早花咲月
どれだけ奪えば、気が済むのだろうか。
桜の蕾が膨らみ始め、名ばかりでない春はすぐそばまで寄ってきていた。
あと半月も経たぬ内に、桜が満開になるであろう庭を見つめ、政宗は筆を止めた。
春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。
ぬくぬくとした心地よい日差しに、政宗は欠伸を噛み殺した。
既に今日の分の政務は終えている。
勢いに乗れたためにそのまま続けたが、中途で止めても構うまい。
政宗は筆や書簡を簡単に片付け、縁側に出た。
陽の熱に温められた床板が足の裏にじんわりと心地好い。
腰を下ろし、身体も倒した。
早くもうとうとし始め、静かな風の音を子守歌に少し眠ろうかと息を吐いた。
けれど瞼が作る闇に、思い起こさるるは、もう幾日前かも知れぬ逢瀬の夜のこと。
陽の高い内から何を不埒な、と政宗自身、自嘲したが、一度彼の者を想うと止まらなくなる。
(、佐助…)
名を思うだけで、胸が痛む。
朝日の中冷たくなった敷布を撫で、何故今居らぬと苛立ち恋い焦がれ、毎夜、今宵こそはと来訪を待ち恋い焦がれる。
陽の高い昼さえも、心は乱され仕様がない。
(…俺の平穏をどれだけ奪えば気が済むのだろう)
苛立ちも焦れることも、心地好いと思えるのは気が振れた証であろうか。
仮にも敵国の忍びだ、こうして心の内に入り込むも“仕事”なのかも知れない。
もしそうだとしても、もう取り返しはつかないと朧ろげながらに思う。
そんなにも、愛しい。
(…、最悪だ…)
静かな風の中にあるはずのない佐助の気配を探し、政宗は泣いた。
雲を掴むが如くの、行為。
溢れるは虚しさよりも、大きな苦しさだった。
(佐助、)
もう一度名を想い、ぎゅ、と目を閉じ涙を横に流した。
と、その時部屋の外から声がした。
「政宗殿〜、入っていい?」
近頃、城に滞在している成実だった。
政宗は慌てて身を起こし涙を拭った。
「、あぁ…」
「あれ、政宗殿何か変だよ?」
薄く笑う成実に違和感を感じ、政宗は傍らに置いていた脇差を掴んだ。
「、てめぇ、何者だ」
声も背格好も成実そのものだ。
けれど決定に違うそれ。
「成実は俺をそんな風に呼ばない」
「、何言ってんの?殿ってば」
「今更直したって意味ねぇんだよ」
嘲笑うように言ってやる。
脇差を構え、相手を睨む。
ピンと張り詰めた空気が暫らく続き、弾けた。
「こーうさん!」
“成実”は、両手を頭の横まで上げて、へらと笑った。
「そんなに怖い顔で睨まないでよ」
羽織を脱いだかと思うと、それを政宗目がけて放り投げた。
脇差で払ったが、浅葱色が政宗の視界を覆った一瞬間で、“成実”は成実でなくなっていた。
「久しぶり、竜の旦那」
「さ、すけ…」
政宗は脇差を取り落とした。
そこには、佐助がいた。
朝も夜も恋い焦がれ、決して低くはないその声で呼ばれるのを待っていた。
昼には叶わぬと思っていた。
余りの不意打ちに政宗は溢れそうになる涙を必死に堪えた。
笑みを湛えたままの佐助はそっと政宗の脇差を拾い、政宗の腰に差した。
その装いはいつもの斑の装束ではなく、先程の“成実”のままだった。
見慣れぬ袴姿の佐助に政宗は戸惑いを隠せない。
「な、何で…」
「会いにきた、じゃ理由にならない?」
羽織を拾い、おもむろに袖に通し、佐助は言った。
政宗は力なくその場に座り込んでいた。
佐助の一挙手一投足、言動全てに心動かされる自分が、腑甲斐なく、愛しく、混ざり合う感情を持て余している。
「、最悪だ…」
吐く悪態は、むしろ逆の感情だと佐助には分かっているだろう。
政宗はやっとで佐助とまともに目を合わし、泣きそうな顔で笑んだ。
「竜の旦那は百面相だよね。俺の変化の術も負けそう」
冗談を言いながら抱き締めてくる佐助に、政宗は秘かに「お前にだけだ」と呟いた。
*
久方ぶりの逢瀬。
幾度目か分からぬが、初めてであった。
陽の高い内から、お互いを認めるのは。
「何だかさ、落ち着かないね」
苦笑する佐助は姿勢よく座り、どこからどう見ても忍びには見えなかった。
茶の湯をそつなくこなしている。
自分の知らない佐助ばかりを見せられ、政宗は少しばかり不安になっていた。
佐助と逢う、と云うことは、必ずと言って良いほど、閨の房事が関係した。
佐助を思い出すと、その肩越しに見える見慣れた天井が伴って思い起こされる。
かぁ、と頬が熱くなり、政宗は俯いてしまった。
「あ、今、やらしいこと考えたでしょ」
からかうように、佐助が弾んだ声を上げる。
図星を指され、政宗は顔を上げられなかった。
「…何でだか、知りたい?」
ここに来た理由。
唐突に、佐助は真面目な声色で、そう言った。
政宗は俯いたまま、小さく頷いた。
それは、先程から頭を駆け巡っていた疑念だ。
「――、忘れちゃったら困るから」
茶碗を脇に置き、膝で歩いて佐助は政宗に寄った。
さらさらと垂れる政宗の髪を梳きつつ、その顔を上向かせる。
「いつも暗闇でしか、逢わないでしょ?」
力強い政宗の目が、今は不安げに揺らめき、佐助は愛しげに笑った。
「俺の顔、忘れられてないかと思って」
闇においても夜目の利く佐助と違い、政宗は暗闇に滅法弱かった。
事実、夜は閨で抱き合う佐助の顔すら朧げであり、気配と体温だけが頼りだった。
温もり、というには随分低い佐助の体温は、政宗の不安を和らげるひとつではあった。
ただ、見えないからといって、政宗が佐助の顔を忘れるわけがなかった。
「…忘れるわけ、ねぇだろ…!」
政宗は半ば叫ぶように言い、自分の髪を撫でる佐助の手を払った。
膝立ちになり、胡坐をかく佐助を見下ろし睨む。
佐助の顔を両手で挟み、ぐっと、自分に近づけた。
「この髪も、この目も、」
政宗は佐助のひとつひとつを挙げ、そのひとつひとつに唇を落としていった。
初めは驚いた佐助も、ひとつひとつを受け入れた。
「耳も、鼻も、」
声が、震えていた。
もしも佐助が自分に近寄る口実が“仕事”だとしても、政宗はそれに対し馬鹿正直に答えるしかなかった。
それほど、この心は囚われた。
これが“仕事”なら、佐助は抜かっている。
もう、佐助の何もかもを、政宗は心に留め、想っている。
任務完了、と報告しても良いくらいの状況にまでなっているというのに、こうしてまたここに来た。
それが政宗にはとてつもなく、嬉しかった。
ただ佐助が目の前に現れただけで。
「、この、口だって…!」
最後に政宗が言い挙げ、佐助はふと目を閉じた。
それを合図にして、政宗は口を吸った。
佐助は政宗の腰を抱き、そっと引き寄せた。
それだけで接吻は深くなり、政宗の顔は艶を帯び歪んでいく。
「、ん…ッ…、」
政宗には、数刻も唇を合わせていたような心地だった。
ようやっとで口を離し、呼吸を整えるように忙しなく息をつく。
「覚えててもらえて嬉しいよ」
ふ、と佐助は笑み、自分の膝に政宗を座らせた。
佐助の返答が気に食わず、政宗はその内腿をつねった。
「イッ!」
「…忘れてやりゃ、よかった」
「酷いなぁ」
ぎゅ、と政宗を抱きしめ、佐助は低く小さな声で言った。
「俺は片時も竜の旦那の事忘れたことないよ?」
何よりも望んだ言葉であり、同時にいかにも口説きの常套句のようであり、政宗の心は複雑に揺れ動いた。
信ずるべきか、疑うべきか。
“それは、忍びとしての言葉か?”
問いを口にするは容易であろう。
しかし、その答えが肯定であれ否定であれ、佐助が真意をそれに含むとは考えられない。
ならば、と。
政宗は、信じた。
「俺も同じだ」
佐助の甘美な言葉に酔ってしまえばいい。
騙されているが、一番幸せだ。
どこかで騙されていると思っている限り、それが真ではないことからは目を背けた。
「離れたくない」
けれど、政宗がどんなに自分に嘘をつこうと、佐助にはすべて分かっていた。
「なら、そんな悲しい顔で言わないでよ」
「、え…」
「…こんなに、深入りしなきゃよかったね」
政宗の悲観した表情が、佐助にもうつった。
それでも笑もうとするために、一層悲しく歪んだ表情になる。
「どこまで俺を信じてくれてるかは、どうでもいい。だってきっと、全部は信じてもらえないでしょ?」
背けたい事実を眼前に突きつけられ、政宗は狼狽した。
逃げ出したい心地になって、佐助の胸に両手を突っ張り僅かでも距離をあけた。
「忍びが一国の主に恋慕だよ。しかも敵国の。成就するはずがない」
最初はね、と佐助は無理に笑い続けた。
「身体だけでいいと思った。でも…結局俺は人間なんだって思い知らされたよ」
忍びは全ての情を捨て、主の為だけに忠実に働く生きた人形の如き存在だ。
佐助も、例外ではなかった。
そのはず、だった。
自信の情を取り戻し得る存在を得てしまった以上、その存在の前では一人の男になってしまった。
「心が、欲しいと思った。伊達政宗という、一人の男の心が」
「さ、すけ…」
「だからね、貴方に『心に留めてくれ』って言われたとき、躍り上がりそうだったよ」
政宗は息を詰めた。
本音を少しでも覆い隠そうと、異国語で言った筈の科白だった。
「お前、あの言葉…、」
「うん。俺、少しなら分かる、よ」
多分、竜の旦那と同じくらいには。
佐助は少し言いにくそうに政宗の表情を窺いつ言った。
唐突な告白に、政宗は顔から火を吹きそうなほどに頬を紅潮させた。
「ねぇ、」
緩んだ政宗の腕を幸いと、佐助はもう一度政宗を抱きしめた。
「あの言葉は本音?」
「…嘘には、したくない」
今の政宗の精一杯だった。
肯定したい、けれどそうしてどうなるのだという、念。
それが邪魔をした。
佐助が離れるなら、離れればいい。
そう、覚悟していると自身に嘘をついて、佐助に選ばせるしかない。
「じゃあ、本音だって思っておく」
佐助は柔らかく笑い、政宗の髪を撫でた。
その掌から熱が伝わり、体温の低い腕の中で、政宗は耐え切れずにいた。
「誓いは立てられないけど、忍びでなく、一人の男としての猿飛佐助は伊達政宗のものだよ」
要らないって言っても押し付けちゃうから。
わざとらしく佐助が声を立てて笑い、身体を揺すらせた。
それによって、政宗の目から、一粒雫が落ちた。
「…欲しかった…!それが、一番…!!」
涙声のまま、叫ぶように、政宗は掠れた声を絞り出した。
そのままそっと、佐助の手を捕り、自らの胸に押し付けた。
速い鼓動が佐助の手に伝わり、目に見えるほどに震えている。
「俺の心も、佐助のものだ…」
「うん、」
佐助は心底嬉しそうに目を細め、政宗の胸に額を押し付けた。
*
「大分思いつめさせちゃったんだね…」
暫くお互いの体温を確かめ合うように抱き合っていたが、いつまで経っても政宗の涙が止まらなかった。
佐助にはそれが愛しくも苦しくもあって、必死にそれを拭った。
政宗も心は落ち着いているのに、止め処なく溢れる涙に自身驚いていた。
「それだけ想ってくれてたんだ」
佐助はいつもの調子を取り戻し、おどけた風に言う。
「ッ馬鹿、ちげぇよ…!…俺はふたつ分の涙が片目から出るからなかなかとまらねぇんだよ!」
苦しい言い訳だとは分かっていたが、そう言い切って、政宗は佐助から目をそらした。
肩越しに、佐助がクスクスと笑う顔が視界の端に見えて、気付かれないように顔を赤らめた。
奪われたのは平穏だけでなく。
けれどそれは、お互いに与えただけだと、いうこと。
終
「睦びの月」の続きな感じで。
何だこれ。
大分深刻な感じになりつつも、ハッピーエンドみたいな(笑)
サスダテは基本エロだけど(書いてないけど)今回はこう、精神的なところに重きをおいてみた。
早花咲月は3月の異名。
題名思いつかなかったから、もうこれでいいやって(笑)
でも、睦びの月からの経過時間とか情景描写は3月になぞらえて書いた、つもり。
06.04.05