待つのは嫌いだ。

けれど、待ってばかりいる事に気付いて愕然とする。

何を待つというんだ。

あの男を?
開放を?
やがて与えられる死を?


***


寒い。
ぶるりと身体を震わせて、眠れもしなかった目をゆっくりと開けた。
砂漠の夜とは違う、雪の降る低い気温に慣れぬ身体。この国に来てからもう随分と時間が経つというのに、この寒さにだけは慣れる事が出来ない。身体の芯から凍える寒さの中で目を開ければそこが室内である事が知れた。

大きな都市の、小さな片隅。
ダウンタウンと呼べるようなその街に、小さな小さな部屋。
壁に無理矢理つけられたような小さな窓の格子には、雪がわずかばかり積もっている。…どうりで寒いはずだ。

目線を目の前へと移せば、そこには男の肌があった。一晩共に居た所為で男のにおいも嗅ぎ分けられない。
顔面一杯に男の肌がある。その白い肌に頬を密着させて眠っているのは、男2二人が眠るには、あまりにもベッドが狭いからだ。
数時間前、
俺の家だと通されたのは、路地裏に建てられた古ぼけたアパートだった。
鉄板の階段をカツカツと音を立ててのぼり、くすんだ緑色のドアの先が、この男の住居らしい。
猫の額ほどの玄関とキッチン、ダイニングテーブルの上には買い溜めされた保存食と酒瓶ばかり。塗装の禿げた壁、破れかけた女のポスターには落書きだらけ。
そうして通されたベッドルームさえ、シングルベッドがぽつりと置かれているだけの、酷く狭い部屋だった。窓がついているだけマシだろうか。
後ろから抱き寄せられ、髪に鼻を埋められ、すんすんとにおいを嗅ぎ、そうして肌を合わせた。黒髪と茶色の髪が合わさって、ベッドにもつれ込んで数時間。何度達してセックスをしただろう。
なんて甘いセックスだ。
オーガズムには達しているのに、それに付随する何もかもが甘い。激しく突き入れている時でさえ、刹那の髪を隙き、キスを落とし、声をかけて絶頂に駆け上がっていく。
まるで子供のままごとのようだった。触れ合って温度を確かめて、お互いの身体の熱を感じながらのセックスなど。

店で声を掛けられた。それだけの関係だった。名前すら知らない。
まぁいいかと身体をあわせた。縺れ合うようにベッドに転がってからは、記憶があいまいだ。なにせ一晩中抱き合っていた。

狭いベッドからむくりと起き上がり、髪を掻きあげた。長くなった前髪がちらちらと目に入ってくる。それが邪魔でセックス中、何度も自分の髪を払った。首筋にかかる長い髪も、もういい加減切らなくてはいけない。邪魔なだけだ。

「…髪、切ってやろうか」
「断る」
狭いベッドの中、身体をひっつけていた男から伸ばされた手は白い。
そっと刹那のうなじにかかる黒髪に触れ、さらさらと指で辿っては楽しそうに梳く。
白い腕、茶色の髪、青碧の目。剃られた髭。
それが、あの砂漠の国の人間ではない事を教える。欧州の男と関係を持ったのは初めてではないが、どうにも違和感ばかりが先立つ。
こうして、抱き合って眠る事も、声を掛けられることも、キスを絡ませる事も、全てが今までのセックスとは違う事を教えている。
…この気持ちをどう形容したらいいのか。刹那には判らない。

なりゆきで、誘われるままにセックスをした。
声を掛けられ、わずかばかりの酒を飲み、抱きたいというから抱かせてやった。
そこに深い意味はない。
手を伸ばされたから答えただけだ。特別、この男に思い入れもない。…ないはず、なのに。どうして。

湧き上がる感情に耐え切れず、刹那は男から目を逸らした。
「照れることねーだろ、今更」
「違う、うるさい」
表情など変わっていないはずだ。なのにどうしてこの男は、出遭ったばかりの刹那の気配を正確に読む。
照れているだと?違う。これは今までと違う違和感に驚いているだけで。

「…初々しいねえ、初めてでもないだろうに」
まだ言うその口を黙らせたくて足を蹴り飛ばした。ひるんだ隙にベッドから抜け出して、投げ散らかした服を1つ取り上げてどろどろになった下肢を拭き、自分の下着を身に着ける。
「おい…お前今、俺の服をタオル代わりにしただろ」
うるさい。お前が悪い。
下着をつけ、ジーンズを履く。ベルトを締めるその手が震えた。カチャカチャと音を立てるそれが嫌で背を向けているのに、おそらく、この男にはその指先の震えさえバレている。あぁ、畜生。

「もう帰るのか」
ベッドで片肘をつき、刹那の背中を眺め、呑気に呟く。
「シャワーぐらい浴びろって。ナカ、ドロドロだぜ?」
うるさい。うるさいうるさい!
こんな狭いベッドで、…あんな、あんなセックスをしておいて。何を言うんだ、この男は。

ようやくベルトを締め終わり、Vネックのセーターを着て上着を探す。
黒い上着、…ちがう、これはこの男のものだ。

「…おい、せめて名前を言っていけよ」
言うものか。お前などに伝える名はない。
本名も、サーシェスがつけてくれた名も、名乗っていい名ではない。

「俺はロックオンストラトス。ほら、俺は言ったぜ。お前も言ってみろって」

ようやく見つけた自分の上着を着込み、ドアへと乱暴に歩いて逃げるように去る刹那の腕を、ロックオンは掴んで止めた。

「いわねぇと、もういっぺん、抱くぞ?」
「…っ…!」
背後から抱き締められながら、耳に吹き込まれる、柔らかな息。
優しげな声、いたわるような手の動き、子供を諭すような囁き声。

ぞくり、と身体の中の官能が震えた。
流される。…このままではこの男に。

「は、離せッ…!」
乱暴に振りほどき、ドアノブを掴んでまわす。
その身体を、今一度抱き締められ、抵抗しようと振り向いた先に、唇が待っていた。
キス。
それは深い、深い。

「…っ…!!!」
駄目だ。
駄目だ!
頭の中の警笛が鳴る。離れろ。離れろ、今すぐに。
この男は危険だ。…こんな男を見たことがない。これほど甘く、これほど柔らかな男を見たことがない。
…なんだこの微笑みは、体温は!
「…っ…!」

それは得も知れぬ恐怖だった。身体中のありたけの力を篭めて、男を引き剥がす。
唇が離れ、身体が離れたその瞬間に、刹那は部屋から飛び出していた。


***


胸が高鳴っている。
ちらちらと粉雪が降る、冬の欧州、石畳の道を駆け抜けるように歩きながら。
胸を押さえた。ドクドクと心臓は高鳴る。
頬が熱い。身体の芯が焼けるように!

あの男、ロックオンストラトスと名乗った男が触れた肌を覚えている。
足を持ち上げる腕、頬にかかる茶色の髪、覗き込む青い眼、指先の動き、耳元で囁く言葉。
あんな。
あんなセックスは知らない。
あれをセックスと呼ぶのか、人は。
どうかなりそうだった。あの男の背中に縋りついていなければ、流されて自分が自分で無くなってしまうのではないかとも思えた。
今まで、ああして男を捕まえてセックスをした事はどれだけでもあったのに。何故、あの男は。
あんな感情を与えられて、あんな胸が焦がれるような思いを、突きつけて!

「知らないッ…」

吐き出した言葉が、車のクラクションに混じって解けて消える。
石畳の道を、ごとごとと車体を揺らしながら、車が通りぬけていく。
胸を押さえていなければ、心臓が飛び出してしまいそうになる。

なんだ、これは。
この胸の鼓動は、セックス中よりも、今の方がより深く早くなってゆく。

理由が判らない、なぜ。
まるで病だ。
こんな鼓動を、こんな熱を、知らない。
知らないんだ、俺は。

まるで逃げ去るように、ビルの谷間を走り抜ける。
その目に焼きつくあの男の影を、どうしたら消すことが出来る?