home skillet
「ソー、ここは?」
「スティーブが通ってるダイナーだ。50年代の食堂車を改装した店らしい。いい雰囲気だろう?」
上機嫌の彼女とともに店に入る。無機質なステンレスのタイル、人造大理石で出来た市松模様の床、ステンレスパイプの四つ足を持つガラス天板付きの白いテーブル、パステルカラーのカラフルな椅子。そこはまるでこの国の過去にタイムスリップしたかのような場所だった。
「初めてだ。こういう場所は」
ソーの用意したパーカーを身に着けた私はその姿でも十分に人々の注目を集めていた。だが今やアスガルド人の女神はアベンジャーズの一員として知らない者がいない程の存在だ。すぐに私をヒーロー仲間と認知した周囲の視線が穏やかにそらされる。注目されることにも無視されることにも何ら感情を抱くことはなかった。私が見る景色、触れるもの、対面する人物。すべてが新しく珍しく、すっかり私はそれに夢中なっていた。
「しかし、いいのか?」
「何がだ?」
対面の形で席に着き、メニュー表を眺めるソーに声をかける。
今日の彼女は軽鎧も黒を基調としたシャープな戦闘服も身に着けてはいなかった。細かく編み込まれた柔らかなウェーブのかかった見事な黄金の長髪をなびかせ、バランスの取れた肢体は落ち着いたブラウンの短いドレスに包まれていた。まだ私が実際にこの目で見たことのない海。その海の色をした大きな瞳を長く濃い睫毛が覆う。"永遠"には美しさがない。だが彼女の永く保たれるであろう美貌は私に不可思議な感情を抱かせる。
「この前、君が私にコーヒーを飲ませたことで酷くスタークに叱られただろう?」
「ああ。彼は未知の反応が怖かったんだ。人工生命体が人間の飲食物を摂取すればどうなるか。でも何事もなかった。だから今日だって問題はない筈だ」
威勢を張る時によくする両の口端を下げた表情をソーが見せる。彼女は彼女にさえその気があれば、義弟であるロキのように神の力を残酷に振る舞うこともできる。だが決してそれをしようとはしない。いつも人々のことを第一に考える。その高潔さは好ましいことだった。ただどこかに脆さが潜んでもいた。誰かによって、何者かの力によって、彼女自身が奪われ、壊されてしまいそうな危うい予感を抱えていた。
「俺のお勧めはレーズンが入ったアップルグレービーソースのポークチョップだ。あとコーンブレッドもここのはちょっと甘目で美味いんだ。何がいい?ヴィジョン。肉が嫌ならマカロニチーズと煮込んだコラードグリーン、サワークリームと暖かいジャムの乗ったパンケーキ、ローストしたバナナがたっぷり入ったエルビスサンドもあるぞ」
彼女が羅列するメニューの名前だけで大量の食事を摂取した気分になる。この女神なりの気遣いで機械でも人間でもない私をここに馴染ませようとしているのだろう。この世界では私も神であるソーも異質の存在だ。人間の真似をすることは互いにとってどこかおかしみと微かな切なさのあるものだった。
「では君と同じものを」
「後悔するなよ」
悪戯そうに微笑むその顔はまるで新たな遊びを覚えたばかりの子供のようだ。ウェイトレスが呼ばれ、驚くほどの量が注文されていく。私のの優秀な父親が嘆く姿が目に浮かぶ。ソーには黙っていたがコーヒーを摂取したことによる軽い回線のショートはあった。人間の食事が私にどういう影響をもたらすのか。自身に発生するであろう不具合よりも未知の経験への期待に私は気を取られてしまっていた。
「驚いたな。揚げただけの玉ねぎがとても軽くて歯触りが良かった」
「あの店のオニオンリングはバターミルクにつけてから二度揚げるんだ。美味かっただろう?」
無言でうなずくと益々彼女の顔が嬉しそうなものになる。遅い昼食の後、スターク・タワーに戻った私たちを待っていたのは上機嫌とは言い難いスタークの姿だった。
『ソー、私の息子とデートするのはいい。だがとても貴重な素材で作られた息子なんだ。もう少しデリケートに扱ってくれないか…?』
『デートではないぞ。友としての食事だ。それに今日だって何も問題はなかったぞ。額のマインド・ストーンから何かこう…液体のようなものが少し漏れたくらいだ』
悪気のない笑顔で返され、スタークが頭を抱え込む。その様子を上階からスティーブが愉快そうにのぞき込む。いつもの光景。だがその光景が見られるのも今日で最後だった。
「明日、アスガルドに戻るのか」
スターク・タワーの最上階は風が強かった。私の黄金色のマントが摩天楼の華やかな夜景の下で強くはためき、隣に立つ彼女のドレスの裾もまた大きく揺れ動く。健康的な筋肉に覆われた白い足が覗き、履きなれない高いヒールを何度も地面にソーが軽く打ち付ける。スタークからは小声で今夜がチャンスだと囁かれた。ネットから吸収した知識でそれがどういう意味なのかは分かっていた。だが私とソーはそういった関係ではなかった。スタートラインにすら私たちは立っていなかった。
「ああ、そのつもりだ。インフィニティ・ストーンの出現増加、あれは決して偶然などではない。何かが俺達の与り知らぬ場所で起こっているんだ…」
「次はいつ地球に戻ってこれるんだ」
「それは分からぬな。全ての問題が片付けば――それがいつになるかは分からないが…」
「そうか。暫く君には会えないな」
言葉にすると急激に実感が湧いてくる。アスガルドがどれほど遠い場所にあるのか。天文学的な数字でしか私にはわからないことだった。
クレードルの中で目覚めてから今日まで、彼女のことばかり目で追っていたように思う。どこまでも明るくおおらかで、それでいて戦神の気質に相応しく仲間との意見の食い違いから激高することもあるかと思えば、正義が下されることのなかった悲しい事件に瞳を潤ませ悔しげな顔をする。親しみのある美貌と白金の艶やかな長い髪、白い肌、長い手足、母性を感じさせる豊満な肉体。ソーに恋人はいるのか。様々な場所で囁かれてきた問いだった。彼女が誰のものでもないとするならば、この最後の夜にソーが私の隣にいることは意味のあることなのかもしれなかった。
「上手く解決すればまたすぐに会えるさ」
「ああ、そう願おう…ソー、今日はありがとう。ダイナーでの食事も楽しかったし、女性的な衣装を着た君も中々新鮮だった」
「ははっ。ナターシャに言われたんだ。デートにジーンズで行くのかって。それでこのドレスを渡されて…皆なにか誤解してると思わないか?」
「……」
同意を求められたものの、的確な返事が出てこなかった。僅かな沈黙の後、彼女の名前を呼ぶと気まずげに伏せられていたソーの顔が救いを求めるかのように持ち上がる。
「……!」
老若男女の間で交わされる挨拶代わりの軽い口づけ。それを真似て彼女の柔らかな頬に唇を寄せる。白い頬が一瞬で赤く染まり、かすかに震える身体が誰のものでもないことを私に知らしめる。このまま抱き寄せてみたかった。だが彼女をもし傷つけることがあればそれが怖かった。
「ソー、君を待っている。ここで私はずっと…」
ゆっくりと唇を離し、そう告げる。豪奢な宝石を身に着けていなくてもアスガルドの女神は輝くほど美しかった。夜風の中で黄金の髪が揺れ、渓流に浮いた木の葉のように不規則に流れていく。次にいつ会えるかは分からない。私はもう少しソーの顔を眺めていたかった。自然に近づいた互いの顔が湿る吐息とともに重なっていく。
煌びやかな摩天楼の明かりの下、初めて交わす口づけは彼女が食べたピーナッツバターの味がする甘いものだった。