Calendula
初めて目にしたのは五月祭(メイデイ)の時だった。アスガルド人に扮し、街中に立てられた巨大な五月柱(メイボール)の下でパレードを眺めた。ヨトゥンの力の源である"冬の棺"を奪った国、アスガルド。いずれ手中に収めるその国の栄華を記憶に留めておきたかったからだった。一族の恨みは世界樹ユグドラシルの根のように深く、亡き父が私に望んだのは純粋な復讐だった。
群衆の中からひと際高い歓声があがり、人々が口々に現れた男に王子、と声をかける。
死の闇に閉ざされたヨトゥンヘイムにはない色がそこにあった。太陽の色。忌々しいまでの眩い輝き。きらめく黄金の髪と澄んだ水の清冽な青さに似た美しい碧玉の瞳。僅かばかりの紅を載せたような初々しい薄紅色の唇。艶めかしい白絹の肌。五月祭にちなんだ長い緑色の肩帯を右肩からかけ、花のついた緑葉を冠にし、頭にかかげた姿は凛とした気品に満ちていた。生命力に溢れた力強く、美しい男。アスガルドの国王・オーディンが溺愛するただ一人の息子、雷神のソーだった。下々の者達からかけられた声に屈託なく男が応え、道化師のように愛嬌を振りまく。復讐の為に生み出された私とは違い、ソーは自由で何の柵もないように思えた。出自の違いから来る憎しみは当然のように私の中にあった。だが初めて仇敵を目にし、心に去来したのは、激しい渇望だった。
『ソー』
退屈な宴を抜け出し、一人街を歩いているとそう名を呼ばれた。アスガルドの者達はみな俺のことを親しみを込めて"王子"と呼ぶ。自分の名を呼べるのは父母か、限られた親しい仲間達だけで。不遜ともいえる言葉に俄然興味が湧く。
『お前は誰だ?』
『私はロキ、ノルンヘイムから旅をしていてるんだ』
深く被られた毛織物のケープがゆったりとめくられ、女のように美しい面立ちが現れる。艶のある漆黒の髪。灰緑の暗い瞳。真っ直ぐに伸びた鼻梁、血のように紅く形のいい唇――男にしておくには惜しい容姿だ。そう言葉にしようとして侮蔑として捉えかねられないことに気付き、慌てて口を噤む。
『数日前のパレードでアンタを見かけたんだ。アスガルドの王、オーディンの息子なのだろう?』
低音でも高音でもない、柔らかな声は耳に心地よく、親し気な笑みと態度に警戒心が少しばかり薄れていく。粗末な外套に背丈は自分と違わぬものの、痩せた体躯。戦傷のないすべらかな白い手はどうみても戦士のものとは言えず、次代の王を狙う不逞の輩にも思えなかった。
『ああ、そうだ。だが父上はアスガルドだけではなく八つの世界をも総べている。旅の者よ。もし何か窮していることがあるなら――』
『よしてくれ。私は物乞いじゃない』
軽い微笑が玲瓏な美貌に浮かび、気まずさに頬を掻く。
『だがこの通り、"持たざる者だ"。もし私を気にかけてくれるのならば、虹の橋の先にあるオブザーバトリーを間近で見せてくれないか…?』
『あ、ああっ。勿論だ』
ここにファンドラルやシフがいれば、あまりにも警戒心の無い俺を嘆くのかもしれなかった。だがどこかで、自分の直観がこの男を危険ではないと判断していた。曇り硝子のような灰緑の瞳をそっと覗く。美しいが、悲し気にも見える瞳だった。アスガルドの者達とは明らかに違う、異質な雰囲気がロキにはあった。もっと知りたい、と、純粋な好奇心からそう俺は思うようになっていた。
その晩、俺達は長い間ドーム状の展望台から見える広大な宇宙を眺めていた。俺が幼少のころから、秘密を共有してくれる年上の友でもある虹の橋の番人、ヘイムダルは初めて見る友人に僅かに眉を顰めただけだった。不思議なことにまるで旧知の間柄のように、ロキとは話が弾んだ。旅の間、見たことをロキが語り、この国で起きた様々な出来事を俺が話す。互いの話を興味深く聞き、笑い、揶揄い、いつまでも話は続いた。また会うことを約束し、その場を離れると名残惜しさが自分を包む。初めて味わう気持ちだった。嬉しいような、少し胸が痛むような、奇妙な心地だった。
赤い目と不吉な紋様の刻まれた青く透き通る肌の男が鏡越しに私を見つめる。生前、父であるラウフェイは父祖の代から続くアスガルドとの遺恨を私に説き続けてきた。九つの王国すべてを氷に封じ込めることが出来る"冬の棺"。独裁支配の宿望はアスガルド人によって潰えてしまった。手にするべき世界も力の源も、すべてを奴らに奪われたのだ、とそう亡父は語っていた。憎しみは当然のように私に宿り、オーディンとその息子であるソーは抹殺すべき仇敵だった。だが初めて接したあの男は、ヨトゥンヘイムにない太陽と同じ、眩い光を放つ若者だった。オブザーバトリーでソーと話している間、屈託なく笑う顔を見るたび、私の心は疼き、艶を帯びた薄紅色のみずみずしい唇は妖婦のように私を誘った。虹の橋の番人がいなければ、自分の中で芽生えた激しい心とともに無防備なソーを襲っていただろう。美しい黄金の国、アスガルド。この国を訪れ、初めて私は自分の切望しているものを知った。氷と暗闇に閉ざされた世界を照らす光。そのものを私は欲していた。
あれからロキとは何度か逢瀬を重ねた。自分の手引きで招いた王宮の人気のない夜の庭園だったり、近場に狩りに行き、従者に野原で張らせた天幕の中でだったり。何度会っても、何度言葉を交わしても、退屈だと感じることは一度もなかった。いつも新鮮で、いつも酷く楽しかった。骨ばった白く細い手がそっと自分の手の甲の上に重ねられた時も、不思議と嫌悪はなかった。濡れた吐息が間近に迫り、瞼を閉じる。触れ合うだけの軽い口づけだった。だがその僅かな接触で自分ははしたなく、瞳を淫らな熱で濡らしてしまっていた。
「ソー…、私はもうすぐ国に帰らなければならないんだ」
首筋に緩やかに唇を押し当てながら男が言葉を漏らす。王宮ほどの贅沢さではないものの、高位の者向けに誂えられた清潔で十分に広い旅籠の部屋。"持たざる者"が到底泊まれるような場所ではなかった。優美な物腰、どこか威厳のある所作。旧友のように接した者の素顔が徐々に見えなくなっていく。
「あッッ…!!」
不意に上衣の隙間から胸をまさぐられ、感じたことのない甘い悦びとともに戸惑いの声を漏らしてしまう。
「私の国に来ないか…?」
暗く情熱を孕んだ瞳が俺を見つめる。ロキの望みは明白だった。自分の望む心もまた、言葉に出さずとも、相手には伝わっていた。
「すまない、ロキ…」
傷つく顔を見たくはなくて瞳を逸らす。
「俺には守るべき国と民が…」
「分かっているよ、ソー」
せめて一晩だけでも。小さな声が耳朶に囁かれる。緊張に表情を硬くしながら頷くとゆるやかに耳殻を噛まれ、寝台に押し付けられる。まだ誰とも交わったことがなかった。それを伝えると柔らかくロキは微笑んだ。
その晩、俺はすべてを異国から来た男に奪われた。俺の大きな肉尻の中で何度もロキの種がはぜ、行為を終える頃には肉穴の中が恥ずかしい汁でびちゃびちゃになった。初めて味わわされる他人の肉棒は酷く長く、太く、ロキの女性的な相貌とは違い、猛々しいものだった。俺は文字通り食い尽くされ、満足したロキがぬぽんっ…と萎えた肉茎を抜くころには挿入の痛みとは別の疼きが自分の肉体を襲い、ひだに満遍なくべっとりとつけられた男の種が、痒みとひたすら淫らな熱を貫通させられた肉穴に与え続け、年輪状に重なるひだ肉をぱくぱくと物欲しげにひくつかせてしまっていた。
「また会いに来るよ。必ず…」
希望のある言葉の筈なのに、伝えられた別れが苦しくて目に涙が滲む。強引に開花させられた自分の淫らに疼く身体を鎮めることが出来るのも、眼前の男だけなのだということも良く分かっていた。無言で縋りつくと眦から大粒の涙が垂れてくる。
「ああ、ソー…。待っていて、私を…」
抱擁は硬く、与えられる口づけは情熱的なものだった。約束してくれ。そう絞り出すようにして問うと優しく髪を撫でられる。その労りに満ちた仕草が辛くて、また俺の頬には涙の滴が流れていった。
ロキが去ってから半年が過ぎた。俺は毎日、数日間だけの恋人が現れることを待ち続けた。だがロキは来なかった。頃合いを見計らい、ロキとの事をファンドラルに打ち明けると驚くほどの激しさで叱責された。
『ソー、君はアスガルドの次代の王だ。君が傷つかないように私や他の仲間達が必死で君を守ってきた。なのに君は…』
『俺は別に…傷ついてなんか…』
『自分の顔を見てみるといい。それがすべてさ』
『……』
夜になると重苦しい心とともに、ロキに抱かれた身体が淫らに疼いた。自分の知らない奥の奥まで、あの猛々しい肉棒が暴き、荒々しく尻奥を突き続けた。最奥にあるひだのしこりを突かれることで達することも経験し、敏感なそこで感じる肉悦を何度も身体に覚えさせるかのように、執拗にロキは亀頭でこすり続けた。ずっと戦場を駆け巡ってきた肉体は痛みには強くとも、肉の悦びには弱かった。自分で自分を慰めようにも、肉穴を硬く勃起した男の肉茎で中のひだ肉ごとずりずりと犯されることで得られる強烈な快感は到底得られず、小さくロキの名を呼び、不器用に己の男根をさすることしか出来なかった。
「停戦協定の見直し…?そんなものを父上は許可するおつもりなのですか…!」
謁見の間に激高した自分の声が大きく響く。突然の敵国であるヨトゥンヘイムからの提示に自然憤りが募っていく。
「落ち着くのだ、我が息子よ。今や敵は互いだけではない。あの国にとっても開戦で益があるとは到底思えぬ。ヨトゥンヘイムの王になにか取引を要する部分があるのだろう。長らく音信のなかった国からの提示だ。火急の件なのかもしれぬ」
「私にあの国を訪れろというのですか…?」
「それも提示された事柄の一つだ。ラウフェイが死に、奴の息子が王になったことは知っている。だが、狂王である父親と違い良き王なのか、それとも――。お前も王としての国務を覚えるのは悪いことではない。三銃士とともにヨトゥンヘイムに向かい、現王と話し合うがいい」
「……っ」
父であり国王でもある者の言葉に否やを唱えられる筈もなく、仕方なく頷き、謁見の間を後にする。悪しき王であるならば、自分が鉄槌を下すまでだった。長らく沈んでいた心にアスガルドの王子としての勇猛果敢な気概が蘇ってくる。身勝手な敵国からの提示に憤りはしたが、絶え間なく続く悲しみを紛れさせる、良い機会なのかもしれなかった。
「ヨトゥンヘイムの王よ。俺はオーディンの息子、ソー・オーディンソンだ!お前の条件はなんだ」
虹の橋の番人ヘイムダルによって転送させられた氷と暗闇の国・ヨトゥンヘイムは吹雪が猛威を振るい、鬱々とした空がどこまでも続く不毛の土地だった。二人だけの会合を望まれ、氷によって作られた神殿の中にある王座の間へと足を踏み入れる。中央の巨大な玉座にはアスガルド人と違わぬ身の丈の男の影があった。紋様が刻まれた巨人特有の青く透き通る肌、煌々と光る赤い目――だがその顔を見た瞬間、びくりと身体が震え、前に進めなくなってしまう。
「分かっていたことだけれども、我らの遺恨は根深い…。配下の者達を説き伏せるのに時間がかかったんだ」
徐々に近づいてくる人影が盛り上がった自分の涙の粒でぼやけていく。
「勿論すべてが完全に上手くいった訳じゃない。まあそれはこの先のアスガルドも、同じことだろうけどね…」
白くはないものの変わらぬ優美な手がそっと俺の身体に触れてくる。忘れたことのなかった香り。伝わる肌の熱。軽やかで穏やかな声音。
「私はロキ。ヨトゥンヘイムの王だ。私が停戦協定の維持に望むのはオーディンの息子・ソーとの定期的な謁見――」
硬く抱き着くと揶揄うような笑い声が耳をくすぐる。
「会いたかった。会いたかったんだ…」
ぼろぼろとみっともなく涙をこぼしながら告げると沢山の口づけが頬に降りてくる。
「ソー、これでやっと私のものだ…」
告げられた言葉が嬉しくて涙を滲ませたまま微笑むと強く唇を奪われる。敵国であるヨトゥンヘイムの王との恋。苦悩する父の姿が容易に浮かび、心の中で苦笑する。解決しなければならない課題は山ほどあった。だが今は、誰よりも愛しい者との再会を喜びたかった。