「見事な衣装だな。いつ仕立てたんだ?」
衣装部屋に置かれていた赤を基調とした胴衣に目を止める。アスガルドの流行ではないものの、見事な細工が施された銀の胸飾りと肩飾り、中央に嵌め込まれた大きな碧玉、植物の紋様で出来た腰帯に上質な赤ラシャ地の上衣。彼の黄金の髪と白い肌によく映えるであろう衣装だった。
「ロキが贈ってくれたんだ。アスガルドで身に着ければいい、と…」
満面の笑みで告げられた名前に苦渋の表情を浮かべそうになる。
ロキ、ロキ、ロキ。王子として立派に成長したものの、いまだどこか世間知らずで無邪気なソーが口に出す名前はいつもそればかりだ。傲慢な部分もあるが、父母と民に愛され健やかに育った我らが王子。だが闇を知らぬソーはいとも簡単に敵国の王の手に堕ちた。彼に忍び寄る影に何故気付くことが出来なかったのか。それほど相手は周到だったのか。これは恋だ、と純粋な王子は言う。だが違う。張り巡らされた姦計に陥り、蜘蛛の巣に囚われた憐れな獲物のように捕食されるのを待っているだけだ。対面したヨトゥンヘイムの王、ロキは狂王ではなかった。ただ狡猾さと理知を暗い瞳に称え、寛容さを示すものの、他者を征服することに一瞬の躊躇も持たないであろう酷薄な空気を身に纏っていた。明らかに故国にとって脅威になる人物だった。青い指が大事に育ててきた王子に触れる瞬間を見るのは苦痛だった。まるで自分のものだと宣言するかのように、あの男は私達の前でソーに触れ、縋る温かな身体を強く抱きすくめた。
配下を説得するのに時間を要した。そんな戯言を何故王子は信じたのか。圧倒的な畏怖で、まさに絶対の王として、ロキは氷の巨人達を支配していた。再会までの時を伸ばすことで、より強烈に自身をソーに印象づけたかったとしか思えなかった。その結果、策略通り純粋な王子は恋い焦がれ、奪還できないほど深く、敵国の王に心を奪われてしまっていた。
「おかしな奴だな。この衣装を纏った君を見ることは出来ないのに」
ヨトゥンヘイムの王としてのアスガルドへの来訪は今だ許されないままだった。長年の仇敵との和解と友好。ましてや民に隠されてはいるものの、敵国の王と自国の王子との許されざる恋。すべてが順調に片付く問題ではなかった。きっと長い、途方もなく長い時を要する筈だった。
「ロキは自分が贈った物を俺が身につけるのを喜ぶんだ。どこにいても一緒にいる気がするからと…」
どうして闇そのものの男と太陽のような幼馴染が上手くいくのか。まるで対のような二人を見る度そう思った。明らかにロキはソーの持つ光に焦がれていた。
ヨトゥンヘイムで夜が近づき、吹雪で曇る空が更に暗く翳ると確かな意思を持つ手が静かに王子に触れた。すべてを奪われたのだ、と知るのに時間はかからなかった。初めてあの国で夜を過ごした翌朝、少し恥ずかしそうにソーはヨトゥンヘイムの衣装を身に纏っていた。象牙飾りのついた白麻の布で黄金に輝く髪の上半分を結い、ゆったりとしたドレープを持つ深緑の長衣で恵まれた肢体を覆っていた。あの姿にヴェールと腰につける鍵束があればまるで花嫁だ。そうヴォルスタッグが呑気にからかいの言葉を発したのを覚えている。ソーを見つめるロキの瞳には明らかに愉悦と征服したものに対する寵愛が含まれていた。酷く不快な心地だった。我らが王子は、すべてを奪われても変わらず陽気で、健やかで邪気がなかった。嬉しそうに敵国の王に微笑み、強い執着を持つロキの指が自分を手繰り寄せても幸せそうに笑うだけだった。宝石に似た輝きを持つ、ヨトゥンの王の灰緑の瞳は王子を見るごとに熱く暗い光を増していった。まるでソーを食らいつくし、己がものとしてこの不毛の地に永劫に留めようとする狂気が漂ってくるかのようだった。
「次に会う時は俺が同じようにロキに合う衣装を贈るつもりなんだ」
楽しそうに笑うソーを見るといつも言いしれぬ安堵と、彼を守る事をより強く自分に誓ってしまう。太陽のように光り輝く王子と黄金の国アスガルド。そのどちらをもあの男が諦めるとは到底思えなかった。本当にソーを愛しているのならば、彼が王になり務めを果たし、王位を退くまでの長い時を待ち続けることが出来る筈だった。他国へ攻め入ることもなく、務めを終えたソーが終の住処としてヨトゥンヘイムに降り立つその日まで。ロキにその覚悟があるのかどうか。見極めるのにはまだ暫くの時間がかかりそうだった。