「お前が、彼の…」

その目に、殺意と憎悪が深く色づいた瞬間だった。
自分よりも一回りも大きな男から振り下ろされるこぶし。
「…っ…!!」
右手に持った拳銃ともども、左から叩きつけられるようにして頭を殴られ、刹那は一瞬意識を飛ばされた。
強烈な痛みがそのまま意識を失う事は許さず、すぐに目が開くが、まぶたも強打したらしく目が開かない。もしかしたらどこか皮膚が切れたのだろうか。左目がいやに曇っている。見れば視界が赤黒い事に気づいて、あぁ血液なんだこれはと、どこか冷静な頭の片隅で思った。

目の前に突きつけられたのは紛れも無く拳銃だった。
目と鼻の先。どれだけ射撃が下手でも外す事は無い。…それどころか、この男は、射撃の腕は世界でもトップクラスだ。
それは、身を持って知っている。
ガンダムでも、生身でも。狙いを定めた的を外したところを見たことがない。
どれだけ軽口を叩いていても、冗談を言った直後でも、やすやすと的の真ん中を射抜いてみせるのだ。刹那は知っている。見ていた。この男の行動を。

殴られた頭がガンガンと強い鋭痛を訴えてくる。
横殴りにされた衝撃で、身体が床へ叩きつけられて身体中が痛みを訴える。
たかが殴られたぐらいで吹き飛ばされるなど。
いつもの刹那ならばありえない事だ。いくら身軽だとは言え、そこまで踏ん張れないほど、足腰が弱いわけではない。
屈辱だ。
刹那の手首を拘束している荒縄が、ぎり、と鳴った。
「…っ…」
口の中に入った砂を噛み締めた。苦い味。

ここはどこだ。
倉庫らしき場所だという事は判るが、殆ど明かりがない。外に繋がる窓さえも見えず、倉庫の入り口さえもわからない。
壁にかけられた旧式のランプだけが光源だが、刹那にとっては逆光で、殴った相手の姿さえも良く判らない始末だ。これでは顔も見られない。

(顔…)

もう一度、やつの顔を見なくては。
砂の味を噛み締めながら、縛られた不自由な手足でなんとか顔を上げる。ぽたりと、割れた額から流れ顎へ辿った血がコンクリートの床に落ちた。
動けば、手首を戒める粗い縄がぎりぎりと痛みを与える。たかが痛みに構ってなど居られない。刹那は顔を上げた。
見えたのは相手の黒いスーツとネクタイ、白いシャツだけ。逆光だ。顔が見えない。
(…くそっ…)
確かめなくてはいけないのに。
こんな事を、この男にされる謂れは無い。
その真意を聞かなければいけない。…もしも奴がソレスタルビーイングを裏切ったというのならば、この手で始末する。…裏切り者など生かしておくわけにはいかない。俺はガンダムマイスターだ。
言い聞かす。そうだ、それが正しい。…胸に刻み込んだはずの言葉をもう一度言い聞かせた。

逆光の中、見つめた顔が、ふいに歪んだ。
それが、相手が笑っているからだと気づく。
「……お前は本当に…」
くくくと背中を丸めて笑う男を、刹那は睨み続けていた。
笑われる謂れは無い。お前に。

「…顔が見たいのか?俺の」
笑ったままの顔で、男はゆっくりと腰を落とした。
床にへばりつく刹那の目線にあわせるように、ゆっくりと。
「ほら、見るといいさ」
「…ぐっ…」
髪を鷲掴みにされ、背筋を撓らせて顔を上げられる。髪がぷちぷちと数本散った。割れた額に強烈な痛みが走った。
顔が、すぐ近くにある。
逆光が反射して、男の顔を背後から照らし出していた明かりが消え、暗闇の中に浮かび上がった顔。

見間違いなどでは無かった。
あぁ、やはりお前なのか。
「……ロックオンストラトス…」
その顔を見、やはりロックオンだと確信する。間違いない、同じ顔だ。

拳銃を持ち、スーツを着て、刹那を見下し笑う。
そんなロックオンストラトスは知らない。なぜここにこの男が居るのか。何故自分が拘束されるのか。
こんな事がミッションだとも思わない。
けれど、現実に今ここにいるのはロックオンだ。顔も髪も声も身体も、何もかも、刹那が知っている男の。

------ならばなぜ。

今まで、ソレスタルビーイングのガンダムマイスターという責務を負って、共に行動していた。その彼に裏切りの疑惑など塵1つ無かった。
当たり前だ。ソレスタルビーイングというトップシークレットの集まりが、そう簡単に崩れるわけが無い。
「……貴様…!」
湧き上がってきたのは、怒りだった。
裏切りだ。
これは間違いなく裏切りだ。
目の前が真っ赤に染まり、今までのロックオンの行動がフラッシュバックする。
微笑む顔、話しかけてくる気安さ、ハロを人にぶつけて笑っていた。咎めて殴り飛ばすこともある腕、性欲処理だとセックスもした。…知っていると思っていた。
ロックオンストラトス、お前の事を。
ガンダムマイスターとしての行動も、…セックスをしてきたあの行為も全て、嘘だったのか。

刹那の中に駆け巡るのは、今までにない深い怒りだ。
今まで騙されていたのかという確信に近い疑惑が刹那の中で生まれ、それはすぐに燃え滾った怒りになった。
間違いだと否定したかったのは、顔を見るまでで、今こうしてロックオンストラトスの顔を見つめ確認してしまえば、裏切りは疑惑では無くなる。
ならば、何故。
今になって、自分を拘束するような事をする。何時だって殺せたじゃないか。ソレスタルビーイングを裏切るというのならば、こんな事をしなくても、中から瓦解することは幾らでも出来たはずだ。なのにどうして。
…どうして。

目の前を真っ赤に染めた怒りは、頭の中にまで浸透し、刹那から冷静な判断を奪っていた。
腕に力を込めて、荒縄で縛られた腕をギリギリと動かす。手首に伝わるのは痛みだけだが、この拘束を解かなければ何も出来ない事を判っていた。自分の拳銃は、目の前のロックオンストラトスに取られてしまっている。
引き金はひかれていないが、いつでも撃てる状態だと言うのは判っている。自分が使っている拳銃だ。
身体を動かしてなんとか拘束を逃れようとするものの、手首を縛る縄は、びくともしなかった。痛みだけを与えて、皮膚に食い込み血を流すだけ。
相手もガンダムマイスター。拘束術も心得ている。

「…”ロックオン”か」
ゆらりと立ち上がった男が、嬉しそうに、その名前を呼んだ。まるで初めて呼ぶ名のように。
「ロックオンストラトス。それが今の”彼”の名前なのか」
「…っ!?」

ロックオンの顔をしていたはずの男が、に、と笑う。
ロックオン。…ロックオンか。
何度も名前を繰り返し呼び、ようやく知る事が出来た…と無邪気に口端を綻ばせる。

(何を言ってるんだ…)
お前の名だろう。ロックオンストラトス。何故そんな顔をする。名を忘れたのか?……いや。
いや、違う。
違うんだ。
まるで人が違うかのような行動。この拘束。目の前の男の嘲笑。ロックオンという名。

---まさか。

「…き、さま…」
上半身を持ち上げて、床の上から立ち上がる。足が震えていた。…何故かは判らなかった。
立ち上がり、目の前の男を睨んでも、その身長差も立ち居振る舞いも、声も顔も、やはりロックオンストラトス以外の何者にも見えない。…けれど、それでも。
刹那の心の内を読み取ったかのように、男は、ふふ、と笑った。
そんな笑い方を、刹那は知らない。

「貴様?…違うだろう。ロックオンストラトス。お前は俺の事をそう思っていたんじゃないのか?」
「…っ…!」

ゆらりと立ち上がった刹那の顎の下に拳銃の銃身をひたりとつけて、顎を上げた。のぞこんだ男と目線が絡む。…その目の色の僅かな違い。
---------違う。
この男はロックオンではない。
ロックオンストラトスでは。
思い至った考えに、刹那は背中が冷えてゆくのを感じた。同じ顔をした男。…ロックオンストラトスだと思い込んでいた自分。
違う。この男は敵なのだ。それもソレスタルビーイングに深く関わるような。
「……くそっ…」
「おっと」
ぶつかってでも、隙を作ろうと身構えた刹那よりも一足早く、ロックオンの顔をした男が拳銃を刹那のこめかみにあわせられた。
動きが早い。それはまるでロックオンストラトス、その人のようだった。
「……っ!!」
「暴れない方がいい。俺だって拳銃の撃ち方くらい知っている」
額の真ん中に、合わされた照準。あまりに近い。
安全装置が外され、引き金に手をかける僅かな音が聞こえた。

背筋に伝った汗が、ひやりと刹那の体温を下げていく。動けない。動けばこの拳銃は間違いなく自分の頭を撃ちぬくだろう。
(……やられた…ッ…)
拘束され、どこかも判らない場所で縛り上げられ、仲間のコードネームをやすやすと言ってしまった。
マイスターの守秘義務を破り、しかも相手に拘束されている。
何者かも判らない、ロックオンストラトスと瓜二つの顔をしたこの男に。

ぐり、と額を抉るように拳銃がつきつけられる。
流れ出ていた血液が、銃口を赤く染めた。

「さあ、教えてくれ。君が知ってるロックオンと言う男の事を。お前は知っているだろう」
知っている。
…知っているに決まっている。そしてこの男はそれを知っていて、刹那を拘束したのだ。
身の油断を嘆いても始まらなかった。こんなやすやすと簡単に--------。
相手の隙をついて、どこまで出来るだろうか。こめかみを撃たれる前に、手足も撃ち抜かれず、この場から逃げ出す事は出来るのか。
そして情報を知られてしまったこの男を殺す方法は。

「逃げる事ばかり考えているだろう、お前は」
額を伝う、血液と汗。
酷く暑いのに、唇だけが乾いていた。
呼吸が上がる。頭が逃げ出す事を必死で考えていた。
今はそうしなければならない。…逃げて、そして殺すんだ。この男を。

刹那の緊迫を汲み取ったかのように、男は鼻で笑った。
拳銃をつきつけ、命を手玉にとった男は、いとも楽しげに笑う。

「…なあ。俺は知っている。お前を」
「……な、…」
驚き、目を見開く刹那を、笑った。
知られていないと思っていたのだろうか。あぁ、とんだ茶番だ。
…見ていた。見ていたさ。だから知っている。
偶然に見かけたその時、お前は、彼のすぐ傍にいたじゃないか。
見下ろされ、微笑まれ、その目線を一心に受けていた。
その中に、愛情を見つけるのは簡単だった。
見ていれば判る。判るさ。誰よりも、ロックオンストラトスと名乗る男の事を知っている。
数年ぶりに見つけた対になる男の傍らには、お前が居た。そう、お前が。

「教えてくれよ。ロックオンストラトスに愛されている、お前の事をな」
「…なっに、を…」
唇を震わせ、驚きに戦慄く刹那の一瞬の隙に、男の腕が刹那の首筋を掴まえた。
床に殴りつけるように、張り倒す。割れた額をコンクリートに打ち付けた。
「ぐあっ…!」
痛みと衝撃で、うつぶせに床に這いつくばった刹那の下に、血がぽたぽたと飛んだ。頭が酷く痛む。
危険だ。
この男は、危険だ。
本能が知らせる。
このままでは。

「…っ…ぁ…!」
立ち上がろうとした途端、刹那の上に、ずしりと乗りあがった身体。
「抵抗は止した方がいい。もう手遅れだ」
刹那の背中に拳銃を突きつけ、銃口でぐり、と脊髄を押す。脅しではないと金属の冷たさが刹那の身体に教え込む。
「ほら、ロックオンストラトスに愛されているお前が」
ぬるりとした舌が刹那の首裏をねろりと嘗めた。
「…っう…!」
全身に走ったのは悪寒だ。ひくりと震えた刹那の身体に、男が笑った吐息が耳に届く。
その瞬間、拳銃の発砲音が、天井の高い倉庫に響いた。
「……っ……ぁ…!」
撃たれた。左腕を。
肩の近辺にとてつもない痛みが走り、そしてじわじわと湿っていくコンクリートの床が視界に入る。
「大丈夫だ、少し血が出ただけだ死にはしない。まだ殺さない」
流れ出る血液の上に、顔を押し付けられ、刹那の頬が血に染まる。
狂っている----。
痛みと、のし上げられる苦しさと、ぐちゃぐちゃになった頭の中で、刹那は思う。

何を言っているんだ。こいつは。
ロックオンではない?そしてお前は、ロックオンを探していた?
…ならば、何故本人を拘束しないんだ。
何故わざわざ俺を。

「…まだ。こんな事で簡単に殺すものか。お前は…俺が」
こいつは何を考えているんだ。
何を勘違いしている。
ロックオンに愛されている?
何を馬鹿な。
誰が。
ロックオンが、自分を?---------------まさか。
そんなわけがない。ありえない。

(あるわけ、ないだろう…)
床に押し付けられた顔と身体が、流れ出た刹那の血液の冷たさを吸う。
そして皮膚に伝う血を舐める男の舌は、人間のものとは思えぬほど、冷たかった。
冷たい冷たい舌。
触れた髪も、伝わる言葉も、背筋が凍るほど、冷たい。

愛されているなどと。何を世迷言を。

この男がしきりに言う、愛などという言葉を信じた事は無い。
”神”と同義語だ。
ありもしないものを信じて、縋るだけの言葉。実体もなく感傷さえも感じない。

ロックオンストラトスの目は、何時だって世界への憎しみに溢れてる。笑いながら話かけられるけれど、その言葉に何かを感じたことはない。
それでも、気がつけば傍に居た。触れられる位置に居た。
セックスをし、人間のあたたかみを教える役の男。胸に僅かな温度を分け与えてくれる男だ。…刹那にとってはそういう男だった。
他に何があるというんだろう。

冷たい冷たい手が刹那の汚れた頬を拭った。
指先にへばりついた黒ずんだ血を見つめ、笑うと、刹那の耳へと唇を近づけ、耳の中へ言葉を吹き込むように、囁く。

「名前を呼びたければ呼べばいいさ。ロックオン、と」
その吐息さえも冷たくて、刹那は息を呑む。
「ほら、教えてご覧。彼は、どうやって君を抱いていた?」
笑いを含んで言われた言葉と、服をビリビリと破られていく音を聞きながら、これからされるであろう屈辱に、刹那は唇を噛み締めた。