真っ白な天井が、ゆったりと目線上に浮かび上がった。
みたことのある天井だ。ここは何処だったろうか。
耳を澄ませば、ピ、ピ、ピ、と小さな電子音が聞こえた。規則正しい音を聞きながら、無音の空間に身体を預けて息を吐き出す。
自分がベッドにいると言う事は判るのに、四肢がまったく動かない。
目を開ける事が出来るだけいいのか。まるで痺れたように両手両足は動かず、寝返りをうつことさえ出来なかった。

白い天井は変わらずそこにある。
視界が、少しずつクリアになっていくのが判った。
あぁ、覚醒する。


刹那はぼんやりとした意識が現実のそれへと変わる中で、もう一度目を閉じた。目を、開ける事が怖いと思った。なぜかは判らない。
何故自分はこんなところにいるのだろう。
何があった?ここは自分の部屋でもない。エクシアのコックピットでも。
何が起こった?思い出そうとして、思い出せない。
記憶の蓋に鍵が掛かっている。
そこは絶対に開けるなと、自分の意思に干渉しない深層心理が言っている。
開けてはならない記憶だと、頑丈な鍵がかけられた場所。
けれど、刹那は知っている。この鍵は簡単に外れるのだ。ほんの少し力を込めれば。記憶を見たいと覗けば簡単に。
封じ込めることなど不可能な、強烈な記憶。
パンドラの箱だ。
開ければ、災いを呼び起こし、身に降りかかると判っているのに、見たいと望んでしまう。
知りたいと望めば儚く壊れてしまう程、記憶の鍵は、脆かった。

記憶の波がゆっくりと過去をつれてやってくる。
何があった。
何故俺はここに眠っている。
何故身体は動かない?

少しずつ脳裏に浮かんでくるのは、倉庫の高い天井だった。茶色の髪、鉛の弾、血のついたシーツ。唾液。

「刹那」
名を呼ぶ声が聞こえ、目をあけた。ああ、ロックオンストラトス。お前か。
「…っ!!」
その姿を目で認識した途端、背筋を悪寒が駆け上がった。
それはとてつもない恐怖だ。見つめた途端、心臓がドクリと高鳴った。全身の血の気が失せていく。まるで血が全て体内から流れ出ていってしまうような感覚。震えた。
「刹那!」

なんだ、この恐怖感は!?
逃げ出そうとして、身体を動かす。けれど、それはカタカタと震えるだけで、腕1本を動かすのがやっとだ。
限界で動かした手は、しかし空を切った。何もつかめずまたシーツに落ちる。
逃げてしまいたい。逃げたい!逃げなくてはいけない!
一刻も早く、この男から。逃げなければ。逃げ―――――。

「刹那!」
一際大きな声で呼ばれ、肩を抱かれて刹那は目を見開いた。
ロックオン。

「…ぁ…」
「大丈夫か、刹那」
間近で覗き込んでくるその顔の向こう、この部屋の扉が見えた。ああ、ここはソレスタルビーイングの。あの倉庫ではない、そうだ、あの倉庫。
「…っ…」
記憶の波が押し寄せる。
笑った口端、冷たい瞳の色、向けられた銃口。

「はっ…あ、…はっ…」
息が。酸素が吸えない。
伸ばされた腕は冷たかった。首に絡み、じわじわと力を加えられて気管を塞がれた。下肢はぐちゃぐちゃと粘着質な音を立てていて、血の匂いがあたりに充満している。首の圧迫はなおも酷くなり、それゆえに身体中が硬直した。男は笑っていた。笑えば震える腕に、余計に圧迫感が増す。苦しい。生理的な涙が溜まった目が何も写さなくなって、心臓がドクドクと音を刻む音だけが、耳に響いてくる。嫌なぐらい、大きな音。
刻む鼓動が止まる。止まってしまう。このままでは。

-------お前が居なくなったら、あの男はどうなるんだろうな。

居なくなる。…死ぬ?…死ぬのか。自分は。こんな何も出来ないままで、落とされていきながら。屈辱的な男の浅黒い醜悪を受け入れながら、体内に汚物をぶちまけられて、汚いこんな、
「…あっ…は、…あっ…」
「刹那!」
違う、違う!
もうあの男の腕はない。この声は、あの男ではない。そう、違うはずだ。
だってこの声はロックオンストラトスのものだ。コードネームを呼ぶ名前。
この部屋は、ソレスタルビーイングの施設だ。あの倉庫じゃない。
違う。違う、あの男じゃない。

「…っ、は…」
何故?
何故違うと言い切れる?
同じ顔じゃないか。同じ声。同じ姿。…あの男なのかもしれないじゃないか。この声は。

目を開ければ、瞳を見れば、…冷たい冷たい氷のようなあの目が自分を見ている----------。

「刹那、しっかりしろ、刹那!」
「…っ」
肩を持たれ揺さぶられて、身体に走った痛みに本能的に目が開く。
目の前にあったのは、歪んだ口元ではなく、拳銃でもない。
「…は…ぁ…、」
「大丈夫だ、刹那、おい、大丈夫だからな?」
抱き寄せられた手があたたかい。冷えた汗が背中を流れていく。けれどそれ以上に触れた手はあたたかくて、その声は名を呼んだ。
ああ、そうだ。違うんだ。
あの男は冷たくて。手も身体も、なにもかもが、とてもとても冷たかったんだ。

「ロックオンストラトス…」
「ああ、そうだ。刹那」
幾度と無く名を呼ぶ声。お前は刹那なんだと言い聞かせるように囁かれるその声。抱きしめられた身体。
ロックオンストラトス。
「…あ……」
途端、身体中の力が抜けた。かくりと身体が落ちそうになるのを、ロックオンの腕が支えた。
自分の身体が動かなかったのは、力んでいたせいだったんだ。
刹那はようやく気付く。

息を吐き出し、額に滲む汗が、あてがわれた包帯に染みて色を変えている。
傷口は熱を持ったかのようにズキズキと痛んでいた。外傷を加えられた額と左肩、そして下肢。
殴打は全身に及んでいたから、手当てをすれば刹那は包帯だけけになった。無事な箇所を探すのが困難なほど。
痛みは、慣れる。
けれど、この苦しさは。
胸の奥を焼くような苦しさは、どれだけ頭を振り払ったとて、もう消えない。
「…刹那?」
ロックオンの腕の中で、身動きもせずに落ち着いた呼吸を繰り返す刹那。覗き込めば、何かを言い聞かせるように眉を顰め、耐えている。
「刹那、」
もう一度名を呼ばれ、ロックオンに見つめられながら、刹那は目を開けた。
ゆっくり開けば、そこにうつったのは、強い目の色だった。
「……」
ロックオンの身体から離れるように身体を身じろぎ、ベッドの上に包帯だらけの腕をついて、上半身を起こす。足を地につけようとして、止められた。
「まだ寝てていい」
こんな傷だらけの状態では、無理だ。
いくら刹那が人よりも回復力が優れているとはいえ、こんなにも早く立ち上がるまでに回復するわけがない。
「寝ていろ」
言葉と共に、ロックオンが腕に力を込めれば、刹那の身体は驚く程、ゆらりと傾いだ。やはりだ。回復なんかロクにしちゃいねぇ。

「…どけ」
それでも、刹那はロックオンの制止を振り切る。
「まだ回復しちゃいないんだ」
刹那の強情は今に始まった事ではない。無理を押すのもいつもの事だ。
だからこそ、ロックオンは強い言葉で、刹那をベッドへと戻す。
けれど、その手は刹那によって押しのけられた。
「…どけと言ってる…」
…本当に強情だ。頑として譲らない刹那に、ロックオンも声を荒げた。
「どかねえ。まだお前から説明もされてない。その傷も、無断行動3日間、何をしていたのかも。守秘義務があろうと言ってもらうぞ刹那」

3日。
そう言われて、あの男に3日も拘束されていた事実を知る。あの悪夢のような陵辱は3日続いたというのか。
狭い部屋で、ずっと性的な拷問ばかり受けていた。時間の観念などなかった。
弄られ続けた身体で休息を取る事は出来ず、眠ろうとすれば容赦ない殴打があったし、ぐちゃぐちゃにされた後孔や口の中は、眠る事など不可能な程、荒らされていた。

「刹那。今度こそ答えてもらうぞ。何があったのか。お前は答える義務がある」
それを知らず、ロックオンは言うのだ。刹那はそう理解した。
あんな事を話せというのか。話せるわけがない。あれは、人に言えるようなものではない。特にこのロックオンストラトスには。
少なくとも、あの男は、ロックオンと何らかの関係がある。…同じ顔同じ声ならば、身内と考えるのが妥当だろう。…ロックオンストラトスに、何かの憎しみを持った、男だ。
「話せ、刹那」
「…義務などない…」
「あるんだ!!」
つっぱねた刹那に、ロックオンの今までにない強い口調で詰問する。握られた腕が、ギリ、と音を立てた。鋭い痛みが広がるが、それ以上にこの目の前の男の真摯な…いや、苦しげに訴える目に、刹那の瞳が奪われる。

「義務はあるんだよ…刹那…」
ロックオンは少し躊躇い、刹那の胸に頭を寄せ、吐き出すように言葉を続けた。

「お前は3日間行方不明で、いくら探しても見つからなかった。発見された場所は郊外の路地裏だ。…裸で、ひどい傷痕ばかりだった。身体中、そこかしこに殴られた痕があった。左肩の傷は銃創だな?…お前はそんなズタボロの状態で、…しかも、お前のナカには精液がたんまり入ってた。掻き出してもどろどろ溢れてきやがる」
「………、」
「…俺はお前に何があったのか、聞く義務がある。資格もある。…言え、刹那」

顔を上げ、刹那の腕を揺さぶって、目線を合わせる。言葉は矢のようだった。厳しい言葉の裏に、ロックオンの行き場の無い感情が渦巻いている。
ロックオンが見つめるその目に、刹那は言葉を失った。


****


「ロックオン、」
処置室の扉を閉めたと同時、アレルヤの声が聞こえて、振り返った。そこには心配げに眉を寄せるアレルヤが居て、ロックオンは苦笑で返す。

「刹那はどう?怪我は?だいぶ酷かったみたいだけど…」
「ああ、鎮痛剤は効いてるみたいだ。薬のせいでちょいと錯乱したままだかな」
「…ああ、だから刹那の喚き声が聞こえたんだね、そうか薬のせいで、」

あんな悲鳴みたいな刹那の声、聞いた事が無かったから心配だったんだ、とアレルヤは言う。

知らないのだ彼は。刹那が犯し汚されたことを。
外傷しか見ていないから、体内にどれだけの痛みと汚れを抱え、あの刹那が取り乱すほどの暴辱を受けたことを知らない。
(…いや、知らない方がいいんだ…)
ロックオンはこぶしを握りしめる。
刹那のあんな姿を、誰かに曝すわけにはいかない。まして同じガンダムマイスターに知られるわけには。刹那とてプライドはある。男に犯されたなどと、レッテルもいいところだ。
ソレスタルビーイング専属のドクターにはきつく口止めをした。大丈夫なはずだ。自分が黙ってさえ居れば。

「刹那、なにか言ってた?行方不明だった3日間のこと」
「いや、まだ」
「そう…。なにがあったんだろう。ユニオンや人革連の諜報部に捕まってたとしたなら、簡単に刹那を離すわけがないしね…」
アレルヤがため息まじりに言い、処置室のドアを見る。この先で刹那は鎮静剤によって眠っている。

ロックオンがどれだけ問い質しても、刹那は口を割らなかった。
それどころがロックオンの顔さえみようともしない。目を逸らし、唇を噛み締めて、必死に何かに耐えている。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。…ロックオンは問うておきながら、自分の行動の矛盾さに歯がゆさを感じていた。
無理矢理喋らせたいわけじゃないんだ。けれどどうても知りたい。お前が何故こんなにも酷い目にあったのか。陵辱など、なぜ受けた。そしてあんな無残な格好で打ち捨てられていたのか。

なにがあった?
いくら問い掛けても、答えない。

「何があったんだろうね」
「さぁ…な」
アレルヤの問いかけが、煩わしい。
彼は、優しいのだ。誰よりも優しく、だから心配をし、問いかける。
「刹那をソレスタルビーイングと判っていなかったのかな」
「……何故」
「だって、刹那は生きて帰って来た。あんな酷い状態でも」

アレルヤの言葉は、確かにもっともだった。
ユニオンや人革連、AEUだとするのならば、刹那を拘束する理由など、ソレスタルビーイングであるから、という理由しか思い浮かばず、またテロリストであったとしても同様だ。ソレスタルビーイングに恨みを持つ人間が刹那を拘束し蹂躙したとしたのならば、刹那が生きて戻ってくるはずは無い。冷たい死体になって戻ってくるはずだった。見せしめのように。
(…見せしめ…か?)
ふとロックオンは自分の言葉を反芻する。
殺し、遺体を見せつけようような見せしめではない。…確かに刹那を汚し穢したという事実が欲しかったのか。それも、刹那がロックオンやアレルヤの元へ戻ると判っていて。

刹那は何も語らなかったが、それでも気付いた事がある。
刹那は必死でロックオンから目を逸らしていた。腕が使えたのならば、耳も塞ぎたかったに違いない。
ロックオンが触れると、刹那は一瞬、怯えるのだ。
危害を加えようとしているわけでもないのに、小さく震える。
それは刹那の意思ではないようだった。

本能が怖がっている――――。

ロックオンはそう理解した。
あの刹那が、何かを怖がるなど、あるはずのないことだ。
ガンダムマイスターとして、恐怖心を克服する訓練も繰り返し受ている。武力介入をしているのだ。恐怖などあって邪魔なものでしかない。多少のことでは怯まない。いや、怯む事など出来ないのだ。
なのに。

(よっぽど、性的暴行をうけたのか…)
感情の一番奥深くに押し込めていた恐怖心で埋め尽くされる程の、暴行。
人に触れられることさえ恐怖を感じてしまうほど、それは酷いものだったのか。

(いや…)

ちがう。
たしかに、性的暴行は刹那にとって予期せぬものだろう。堪え難いものだったということも理解出来る。見知らぬ男からの蹂躙を受けたのならばなおのこと。しかし、刹那はあきらかにロックオンに怯えていたのだ。目があった途端に震えた唇がなによりの証拠だ。

(もしかしたら…)

ロックオンは唇をかむ。もしかしたら、刹那は。
「ロックオン?」
アレルヤの声を遠く感じる。

「ロックオン、刹那の様子また見てもらっていいかな。僕じゃ怯えるかもしれない。君なら刹那は――」
「いや。俺だからこそ、いけないかもしれない。アレルヤ」
「…え?」

刹那の怯え方。
探るように見つめてきた目。
声にさえ怯えていた。

あれは、もしかしたら。

思い付いた最悪の事態に、ロックオンは溜まらず、白い壁を拳で殴りつけていた。