緩やかに迫る波を見ていた。
海を。…暮れる夕闇に包まれた海は、水面が真っ赤に染まって血の海のようだ。
見れば、海のあちこちに、身体の一部が浮かんで揺れていた。あぁ、だから海は赤いのか。刹那は納得する。昼の海は死体が浮いてないからだ。夜の海は闇で見えないから。ならば、このままずっと待っていたら、夜の海となって赤は黒になるのだろうか。
ならば、待とう。
この海は、血に溢れているけれど、穏やかで。
波の音は、刹那の耳に酷く優しく響いている。

立ち尽くす。水辺。
けれど、海は赤いまま。
やがて波は迫って、足元にまで波が届く。
砂は波にさらわれて、けれどこの足は、波にさらわれず、砂に埋ってゆくばかり。
足を埋める砂が枷となり、血の海は押し迫る。
だって、立っていなければならないんだ。
波は、何もかもを浚っていくから、自分だけはここに立っていなくちゃならない。夜の海を待っている。
何も見えなくなるあの黒い海を待っている。波の音だけの世界を。
血に染まる波が迫り、刹那の膝を越え、腰をも越え、そして身体を満たして海に沈む。
赤い赤い血の海は、刹那の視界を真っ赤に染めた。
暗闇は訪れない。
あぁ、けれど。
血は、こんなにもあたたかい。


***


唇に触れた、一瞬の感触を感じていた。
キス。
キスだ、これは。

こんな事をする人間を1人しか知らない。あの男は刹那に何でも与え、色々なものを教え込もうとするから、何も知らない自分にも、色々な知識を手に入れた。
唇に唇を合わせるだけの行為を教えたのも、他でもないロックオンだった。

「刹那、キスの時は目を瞑った方がいい。見つめててもいいけどな」
はじめてのキスの時。
何事かを言って、肩を抱き、その唇が近づいてきて、されるがままに触れ合った。
知っている。
キスというんだこれは。
された事もないし、した事もない。
生きる上で必要な事だと思った事も無いから、言葉を知っているだけの、知らない行為だった。

ロックオンの唇が、乾いた刹那の唇に触れる。
ただ、触れるだけのキス。
乾いた唇を一舐めして、ロックオンの唇は離れた。あまりにも近すぎたロックオンの顔と髪が離れていく。
こんなのに何の意味があるんだと目で問い、あわせた唇にはロックオンの唾液が付着していたから、口を拭った。途端、「こら」と咎める声。

「確かにキス自体に意味はないんだかな。でもな、刹那。キスをすると、唇から体ン中に、色んなモンが流れ込んでくるんだよ。パワーとか気力とかな」

なんだそれは。不気味だろう。
あからさまな不信の目で見つめてくる刹那に、ロックオンは肩を竦めて、わかんねーか、とぼやいた。

あの時のロックオンの言葉を信じるのならば、いま、このくちづけには何の意味があるのだろう。
眠った隙を掠めるようなキス。その唇は確かにあたたかかった。けれど、触れただけのキスは吐息を奪うほどでもなく、ぬくもりを分け与えるものでもない。
セックスを教えたのもロックオンだったから、キスの種類をいくつか知っている。
ならば、このキスはなんだ。…深く口付けたわけでもない。

「さよならだ、刹那」

たったひとこと。
唇が離れた瞬間、そんな言葉だけを残して、唇のあたたかみはあっという間に消えた。

波が。
引いていく。
刹那の身体を埋め尽くしていた、あたたかい波が、海へと帰っていく。
残されたのは、何も無い広い砂浜と、動けなかったこの身体1つ。

------------- ロックオン。
あの言葉は嘘だったな。
キスは何も与えない。奪っていくんだ。
残ったのは冷たい空気と、なにもないぽっかりと開いたこの身だけ。
たった一言で。
たった一瞬で。
こんなにも何もかも奪っていった。

キスに意味など無かったじゃないか。


静かに目を開ければ、そこに映ったのは、白い壁と、医療機器だけ。
小さな電子音と、低く音を立てて動く機械音。
ロックオンがいたはずの空気は、もう浄化されてどこにも残ってはいない。


 さよならだ、刹那。

ロックオンはいない。
さよならと言ったから、おそらくもう、ここには来ないだろう。
あのさよならが、物理的な別れではないことは判っている。
…判っているんだ。
さよならは、心の決別なのだと。
きっともうあの男が、
体温を、あたたかみを、刹那に分け与えることはない。


 ああ。失ったのか。

刹那は漠然と思う。
失った…?
なにを?
何を失った?
ロックオンストラトスのなにを。
あの男の何を持っていたというんだ。…何も与えられたものなどない。ならば、何も失ってなどいないじゃないか。
元に戻っただけだ。
一人でクルジスを駆けて、生きたいと戦ったあの日に。あの、一人きりの感情に。


穏やかな波は、もう二度と、刹那の待つ砂浜には来ないだろう。
それでも、波も海も無くなった、あの地平線の彼方から、真っ赤な血の色をした太陽だけは昇るんだ。

大丈夫。
まだ、生きていける。

自分に言い聞かせた強い言葉とは裏腹に、刹那の手は、シーツを握りしめ、小さく震えていた。



*****



「あれ…?」
ふと目線を動かした先、エクシアのコックピットが開いているのを見つけた。もしやと思い待機室の上からガラス窓越しに覗き込めば、小さく動く影を見つけてアレルヤはエクシアへと急ぐ。いつもコックピットハッチを閉じて作業してしまう刹那を捕まえるのは難しかった。今日は運がいい。アレルヤはエクシアにひょいひょいと飛び跳ねてコックピットまで上がった。ハッチの外には幾本もケーブルが伸びている。すぐに締められる事は無いだろう。
ハッチ内を覗き込めば、機器の調節に手を動かしていた刹那がいた。
あぁ、よかった。ようやく話が出来る。
「刹那」
声をかければ、茶色の瞳が、ちらりとアレルヤを見、けれどすぐに逸らす。
特に何も言ってこない事に小さな苦笑で済ませて、覗き込むように刹那に声をかけた。
「もう大丈夫なのかい?」
言えば、刹那の後頭部が、こくりと頷いた。
久しぶりに間近で刹那の姿を見た。アレルヤとてガンダムマイスターとしてのミッションを抱えている。同じ場所に居るからと言って、刹那と会えるとも限らない。現に、刹那が処置室を出てから、こうしてきちんと話が出来るのは初めてだった。
刹那を見、身体の動きを見つめた。特に問題がありそうな場所はない。傷は癒えたのだろう。身体のあちこちに内出血のあとが残っているが、我慢しきれない痛みではないだろうし、撃たれた左肩や、皮膚が裂けた額も傷は塞がっていて、包帯が最低限巻かれているぐらいだ。
身体だけでも無事回復している事にほんの少しばかり安堵して、けれど表面的な身体ではない部分は、酷くぼろぼろなのだと直ぐに判ったのは、刹那が痩せたのだと気付いたからだ。
…元々細かったのに。
余計に、身体の周囲が削ぎ落ちている。

(それにねぇ刹那。…君はそんな目じゃなかった)
ぼんやりと見つめられた目には、以前は宿っていた何かが無い。
それが覇気なのか生気なのか。アレルヤには判らなかった。
それでも、知っている事がある。彼に起きた異変の正体を。

「…刹那、ロックオンは?」
問われた言葉に、刹那はキーボードを叩く手を止めず、無言を貫く事で答えを返す。
…知るはずがない。エクシアのコックピットにあの男が居るわけがないだろう。
探すのならデュナメスが先だ。
それでも判らないのならハロに聞けばいい。…それを知らぬアレルヤではないのに。

無言の刹那に、アレルヤはまた小さく笑った。
「まぁ…どこかに居るんだろうけどね。君もロックオンもあまり見かけないから。…刹那、僕となんてもう1週間以上話をしてないよ?遠くからは見てたけど」
アレルヤは、肩の力を抜いて微笑み、エクシアの開いたままのコックピットハッチに腰掛けて、刹那の動きを見つめている。時折、エクシアのボディにも目を逸らしつつ、それでもその場所から離れる気はないようだった。
居座る気か。
ならば放っておくしかないと、刹那は神経と目線を目の前の操作パネルへと戻して作業を続ける。

「ねえ刹那、聞きたいことがある」
何を。
思った言葉を声には出さない。
面倒臭い。どうでもいい。話しかけるな、気が散る。
恨みは全て、刹那の喉の奥で止まり、声に出されることはない。

まるで喋る事が出来なくなったロボットのような刹那の姿を、アレルヤは、じっと見つめた。
人をまるでよせつけない行為。
刹那が元々、人と馴れ合うことが嫌いなのだとアレルヤは知っている。しかし、それでも幾分か、柔らかくなっていたのだ。
そう。それは、ロックオンが刹那を避けるまでは。

刹那があの大きな傷を負って帰ってきたその日、ロックオンは刹那の傍を離れなかった。
陵辱された刹那の面倒を見るのは、ロックオンだけになり、医者も最低限の処置を施して、ロックオンに全てを託した。…後から、ロックオンがそう医者に願い出たのだとアレルヤは知ったけれど、ならばなぜ、今、これほどまでに2人の空気が変わってしまったのだろうか。
ロックオンが刹那に触れる事は無くなり、また刹那もロックオンに近づこうとしなかった。
刹那は強い。
ロックオンとて同じだ。
陵辱されたとて、命を奪われたわけではなく、何かを失ったわけでもないとアレルヤは思っていた。…けれど。

(…失っていたんだね…、本当は)

何も言わず、仕事を続ける小さな身体を見つめ、アレルヤは口を開く。

大切なものだったんだよ、刹那。
それは、簡単に失っちゃ、いけないんだ。

「刹那、どうしてロックオンをあきらめたの?」