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file:01-03 黒い紙袋
どうやって、家に帰ったか分からない。
きっと通り過ぎたコンビニも、視界に入っていなかった。
気付けば家で、全身びしょ濡れで、息が上がっていた。
雨を吸ったジーンズが重くて、足が絡まりそう。
玄関でへたり込んでしまいそうだったけど、止まってしまうと色々考えてしまいそうで。
服のまま、風呂へ向かった。
途中、ずれた眼帯がべちゃと床に落ちたけど、拾う気力もなかった。
雨と違って温かいシャワーを頭からかぶって、ぎゅ、と目を閉じた。
――何でこんなことになったんだろう。
元親にとって、俺は何なんだろう。
ただのコンビニ店員、の筈だ。
キス、される意味が分からない。
俺にとって、元親は何なんだろう。
ただの客、ちょっと目に止まっただけ。
キス、される理由がない。
ああ、でも。
あの目は綺麗だった。
閉じた目に映るのは、鬼の眼だと自嘲した元親の顔だった。
淋しさばかりが目立つ、暗い表情だった。
自分の過去と重ね合わせて考えるんじゃない。
でも、眼に関して良い思い出は、元親もないんだろうな、と思うと何故だか胸が重かった。
同情も侮蔑と同じくらい胸くそ悪いものだって分かってる。
これは同情じゃない。
(恐怖…に近いな…)
魅入られて戻れなくなりそうな危うさが、あの綺麗な赤にはあった。
多分俺は、キスに逃げたんじゃない。
あの眼が、綺麗すぎて怖かった。
(…それもそれで問題だな)
男に、元親にされたキスが嫌じゃなかったなんて。
シャワーを止めた。
立ち上る湯気が視界を霞ませて、身体に絡みつくようだった。
(…、熱い…)
貼り付く服や、ましてや湯気の所為でもない。
中から火照って熱い。
「、ックソ…」
濡れたジーンズは前を開けるのすら、簡単にはさせてくれなかった。
もどかしさが更に熱を上げさせて、俺はまた煩くシャワーを出した。
◇ ◇ ◇
自己嫌悪の朝ほど、最悪なことはない。
そんな日に限ってバイトがある。
世の中、よくできてるもんだ。
(俺って真面目だなー…)
こんな日、大学なら確実に休んでる。
給料の有る無しは大きいけど、シフトに穴あけられないって責任感だってある。
本当はその辺も全部放り出して、休もうかと思った。
店は、元親との一番の繋がりだ。
しかも俺は逃げられない。
(頼むから、今日だけは来てくれるな…)
祈るような気持ちでユニフォームに着替えて、カウンタに入った。
通勤通学のラッシュが過ぎたこの時間はその名残で何人かの客が居るのみだ。
売場をゆっくり見回しながら、銀髪を見なかったことに少しだけ息を吐いた。
…あのキスの真意を聞きたくない訳じゃない。
ただ、あの眼に見られるのが怖い。
醜い、と言われている気がして、――。
「有難うございました…」
店の中に客が居なくなった。
朝10時、いつもどおりだ。
品出しが終われば昼まで暇だ。
多分、昼までに来なかったら、今日は顔を合わせないで済む。
半分希望が入っている。
自己嫌悪の理由が後ろめたいのもある。
会いたくない、…怖い。
でも。
どんなにそう願っても、駄目なときは駄目らしい。
来客を知らせる音楽が鳴って、ドアを見た。
スーツを着て、それに合わない銀の髪の男が、ゆっくり歩いてくる。
きっと俺は、端から見ても分かるくらいに動揺してた。
事務所に逃げ込みたくなるくらい。
いや、実際逃げ込んだつもりだった。
どっちにしろ脚が動かなくて無理だった。
「――どんな顔して会おうか、考えたんだがな、」
元親は自嘲の笑みを浮かべて、カウンタの前まで来た。
机ひとつ分の距離。
殴れるし、抱きしめられるし、キスも出来る。
でも、とんでもなく遠い。
今はコンタクトを付けているんだろう、眼はどちらも濃い茶色だ。
それでも、心の中を全部見透かされているような気がしてしまう。
元親は無表情でカウンタの上に紙袋を置いた。
「とりあえず、これは返しておく」
「、え…?」
恐る恐るのぞき込むと、昨日元親の部屋に置きっぱで帰ってしまったジャケットだった。
綺麗に畳まれて、どっかのブランドのものらしい黒い紙袋に収まっている。
「…わざわざ悪いな…」
受け取ろうと紙袋を掴んだけれど、元親は手を離さなかった。
代わりに口を開いた。
「けど傘を忘れてしまってな」
「ぁあ、別に構わな――」
「部屋の鍵を渡しておくから、勝手に持っていってくれ」
元親はスーツのポケットからキーケースを出すと、紙袋の中に落とした。
「い、いいって、傘くらい」
「お前は良くても俺は嫌だ。悪いが取りに来てくれ。俺が居ない内で構わないから」
言うだけ言うと、元親はもう背を向けていた。
俺はそれを呆然と見送るしかなかった。
元親はドア近くまで行って、不意に振り返った。
そらすことも出来ずに合ってしまった目をどうすることも出来ないまま、反応を待った。
元親はふ、と笑んだ。
「鍵だが、流石にそれは手渡しで返してくれ。家へは日付が変わる前に帰るつもりだ」
さらりと告げ、元親はそのまま出て行った。
短く音楽が鳴って、俺はその場にしゃがみ込んだ。
一気に全身の力が抜けた感覚。
話なんか出来ないと思っていた。
案外出来るものだと安心した反面、元親の何もなかったような態度が気に食わない。
胸ん中に靄が残ってる。
(何でキスした?)
用意もしていなかった疑問は、聞けるはずもなく、ただ残った。
とりあえず紙袋を事務所に片そうと持ち上げると、中でチャリと鍵が鳴った。
そう言えば、元親はキーケースごと袋に入れていた。
嫌な予感がする。
「まさか、…!」
ブランドもののキーケースを手にとって開く。
案の定の光景に俺はまたしゃがみ込んだ。
キーケースにはいくつもの鍵がついていた。
部屋の鍵から、車の鍵、あと何に使うのか分からない小さな鍵がいくつか。
持ってる鍵を全部付けました、と言わんばかりにずっしりとしている。
部屋の鍵しかなかったら、封筒にでも入れてポストに入れとけば良いだろうと踏んでいた(元親は手渡せと言ったけれど、)。
これではそうもいかない。
(行くしか…ないのか…)
元親のマンションには、ただ一つの記憶しかない。
赤い眼と、――。
嫌じゃないけど、思い出したくもない。
ぐ、と右目が疼いて、思わず顔を覆った。
「すいません、お願いします」
はっと顔を上げれば、カウンタの前には客が1人。
慌ててスキャナと商品をひっ掴んだ。
「た、大変お待たせしました…」
心中は吐きそうなくらい何かがぐるんぐるんしていた。
ずっと今日のバイトが終わらなければいいのに、と普段ならあり得ないことを考えるくらいには、あのキーケースは重かった。
昼も過ぎて、センター便に対応して、品出しをしている内に、時間は上がりの時間になっていた。
入れ替わりの成実が、今日は遅刻もせずに来て、こんな日ばかり、と恨めしい気分にさえなった。
行きたくない…。
「梵、今日は不機嫌?」
「いや…憂鬱なだけだ」
「そっか…」
心配そうに顔を歪ませる成実に癒されてるあたり、相当キツいのかもしれない。
人間は、物事の予測を最悪の事態と最良の事態しか考えないらしい。
今の俺は正にそうだ。二つの予測しかしていない。
――元親の家に行って、何事もなく帰ってくるか、何事かあるか。
ただ、俺にはそれのどっちが最良で最悪なのか、分からない。
「上がっていいよ?梵」
「ん、」
「どしたの?」
「…もー少し残ろうかなって」
本心が言わせた言葉に、成実も俺も驚いた。
一瞬、時間が止まったような静けさに包まれて、慌てて笑いを作った。
「、冗談だ。上がるわ、後よろしく」
「梵…」
成実の声から逃げるように事務所に入った。
上着と紙袋を掴んで、成実が接客している間に店を出た。
(…馬鹿馬鹿しい)
元親の家で、奴が帰ってくるまでそこで時間を潰そうと思うから、行きたくなくなるんだ。
元親は日付が変わるまでには帰る、って言っていた。
なら俺も見計らってそれぐらいの時間に行けばいい。
まずは一旦、家に帰ろう。
決めると後は楽だった。
元親のマンションとは正反対の自分の家に向かって、歩き出した。
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チカダテ3話目。
ここ直さずにUPしちゃった(笑)
そんなこんなで、続きです。
何と言うかあまり進展してませんね…。
この政宗みたく、まだモヤモヤしつつ続きます。
07.02.01