だいすきだから ずっと なんにも しんぱい いらないわ 緩やかに意識が上昇するめざめ。 瞳を開けた直後に感じたのは、穏やかな風の流れだった。 雨季に入る直前の、乾いた風にほんの少しの湿り気を帯びた流れが、大きな窓とレースのカーテンを揺らして室内に入り込む。 なびく半透明のカーテンを見つめながら、刹那はゆっくりと意識を覚醒させた。 この風の流れを久しく身体は感じていなかった。中東の、砂漠ばかりの国の風。 肌に触れ、熱を身に感じ、そうしてようやくここが祖国なのだと身体が理解する。 アザディスタン、その王宮の一室で。 上質なシーツの上で手を滑らせれば、幾分が骨ばった自分の指がある。 まるで神経ひとつひとつを確かめるように、ゆっくりと僅かに動かしながら、それを指だと認識させ、シーツの上を滑らせて柔らかな布の感触を指へと伝える。 今はこんなにも上質なシーツと、広いベッドを与えられ、部屋の中央で眠っている。 目線を上げれば、広い部屋と飾りたてられた内装が見えた、大きな窓になびくカーテンがそよそよと風を運ぶ。 あの輸送艦の小さな部屋とは比べ物にもならない。 宇宙の海に沈んだのだろうと今なら判る。 1年。…あれから1年の月日が経ち、その時間の殆どをこの王宮のベッドで過ごした。もっとも、意識が戻ったのはつい最近で、それまでは長い昏睡状態が続いていたのだと知らせたのは、他でもないこの王宮の主であるマリナだった。 気がつけば、世界から切り離された生活を送っている自分が居る。 ソレスタルビーイングとして世界の中心の、渦の中でもがいていた自分は喪失して、エクシアさえどうなったのか知れない。宇宙をさ迷い、命が尽きるものだと思っていた自分は地上の小さな国で静かに眠り続けていた事実。 マリナは何も語ろうとはせず、(おそらくは彼女もなにもわからないのだろう)あれから1年以上の月日が経って、知ったのは、自分が生きているという事だけ。 他のマイスターは。…トレミーのクルーは。 何も知らないまま過ごすこの時間は、緩やかな牢獄のようにも感じていた。 動かない身体と、与えられない自由。 シーツの上を滑る手は、やがてぱたりと落ちて、動く事さえ億劫になり、瞳さえ閉じてまた眠りに入る。 冷たいベッドの上。 あたたかな風。 灼熱の大地。 思い出すのは、あの輸送艦のベッドの上で感じた、たった一度の交わり。 もう何度思い出すのか。 こうして、地上の祖国に居ても、目を閉じればありありと思い出す。 脅威が迫っていた。 おそらくはトレースされているだろうこちらの動きと情報。一人、地上に降りる決意をしてみせた刹那の元にやってきた男。 『…最後だ、とっておけ』 伝えられた言葉の後、ゆっくりと降って来たキスを受け止めた。 抱かれるのか。 この腕に。 目を閉じる。あの時の記憶は鮮明に刹那の胸に蘇る。 今はもう、あのぬくもりも肌も何もかもを失ったというのに、思い出しては縋ってみせる。 『お前が何処かへ行かないように。…俺を思い出すように』 伝えられた言葉、背中に回された腕、本能的に逃げようともがく指先に絡んだ、大きな手。 たった1度の交わりだった。これで何かが終わるのだと、プトレマイオスの誰もが判っていた。 抱き合った身体はあまりにもあたたかく心地よく、刹那の乾いた心の一部を深く満たして水を与えた。 (あぁ、だから) だから、こんなにもその偶像を求めるのか。もう失ったものに。 限られた時間の中で、なるべく肌を触れあわせて、そうして過ぎたあの熱のような時間が今はとてつもなく懐かしく思えた。 「 、」 名を、呼ぶ。 けれどその言葉は、音になるまでもなく、砂漠の風に乗って消えた。 代わりに、刹那の耳に届くのは、祖国の音。 どこか遠くから、祭りの音が聞こえる。 太鼓、歓声、拍手と手拍子。 雨季を待ち望む人々の願いの祭りの音は、遠いこの王宮にまで響き渡って刹那の耳にまで届き、そのにぎやかさを伝えていた。 あぁ、祭りだ。 これは雨季を望む、人々の祭りの音。 思い出す、遠い昔の記憶は、まだ父と母が居た頃。 肩車をしてもらって、祭りに連れて行ってもらった。人の波、笑顔、歓喜の渦。そうして降り始めた雨に手を伸ばし、神に祈りを捧げた。 父は楽しげに、小さな身体を持ち上げて、何かを語っていた。 母は隣で微笑んでいた。 …思い出した。父と母がいたあの頃を。 微笑んでいる。父も母も。…今まで思い出すのは、眉間と胸を撃ち抜かれた瞬間の表情ばかりだった。殺したあの姿が鮮明に目に焼きついて、それ以前の記憶など何一つ思い出す事さえ出来なかったのに。 穏やかに微笑む父と母の姿を鮮明に思い出す事が出来たのは、今こうして故郷の地で安らかな眠りについているからか。 目を開け、上半身を起し、腕を伸ばして自分の拳を見つめる。 あの日、拳銃を握りしめた手には、もう冷たい金属の感触はない。 傷1つない腕と手、肩も自由に動く。 ゆっくりとベッドから足を下ろし、広い室内を歩いて、扉へと手をかけた。 部屋の奥で開いたままの窓の向こうからは、祭りの喧騒が流れ続けていた。 |