兄上、犬を飼う
 

 
「ぐはッ!」

 ニューメキシコ州にあるプエンテ・アンティグオ。
 『スミス・モーターズ』という古めかしい看板がかけられたみすぼらしい外観の研究所。
 その建物内でふわふわとした丸い毛玉のようなものを抱えたソーを見た瞬間、断末魔の叫びに似た声が私の口から漏れていた。

「あ、兄上…そっ、それは…」

 きゅうきゅうと愛らしい鳴き声をあげ、ぴすぴすと健康そうに濡れた艶やかな黒い鼻を懸命に動かす小さな生き物。

「愛らしいだろう?地球に存在する犬種でゴールデンレトリバーというらしい。ジェーンの友人が彼女に譲ってくれたんだ」

 そういって黄金に輝く長い髪を揺らしながら同じように金色の毛並みを持つ子犬に口付ける兄を見てぶしっ、と鮮やかな鼻血が私の鼻下を流れていく。



 アメリカ南西部にあるこの小さな町で兄が生活を始めて半年が過ぎた。
 オーディンの眠りについた父君はいまだ目覚めぬままで、神の力を奪われたソーを戦略国土調停補強配備局――通称"シールド"から保護する為に地球での住居を彼に用意し、雷神としての力が戻るまでムジョルニアには近寄らぬことを約束させた。

 ソーとジェーンが知り合い惹かれあったのは多大な誤算だったが、望郷の念を削ぐものが存在するのは好ましいことだった。
 私達の長きに渡る生の中で彼女の人生はすぐに終わりを迎える。そう思うと嫉妬する心も私の中では生じなかった。

 二人の恋愛は鼻白む程清いもので、彼女はトレーラーに住み、兄は私の用意したアパートメントで暮らしながら彼女の研究所でスタッフとして働き、穏やかな逢瀬を重ねていた。



「ダーシーは賛成したんだがエリックは猛反対だったんだ。彼は神聖な研究所にペットを持ち込むなと酷い剣幕で…でもすぐに彼女のとりこになってしまって…」

 当時の様子を思い出したのだろう。子犬を抱えたままおかしそうにソーが笑う。
 彼女、ということはメスなのか。兄がその将来大きく育つであろうことを予感させるふくふくとした立派な手足を持つ金色の子犬を抱える様は、まるで産まれたばかりの子犬を抱く母犬のようだった。
 垂れ目がちな大きな瞳もくるくるとした金色の巻き毛も、おっとりとした世間知らずで人懐こい様子もまさに兄上そのもので、私か?私が兄上に産ませたのか?と軽い混乱に襲われそうになる。

「あっ、兄上、その…抱いてみてもいいか…?」

 そう問うと笑顔で頷かれ、21世紀の地球人になりきったスーツ姿のまま、子犬を抱える上機嫌の兄ごとぎゅっと抱き締めてみる。

「もふもふして暖かいな…」
「ははっ!ロキ、俺まで抱き締めることはないだろう?」

 今日もソーの衣装は地球に来た当初から身に着けている白いシャツとジーンズ姿だった。
 鍛え上げられた長身を惜しみなく曝す姿はこの小さな田舎町でも評判のようで、黄金に輝く長髪と青く澄んだ高貴な瞳を持つ美丈夫は多くの者の目を惹きつけているようだった。
 あまり目立つなと事あるごとに苦言を呈してきたが、このように粗末な衣装に身を包んでいても眩い光を放つ兄の存在は止めようがないもので、益々私だけの愛玩具としてどこかに幽閉したい気持ちが強くなる。
 地球の映像を流す箱から学んだ言葉で兄を形容するならば、まさに彼は天然の"ビッチ"で、この子犬を抱えた母犬のようなあざといまでの凶悪な愛らしさと、食みたくなるほどの太く逞しい首、薄いシャツごしにくっきりと浮かび上がるむちむちとした大胸筋、甘く香る温かな肌はともすれば雄の昂ぶりを刺激しそうになるものだった。

「二匹ともアスガルドで飼うのもいいかもしれないな…」
「二匹?一匹しか飼っていないぞ?」

 王宮の中庭でじゃれあう母犬と子犬。それを微笑ましく眺める私の姿が容易に目に浮かぶ。
 子犬には乳を与え、母犬には私の屹立したものから溢れる雫を乳のように舐めしゃぶらせて――そう妄想する私の顔に荒い鼻息とともにべろりと濡れた子犬の舌が押し付けられる。そのままべろべろと舐め上げられ、顔面がよだれまみれにされていく。

「……」
「ふふっ。彼女もお前を気に入ったみたいだな」

 抱き締めた腕の中で陽気な笑い声があがり、その温かく大きな身体を見上げ、無意識に陶酔染みた眼差しを向けてしまう。
 長く濃い睫毛に縁取られた兄の瞳はいつ見ても人を惹きつけるものだった。海のように澄み切った青色で熱い勇気と眩しいまでの希望の光に満ちている。

 父上の眠りを伏せたまま、母上の怒りが解けたとそう告げて強引に連れ帰ろうか。子犬も兄上も、あの女の大事なものを全部とりあげて。
 だがそうすればたちまち彼の中で生の気力が潰えてしまうことも知っていた。何をしてもソーが愛する女性には適わない。その事が虚しく腹立たしかった。

 無骨な手付きで研究所のスチールラックに置かれたタオルで顔を拭われ、いまだ兄の腕の中に大人しく収まる子犬をじっと見る。

「また今度この子を抱かせてくれないか」
「ああ、いいとも」
「楽しみにしてるよ」

 まるでソーの産んだ子供のような愛らしい金色の子犬にそっと口付ける。兄に気付かれぬようにその子犬を抱く逞しい腕にも軽く唇を落とし、別れの挨拶を告げる。
 動物の成長は早い。今よりももっと大きくなった子犬と嬉しそうに自分を出迎える兄を想像し、小さく笑みを湛える自身が滑稽に思えた。だが不思議と悪くはない気分だった。