ねえ、刹那。どうしてロックオンをあきらめたの?

たった一言。呟くように言われた言葉に、刹那は一瞬だけキーボードを叩いていた手を止めた。

ロックオンを諦めた?
アレルヤはおかしなことを言う。
諦めたんじゃない。そもそも、何を諦めるというんだろう。
諦めるという言葉を使う程、自分は何かに心を傾けていたというのか?
…まさか、あの男の事を言っているのかアレルヤは。
…違う。違うだろう。
馬鹿馬鹿しい。アレルヤの言葉を一蹴して、問いには答えない。こんな会話は無意味だ。何が言いたい。俺に何を言わせたいんだ、アレルヤハプティズム。

「…刹那」
拒絶を繰り返す、刹那の態度。
アレルヤがどれだけ問うても返答はない。それどころか、話しかけるたびに、干渉を拒絶する刹那の内面は、強固に守られていくかのようだ。
どうして、そんなにも固くなってしまったんだろう。
誰も触れるなと刃を向けてくるようだ。
今の刹那にはまるで安らぎはなく、ただ、人との関係を恐れて拒絶を繰り返す。
エクシアのコックピットの中に蹲るように身体を丸めて、モニタとケーブルばかりを見つめている。
目の前で作業をしているだろうに、その心の中は、酷く空洞だ。手に取るように判る。

そんなに心がからっぽになるなんて、今までなかったよ、刹那。

理由は判っている。
ロックオンが居なくなったからだ。
刹那の中から。
刹那の傍から。

今、刹那の状態が良いものだとは到底思えない。
傷つき、そうして誰も寄せ付けなくなった。
エクシアのコックピットの中がまるで繭のようだ。すっぽりと収まった身体が小さい。こどものように。
手を伸ばして、抱きしめて、大丈夫なんだといってやりたい。
けれど、それは自分の役割ではない。
(それは少し寂しいね)
アレルヤは拳を握りしめた。

「ねぇ刹那」

声は。届いているはずだから。
聞いて欲しいよ、ねぇ。君の心を満たすことは出来ないけれど、僕にも出来る事がある。
干渉するよ。
君が守ろうとしているその心へ。

「君が思っている以上に、ロックオンの存在は、君にとって大きかったんだね」

刹那の手がひくりと動いた。かすかな反応を確認して、アレルヤは、刹那から目を反らさずに言う。
やがて、刹那の拒絶を含んだ目が、アレルヤを見据えた。
アレルヤの目は、追求する目だ。答えを望んで刹那を射抜くように見つめてくる。

…そんなものを望まれても、アレルヤが期待するような答えを言えるわけがない。
理解なんて出来ない。
自分の心だって判らないんだ。アレルヤの心など判るわけがない。このからっぽの心では。
あの処置室で、ロックオンの事がすきなのかと聞かれて答えられなかった事を、そう理解していたのかこのアレルヤという男は。…なんて短絡的なんだ。
…では、なぜ自分は今アレルヤの問いに対して何も答える事が出来ない?

「刹那、言葉に出して。そうしたら僕には伝わる」

何を。何を言えというんだ。
勝手なことを言うな。これ以上干渉するな。アレルヤ。

「ロックオンの様子がおかしいんだ。…君がどこかでその怪我を負ってからだよ。ロックオンが君に対する態度がまるで違う。それは、刹那、君だって気付いているはずだ」

知るか。知ったこっちゃない。
何も知らない。あの男の事なんか。

「君の態度だっておかしい」

いい加減にしてくれ。もうこれ以上踏み込むな。

エクシアのメインコンピュータにアクセスする手は止めないまま、アレルヤの言葉を聞いては心で答えて拳を握る。
ここで何を話したとて、意味はない。
もう全ては終わった後なのだから。

「刹那」

促すように呼ぶ。
それでも。

「刹那、君だってこんなに痩せてしまった」
アレルヤが身を乗り出し、コックピット内に腕を延ばして刹那の手に触れ、手首を掴み上げた。骨ばった部位を指でたどる。
あの酷い傷を負って、保護をされてから、栄養は点滴で補給されていた。その後は普通の食事に戻り、今は普段と変わらない食事を取っている。
けれど、口に含んで食べたつもりでも、胃を降りる頃には吐いてしまう。
食事を取る事を、身体が拒絶している。
ついに食事まで拒否をするようになったのか、この身体は。
他人に触れられる事も拒絶し、そうして自分の傍からは、どんどん色々なものが無くなっていく。
刹那は腹の内で笑う。
可笑しい。…あぁ、なんて可笑しいんだろう。
こんなに脆かったのか。この身体は。

「ミッションに支障をきたすなら、僕たちも困るし、きみだって困る」

あたりまえだ。そんなの、何を差し置いたって。
分かっている。
分かっているから放っておいてくれ。
頭がいたい。もう何も聞きたくはない。

「だから、刹那―――」
「俺に、何を望むんだ」
「刹那」

もうやめろ。話かけるな。
これ以上、俺の中を探ろうとするな。
何もしらないお前が何を適当な事を。

「俺は何も無くしてない」
「無くしたじゃないか!!」
荒いだアレルヤの声。

無くしてない、諦めてない、だって?
刹那それは本気で言ってるわけじゃないよね?
そんなわけがない。君は無くしている!ロックオンストラトスを!

「…なにも無くしてないっていうなら、元に戻ってよ、刹那…」
せめてこの腕を振り払えるぐらいに。
今君は、言葉と内面で散々拒絶を示していても、僕が触れたこの腕を振り払えていないんだ。それは君が弱っているからじゃないのかい?
人に触れるこのあたたかい熱は、振り払っちゃいけないって、判っているからじゃないの?ねぇ刹那。
戻って。戻ってよ。元どおりに。強かった頃の君に。ロックオンを信頼していたあの頃に!

「ねえ…!」

細い腕を掴んだまま、刹那に懇願する。
頭を垂れて、まるで祈るかのように。

アレルヤの悲痛な叫びを、刹那は静かに聞いていた。
格納庫の低い操業音。
手首から伝わる刹那の鼓動。
アレルヤの震え。

「俺は何も失ってない」

弱弱しい刹那の声が聞こえた。
アレルヤは、はっとして顔を上げる。そこにあったのは刹那の後頭部だった。顔を下げ、前髪で表情が見えない。
アレルヤはコックピットに乗り上げるようにして刹那との距離をつめた。
そうしなければ、この子供はどこまでも小さく埋もれてしまいそうで怖い。
握っている手首が命綱のようだ。
あぁ、刹那。どこにもいかないで。
ごめん、苛めているつもりじゃなかったんだ。だからそんなに小さくならないで消えていかないで。
違う、救いたいんだよ。僕は君を救いたい。ただそれだけだったんだ。

「刹那、ごめん、刹那、」
名を呼べば、前髪をふるりと反応させた。アレルヤに手首を取られたまま、緩く首を振る。唇が、震えていた。
もう一度、小さな声が刹那の唇から洩れた。
俺は、何も失ってない、と。

「刹那、どうして、」
「…本当は体温は冷たい」
ロックオンが与えようとしていたのは、きっと体温だったけれど、それこそ本当は冷たかった。
「…身体を離せば冷たくなる。…死体になったって」
「刹那!」

アレルヤの声に、刹那の言葉が止まる。
死体になって、冷たくなって。…それが人間の本来の姿なのかもしれない。
生きていたって、身体は冷たくなるんだ。
たとえ抱き合っていても冷たい。…身体は、本当はつめたいもの。

多分、最初から何も無かったんだ。
与えられたものは幻だった。
あのロックオンによく似た男が与えたのは冷たい身体だけ。
そうして刹那に虚無を与えたあの男。…殺さなくちゃならない。秘密を知られた。ソレスタルビーイングもガンダムも。
だから殺さなくては。そうしなければ、ここにいる事も出来ない。

『人は、何も与えない』
『本当は与えるフリをして何もかもを奪っていくものだ』

秘密を暴かれ、ロックオンのあの身体のあたたかさを信じていていた自分はおろかだったと思い知らされた。
ほら、身体は本当はこんなにも冷たい。
手首を持つアレルヤの体温が伝わる。けれどこのあたたかささえ、手を離せば、一瞬で消える。
あたたかいと感じていたロックオンの体温さえも、幻となって消えた。
そうだ、最初から本当に、

「なにも、なかった」
この世にある確かなものは、この身体1つだけ。

「でも君はロックオンを好きだって…!」
今にも泣きそうなアレルヤの声が震えていた。
何をそんなに必死になる。無駄な事だ。もう止めたほうがいい。
アレルヤの必死さも、刹那は静かに聴いていた。
気付けばアレルヤの身体がコックピットの中に入って、間近で触れている。けれど重ならない熱。

ロックオンを好きだって?
…たとえ俺にそういう感情があったのだとしても。
「…身体と同じだ」
すぐに通りすぎる熱のまぼろし。
繋がらなければ、それはただの冷たいもの。
恋や愛などと、そんな感情を振り回して浸れる甘さが、この世界のどこにある?

「ロックオンが言った」
あの処置室で。囁くように、けれど確かに告げられた言葉がある。
「もう二度と触れない、と」
「……え…?」
手首に絡んだアレルヤの手が震え、間近で覗き込んでいたアレルヤの顔が驚き変わる。
「…もう、触れない?」
嘘だ。
アレルヤの唇が動く。
嘘なもんか。…聞いた。だからこそ、こうして離れて、二度と触れていない。

表情を変えず、淡々とつむがれる刹那の言葉に、アレルヤは驚き、刹那の手を離した。
ぱたりと落ちたその手が、再びエクシアのコンソールパネルにかかる。
何事もないかのように作業に戻る刹那には、もう話を続ける気は無いのか、アレルヤを見ようともしない。

「刹那、」
まさかそんな。
ロックオンがそんな事を言うわけがない。
あんなにも固執して、刹那に色々なものを分け与えていたのに?
「そう…言われたの?刹那」
不安定な子供の手を、突然離すような、そんなことを?
まさか。嘘でしょう。

刹那の目が静かに伏せられたことが、肯定だった。
「嘘…、」
刹那は子供でまだ何もしらない。
それなのに、突然手を離したのか。何も言わず理由も告げず、陵辱された事で酷く不安定になっている刹那の手を。

何もないと。
刹那が繰り返し呟いた言葉。…あれは、そういう事だったのか。
人の憎悪や肉欲だけを叩きつけられて、分け与えられていたはずのあたたかさまで失い。

(なんて、こと…)
刹那の表情を。
(あぁ…)
胸が熱くなる。
これは怒りか。悲しみか。

「刹那、」
アレルヤが立ち上がる。

「いい刹那。駄目だ。諦めちゃ駄目」

聞いて。僕の言葉を聞いて。お願いだ。
アレルヤの目が、刹那の大きな目を見つめる。そらされない目線。刹那も力なくアレルヤを見つめた。

「…人と人の関係はね、触れるぬくもりとか、肌に触れるあたたかみっていうのはね、生きてるって思える唯一の温度なんだよ」

だってほら、もう一度触ればまた熱は戻るでしょう?
先程まで掴んでいた手首を、アレルヤがもう一度掴む。もう一度触れれば直ぐにあたたかくなる。

「だからね、刹那。諦めちゃダメなんだ。どうしても手に入れたいって思えばいい。ロックオンは君が触れていい体温を持ってる」

ねえ、刹那。
君に幸せになってほしいよ。
失っても取り戻せる。君は最初から何も無かったんじゃない。持っていたんだ。幸せになる小さな希望を。
だから今、失って苦しいんだ。
最初から何も無ければ、苦しむことだって無いんだから。

君はまだ、人間の持つ感情の全部を理解してないでしょう?
まだまだ君の知らない気持ちは沢山ある。
恋焦がれるって気持ちを知ってる刹那?僕もまだよく知らないけれど、そんな経験だってしていいはずなんだ僕達は。

刹那に笑顔を残し、少しの体温を分け与える。
キスは額に。どうか君に幸あれと。

エクシアのコックピットから、すくりと立ち上がったアレルヤは、はじかれたように駆け出した。


***


なんであんなに刹那は辛い顔ばかりするんだろう。
彼から告げられる言葉は、伝わる最小の言葉ばかりなのにその一言一言が突き刺さるようだった。
(ロックオンが、刹那を捨てた…って?)
そんな馬鹿な。
頭は否定する。
通路を走ってロックオンの自室に向かいながら、アレルヤは徐々にそのペースを落としていた。
…今ロックオンに会って、そしてどうする?
(決まってる。刹那に話をしろと言えばいい。何をしているんだとロックオンを怒って)
怒ってどうする?
そうして刹那の元に戻れと、もう一度刹那との仲を取り持てと?

そうするのが本当にいいのか。
衝動で刹那の元を飛び出し、こうしてロックオンの部屋に向かっているが、それで自分は何が出来るというんだろう。
刹那の辛い顔を見たくは無い。
前々から仲が良かったなんて絶対にいえないマイスターだったけれど、それでも今のこの不穏な空気は酷すぎる。
それをなんとかしたい、ただそれだけで。
…けれど、自分が何を出来るのか。

刹那の負った身体の傷と、精神の傷。
真っ当に育ってこなかったのはお互い様だろうが、その傷口を抉るような体験をしたのだろうと、運び込まれた刹那の身体を見て思った。
真っ青になった顔、身体中の傷は、おそらくは凌辱の跡。
人に触れられる事を怯えていた刹那を見れば、何があったのかは明らかだった。

それを、ロックオンはどうにかしようとしていたのだろうか。
ずっと刹那に付き添っていたはずのロックオンは、刹那の意識が戻った途端、刹那の傍を離れた。
それどころか、彼との絶縁を突きつけて。
そんな状態で、何が出来るというのか。

それでも。…ねぇ、それでも。
僕が何も出来なくても、
あの、刹那の表情を、涙のない泣き顔を、何とかしたいと思うんだ。



ロックオンの部屋の扉を開けた途端、むせ返るような酒の匂いに、アレルヤは鼻を覆った。
このにおいは。
「ひどいな…」
そう広くはない部屋の中心で、ベッドに腰掛けたロックオンは、アレルヤをちらりと見、また目を伏せた。
手にはアルコールの瓶が握られている。
「アレルヤか」
瓶を傾け、アルコールを直接、口へと流し込んだ。喉がごくりと上下して重い息を吐き出す。
ベッドの周囲に散らばった酒の空き瓶の数々。
なんだこれは。
マイスターがここまでの深い飲酒していいはずはなく、これだけのでたらめな量を、おそらく一人で飲み干しておきながら、ロックオンは顔色ひとつ変わっていない。
ただ、目だけか、力無く伏せられている。

「ロックオン、何をしてるんです」
「見りゃ判んだろ、酒だよ」
「…こんな量を」
「俺はあと10時間は休暇だ。お前に何かを言われようが知ったこっちゃないね」
「……ロックオン」
だからといってこれは酷い。
アレルヤは部屋へ一歩踏み出した。背中でドアが閉まる。
部屋は薄暗い。明かりを落としたこんな部屋で、ロックオンは何をしているんだ。
刹那はあんなにも、あんなにも、

「刹那になにか言われたか?」

ロックオンは、アレルヤの思考を読んだかのように言い、笑った。

「判ってるなら、はやく行ったほうがいいです。刹那のところに」
「俺が?」
「当たり前です」
「なんで行かなくちゃならないんだ。俺が」

なにをふざけたことを!
アレルヤは怒鳴りたい気持ちを必死で耐える。ここで怒鳴ってどうなる。
ロックオンはまた酒に口をつけて笑った。
怒るアレルヤを馬鹿にしたように鼻で笑って、それでも笑いきれなかったのか声に出して笑い始めた。その笑い声が酷く乾いている。静かな部屋の中に、ロックオンの口先だけの笑い声が響いていた。
どれだけ酒を飲んでいるんだ。
アレルヤは、こぶしを握りしめた。

「…刹那、痩せたよ」
静かに。アレルヤは伝える。
「君のせいだ」
「いいや、あいつの健康管理の問題だ」
「問題になるようなことをしたのは君だろうロックオン」

ロックオンの言葉にも引かず、アレルヤが追言すれば、ロックオンの目がアレルヤを睨んだ。
しかしその目はすぐに細められ、嘲笑になる。

「どーした、アレルヤ。やけに刹那にご執心みたいだな」
「…ロックオン、」
力のない目がアレルヤを見つめていた。唇が動く。
「慰めでもしたのか。あの身体を」
「…っ」

なにを。
なにを言っているんだ、ロックオンは。
身体を慰めた?
自分が、刹那に?

目を見開き、言われた言葉を理解しようとしているアレルヤを、口端を上げて笑いながら、ロックオンは酒瓶を振りまわした。

「よかっただろ。刹那の身体は。必死で抱き着いてきただろう?あいつ抱くといつもそうだ。普段は一人で何でも出来ますって、一人立ちしてますって顔してやがるが、抱けばちいさい子供みたいに震えてしがみついてくる。あれはいいぜぇ、庇護欲煽りまくりだ!そんな身体を抱くのは気持ちいいだろうよ、アレルヤ!」
「ロックオン!!」

気がつけば、腕を振りかぶっていた。
「…っ…!」
振り下ろしたこぶしは、ロックオンの頬をしたたかに打ち付けて、身体を張り飛ばす。
ガン、と身体が壁にぶつかった音が、アレルヤの荒い呼吸音と混じって部屋に響く。

「…っ…本気で、殴るヤツがあるかっ…」
「本気に決まってる!いい加減にしてください!」

刹那を抱いた?
小さな子供みたいにしがみついてくる?

「そんな事を解っていながら、ロックオンは刹那を突き放したっていうのか!」

なんて酷い!
なんて無慈悲な!

殴り足りない。どうして。あんなに刹那を大事に思っていたロックオンは何処へ行ってしまったのか。
そんなの、冗談だって言っていいことじゃない。

「ロックオン!」
「突き放されたのは俺だ!!」

アレルヤの激昂に、ロックオンの悲鳴のような怒鳴り声が重なった。
はっとしたアレルヤが、床に倒れ伏せたロックオンを見れば、その表情には苦悩が滲んでいた。