亭主関白
『ヒゲを剃るな』
「なんだ、これは……」
王としての公務を終えた夜半、自身に宛がわれた船室に戻ると、謎の手書きメモが俺のテーブルの上に残されていた。
「ヒゲ…?」
確かに最近剃った。ウルトロンとの対戦から2年。ノルンの泉での幻視を元に、インフィニティストーンについての情報を得るべく放浪を続けた結果、俺の髭は些か過剰なほど伸びてしまっていた。俺だって今現在恋人がいないとはいえ、一人の男だ。サカールでの日々を経て、気になる相手もいない訳ではない。そうしてかなり短く剃った結果、清潔感が増し、女達の評判も良く、気分は上々といった所だった。
「この神経質そうな筆跡…一人しかいないだろ…」
忠告が書かれた紙を丸め、ダストボックスに投げ捨てる。
「ロキのやつ、俺に髭があろうとなかろうと俺の方がいい男なのは変わりがないだろうに…」
鏡に映る隻眼の自分を見つめ、自信ありげに笑みながら頷いてみる。
難民船での食事の供給は時間が決まっていた。今現在の時刻では暖かな食事にありつける可能性は低いだろう。王とはいえ、過剰な特別待遇を受ける気はなかった。アスガルドの王宮でならまだしも、今は故国のない状態。民と同じように暮らし、民と共に生きていくつもりだった。 とはいえ空腹を訴える腹にも勝てず、メモの真意を問いただすことも兼ねて弟の部屋に向かうことを決意する。自分と違い、ある程度贅を尽くした生活を望む弟の部屋には常に良い酒と弟の好む食事が用意されていた。ただあんな弟でも今の現状を鑑みる気持ちはあるのだろう。食事といっても豪勢なものではなく、民が食べるものとほとんど変わらない内容だった。酒と少しのパンでもあればいい。そう思いながら俺は弟の部屋に向かっていった。
「……」
俺を迎えたロキは酷く機嫌が悪かった。椅子に座り、テーブルにある酒と食事に手を伸ばす。パンにチーズ、奇妙な形をした果物と焼いた肉、サカール製の極彩色の酒。咎める様子がないことから食事にありつく事は許可してくれるのだろう。だがとにかく機嫌が悪い。時折咀嚼する俺を意味ありげな顔で見つめ、その視線に俺が気付くとぷいと横を向く。食事中、それの繰り返しだった。
「なあ、ロキ。俺が何かしたのか?」
「別に…」
別にと言いつつ、その顔は険しい。困り果て頭を掻きながら、さっき目にしたばかりのメモの事を話題に乗せる。
「そういえばあのメモは何だ?髭を剃るとお前が困るのか…?」
「…ッ!? …」
弟が何故気付いた?という顔になる。つっこむのも面倒臭くて適当に微笑むことで流してしまう。めんどくさい。いついかなる時も面倒臭い。だがこれがロキだった。仕方がなかった。
「…兄上は王なんだ。少しは髭がある方が威厳があるように見えるだろう…?」
「そうか…」
頷く俺と弟の視線が絡み合う。途端、紙のように白いロキの頬がじわじわと赤くなる。
「……?」
「ちっ!チチッッ」
「ちち?」
「ちっ…!父上を思い出せ…ッッ!!あんなに立派な髭があっただろう?あれこそ王だ…!」
「だが地球の老人ホームにお前がいれたら、毎回好物のホットドッグを食うたび、髭にケチャップがついて面倒そうにしてたといってたじゃないか…」
「それとこれとは別だ…!」
どう違うんだろうか。
アスガルドでのお代わりの合図並に激しくテーブルをロキが叩く。面倒臭さの総本山。そうコーグがロキを評していた事を思い出す。確かに面倒臭い、だがそれこそがロキなのだ。変わりようがなかった。
「まったく…まあ、確かに威厳もある程度は必要だしな。暫くは剃らないでおこう」
「そうか…」
明らかにホッとしたような顔を弟が見せる。この時点で合点がいった俺は、にやりと悪戯じみた笑みを浮かべてしまう。
「俺が髭を短くすれば、より俺がモテるようになってお前に群がる娘達が取られるかもしれないものな…!」
「なっ…!」
図星だったのだろう。みるみるロキの顔が赤くなる。そんな弟が可愛げがあるように映り、立ち上がって思わずハグをしてしまう。
「なっ…なッ…!」
「いつか好きな娘が現れたら俺にもちゃんと紹介するんだぞ…?」
「…ッ」
些か強く抱きしめ過ぎてしまったのだろう。鍛錬で大きく育った自分の二つの乳房で抱き寄せたロキの顔をぎゅうぎゅうと挟んでしまう。
「…ッ…」
びくっ、びくっ、と腕の中の身体が震え、くたりと力が抜けていく。
「あっ、おい。ロキ!ロキッッ…!」
息苦しさで気絶したロキの顔をぺちぺちと叩く。だが圧迫で気を失ったにもかかわらず、弟の顔は僅かに微笑み、満足げですらあった――。
そうして暫く経ち、また俺の髭は以前の長さを取り戻した。俺の顔を見たヴァルキリーは『ハンサムな王子様。髭が短い頃の方がよりハンサムだったのに』そういって、俺をからかった。もしかしたらそれは事実なのかもしれない。だが俺に面倒くさくて可愛い弟がいる以上、時々は奴の望みを叶えることも必要だった。また謀反を起こされないため、以前のような関係の二人に少しでも戻るため、もしそれが無理でも、共にいる可能性を探るため――。
元の風貌に戻った俺を見て、ロキは何というだろう。そう俺は考え、一人ほくそ笑むのだった。