめるその目が笑っている。 何事もないように、構えられる拳銃。 淡々と受け止めるサーシェス。 張り詰めた空気の中、殺意と憎しみの綯い交ぜになったこの瞬間に、サーシェスは笑った。 「いつ殺しに来るのか待ちかねたぜ」 俺を殺しにきたんだろう? そのために、お前は出て行くはずのこの街にも留まっていた。 いつ殺しに来るのかと思っていたのに、お前は、あのガキにうつつを抜かして殺しにさえ来ない。 高層ビルのガラス越しで、見せ付けるようにセックスをしたのに、それでもライフルの弾は発射さえされなかった。 茶番だ。 ソファに背中を凭れかけ、鼻で笑う。 「今ならお前を殺せる」 ロックオンの声は低く静かな声だった。 拳銃を構える。ライフルとは違う小型の拳銃だが、人一人を貫ける程の殺傷能力は充分にある。この至近距離なら、狙いを定めずとも額の中央を射抜くことが出来る自信がある。 「刹那は居ない」 そうだ、この男の傍にいない今。 今なら殺せる。…今なら。 「あのガキは死んだか?」 拳銃を向けられて尚、足を組んで背もたれに体重を預け、動揺のカケラもないサーシェスの姿。 挑発されているのか。 ロックオンの腕がかすかに動いた。動揺してはいけない。 刹那が死んだのか、だと? お前の命を狙う俺が憎くて、殺しに来た刹那が、どうなるのか。判った上でこの男は。 「…刹那をあそこまで堕としたのは、お前だ」 己の命さえも投げ出す程に刹那を縛り付けて堕とした。 お前がそうさせた。 本当はあんなにも純粋だった刹那を。お前が。 「俺以外に誰が居る」 「…っ…!」 「馬鹿がつくほどの従順だった。だから傍に置けた。…反抗心があるのに手を出しゃしねぇ。死ねといえば死ぬ。殺せといえば殺す」 「貴様…!」 「それでもお前を殺せなかったか」 「それが判っていて…!」 判っていた。 この男は、全てを判ってやらせたんだろう。 刹那はロックオンを殺せない。そうした上で、刹那がどう考え、どういう判断をするのか。全部知っていたんだ、このアリーアルサーシェスという男は! 「…ああ、知っていたさ当たり前だろう、俺がそうなるようにした」 「…っ、刹那は!人形じゃねぇ!」 「それも知っているさ。人形じゃ、あんな風には抱けねぇ」 「黙れ!」 刹那を、まるで後ろから糸を引くかのように操って、殺したくないと心底願いながらトリガーを引いた。 刹那の気持ちを考えると痛い。痛くて痛くてたまらないから開放してやりたかったのに、それさえも出来ず、途方にくれて己に銃口を向けた。死ねばいいのだと。作戦に失敗し、人も殺せない。おそらく自分の感情が恋や愛や慈しみだという事にさえ気付かずに、無能と判断した自分を抹殺しようと、引き金を引いた。 「そこまで判っていながら…ッ…」 まるで人形を操るように糸を引き、そうして刹那の感情さえもコントロールして殺していくんだ。 サーシェスに向けた拳銃の狙いがぶれていた。撃ち抜けない。 とてつもない憎悪、こんなにも憎く、こんなにも殺したいと心から願うのに。 「あいつのセックスはどうだった」 怒りに震えるロックオンに向けて、サーシェスの声が響く。 「感情が乗ってるだろう、アイツのセックスは。他のガキとは違う。あいつはどんだけ教育しても反抗的で仕方ねぇ。自分の感情も抑えねえ。洗脳したワリには自我が残りすぎた」 「くっ…!」 構えた拳銃が軋んだ。 トリガーを引いて、今すぐこの男を殺してしまいたい。 頭、顔、胸、全ての場所を撃ち抜いて、跡形も無く殺して、そうして刹那を自由に。 「…お前を殺せば」 憎々しく吐き出したロックオンの言葉に、サーシェスが口角を上げて笑う。 「俺が死ねば、あのガキも死ぬぜ」 「…っ…!」 言い捨てられた言葉に、ロックオンの肩が力む。 そうだ。間違っていない。 それはロックオンとて懸念した事態だ。 …サーシェスが死ねば、おそらく刹那もそう時間もかけずに朽ち果てる。 だから、刹那をサーシェスから引き剥がして匿って、少しずつあの男の呪縛を解く事が出来れば。そう願ってみたものの、ロックオンの暗殺に失敗した刹那は迷わず自分に銃口を向けてしまった。 呪縛。その深さを知る。この男を絶対遵守しろと、その身体全てで呪われている。解く事が出来ない。 「…貴様が憎い…!」 「なら殺せよ、え?」 「…っ!」 ソファから立ち上がり、狙ってみせろと、手を広げて胸を張る。 この胸を、顔を。 「憎いんだろう俺が。なぁ、アイルランドのロックオンストラトス。お前の右に出るスナイパーは世界には居ないそうじゃないか。なら撃ち抜けるだろう?この距離だ。素人でも外さない」 「…アリーアル、サーシェス…!!」 構えた拳銃が、ガチャリと音を立てた。引き金にかけた指に力が篭る。 「アンタを殺せばよかった…!もっと早く、刹那と出会う前に!」 裏の世界に居る人間ならば、その存在を誰しも知っている。アリーアルサーシェス。ヤツに手を出すな。あいつは殺せねぇ。 あの男は、平気で戦争をふっかけるぞ。祖国が火にまみれる光景を見たくなければ、あの男は近づくな。手も出すな。危険だ。あれは手を出したらいけない。あれは赤い髪の悪魔だ。死神だ。 世界中のあらゆる戦争に絡み、その中で笑い続ける男。 知らぬわけがない。この男を殺せば、世界の勢力図が変わる。それほどの男だ。 それでも。 それでも、今は躊躇うな。 ひけ、トリガーを。 そうして刹那を生かせ。生きてくれるはずだ。どれだけこの男の呪縛があろうと、生き延びさせてみせる。 自分に銃口を向けた瞬間、刹那には僅かな躊躇いがあった。 それがほんの僅かだとしても、刹那の心は動いてくれた。俺を殺せずにその身体を震わせて耐えた。断ち切れるはずだ。…断ち切るんだ、俺が。 そうだ、撃て。 そして、殺せ。 トリガーを構える腕に力を篭めた。 部屋に響いたのは、パァン、と乾いた銃声が2つ。 間を置かず、連続して部屋に響いた。 「…っ!」 ごとり、とロックオンの拳銃が床へと落ちた。 そしてすぐに膝がつき、その直後に真っ赤な血がぼたぼたと絨毯へと流れてゆく。 「…っ、…!」 まるで背中を撃ち抜かれたような酷い痛みと衝撃。拳銃を持っていた腕の感覚が一瞬にして無くなり、自分の拳銃から発射された弾道のそれた弾が床に撃ち込まれ、絨毯にめり込む。 サーシェスを、殺せなかった。 ロックオンは目をきつく瞑る。 肩、だ。 肩を撃たれた。 「…ッ…!」 だらりと力の落ちた右肩を抱き締める。身体中の力が一気に抜けてゆく。気を抜けば、このまま床に突っ伏してしまいそうになるのを耐え、うっすらと目を開けば、絨毯の上についた自分の膝が震えている。流れ出る血は、ロックオンの血だ。汗が額と首筋をだらだらと流れていく。 背後から発射された弾が、ロックオンの右肩にめり込んでいた。 「いいタイミングだ」 ゆっくりと歩くサーシェスが、床に伏すロックオンの横を通り過ぎ、硝煙のにおいの混じる刹那の傍へと近づき、頬を取る。 「よくやった」 サーシェスに触れられ、刹那は目を閉じた。うっとりと、まるで夢を見るかのように。 (刹那…、) 激痛の走る肩。ロックオンは苦々しげに息を吐く。 血の流れ出る肩を押さえながら、サーシェスの言葉を背中で聞く。胸に宿るのは絶望。 あぁ、やはり。 やはり、来てしまった。刹那。 鳩尾に拳を入れ、ようやく気を失ってくれた刹那を、シーツを替えたベッドへ寝かせ、サーシェスの元へと戻らぬように、手には手錠を嵌めた。動けないようベッドヘッドへ括り付けたのは、さながら拉致監禁されたように見えて、ロックオンはごめんなと謝り、眠りについた刹那の額に唇を落とし出てきたが、それでも、刹那を完全に留める事は出来なかった。 痛む肩を押さえて振り返れば、刹那の手首は真っ赤に染め上がっていた。 「おま…、あの手錠、無理矢理引き抜きやがったのか…」 なんて馬鹿な事を。 皮膚は避け、見ていて痛々しい事この上ない。 くそったれ、 口の中で呟く。 あと1分。いや、あと10秒でよかった。 大人しくしていてくれたら、そうしたらお前の命運は変わっていた。 サーシェスは凶弾に倒れ、お前は自由になれたのに。 「…殺させない」 刹那が呟いた。 あぁそうだろうさ。刹那、お前はサーシェスを殺させないだろう。殺したくないから守っている。だからそのお前の想いごと、このアリーアルサーシェスという悪魔を撃ち抜いてやりたかったのに! 「…ばかやろう、刹那っ…」 もう何度も呟いた言葉を、改めて吐き出す。 本当に、なんて馬鹿なんだ。 血の流れ落ちる絨毯と自分の右腕を見つめ、唇を噛んだ。刹那の拳銃が、ロックオンの頭へと照準が合わせられたのも、当たり前の事だった。 「…ロックオン、ストラトス」 名を呼ぶ刹那の声に、目を閉じた。 ここで殺させるのか。 赤い髪の悪魔が見つめるその目の前で、お前の手で。 (出来るなら、ベッドの上が良かったな、畜生…) こんな、憎い男の目の前ではなく、お前に乗っかられたまま、あのベッドの上で死を迎えた方がどれだけ良かったか。 けどな、刹那。 ならば何故、さっき肩を狙ったんだ。 頭でよかった。胸でも。 この距離で、しかも背後からの射撃だ。撃ち抜けただろうに。 サーシェスの前で殺したかったのか。それとも俺の最後の言葉を聞きたかったのか。 「生かしてやれ」 それはサーシェスの声だった。 刹那がサーシェスを見上げる。何故、と。目が伝えていた。 「コイツは生かせておけばいい。おもしろい存在だ」 「こいつは、」 刹那が咎めるように何かを言おうとし、しかしサーシェスは刹那の顎を取り、唇を近づけて笑った。 「殺したいか」 この男を。 聞かれて、刹那は目を閉じ即答した。 「…殺したい」 キスを。 望んで目を閉じた刹那に、サーシェスの唇が絡みつく。ねとりとしたキスだった。 こういう時にだけ、刹那が望む口づけを与える。いつも欲しいと強請っても与えられる事はない口付け。 …けれど、今、刹那が本当に成し遂げたい事はさせないのだ。 この男を殺したいと、望むのに。 「駄目だ、殺すなよ…ソラン」 唾液の絡んだ舌で、刹那の唇を舐め、伝える。 殺すな。その代わりにお前が欲しがっていたものを、やる。 再び絡みついた唇に応え、刹那は拳銃を降ろす。 殺すなと。言われるその意味を知っている。 楽しみたいのだ、サーシェスは。 これでこのロックオンストラトスという男は、刹那を狙ってやってくる。サーシェスを殺しに。刹那を欲して。 それが戦争の火種になる。サーシェスの望む戦いだ。ならば止める事など出来ない。…サーシェスが望むのだ、戦いを、この男を。 「命拾いしたな、ロックオンストラトス」 笑うサーシェスを、ロックオンの恨み睨んだ目が見ていた。 「俺を殺しにこい。中東で、待ってる」 告げた、静かな言葉が、ドアの向こうに消えると同時に、ロックオンを見る事もなく立ち去った刹那の姿も、消える。 ドアの閉まる音だけが、ロックオンの耳に響いていつまでも残っていた。 |