Hurricane

死に行く弟の身体は漆黒の血に塗れ重く冷たいものだった。
白磁の指がそっと頬に触れ、流れる涙をいたわる様に拭われる。
今日の雄姿を父に伝えよう、そう告げる自分を遮り、搾り出すような声音で貴女の為だ、とロキが呟く。
返す言葉が見つからず惑う自分を嘲りに満ちた目が見つめ、雪の様に真白い喉をくつくつと震わせる。
『姉上…いつも貴女はそうだ…残酷で愚かしい…』
重みの増した身体から魂の輝きが消えていく。絶望とともに弟の名を叫び、すがりつく。だが青ざめた瞼が開かれることはなく、己の嘆きの声だけが荒涼とした大地に響いていた。








ロキの死後、恋人であるフォスターのいる場所での生活を求めて移り住んだ地球。シールドが用意した高層マンションの一室で目を開ける。いつも見る夢だ。いつも大事なものを失って目を覚ます。九つの世界の滅亡を阻止することはできたが、かけがえのない存在は戻ってこなかった。フォスターには彼の研究所があるニューメキシコの小さな町で同棲することを望まれた。だがいつ共にいることで危険が及ぶかは分からない。彼をシールドに保護させ、時折会う事で互いの愛情を確認する今の生活が自分にはあっていた。アスガルドの者たちはみな元気でいるだろうかと思う。そうして願わくばロキが母の元にいるように、とも――。ベッドの側にある恋人が残していった男物の白いシャツを裸の身に纏う。明け方ならば白んでいく空とともにこの陰鬱な気持ちも少しは晴れるだろうが、浅い眠りは暗い闇夜へと自分をいざなうだけだった。仕方なく喉の渇きを癒すためキッチンへと向かい明かりを点ける。フォスターの助手、ダーシーとはいい友人になれた。彼女が作り方を教えてくれたレモネードを冷蔵庫から取り出し、口をつける。甘く酸味のある冷たい液体が喉を潤す。マホガニーで統一された調理場は故郷の王宮ほど広くも活気がある訳でもなかったが、重厚で清潔感のあるそこは落ち着いた安らぎを与えてくれる。その室内の一角にふと暗い影を感じた気がして目をこらす。つけたばかりの明かりが音もなく消え、警戒する自分の耳に懐かしい声が聞こえてくる。

「姉上」
闇夜の中で仄暗く佇む長身の影がそう自分を呼ぶ。結露の浮いた冷えたグラスを持つ手がぶれ、零れたレモネードが夜の海の波打ち際のようにステンレスのワークトップの上を静かに広がっていく。眼前にあるものが信じられず茫然と立ち尽くす。少女と見まごうような、華奢で臆病な子供だった。庇護欲を煽るその幼子を誰よりも守り慈しんできた。だが王位を争う頃には饒舌ではあるものの心を見せぬ青年にその幼子は成長し、中性的な美しい面差しはそのままに輪郭は精悍さを帯び、厚みの増した体躯と長身は多くの女たちの視線を集めるようになっていた。まだ互いの心が近くにあった頃、幾度二人で戦勝の為の祝杯を抜け出し、虹の橋の先端にあるオブザーバトリーから広大な宇宙を眺めながら、九つの世界の統治について語り合ったことだろう。悪戯が過ぎるきらいがあるものの、機知に富んだ何よりも大事な姉弟で掛替えのない友だった。あの頃、自分に思慕を寄せていた神の一人が王宮を訪れると知り、母フリッガと世話好きの侍女達によって豪奢な衣装を纏わされ、白粉と紅を塗られた時も弟ならば自分をからかい笑うだろうと思っていた。だが側使い達から逃れ、弟の姿を求めてたどり着いた夜の庭園で、ロキはその美しい顔に嘲笑の笑みを乗せることはなかった。ただ手首を冷たく白い指に捕まれ、雪原に咲く花のように甘く涼やかな香りのする逞しい白磁の胸元に抱き寄せられた。そうしてあの柔らかで凛とした声音で弟のものになることを求められ、そっと頬に唇を寄せられた。あの時、初めて弟の想いを知った時、光の妖精の国アールヴヘイムの光景を思わせる美しく咲き誇る花々に囲まれながら、悲しみで自分の瞳から涙が零れたのを覚えている。弟が自分を見つめる眼差しは姉弟でも友でもなく、王になる男としてのものだった。傀儡のように力を持たずただ側で控え、世継ぎを産む女としてロキはたった一人の姉弟である自分をそう見ていた。その事が悲しく辛かった。悔しみの涙が溢れるさまを弟は驚いたように見つめていた。強く抱きしめる腕を振り払い、そのまま駆け出すと一度だけロキは名を呼んだ。だがそれだけだった。その夜を境に弟はより固く心を閉ざし、冬の雨空のように濁り凍える瞳でただ一人の姉弟を見つめるようになっていた。







「ロキ、なのか…?」
闇の中でも鉛色に鈍く光る甲冑を着込んだ腕が自分を捕らえ抱き寄せる。震える唇で名を呼ぶと艶かしい白指が頬をなぞり、親愛の口付けが黄金の髪に降る。
「ロキ。ロキ…!弟よ、もっと顔を見せてくれ…」
涙でけぶる瞳で愛しい弟の顔を見上げる。艶のある黒髪と雪のように白い肌、秀でた額の下には憂いに満ちた灰緑の瞳があり、血のように赤く薄い唇は常のように皮肉げな笑みをその口元に浮かべていた。その姿にスヴァルトヘイムでの喪失の記憶がよみがえり、そっと掌でその冷たい頬に触れてみる。絶命したロキの顔は硬化しヨトゥンが持つ鈍色の肌に変化していた。だがどんな姿になろうとも何よりもいとしい存在である事に変わりはなかった。弟を救えぬことに絶望し、泣きながらその骸にすがりつく。優しく肩を抱く恋人の腕さえも悲しみを癒すことは出来なかった。あの時の慟哭を思い出しながら肌きめの細かな白肌に指を滑らせる。間近にある弟の唇が笑みの形を作り、腰に冷えた逞しい腕がまわされる。柔らかな自分の肌と厚みのある弟の肌が重なり合う。姉弟の抱擁ではないことに気付きながらも、生の息吹を感じるためにその硬い胸元に顔を寄せ、ゆっくりと波打つ鼓動に耳を澄ませる。


「姉上…」
甘く熱い声音が内耳に広がり、細く長い指に顎を掴まれ持ち上げられる。黒曜石に似た曇りのない漆黒の髪が揺れて頬をくすぐり、瞼を閉じた眼前の鋭利な美貌がねだるように形のいい赤い唇をそっと開く。
「ロキ、やめろ…」
寄せられる濡れた唇は男女の営みを欲していた。惑いとともに力なく抗いの声をあげる。抱き寄せる腕を押しのけるべきだった。だが抗えば夢とも現とも分からぬ弟が霞のように消えてしまいそうで、どうしても自分を求める男を退けることは出来なかった。
「やめるんだ…」
熱のない唇が固く引き結んだ口元に押し当てられる。後頭部にそっと手がそえられ、綻びを求めるように口付けが深くなる。ぬるりと侵入した舌に口腔を犯され、その淫らな心地に厚い胸板にあてた両手がまるで欲するかのように逞しい胸元にしがみつく。
「…ッ…」
弟の唇は夜露のようにしっとりと冷たく、だがぬくもりのある口内は生を感じさせるものだった。フォスターへの裏切りだと苦い心で自覚しながら、交わりのための口づけを受け入れる。触れ合わされた胸元から青さと甘さの混じるロキの肌の香が立ち上り、まるであの夜の咲き誇る花々のようだと思いながらその蠱惑的な香りに包まれる。秘めた想いを吐露するまだ少年の面差しを残した弟の顔を、自分はどのような眼差しで見つめたのだろうか。想いに答えぬたった一人の姉妹をどのような気持ちで、その駆け去る姿を見つめていたのだろうか。自らの動揺に気をとられ、慰みの言葉すらかける暇を持たなかった自分を憎んでいるのだろうか。恨んでいるのだろうか。ロキを破壊と死を齎す邪神へと変えさせたのは誰なのか。弟自身なのか、すべてを壊してしまった自分なのか――。

「ソー、貴女の弟がニブルヘイムから禁断の門を抜け、戻ってきたのだ。何故悲しむ…」
長い口付けのあと、唇が離れ、触れる白指が眦をぬぐう仕草で自分の涙に気付かされる。
流れた雫を血のように赤く形の良い唇が吸い上げ、より一層冷えた逞しい体躯に抱き締められ、肩まで垂れる長い黄金の髪を愛撫のようにゆったりと撫でられる。そこに姉弟としての親しみはなく、ただ手に入れたものに対する強固なまでの執着だけがその憂いを帯びた美貌に浮かんでいた。
「初めて私たちが交わった時も姉上はこのように泣いて私を困らせた…股の間を私の精で濡らしながら幾度も涙を零して…」
その言葉にスヴァルトヘイムでの悪夢が蘇る。恥辱で頬が染まるさまを眺めながらロキが金糸の髪を一房すくい、緩く口付ける。あの時、敵の戦艦へと向かう監視艇の中で、ダークエルフの長であるマレキスからエーテルを抽出された後のフォスターを助ける為に、望まぬ心で弟を受け入れた。あの交わりで肉芽が宿ることはなかったが、忌まわしい記憶はロキの死とともに長く自分を苦しめた。栄光の影でただ一人、毒に侵された夢を追い続けたロキ。命を賭してもいいと思えるほどこの哀れな邪神を愛している。だがそれは恋情ではない。心で結ばれた相手はフォスターただ一人だ。弟を深淵の闇から救うには、二度と手放さない為には何をささげて、何を失えばいいのか――。



たった数日前の恋人との夜を思い出す。アンティグティオにあるイザベルのダイナーでアスガルドとは違う地球の風習について笑いながら語り合い、彼が嬉々として語る難解な研究に顔をしかめ、小さなアパートメントで互いの温もりを味わう為に愛し合った。戦傷の刻まれた自分の節張った指とは違う、彼の繊細な長い指が好きだった。優しく髪を梳く仕草も不器用な愛の囁きもそのすべてに満たされ、幸福の海に揺蕩っていた。

今はその輝きも遠く、和えかに光る星々のように茫洋として見える。
「…っ」
ロキが強引に唇を奪い、重く固い身体で圧し掛かる。庭園で嗅いだむせかえるような花の香が陵辱する男の肌から漂い、堕ちていく自分を包んでいく。フォスターのシャツが引き裂かれ、露になった肌を雪の様に冷たく白い手が撫でさすり、薄い唇が紅い花の痕をつけていく。

残酷で愚かだ。

ロキの言葉がよみがえり、その意味をかみ締めながら瞼を閉じる。恋人の笑顔が脳裏に浮かび、永遠の裏切りを謝りながら弟の昂ぶりを受け入れる。刃のように白々と冷えた鈍色の甲冑が熱い肌に押し付けられ、所有を誇示するように最奥まで楔が入り込み、荒い吐息とともに硬質なステンレスの上でその身を揺らされる。 フォスターが囁いた言葉と同じ意味の甘やかな言葉が弟の血のように赤い唇から漏れる。あの夜の庭園はまるで記憶の檻のようだった。自分もロキもそこから抜け出せず、元の姉弟にも戻れず、永遠に実ることのない告白を繰り返す。自分の選択が間違いであることは分かっていた。この背信が恋人との永劫の別離になり得ることも。だがそれでも、この哀れで何よりも愛しい弟を手放すことは出来なかった。