かなしいことは きっと この先にもいっぱいあるわ


「あら、刹那。おはよう」
「……おはよう」

微笑む皇女の笑顔の手に、コーヒーカップがある事で、今が朝なのだと知る。
見れば、食卓の上には朝食が一人分、用意されていた。
パン、ヨーグルト、果物、コーヒー。
たったそれだけの飾り気もない朝食は、まるで国の皇族とは思えぬ質素さだ。
国民の皆と同じ目線で居たいからと願う皇女の思いの現われなのだと知ってはいるが、そんな皇女の行動を、国民は知るはずもない。

「刹那、食事は取れそうかしら」
「あぁ、」
「では、刹那の分の朝食も用意してくださるかしら」

マリナの背後で控えていた給仕に告げ、刹那が席についた途端に、すばやく用意された朝食はマリナと同じものだった。

「今日は、体調が良いようね」
言われて、じっと刹那の顔を見つめるマリナは微笑みをもらす。
パンを口に含みながら、刹那はマリナから視線をそらした。その青い眼はどこまでも見据えられそうで怖い。…いまだに少し慣れない。

傷ついた刹那を匿い、部屋を与えて、傷を治し。
外界とは隔離された環境で、ゆっくりと傷を治してと告げたマリナの笑顔はまさに聖母のように見えた。
握りしめられた手は、あたたかく、包み込むような優しさに溢れていた。
あの男とは違う、なんて柔らかな手。
静かに目を閉じた刹那にねぎらいのキスを額に落とし、マリナは刹那を匿い続けた。
1年。…そう、1年もの間。


「…服も新調しないといけないわ、刹那」

コーヒーに口をつけ、ゆっくりとカップをおろしながらマリナが言う。

「何故」
「何故って。…見て、刹那」

刹那の袖の部分をつい、と取るマリナの細い手。見とれながらも指し示されたのは、刹那の手首のあたりだ。
用意された普段着は、刹那が起きられるようになった頃、与えられたもの。

「みて。ほら、もうこんなに裾が合わなくなってる。…成長しているからなのね、1サイズ大きなものを買わなくちゃいけないわ。もう去年のものは着れないかしら」

そんなもの。別に必要もないのに。
昔から、大人と同じものを分け与えられていた。防弾のジャケットさえも、大人用のものだった。弾丸を入れるベルトさえ大人のもので、腰に巻けずに肩に担いだ記憶がある。
ソレスタルビーイングで与えられたものも、パイロットスーツと日常着ぐらいいだった。
この王宮に来てからは、ベッドの中と、歩ける範囲で行動するばかりで服になど頓着はない。

「もう、2年だもの、貴方と出遭ってから」
刹那も18歳ね、と楽しそうに微笑むマリナは、最近、日に日に成長を始めた刹那が嬉しいらしく、会う度に表情を変えては、また身長が伸びた、声色が変わったなどと、笑顔と共に伝えてくる。
鏡など、顔を洗う時にしか見ない刹那にとっては、何が変わったのか自分でもよく判らないが、背が伸びている事と手の形が変わった程度しか、自分で認められる変化はない。

「…ねえ、刹那、今から時間は空いてる?」

空いているも何も。今こうして王宮で過ごす刹那にとって、時間など、どれだけでも与えられた無限の事のように感じていた。
ソレスタルビーイングの所属ではなく、ただひたすらに時の流れを感じながら過ごす日々。

「王宮の温室にね、春の花が咲いているの。綺麗な色よ、ねぇ刹那、見に行きましょう」

伝えるマリナの言葉に、刹那はゆるく頷いた。
さし伸ばされた手を取り、マリナと共に歩く。
握られたその手を見つめながら、やはり、あの男とは違うなと、刹那は自嘲めいて笑った。


***


ぱちん、ぱちん、と。
小さな鋏が入る音がし、その度に、色とりどりの花が茎から外されてマリナの膝の上へと回収されていく様を、刹那はじっと見ていた。
流れる黒髪、美しい横顔。
そんな彼女の元に摘み取られていく花は、献花にするのだとマリナは言った。

「たくさんの人が死んだわ。これからも死ぬわ。内戦は収まったわけではないもの。…私に出来る事はなんでもするけれど、亡くなってしまった人のために出来るのは、花を手向ける事ぐらいなの」

1年前。…無くなった男に、手紙を書いた少女が居た。
何が書かれていたのかは知らない。
あの時、自分はこの皇女に伝えたい事は全て伝え、そして宇宙に散った。
酸素が残り少なくなり、失血のために呼吸さえも困難になる中で、ゆっくりと目を閉じた。…あぁ、死ぬのだと。

そうして思ったのは、共に散れる喜びではなく、謝罪だった。
いきると。…いきると言ったのに、俺は。

「はい、刹那も」
「…え?」
思い出していた、刹那の脳裏に広がっていた男の顔と宇宙の景色は、鮮やかな花に囲まれた温室の風景へと替わる。

「これで、花を摘み取って頂戴」
渡されたのは、小さな鋏。
目の前に差し出された、花を摘み取る鋏で、故人に手向ける花を切れとマリナは言う。

「刹那、貴方の大事な人にもあげましょうね、花を」

見渡せば、温室に咲く花は色とりどりで豊富に咲き乱れている。
人工に作られた花々は、美しいばかりの花。

「…喜ぶだろうか…」
花を贈れば、故人は。
鋏を受け取られぬまま、刹那は温室を見渡し、目を細めた。

花が、好きだったろうか。あいつは。
どんな色が好きだった?
何が好きだった?

何も知らない。何も。

アイルランドではどんな花が育つ?
今、一番欲しいものはなんだ。
宇宙は酷く寒くて、酷く静かだから、出来るのならば、あいつをあたためてやれるものを。

「花は…嬉しいだろうか…」

まるで独り言のようにつぶやく刹那に、マリナは少し躊躇し、ゆっくりと答えた。

「喜ぶと、思うわ」
「…そうか」

目を閉じれば、色彩豊かな花は、瞼の裏にくすんで、暗闇の中に解けて消えた。

花を、捧げよう。
散った命に、
まだ生きている自分に。

目を開いた刹那は、ゆっくりと微笑む。
笑い方はマリナが教えてくれた。
食事の仕方、話し方、人と触れ合う方法さえも。

「…クルジスの…」
「え?」
「俺が生まれた街から、少し離れた場所に、花畑があった」
「刹那」
「綺麗な、小さな、白い花が一面に広がっていた。…今も、あるかは判らない」
「そう…」

間違っても、こんな温室の花のような鮮やかな色ではない。砂漠の乾いた大地に咲く、小さな小さな花だ。
この数年間の内戦と戦いの中で、あの花が咲き続けるようなことは、おそらくないだろうと思っている。
…けれど、あの小さな白い花畑が、もしも今もあるとしたのなら。

「…外出許可をもらえるだろうか」

伝えた刹那の言葉に、マリナはもちろんよと頷いた。