世界中探しても、こんな男、2人と居ない。
この男が教える世界が、刹那にとっては全てだった。



金細工の使われた蛇口から、水が一滴、ぴちゃりと落ちて、バスタブに湛えられた湯に波紋を作る。
身動きもせずに、ゆったりと湯に浸かっていたサーシェスは、自分の口元に添えられるカミソリを受け入れていた。
湯に浸かり、バスタブの縁に手を添えて目を閉じるサーシェス。
その上に跨って、服を着たままの刹那が、顎髭を落していく。
じゃり、じゃり、と音がするたびに、湯の中に落ちる幾筋もの赤い毛。
広くは無い、バスタブの中で。

なんの戯れか。
こんな事をさせるなんて。
刹那が、この部屋に来た時に、サーシェスが風呂に入っていたからかもしれない。
サーシェスが足を伸ばして入る事が出来る程の浴槽の半分程、湯が入っている。その中で、横たえている男の裸体は酷く美しく見えた。
目線だけでこっちに来いと呼ばれ、カミソリを渡されて、その刃を見つめる。髭を剃れという事か。

「全部?」
「全部だ。やっと落せる」
明日には、この中東を外出する予定がある。帯同を命じられていない刹那は、ここに居る事になるが、行き場所はおそらくAEUだろう。極秘裏の作戦があれば、傭兵部隊であるサーシェスを頼る事もある。この男の腕は、誰よりも戦争に関わる軍人や傭兵達が一番良く知っている。

落されていく、髭の赤。
髭を落すのならば、髪を切ればいいのに。こんな伸ばしっぱなしの髪で、血糊が付こうが精液が付こうが構わずに振り乱す。セックス中も、何度も引っ張ってしまったり服にひっかかったりして邪魔でならない。
髭の蓄えられたサーシェスの顎を持ち、赤い毛を落していく。
はらはらと散る赤いそれが、バスタブの湯の中に落ちるのも構わずに、そっとそっとカミソリの刃を進めれば、無精ひげだらけだったサーシェスの顎と顔に、徐々に骨格を浮かび上がらせていく。

このカミソリを、首へと近づければ、すぐにこの男を殺せる。

目を細めた。
光る刃を見つめる。鋭利な刃物は、刹那が刃を進めるたびに、赤い髭を残さずに削ぎ落していた。少し力を込めれば、この皮膚さえも裂く。
この男を殺せば、中東の、いや、戦争に関わる全ての国に影響をもたらす。何処かの国は滅びるかもしれない。…それほどの影響力を持っていると判っているのに、今この無防備さはどうだ。
バスタブの中に全裸で、腹心とはいえ、他人にカミソリを持たせている。
閉じられた目に、緊張もない。
力も抜けきっている。

ひくり、と手が震えた。
なんて簡単に殺せるんだと理解した途端に緊張したのは刹那だった。
この男の命は、今、この手の中に。


「…終わ、った」
「ご苦労」
カミソリを湯につけて、残った毛を落とし、風呂から足を出す。
捲り上げた裾を下ろして、カミソリをバスタブに置いた。その手が震えて止まらない。悟られたくはなくて、濡れた足のまま風呂場のタオルを手に取り足早にこの場を去ろうとする刹那に、背後から笑い声が響く。
サーシェスだ。

「よくも殺さなかった」

笑うサーシェス。
殺せる環境に置き、あれ程に無防備に晒した身体。
刹那の感情を知っている。
この男は全てを知っている。
どれだけの虚無がこの胸にあるのかも、どれだけの敬慕、憤り、渇仰、それらの思いを全て知った上で、刃をもたせるんだ。
そうだ、この男はそうやって、全てを知って見下して、そうして掻き乱して束縛していく。魂が、全てが。

喉の奥で笑う度、湯がぴちゃぴちゃと音を立て、やがて堪えきれなくなったらしいサーシェスが大声を出して笑う。その姿をじっと見つめた刹那が、タオルを投げ捨ててサーシェスに歩み寄る。
笑うその顔に手を伸ばし、綺麗にしたばかりの頬に手をかけて強引に顔を引き寄せた。

噛み付くような、キス、を。

その唇に当たる感触が以前とは違う。
触れればあった、顎鬚は無く、上唇を舐めれば舌先に絡み付いてきた不精ひげもない。
それは男の骨格だった。顎骨や頬骨の感触。…この男の本質の。


絡みつくキスをしても、サーシェスは答えなかった。おそらく瞳も開いたまま、刹那の姿を見ている。
「…っ、…」
濡れた浴室の床に膝を付き、濡れるのも構わずに、サーシェスの裸を引き寄せて触れる。服が濡れていく。それでも。
唇を吸い尽くし、荒々しいキスを角度を変えて何度もあわせる。サーシェスはうっすらと唇を動かして答える。…もどかしい。あぁ、どうして。
どうして、貴方はキスさえもしてくれない。

「これはなんだ、窒息死でもさせたいのか?」

キスを解いてもそんな言い草。
至近距離で見つめる目が、刹那を見下ろしていた。

殺せない。
殺せないさ、あんただけは。

長い赤髪の中に腕を伸ばす。触れた首筋、あたたかさを知る。
このあたたかさしか知らない。
ほかに何も無い。何も持っていない。
ただ、この男の傍に居る事だけを許されている。
全てだ。
この男が死なない限り、…永遠に。

「死ぬなら、ベッドで、」
首筋を引き寄せ、耳朶を舐めながら、刹那が告げた言葉に、サーシェスはまた鼻を鳴らして笑った。
ようやく伸ばされた手で、顎をつい、と持ち上げられる。目線が絡んだ。そらせない。

「お前から誘ったのは初めてだな」

喉を震わせていつまでも笑うサーシェスを、はじめて、殺したい、と思った。