Where is your happiness? ---------------------------------------------------------------------------------- この本は悲しい内容を含みます。 ロックオンの遺体は美しかった。 割れたメットのバイザーは粉々に砕け散り、薄茶色の髪が凍りついた皮膚にぺたりと張り付いてる。半開きに開いた口、見開いた目は水分を失い陥没してしまったけれど、目を閉じれば眠っている時とそう変わりはないなと刹那は漠然と思った。全てがそのままだ。いつものパイロットスーツ、見慣れた顔、右目にかかる眼帯も。 心が、妙に静まりかえっている。 ロックオン・ストラトス。 共に居た時間はそう短いものでもなかった。彼への思い入れも充分すぎるほどにある。それでも刹那の胸に湧き上がるのは、ただぽっかりとした空虚だけだった。 そこに激情のように沸き上がる思いは何も無く、ただロックオンだったその身体から目を離すことが出来ずに見つめ続けている。それは、このプトレマイオスのコンテナに集まった皆がそうだったらしく、話し声も聞こえてこなかった。フェルトが小さく嗚咽を洩らすぐらいだ。静かすぎるその空間に、プトレマイオスの駆動音だけが響く。 誰も動く事が出来なかった。 誰も目をそらせなかった。 ロックオン・ストラトスの遺体がここにある。戦闘の直後、宇宙を漂っていたこのモスグリーンを見つけることが出来たのは奇跡に近かった。 その遺体が燃え尽きも蒸発もしていなかった事も。 エクシアの手で運ばれて、その遺体は静かに戻るべき艦へと降り立った。 眼帯はこのままにしましょうか、とスメラギが言った。それが音の無い世界に、静かに響いた声だった。まるで金縛りから解けたかのように皆が顔を上げ、スメラギを見つめる。一斉に向いた顔に、スメラギは小さく唇を上げて微笑もうとした。 「…右目、眼帯の下はまだ傷があるのよ。生々しいままで彼の身体を焼くよりは、このまま…ね」 声が震えていた。フェルトが呼吸を止めたかのように息を飲む。 焼く。彼の身体を。 スメラギがゆっくりと動いて、力を失ったロックオンの両手を持ち上げると、胸の前で手を重ねさせた。指と指を絡ませることが出来なかったのは、パイロットスーツ内の遺体状態を考慮しての事だった。 「…ロックオン」 意外にも、次に彼の身体に触れたのはフェルトだった。 ロックオンの手に触れ、大切に大切に、そっと撫でる。パイロットスーツ越し、彼の体温は感じられないはずなのに、それはどうしてか、とても美しく暖かく見えた。 「宇宙葬にしてあげたいけれど、それは出来ないの。判るわよね」 スメラギが、皆を納得させるように告げた。一同を見渡すものの、声を失ったままのクルーからは反論も上がらない。 宇宙葬には出来ない。 それは誰しもが判っていたことだった。 万が一、宇宙へと放ったロックオンの遺体が、国連軍に見つかってしまえば彼の素性が判ってしまうだろう。DNAを調べれば、この男がニール・ディランディだという事が判るはずだ。彼には弟が居ると聞いた。ソレスタルビーイングに無関係の兄弟にまで危害が及ぶ事だけは避けなければならない。それがロックオンが望んだ最期の願いだったからだ。 「綺麗にしてあげられなくてごめんね…」 フェルトが流した涙が、モスグリーンのパイロットスーツに落ちた。身体を綺麗にして、服も着替えさせたい。ちゃんとお別れもしたかった。葬儀さえしてやることができない。 ただひとつ出来るとするならば、彼の身体を跡形なく焼くことだけ。 「何もしてあげられないんだね」 フェルトは音もなく涙を零す。 (…そんなことはない) ロックオン・ストラトスは充分に綺麗だ。いま、こうして死顔を見せていても、刹那はそう思う。 本来ならアイルランドの故郷の墓に彼を眠らせる事がいちばんだと判っている。彼もきっとそれを望むだろう。何より家族と祖国を愛していた男だ。 ソレスタルビーイングに入ってしまった以上、あの墓に遺体を埋めてやる事は出来ない。遺体は、ガンダムの火器で焼く。GN粒子のビームを使えば、人間の身体なら、骨も髪も残らない。身体を形成していた全てを消すことが出来る。そうして彼は居なくなる。この世界から。 (これが最後…) 言い聞かす。もう二度とこの顔を見ることはない。ロックオン・ストラトス。この男の声を聞くこともない。名を呼ばれることも、そして、この身体に触れることも。…もう、二度と。 ああ、これが最期だ。 「刹那、何をしてるの…!」 格納庫に響いたスメラギの声は、悲鳴のようだった。けれど構わずに刹那は手を伸ばした。横たわったロックオンの身体に触れた。皮膚が冷たい。氷を触っているようだ。 「……つな、っ…」 悲鳴まじりのスメラギが、やめなさいと肩を引く。けれど刹那はゆるぎない。パイロットスーツの上着に手をかけ、一気に引きおろす。凍り付いていたらしいそのスーツはまるで破れるように引きちぎられた。さらにインナーウェアを引きあげれば、そこに晒されたのはロックオンの生身の身体だった。 周りから息を飲む音が聞こえた。皆が皆、刹那の行為を止めようと手を伸ばし肩を引こうとしていても、誰一人刹那を止める事は出来なかった。 (…ロックオン・ストラトス…) 晒した肌を見下ろし、刹那は名を呼んだ。 ゆっくりと手を伸ばし、彼の真っ白な喉に触れた。 (つめたい) 今まで触れてきたロックオンの肌とはまるで想像もつかないほどに。 (死ねばこれほど冷たくなるのか) 首筋に触れてみて、刹那は思う。 ロックオンは動かなかった。死んでいた。もうこの身体は二度と動かないと嫌というほど判る。 冷たいのだ。人の身体とは思えないほどに。 胸に触れても、鼓動は聞こえず、呼吸に上下することもない。 「…ふっ、…うっ…」 フェルトが息を飲み込んだ音が響き、それから小さな嗚咽が続いた。見ていられないと目を逸らして震えた身体をクリスティナが手を伸ばして支えた。 我慢していたのだろう。 (…皆、つらいのか) アレルヤが唇を噛んだのが目に入った。ティエリアの表情は見えない。ずっと下を俯いたままだ。このロックオンの姿を見ているのかどうかも判らない。 声も出せない。止めることも、進むことも。 ただ、この「死」を皆が受け入れられないでいる事だけが刹那には判っていた。 (受け入れろ) …受け入れなければいけない。彼が死んだとて、ソレスタルビーイングが滅びたとて、やらねばならない事がある。 『…戦う』 そう告げた。ロックオンに問われて、躊躇いなく。 戦うことしか出来ないと、立ち止まることも出来ないと、彼に誓った。 だからこそ、受け入れなければならない。 この死を。 静まりかえっていた。 どうして今、ここはこんなに静かなのだろう。 ロックオンの身体が目の前にあり、それは動かない死体で、そこからは何も生まれない。 鼓動を刻むことを止めた左の胸に、手を伸ばす。 ゆっくりとゆっくりと触れた。指先から手の甲まで、ぴったりと彼の肌に触れる。 冷たい冷たい、皮膚。心臓。肉体。こころ。 あたたまることはもう、ない。 これが、ロックオン・ストラトス。 これが、「死」ということ。 (ロックオン・ストラトスは死んだ) それが、刹那にとって、ロックオン・ストラトスとの最期の別れだった。 (続) |