しあわせだった? ねえ、生きてきて、しあわせになれた? いいえ。しあわせになんてなれないの。 誰もしあわせになんてなれないの。 だからこそ、なにかを求めて生きているのよ、ソラン。 囁いたあの声は、今はもう無い、過去の声。 あぁ、あんなにもあたたかかったのに。 あんなにも、満たされていたのに。 何故、殺してしまったんだろう。 何故、なくしてしまったんだろう。 そうして、何もかもなくなったはずの暗い地に、もう一度光を与えてくれたのは、温度をくれたのはあの男だったのに。 それさえもなくしてしまった。 きがつけばひとり。 残されたものも、ただひとつ。 残ったただひとつのいのちだけ抱えていきていたって、それはこんなにも辛く悲しいことだった。 *** 目を閉じた暗闇の中に、うっすらと光が見えたような気がした。 あぁ、あの光は。 手を伸ばそうとして、それが出来ず、目を閉じている所為で何も見る事が出来ず。 光の正体を知りたくて目を開く。 「…っ、…あ…!」 途端、身体中に走った痛みに息がつまり、けれどその目に映ったものが、瓦礫の山だったことに気付いた。 地下にいたはずの自分は、今、瓦礫が散乱する中で、倒れ伏せている。 崩れ落ちたコンクリートと、モニタとコードが焼け爛れて瓦礫の中に混じって火花を出している。 どうして。 何が起こったのか判らず、靄がかかった思考で考える。 あぁ、あの男が居て、少年があっという間に殺されて、怒りに狂って手榴弾を投げつけた。閃光が走り衝撃が身体を襲い、そうして意識を失った事を覚えているのに、その先の記憶がない。気がつけばこの廃墟となった地下に埋もれている。 …生きているのか。 何故。何故生きてる? あの手榴弾の威力は決して小さいものではなかったはずだ。 「…っ…」 気がつけば身体は未だに動く事を知り、そうして起こした身体の上に覆いかぶさっていたのは、ひしゃげたドアと、焼き尽されたコンピュータのかけら。 あの瞬間、確かに自分はあの部屋に居たのに。 痛む頭を押さえながら、刹那はあの瞬間を思い出す。 …そうだ、あの男だ。 あの男が身体を引っ張ってドアの向こうへと連れ出し、伏せた途端に爆破が起きた。 助けたのか。 …なぜ。 見渡しても男の姿はない。この場所から逃げたのか。 死んでいるとは思えなかった。 自分が助かっているのなら、あの男とて無事だろう。 拠点を失ったとなれば、逃げるしかない。これだけの爆破規模だ。おそらくはユニオンも気付くだろう。軍が派遣される頃には、あの男はこのアラスカから逃げ切っている。 「…殺し、そこねた…」 おの男を、殺さなくてはいけなかったのに。 ソレスタルビーイングの事を知り、そうして全てを奪っていったあの男を。 憎い。あの顔が、あの姿が。 少年を集め、かどわかして、あんなに崇拝されておきながらあっけなく殺した。あんな事が出来る男を生かしておくなど出来ない。 あの男は全てを奪っていくんだ。 何もかもを奪って、そうしてまたどこかで不幸が生まれる。 「殺さなければ…、」 そうだ。殺さなければいけない。あの男は。 なんとしても、この手で。 けれど、そうして見つめた右手は血に塗れて動く事さえもままならない。指先がかろうじて動くぐらいだ。腕を撃ち抜かれている。 以前の左腕のように、皮一枚を撃ち抜かれたわけではない。完全に腕の筋肉を狙って撃たれた今、右腕は動かす事も出来ず、身体とて吹き飛ばされた所為であちこちが軋む。 殺さなければ、ならないのに。 身体を持ち上げ、ふと見つめた左腕、服が吹き飛んであらわになった腕に、ひしゃげた腕時計が見えた。 …ああ、殺せるじゃないか。まだ。 左手に嵌められた腕時計を、血に濡れた右腕で、なんとか外し、アナログ針のつけられた時計の蓋を開いた。そこには並んだ2つのスイッチ。 1つは、テロリストの居場所を教えるものだが、もう1つは違う発信意味がある。 自分が、拠点から脱出したことを教えるものだ。 テロリストの居場所を教え、拠点を離れたら、それを知らせる。その直後、デュナメスからの狙撃が始まる。 たったそれだけの発信機がつけられたシンプルなものは、テロリストの拠点にもぐりこんだ際に、取調べを受けても怪しまれないものに制限されていた。武器類も通信機器さえも持ち込めない刹那に許された、ただ1つの発信機だ。 つけられた2つのスイッチを、刹那は躊躇いなく、同時に押した。 小さな電子音が時計から鳴り響き、そうして時計は沈黙し、時を刻む事もなくなった。用をなさなくなった時計を、感覚のない指先で、瓦礫の山に放った。ガツン、と落ちた音と共に、刹那はゆっくりと目を伏せる。 これで、全てが終わる。 砕けたコンクリートに背を預け、天を仰ぎ見る。 雪と氷ばかりの視界ゼロだったはずの街の上空に、一点の雲の切れ間。 そこから溢れ落ちる太陽の光の、なんて儚いことか。 あの、灼熱の砂漠の国とは違う。太陽の光が疎ましかった。水分を蒸発させていくあの光を憎む事さえあったのに、太陽の光を与えられないこんな極寒の地も世の中にはあったのだと身を持って知る事が出来たのは、生きているからこそだ。 この痛みも、苦しさも、生きていたから与えられている。 ああでも、もうすぐ。 「…おわ、る…」 間もなくこの場所は、デュナメスによって殲滅される。 テロリストの場所を教えた。この場所が拠点だと、ロックオンの元に届いたはずだ。同時に刹那はこの場所から逃げだしたことになっている。脱出を知らせるスイッチも押したからだ。 あのテロリストのリーダーである男を、この場所から逃がす前に、撃ち抜け。ロックオンストラトス。 自分が脱出している暇はない。その間に、あの男は、さらに遠くへと逃げてしまうだろう。 だから、今ならば。 今ならばあの男を殺す事が出来る。 まだ遠くへと逃げていないだろう今、ここを撃て。 何も知らないまま、撃ち抜いて、そうしてあの男と自分を殺して、任務を終えればいい。 身体中の力を抜いて、瓦礫だらけの地に仰向けに横たわれば、破壊された天井の隙間から外気の光が見えた。 霧が晴れたのか。僅かに差し込む光が、ちらちらと地下の元へと届く。…なんて美しい。 これでようやく終わる。…終わるんだ。もう何も失う事もない。何もない世界へゆける。 殺した親の元へ。 殺した数多の人々の元へ。 差し込む光の中、ゆっくりと目を閉じた。 間もなく、デュナメスの遠距離砲撃が始まる。あの正確な射撃で、この身体は一瞬で焼き尽される。 あぁ。死ぬその瞬間はあたたかいだろうか。 焼かれるその瞬間だけは、身体中が凍りつくようなこのアラスカの大地で、冷え切った冷たい身体はあの男が放つ光によってきっと、熱を感じるんだ。 「…わるく、ない…」 悪くはない。そうして死ぬのなら。 ソレスタルビーイングとして何も出来ず、何も手に入れることが出来なくても、それでも、そんな最後が待っているのなら、この命はきっと無駄ではなかった。 ゆっくりと目を閉じ、冷たい冷たい空気を胸に吸い込む。 その、死の瞬間を待った。 身体中が冷え切っていく、その感覚を受け止め、遠くから響く音を聞く。 それはやがて近づいて、辺りからの破壊音が響き、そうして目を開いた刹那は、いつまでも訪れない自分の死に驚いた。 確かに、デュナメスの砲撃は始まっているのに、何故。 上半身を起し、僅かに空の見える隙間を見つめる。 砲撃音は続き、辺りが破壊されている音は確かに聞こえるのに、発信したはずのこの場所に、一発も撃ち込まれない。 「ここだと…知らせたのに…、」 あの男が射撃を外すなど、ありえない。発信機が壊れていたのか?いや、ならば狙撃が始まるのはおかしい。…なぜ。 銃声は響き渡り、何かが破壊される音が響き、やがて静かになった。 まだ、生きている。 「…な、ぜ…、」 何故。 光を見つめる。あの外では何が起きているんだ。 瓦礫の隙間を見つめ、ただ、光を受け止めていた刹那の元に、何かがひらりと舞い降りた。雪だろうか。目を細めて見つめるその先、光の中に浮かび上がる影。 ガラリ、と瓦礫が退けられる音を聞いた。 僅かな隙間から洩れていた光は、瓦礫がどかされた事によって、徐々に外と繋がってゆく。 その瞬間を、目を見開いて見つめていた。 あぁ。神が舞い降りたあの日のように。 「…刹那」 声は、あの男と同じ声で。 けれど、その名前を知っている。あの男が呼べない名を。 瓦礫が押し退けられ、靄の晴れた空と太陽が見えた。その光に映し出される男の影。 あぁ。何故、おまえは、光の中から現れてそうして俺を見下ろす。 「…っ、…」 息が詰まった。呼吸さえ出来ない。ただその姿を見つめるばかり。 「刹那、お前は本当に馬鹿だ」 何を。…なんて事をいうんだ。神のように舞い降りておきながら、馬鹿などと、見下して。 震える喉が、光に向かって動く。 「……なぜ、撃たなかった」 ここを正確に狙撃していたら、あの男も殺せたかもしれないのに、デュナメスは狙わなかった。敵の居場所を知っていたにも関わらず。 「だから、馬鹿だっていうんだ、刹那」 光の中から見下ろしたまま、ロックオンは刹那を見つめた。その表情が逆光で見えない。 笑っているのか、怒っているのか。 声だけが、降り注いでいる。 「お前はテロリストの拠点を知らせるスイッチと、脱出した事を教えるスイッチを同時に押した。…それじゃあ、お前が敵と同じ場所に居るって事になる」 ああ、なんてことだ。 目を閉じた。それでも瞼の裏に、くっきりと男の影が浮かぶ。 「…死を覚悟したな、刹那」 光の中からあわられて、有無を言わさぬ強い力で敵をなぎ払っていく。 また助けられている。また。 目を開けば、ロックオンの顔がはっきりと見て取れた。 なんて顔をしているだ。…なんて、表情を。 「…ロックオ、…」 全てを失うはずだったのに。 何もかもが無くなるあの無の世界を覚悟していたのに。…どうして、こうも直前で、いつもいつも。 「刹那、こい」 「……っ…」 手を、伸ばされる。空から。差し出された手、それに縋る事を許されている。 欲しいのなら来いと。お前がこの手を掴めと。…そうして伸ばされた手をどうして拒む事が出来るんだ! かみさま、もし居るのなら。 …なんて残酷で、なんて優しい。 ふらつく足が、前に進んだ。天がさす、ひかりのほうへ。 飛び込めば、なんてあたたかい。 「刹那」 触れた途端、大きな胸が刹那を抱きとめ、その腕が背中に回された。 離さないと、強い力で引き寄せる。…この胸が望んでいる。お前が欲しいと。…この胸が。 「刹那、刹那…、」 呼ばれる名が、あの男では無い事を教える。同じ声、同じ姿、同じ顔、それでもこんなにも、あたたかい身体。 ああ。この腕はいつだってここにあったのに。 無くしてなどいなかった。はじめから何ひとつ失ってはいなかったんだ。 ただ触れ合っていなかっただけで、確かにここにあったのに。 「刹那、あたたかいな、刹那…生きてる…」 あぁ生きてる。俺は生きてる。 |