ドゥセットA
俺達が"ミッドガルド"と呼ぶ人間界。そこでは必ず人の姿を採るように教えられていた。
人間の間では一角獣の角は解毒剤や抗毒素になるという信仰があり、その下らぬ迷信の為に命を落としてしまった仲間もいたからだった。
だが俺はどうしても自分の四つ脚で、初めて目にしたミッドガルドの大地を駆け抜けてみたかった。
若葉が敷き詰められた野の匂い、そよ風で波立つ麦の穂で出来た黄緑色の海、小魚の銀鱗が踊る清冽な小川はどこまでも澄み切って冷たく、小雨の後の大地から伝わる熱は力強い生命の息吹を感じさせるものだった。そうして自由気ままな旅の折に出会った一人の男。人間の俗信では一角獣は乙女の前でのみ温順な姿を見せるという。あの男が女ならば自分もそうしていたのだろうか。そう思えるほど酷く美しく、儚げな風情をロキは持っていた。彼の目に敵対の光があるのならばすぐにその場を去るつもりだった。だがロキは灰緑の魅惑的な瞳に温かな慈愛を浮かべただけだった。ミッドガルドの者達に心を許すなと告げた友の教えを思い出す。優しげに撫ぜる白く細い手の心地に、包み込むような柔らかな声音に、守るべき教示は雪のように解けてしまっていた。
「ロキ…!」
一夜を過ごした森の中で自分の焦る声が響く。地面に片膝をついた眼前の男に抗議するように強く睨むと呆れた溜息が薄い唇から漏れる。
「ソー、今日は旅籠に泊まるんだ。女給に汚れた衣服を洗わせるから今着ているものを脱いでくれないと…」
雪花石膏に似た艶かしい白い腕が伸び、自身の着衣を剥ぎ取ろうとする。
「自分で脱ぐから俺に構うな…!」
「まだ上手く服を着ることが出来ないだろう?この前は肌着も上衣も着込まずにサーコートだけを羽織ろうとしたじゃないか」
「いいから…っ…」
「私達は異質な者に対して鼻が利くんだ。適応しなければすぐに怪しまれるようになるぞ」
「…っ…」
確かに未だ上手く人間の態度や行動に馴染めぬ部分があった。ロキは俺達に対する愚かな俗信も知っていて、こうして人里離れた場所でも常に人の姿であることを勧めてきた。着衣に関してもそうで、上手く身に着けることの出来ない自分に彼はいつも丁寧に説明し、まるで侍従のように厳かに用意した衣を身に着けさせた。だが毎回同性とはいえロキの前で素裸になり、木彫りの人形を脇に抱えた未熟で幼い王女のように全てを世話される事にはどうしても抵抗があった。胴着と革帯、亜麻布の肌着と毛織物の脚衣を脱がされた後、唯一身に着けていた腰布をずらされそうになり、慌てて留め、自分で脱ぐことを告げる。腰を軽くかがめ、膝を曲げ、節ばった無骨な指で腰布を解いていく。前屈みになったことで緩くうねる長い金糸の髪が頬を撫で、朝露を含んだ若草が茂る地面に布が落ちる。そうして眩い陽光に照らし出される中、男の前で何一つ身に着けていない状態になる。
「……」
無言で注がれる視線はいつも奇妙に熱く、羞恥で赤らむ頬をロキから隠すように顔を背ける。
「っ……!」
冷やりとした形のいい指が膝に触れ、ゆっくりと付け根まで腿を撫でていく。その名状しがたい刺激に震えぬよう下唇を噛みながら揺れそうになる腰を必死に抑える。陰茎に布が触れ、しゅるしゅると器用に腰布が巻かれていく。
「この前教えた粉屋の唄。あれの続きを知りたがっていただろう?これが終われば教えてやるから…」
幻獣である自分よりも遥かに年若い人間にまるで幼子のように言い聞かされる。アスガルドで傲慢な王子として振舞っていた以前の俺自身からは到底考えられない処遇だった。だがどうしてもロキには逆らえなかった。この孤独な魔術師と共に過ごせば過ごすほど、相手を好ましく思うようになり、まるで生き別れの兄弟のような親愛を感じ始めていた。
「狭くてうっとうしい町から飛び出そう!退屈な毎日の繰り返しをさっぱり投げ出し、やかましい親方やムラ気のお内儀(かみ)におさらばして…」
調子外れの唄を歌いながらくつくつと笑うロキの後に続く。歩くたび背負い袋に入れた彼の錬金道具が賑やかに音を立て、初めて訪れる町への期待で弾む胸を駆り立てる。巡礼地詣での老若男女、遍歴の職人や学生、ジプシー、肌の色や地位の違う様々な人種が自分たちと同じように街道を進んでいく。このまま道を進み、森や湿地帯を抜け、海まで進めば"琥珀の道"と呼ばれる琥珀の産地を繋ぐ道になるという。村や町は広大な森で切り離され、それぞれが一つの世界のように思えていた。だがどこかで繋がりがあり、こうして人々が行き来する。ロキと二人だけで静謐な森を進んでいく旅も楽しいものだった。暗闇の中、暖かな薪の炎にあたりながら、彼が語る昔話や唄を夜更けまで聴き続ける事が好きだった。その旅の楽しみとはまた別の賑やかな熱気、長靴の浮き彫り細工がされた旅籠の看板、川岸にある水苔に覆われた水車小屋から漂う挽いたばかりのパンの香り、忙しなく通り過ぎる馬車の車輪が立てる音、町の至る所で様々な手工業者が職人や従弟と話しながら客を待つ姿、そのどれもが目新しく心躍る風景だった。
「ソー、もうすぐ渡し場に着く。そうしたら船で川を渡るんだ。今日は祭りの日だから渡る者も多いだろう。地元の者達を渡し守は優先するだろうから少し待つことになるかもしれないが…」
「渡る?歩いて越せばいいだろう」
「ふふっ。越せないほど深いんだ」
「……!」
どこまでも沈んでいく自分を想像し、思わず身震いしてしまう。
「渡る時は私に縋っても構わないぞ」
親しい者に向けるからかいに満ちた眼差しとともに告げられ、俺は最強だ!と自身に言い聞かせる為の強がりを口にする。花が綻ぶような美しい笑みがロキの女性的な面差しに浮かび、照れとも惑いともつかぬ心地で俺は自分の頬を掻くのだった。
「やはり思った通りだったな。俺が恐れるものなど何もなかった」
「ああ、その通りだな。必死な形相で終始船底ばかり見つめていたし、私の胴着を掴んではいたが恐れはなかったよ」
元の姿の頃にした悪戯のように、自分を笑いながらからかう友の髪を軽く引っ張る。同じように渡河した群衆に紛れながら上流を目指していく。
「しかし驚いたな、あのように馬も人も乗れる大きな船があるとは…」
「あの渡し船はあれで小さい方なんだ。ここよりも大きな町へ行けば馬八頭は乗せられるものもある。それに海へ行けばもっと巨大な帆船を見ることも出来るぞ」
「そうなのか?それはすごいな…」
未知への期待で高鳴る胸とは裏腹にロキの言葉が蘇る。魔術の才がある者は異端者と見做され、教会が"保護"という名の元に終生管理する塔へ送られるか、それを拒めば火刑になるという。放浪の背教者としての自由か、制限された生活の中での安定か。ロキが選んだ前者は常に危険を伴うものだった。自身の見聞を広めるために人間界を訪れたものの、こうして人目に触れる場所を訪れると、大事な友を危うい航行へと誘っているのではないかという不安が常に沸き起こる。だが別れを考えるとそれだけで胸が痛み、どうしても自らその話題を口にすることは出来ないままだった。
「ソー、見えてきたぞ」
鬱々と悩む自分を軽やかな友の声が現に引き戻す。ロキが指差す方角には草花の蔓で身を飾った大勢の女たちの姿があった。みな岸辺に座り、まくった袖から覗く白い腕を流れにつけ左右に降っている。楽しげに笑いながら互いに言葉を交わし、鳥の囀りのような美しい声が水面の上を伸びやかに伝っていく。濃い群青の空の下、素朴でありながら力強い美しさに満ちた光景に思わず感嘆の吐息が漏れてしまう。
「…これはどういう祭りなのだ?」
「この町に古くから伝わる婦人の慣習でね。私も見るのは初めてなんだ。ああする事で一年の苦しみをすべて河で洗い流し、それからは思い通りの日々を過ごせるようになるらしい」
「……」
好奇心で自分の瞳が輝くのを彼は見逃さなかったのだろう。俺を苦々しく止める声を聞きながら、ロキの白く細い腕を掴み、袖を捲り上げ清らかな流れにつけた後、その腕を幾度か擦る。
「きっとこれで良い事ばかりが起こるぞ」
大勢の群集は皆麗しい女達を眺め、自分たちの行動に気付くものはいなかった。私がからかった仕返しだな。そうロキは呟き、眉根を寄せた笑顔で自分を見つめた。そうして俺の腕に触れ、同じように流れの中で肌を擦った。
「陰気な主人に穴の開いた臭いチーズ、たっぷりのバター、芥子と胡椒のついた炙り肉に肉とパンの入ったスープ、新鮮なえんどう、温めた塩漬魚に蜜酒、赤葡萄酒、焼きたての白パン、ライ麦パン…」
寝台の上に寝そべりながらうっとりとその日の夕餉に出された食事を呟いてみる。初めて泊まる旅籠での持成しは自身の腹を十分に満足させるものだった。それにロキが言うにはここは良い方の旅籠らしい。確かに主の陰気さには顔を顰めたが、そばかすの浮いた赤毛の女給は気配りの出来る娘で明るく愛らしく、常連ばかりの宿なのか酔客同士の諍いもなく、テーブルにかけられた白布はまっさらで、寝台に敷かれた麻布も染みのない清潔なものだった。
「私の作る錬金薬がここではまずまずの値で売れたんだ。暫くは余裕があるだろう。ソー、望むのならこのまま街道を進み、旅を続けてもいい。帆船を見たがっていただろう?様々な町や旅籠を巡ることができるぞ」
「…確かに今日はお前のお陰で沢山のものを知ることが出来た。楽しかったぞ、ロキ」
感謝の眼差しを背つきの長持ちに座る友へと向ける。
「だがやはり俺はお前と二人で人里離れた場所を旅する方がいい」
俺の言葉に思うところがあるのだろう。微かな懊悩をロキが滲ませる。
「二人だけで旅をするのが楽しいんだ。それじゃ駄目か…?」
伺うように軽く顔を傾いで見る。
「…勿論、いいさ」
血のように赤い唇から紡がれた言葉はどこか苦しみを感じさせるものだった。雨が落ちる前の暗い空を見るときのような不安がじくじくと自分の心を満たす。互いの間に生じた齟齬に気付かぬ振りをしながら、森での夜のように昔話をせがむ。
「そうだな。今夜は渡し守に関する話をしよう。小人を乗せた彼らの話だ。大勢の小人を乗せた渡し守は渡し賃として一人一枚の葉をもらってね――」
穏やかな語り口に耳を傾けながら、いつまで共に旅が出来るのかを考える。遠くない未来に自分はアスガルドに戻り王になり、ロキは辿り着いた安住の地で日々を過ごしていく。別れは必然で互いがその事実をよく分かっていた。だがもう少し、あともう少しだけ、人間界で巡り合えたかけがえのない友との旅を続けたかった。