街に茶色とピンクが溢れてきたなぁと、慶次は他人事のようにぼんやりと思った。
――バレンタイン。
慶次にとっては、普段と変わらない単なる水曜日だった。
浮かれている街に呆れもあるし、たくさんの女の子からチョコが欲しいわけでもない。
不満があるとすれば、くれるべきと言っても差し支えないような相手と、特別な約束も無ければ、チョコすら貰えそうな気配もないことか。
分かってはいる。
それを望むことは、無駄とは言わないまでも叶わないのは目に見えている。
今までのことを考えても、常に慶次が率先していた。
始まりがそうだったのだから、と言ってしまえばそれまでだが、流石にそろそろ政宗からの行動を期待しても罰は当たらないはずだ。
というのも、来る14日が他でもない、出会って1年の記念日だからだ。
何をするにも、口実としては申し分ないのだから、と恨めしい気もある。
けれど今、ベッドに寝転がり、天井を睨んでいるだけではきっと政宗は何もしてくれないだろう。
つい先ほど、政宗が帰ってきた音がしていた。
壁の薄いこのアパートはその手の音は筒抜けだが、反対隣の部屋の音がさほど気にならないのは、やはり自分が政宗にばかりに意識が傾いているからだろうかと、慶次は体を起こしながら思った。
この時間なら、政宗は風呂に入っているはずだ。
鍵は交換したから、それが特別傷害にはならない。
慶次は部屋の鍵と政宗の部屋の合い鍵とだけを持って、部屋を出た。
“DATE”と洒落た書体で書かれた表札は自分の部屋のドアに掛かるものと同じだ。
政宗が殺風景なドアに呆れて書いてやったものだから、当然だった。
思えば慶次が政宗から貰った初めての物だった。
――…何だ。俺、貰ったものあるじゃん。
関係を保つ上では、慶次が先走っている感はあるが、政宗だってそれについてきている。
十分じゃないか。
慶次自身、そう思わないでもない。
けれど、欲とは気づけば更に膨らむもので。
(せめて、14日に一緒に過ごすくらいの約束はしたいな)
これは大前提。
要は一緒に過ごしたい。
学校は高3の慶次は休み同然だ。朝から夜まで空いている。
バイトも休みになっている。
政宗からのあれやこれやを願うのは、今回はもう諦めよう。
両の腕に収めるだけで、チョコの甘さなんて越えられる。
慶次は合い鍵でドアを開けると、案の定水音の聞こえる風呂場を通り過ぎて、明かりを点けたままのダイニングに入った。
暖房はついていないのに、分厚いカーテンの所為だろう、ほんのりと暖かい。
ぬるいとすら感じる空気に政宗の低体温を思い出して、慶次は少し体を熱くした。
読みかけなのか、テーブルに伏せられた文庫を手に取ったりしている内に、風呂場の水音が消えた。
そっと文庫を戻して、慶次はドアを見つめた。
政宗は慶次を見つけて、どんな顔をするだろうか。
怒る?笑う?恥ずかしがる?
どんな反応も慶次には特別だった。
(ああでも、怒るのはやだなぁ…追い出されかねない)
出来れば、と心中で掌を摺り合わせ、慶次は開いたドアに視線を投げた。
そしてそのまま動けなかった。
「、…ッ」
ただ息だけを呑んだ。
現れた政宗は腰に一枚タオルを巻いたのみで、上気して少し赤みを持った肌をこれでもかと言うほどに曝していた。
一人暮らしなら当然と言える行動も、慶次からしてみれば他ならぬ政宗がしているのだから、落ち着けという脳の命令には無理がある。
簡易なキッチンにある冷蔵庫から水を出して、それを口にしたあたりでようやく、政宗は慶次の存在に気づいた。
「っ慶次!」
「…お邪魔してます」
慶次はバツが悪そうに小さく言った。
この状況が、思った以上に退っ引きならないものだったからだ。
政宗は居るなら声かけろよ、と早口で言うとダイニングを出た。
少しして戻ってきた政宗はきっちりとジャージを着込んで、薄紅の肌はもう見えない。
頬だけは名残を見せているが、恐らくは原因は違う。
政宗はソファに座る慶次から距離を取って立った。
「…何か用かよ」
「別に用ってわけじゃないけど、予定、聞きたくて」
慶次はなるべく政宗の目だけを見て話した。
他は心臓に悪い。
今思ったままに行動しては、それこそ怒らせて元も子もなくなる。
「予定?何の」
惚けているのか本気なのか。
後者だろうが、前者でない根拠もない。
どう返すかと考えて、慶次は素直にそのままを伝えた。
「今週水曜日。14日の予定だよ」
「、あぁ…」
皆まで気付いたらしい政宗は、ふぃと顔をそらして水を一口飲んだ。
「…朝からラストまでバイトだ」
「朝から晩まで?」
「そうだ、人手が足りねぇんだろ」
「そっか…」
慶次の願いは、脆くも崩れ去った。
ただ一日一緒にいることも叶わない。
けれどその事実は、今の慶次が止まる理由を失ったことを意味していて。
「明日は?振替休日だしバイトもないよな?」
「あぁ、明日は完全にオフ」
「じゃあ、シよ」
慶次はソファから勢いよく立つと、政宗の手を引いて寝室に入った。
家具の配置はそっくりで、ベッドに至っては全く同じの壁側。
ただシンメトリーになっているのが、妙な違和感だった。
慶次はベッドに政宗を座らせると、トレーナーを脱いだ。
「、慶次、待てよッ!何だよいきなり…!」
「14日の代わりすんの」
上半身をすっかり裸にしてしまうと、慶次は政宗の前に膝をついた。
政宗が文句を言いたげに口を開いたのを見計らって、キスで遮った。
口の中で籠もった声すら愛しく感じながら、結局出会って1年記念だとかバレンタインだとか理由をつけてしたかったのはコレかと、慶次は自分に呆れた。
“一緒にいたい”には下心がメインで。
でも、
(恋の中にあるシタゴコロ、ってね。…大体風呂上がりのあんな格好は反則だ…)
バレンタインに踊らされている人間の一人になるのも悪くない。
キスの後に忍び笑うと、真っ赤な顔をした政宗に鼻を噛まれた。
* * *
「、はぁ…っ…」
暖房もつけずに転がったベッドは、すっかり温かくなっていた。
熱いまでの感覚を背に感じながら、慶次は薄闇の中で妖艶に歪む政宗の頬に触れた。
上に跨る政宗は苦しそうな荒い息を吐き、けれど熱い中はもっとと慶次を誘う。
「政宗…気持ちいい?」
「ん…、いい…ッ…」
慶次が脇腹に触れると、政宗のそこはきゅうと締まる。
お互いに強く熱を感じて、少し息を吐いた。
政宗は動かしていた腰も止めた。
「…、訳分かんなくなっちまう前に、やるよ…」
ぐ、と深く腰を落としてそのまま慶次の胸にぴたりと耳をつけた。
ドクドクと重く鳴る慶次の鼓動に政宗は少し笑む。
「、政宗…?」
「待ってろ…」
政宗はベッドからダラリと垂らした右手でベッド下を探った。
目的の物は、指に触れて乾いた音を立てた。
ディープレッドのラッピングのそれは、薄闇の中では黒にも見えた。
掌より少し大きいくらいだ。
袋を掴んで身を起こした政宗は、慶次の顔面にそれを落とした。
軽いために痛くもなかったが、慶次は顔を撫でることも忘れて袋をひっ掴んだ。
「政宗、これッ?!」
「…開けてみろよ」
促されるまま、少しだけ状態を起こして慶次はラッピングの紐を解いた。
出てきたのは、和柄のポーチとチョコが何個か。
「はぇーけど、」
そう言って顔を背ける仕草に、慶次は何が何だか分からなくなった。
今自分の手の中にあるのは恐らく、バレンタインのプレゼントで。
でも、まさか政宗から貰えるとは思ってもいなかった。
そもそも今日はまだ11日だ。
少なくとも3日も前に用意されていたことになる。
「え、ホントに?」
「…ッだから、言ってんだろ!」
政宗は慶次から袋を奪うと、中からチョコをひとつ取り出して、あとはまたベッド下に落とした。
チョコの包みを破るとほのかに甘い香りが漂う。
裸になったチョコを歯で挟み、政宗はそのまま慶次にキスをした。
チョコは二人の間でパキと音を立てて割れ、中からは洋酒がトロリと流れ出した。
アルコールの所為か、自身の温度を上げた慶次の口端を伝う洋酒を一舐めして、政宗は薄く笑った。
「ボンボン、まだお前には早かったか?」
ここ痛ぇよ、と冗談粧して繋がった部分を撫でた。
瞬間、政宗の視界がぐるりと回った。
「、ッあ…!」
「政宗、有り難う、大好き」
慶次は組み敷いた政宗に被さって、小さく呟いた。
その声が曇っているのに気付いて、政宗はバーカと慶次の頭を撫でた。
「…渡すもん渡したし、…訳分かんなくして良いぜ?」
引き寄せられて合わせた唇は、チョコの甘さと洋酒の苦さが混じり合って、堪らない味だった。
「…14日は悪いな…、」
「もういいよ、黙って。それに今日が14日だよ」
「…そーだな」
「動いていい?」
政宗が慶次の首に腕を回したのを合図に、すっかりとろけたそこがぐちゅりと音を立てた。
焦れた分、ダイレクトに刺激が走って、政宗は息を呑んだ。
「大好き」
「ん、ぁっ…お、れも…ッ」
慶次の言葉に途切れ途切れの返事をして、政宗はまたキスをした。
――今日は政宗にお株を取られちゃったな。
やられた、と思ってしまうあたり、自分は先走ってるのが好きなんだなと慶次は小さく笑った。
でもたまに手を引かれるのも悪くない。
終 |